第4話「灰色の猫」
否決1.1倍。可決7.1倍。
灰猫商会の壁に貼られた三国合議の議決予想を踏まえたオッズを、レイは朝一番に書き換えた。
鋲を抜き、数字を消し、新しい数字を書く。
指先に残る鉛筆の粉を、レイは息で払った。
先週は否決1.2倍、可決4.6倍だった。
北方男爵領の二つがクレスヴァイン派から離れつつある兆候がある。
それが票に影響し、否決の芽がさらに膨らんだ。
大勢には影響がなく、たとえわずかだろうと無視はしない。
オッズとは生き物だ。
世界が動けば、数字も動く。
「旦那、おはようございます」
カウンターの中にエルマがいた。
帳簿を開き、昨日の収支を確認し終えたところだった。
カウンターの前を通りかかった時、靴先がわずかに引っかかった。
ガルドが直した脚だ。
元の脚より少し太い。
もう四度目だった。
感謝と苦情は、まだ帳簿に載せていない。
エルマが開いた帳簿が、視界の隅に入った。
収支の欄に、品目名の書かれていない定期支出が一行ある。
金額は小さいが、開業時から一度も途切れていなかった。
エルマがそこだけ何も聞かないのは、レイが何も言わないからだ。
「……おはようございます」
今日は言い返さなかった。
統計的に勝ち目がないことは、もう十分に分かっている。
エルマが少しだけ意外そうな顔をした。
「あら、今日は抵抗しないんですね」
「……学習しました」
「その学習能力を出席率に回しても良いのでは?」
「エルマさんも、ヘルマン教授と同じようなことを言いますね」
「優秀な人間の意見は一致するものです」
言い返す言葉はいくらでもあった。
だが言い返すかどうかを迷っている間に、エルマはもう次の話に移っている。
レイは迷う速度が、いつも一手遅い。
数字の判断は誰よりも速いのに、人への判断だけがいつも遅れる。
レイは反論を諦めて、奥の部屋に入った。
ここが彼の仕事場だった。
壁一面の紙片。
数字。
確率。
そして一枚だけ数字の入っていない白い紙片。
机の上に、レイの字ではないメモが数枚置かれていた。
港の入港記録の写し。
北方街道の通行量。
商人組合の寄り合いで出た話題。
灰猫商会には何人かの「足」がいる。
元「灰の手」の構成員のうち、暴力に関わっていなかった者たちだ。
街に溶け込み、耳を澄まし、紙に書いて届ける。
メモの最後の一枚には「朝凪、異常なし」とだけ書かれていた。
目を通し終え、昨夜の計算を修正する。
朝の推測を裏付けるデータが、ここにある。
メモの裏に、小さな字で指示を書き足した。
『港湾局の通関記録から、メルテン商会の月次入出荷便数を確認せよ。合わせて本社向け送金の頻度も可能な範囲で。期限は来週まで』
オッズの精度を上げるための日常的なデータ収集。
あくまでそう見える指示だった。
実際、オッズに使うこともあるだろう。
だが本当の目的は、もう少し先にある。
紅茶を淹れた。
湯気が朝の光に白く立ち上る。
ひと口飲んで、温かい。
今日は学院に行かない日だ。
32%の出席率は、言い換えれば68%の欠席率でもある。
今日はその68%の側にいる。
扉の外で一人、立ち止まりかけた足音があった。
止まりかけて、止まらずに通り過ぎた。
歩幅が均一だった。速度が落ちたのは一歩だけで、次の一歩からもう元に戻っている。
ミラが天井裏から気配を追ったが、商会の前を歩いて行っただけだった。
壁のオッズ表を一瞥したのかもしれない。
しなかったのかもしれない。
レイは壁のメルテンの数字に目を戻した。そちらの方が先だった。
エルマが棚の本を一冊だけ直した。
背表紙の向きが逆になっていたのを、元に戻している。
この棚の並び順にはエルマなりの法則があり、レイが一冊でも動かすと、翌朝には元に戻されていた。
仕切りの向こうから、表の扉が開く音がした。
その音とともに、最初の客らしき男が姿を現した。
港の商人と見える身なりだった。
レイは仕切りの隙間から表を覗いた。
客が入口で立ち止まっている。
無理もない。
灰猫商会の表は、壁だった。
左の壁、右の壁、正面の壁。
三面を埋め尽くす紙片が、入店した人間の視界を奪う。
初めて来た客が立ち止まるのは、いつもこの瞬間だ。
カウンターの中で、エルマが客に向き直る。
「いらっしゃいませ。初めてのお客様ですね。ご案内いたします」
声は穏やかだった。
営業用の笑顔。
三つのうち最も滑らかなもの。
だがカウンターの向こうに立つエルマの姿を見て、商人の目が一瞬泳いだのをレイは見逃さなかった。
エルマに使う気はないが、客が少し丁寧になる。
それだけの容姿だ。
「左の壁が当日もの、右の壁が三日以内の中期もの、正面が週単位の長期ものです。各紙片の上の数字が倍率、下の日付が締切となっております」
客が壁を見回しながら聞いている。
「あの……船便の到着にまで賭けられるのか?」
「ええ。入港日、到着順、遅延の有無。お好きな粒度でどうぞ。分析担当が潮流と風向きのデータを照合しておりますので、オッズの精度には自信がございます」
「分析担当って……まさかそんな者まで雇ってるのか」
「ええ、少々変わり者ですが、数字には確かです」
変わっているは余計だ。
だがレイが反論する前に、商人は既に壁の前で唸り始めていた。
エルマの話術には、反撃の余地がない。
やがて彼は三国合議の議決オッズに賭けた。
船便ではなく議決の選択。
自分の商売に短期よりも長期的に関わる方を選ぶあたり、さすがに港の商人だった。
レイは手元の計算に戻った。
仕切りの向こうでは、二人目、三人目と客が入れ替わっていく。
エルマの対応には淀みがなかった。
客が気持ちよく金を置いて帰る。
それがエルマの仕事だ。
そんな中、四人目の客が流れを変えた。
仕切り越しに聞こえたのは、エルマの声のわずかな間だった。
「……確認いたします。三国合議の議決、可決側に4000ディナールでよろしいですか」
「ああ」
低い声、そして短い返事。
常連ではない。
4000ディナール。
灰猫商会の数日分の売上に匹敵する額を、7.1倍に一括で張る客。
レイの手が止まった。
本命に大金を張る客は多い。
だが大穴に大金を張る人間は、二種類しかいない。
何も知らない愚か者か、何かを知っている人間か。
エルマの声が聞こえた。
「ありがとうございます。結果は来週の掲示にてご確認ください」
客が出ていった。
足音は速くも遅くもなく、ただただ普通の歩調だった。
レイは仕切りの隙間から、去りゆく背中を見た。
中肉中背。
目立たない服装。
顔は見えなかった。
だがレイの帳簿に載ったのは、服でも背丈でもなかった。
金の出し方だ。
財布から数えて出すのではなく、最初から封筒に入れてあった。
金額を決めてから来ている。
つまり衝動ではなく指示だ。
壁の三国合議オッズの横に、小さくメモを貼った。
「可決側・代理人経由・4000D」
向こうからも、こちらの顔は見えていない。
それでいい。
一人なら誤差。
二人目が同じ側に来たら、何かが動いている。
五人目の客は、少額を七つの項目に分散して張った。
船便、天候、三国合議、穀物相場、港湾工事、北方国境、季節労働者。
合計23ディナール。
一つ一つは小さい。
だが七つの項目を選ぶ順番に、レイは別のものを読んだ。
左の壁から時計回りに、上段から下段へ。
壁のオッズ表を系統的に読み取っている。
賭けているのではない。
灰猫のオッズの体系そのものを、写し取っている。
偵察だ。
仕切りの向こうで、エルマが客を送り出した。
「旦那、五人目の客ですが」
「普通の客です」
エルマの目が一瞬だけ細くなったが、それ以上は問わなかった。
泳がせる。
あの客がどの項目をどの順番で選んだかを覚えている。
次に同じ人間が、あるいは同じ指示を受けた別の人間が来た時、選び方の癖から指示系統の精度と死角が読める。
偵察されることは、偵察し返すことでもある。
メルテンがこちらの何を見ようとしているかが分かれば、見せたいものだけを見せる設計ができる。
そのためには、今日は普通の客として帰ってもらう方がいい。
この判断を、レイは誰にも伝えなかった。
信頼していないからではない。
誰にも知られていない判断は、誰にも漏れない。
日が傾いた。
今日の紅茶は、三杯目がまだ温かい。
「旦那、そういえば前から聞きたかったんですが」
ガルドが戸締まりをしながら言った。
珍しく、彼から話を振ってきた。
「灰猫って名前、どこから来たんですか」
エルマが棚の本を直す手を止めた。
ミラが窓際から振り返った。
なぜか全員が聞いている。
レイは壁のオッズ表に目を向けたまま答えた。
「……猫は暗闇でも目が利きます。灰の中にいても、光を見つけられる」
ガルドは「へえ」とだけ言って、鍵をかけた。
エルマは何も言わず、棚の本を直す作業に戻った。
ミラだけが、少しだけ長くレイの横顔を見ていた。
本当の由来は、レイだけが知っている。
次回は明日の朝8時更新です




