第3話「放課後の書架」
教室が空になっていた。
放課後。
ノートを閉じる。
あの白い紙片に、まだ数字は入っていない。
あの本の7章に、何が書かれているのか。
レイは本館から渡り廊下を抜け、大図書館の研究棟へ向かった。
一般閲覧室ではない。
その奥にある、許可証がなければ入れない区画だ。
古い書架が並ぶ薄暗い回廊を抜けると、突き当たりに扉があり、迷わずノックする。
「……入れ」
低い声。
扉の向こうは、本と紙に埋もれた部屋だった。
机の上にも、床にも、窓枠にすら文献が積まれている。
その中央に、一人の男が座っていた。
エルヴィン・アズウォード。
古代史および魔法理論の研究専門教師。
通常の講義は持たず、大図書館の研究棟を私物化しているという噂は、ほぼ事実だった。
「先日お借りした『同盟形成期の諸国文書集成』、お返しに参りました」
レイは机の上に本を置いた。
革張りの分厚い一冊には、その背表紙に『閲覧制限』の印が押されている。
「6章まで読んだか」
「はい、同盟初期の合議記録が非常に興味深かったです」
「7章以降が読みたいなら、また来なさい。閲覧制限が一段上がるから、私の立ち会いが要る」
「ぜひお願いします」
レイが頭を下げ、踵を返しかけた時のことだった。
机の端に、紙に包まれた干菓子の欠片が置いてあった。
包み紙は色褪せている。
食べかけのまま。
いや、食べかけを捨てずに残してあるのだ。
エルヴィンの性格を考えれば、自分で菓子を買う人間には見えない。
誰かが差し入れたものだ。
紙の端に、小さな文字が見えた。
東方の文字……読めなかった。
読めなかったが、字の癖に、見覚えがある気がした。
レイはそれ以上見なかった。
「お前の母親も、同じことを言っていた」
レイの足が止まった。
「7章が読みたいと。もっと先を知りたいと……同じ顔で、同じことを言った」
振り返る。
エルヴィンは机の上の文献に目を落としていた。
レイの方を見ていない。
「……母を、ご存じなのですか」
声が揺れた。
「サクラ・ラマリン。旧姓は知らん。だが東方から来た女で、ここの書架に入り浸っていた人間は、そう多くはない」
「先生、一つだけ聞いてもよろしいですか」
「何だ」
「僕の目のことを……ご存じですか」
エルヴィンの視線が、初めてレイの目を正面から捉える。
焦点が合った。
「知っている。お前の母親とはいささか違う目であることもな」
一拍の間。
「あの女の目は読むための目だった。見えるものを読み、読んだものを記した。それだけの目だ」
エルヴィンの声が低くなった。
「お前の目は……まだ分からん。読むだけで済むのか、その先があるのか。使い方を誤るな。壊すための目ではない。真実を知りたければ」
エルヴィンが再び顔を上げた。
「通い続けることだ。出席率32%では話にならん……もちろん通うべきは教室ではなく、ここにだ」
それ以上は語らなかった。
もう彼は別の文献に目を戻している。
レイは黙って頭を下げた。
踵を返しかけた時、エルヴィンが文献のページをめくりながら、独り言のように言った。
「来月の合同実習には、三国の来賓が視察に来るらしいな」
レイは扉に手をかけたまま止まった。
「そういえば、研究棟の回覧便に書いてありましたね」
「……お前、回覧便まで読むのか」
「活字があれば読みます」
エルヴィンは少しだけ間を置いた。
「三国の代表が学生の演習を見に来る。それが何を意味するか、お前なら分かるだろう」
「品定めですか」
「それ以上でも以下でもない。そして出席率32%の人間が品定めされる側にいることの意味と価値を、考えておきなさい」
エルヴィンが文献のページをもう一枚めくった。
視線は活字の上にある。
だがその声だけが、独り言のように続いた。
「合同実習は今でこそ安全管理が行き届いているが、初期は違った。負傷者が毎年出ていた時代の学院規定は、今の版とはいくつか違う箇所がある。古代史の研究者としては、制度の変遷を読むのは基本だがね」
エルヴィンは沈黙した。
今度こそ会話は終わりだった。
レイは黙って頭を下げ、研究棟を出た。
***
渡り廊下を歩く。
夕方の光が回廊の柱に長い影を落としていた。
母のことは、あまり憶えていない。
東方の出身で、黒い髪をしていて、レイと近い目をしていた。
いなくなった日のことすら、輪郭がぼやけている。
エルヴィンは、何を知っているのだろう。
母が学院にいたこと。
この図書館に通っていたこと。
同じ本を求めたこと。
それだけなのか。
それとも……
考え込んでいた足が、不意に止められた。
「レイ!」
背後から駆けてくる足音。
振り返ると、ジュリアスが息を切らしていた。
「お前、毎日放課後どこ行ってんだよ。捕まえるの大変なんだけど」
その言葉の直前、ジュリアスは渡り廊下の途中で立ち止まっていた。
一年生が二人、掲示板の前で揉めている。
合同実習の申請用紙をどちらが先に取るか。些細な口論だった。
ジュリアスは黙って掲示板から用紙を二枚取り、二人の間に差し出した。
一言も仲裁しなかった。
ただ二枚渡して、そのまま歩き出した。
一年生たちは二人とも呆気に取られている。
レイはそれを廊下の向こうから見ていた。
非効率だ。
レイなら三手かける問題を、あの男は体ごと一手で終わらせる。
数字では出ない解法を、ジュリアスはいつも持っている。
「図書館です」
「それ午前中も聞いた」
ジュリアスはやれやれと肩をすくめてから、すぐに隣に並んだ。
歩きながら、何かを思い出したように言う。
「……まあいいや、それよりさ。下町に面白い賭け屋ができたの知ってるか? 灰猫商会っていうんだけど」
レイは一拍、間を置いた。
「ああ、あそこですか」
「知ってんのかよ。あそこのオッズがさ、異常に正確だって港の商人が騒いでてな。三国合議の議決結果に関して、8回連続で大差のオッズを正確につけていたらしい」
「9回です」
半拍、遅かった。
ジュリアスの足が一瞬止まる。
「……なんでそんな数字を知ってるんだ?」
「結果を騒いでる人がいましたので」
ジュリアスはしばらくレイの横顔を見ていた。
いつもなら追及しない。
深く踏み込まないのが彼の美点だと、さっき思ったばかりだ。
だが今日のジュリアスは、少しだけ違った。
「お前ってさ……」
何かを言いかけるも、それを飲み込みジュリアスはいつもの笑顔に戻った。
「まあいいや。今度一緒に行こうぜ。面白そうだし」
「機会があれば」
レイは笑った。
正門を出ると、夕暮れのメルヴィスが広がっていた。
ジュリアスが寮の方へ手を振って去っていく。
レイはその背中を見送ると反対方向……下町への道を歩き出した。
夕暮れの石畳に、影が一つ。
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