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第22話「数字の決着」

 決着は、静かについた。

 結果、クラウス・メルテンがメルヴィスを去った。


 情報収集班の報告は短かった。


 支店は既に閉鎖され、看板が外されている。

 跡地には何も残っていない。


「ガルドさん。支店跡を確認してきてもらえますか。看板だけでなく、中も」

「了解です、旦那」


 ガルドが出ていき、夕方前に戻ってきた。


「中は空でした。帳簿の一冊も残っていない。完全な撤収です」

「……さすがですね。証拠を残さない」

「ただ一つ」


 ガルドが懐から紙切れを出した。


「壁に釘で留めてありました。店の奥に」


 名刺だった。

 上質な紙。

 メルテン商会の紋章が浮き彫りにされている。


 つまりは初めてこの店を訪れた日に、カウンターの上に置いていったものと同じ。

 その裏に、一行だけ手書きの文字があった。


「良い夕べを」


 あの日と同じ言葉だった。

 穏やかな笑顔のまま扉に手をかけ、振り返って言ったあの去り際の挨拶。


 レイは名刺を見つめた。


「……律儀な人です」

 エルマが名刺を一瞥した。


「律儀な商人ほど厄介なものはありません。あの男は消えました。でも商いは残ります。メルテンの客も取引先もどこかに流れる。その流れの中に、次の相手が見える」


 レイは壁のあった場所を見た。

 オッズ表が貼られていた場所。


 そこにはもうなにもない。


「次はもっと大きな相手が来ますよ」

 あの言葉は虚勢ではない。


 その日の帰り道、レイは朝凪の家の前を通った。


 門の前で足が止まった。

 門は閉じていた。

 塀の向こうから、子供たちの声が聞こえてくる。


 いつもの声。

 いつもの笑い声。


 庭の隅に、ミラがいた。

 女の子が花を差し出している。


 ミラは受け取った。

 表情は変わらない。

 だが口元が僅かに緩んだ。


 ミラは花を受け取った後、いつものように布を取り出した。

 だが拭いたのは短刀ではなく、女の子の泥だらけの手だった。


 同じ布で。

 同じ手つきで。

 それだけで十分だった。


 レイは門をくぐらなかった。

 トビアスの「本当?」という声が聞こえる距離に、火の匂いを持ち込みたくなかった。


 子供たちは無事だ。

 自分の店は燃えた。

 だがここは燃えなかった。


 灰猫商会の焼け跡に戻ったのは、日が暮れてからだった。


 エルマが帳簿を閉じるところだった。

 瓦礫の上に木箱を置き、それを仮の机にしている。


「おかえりなさい、旦那。今日の収支を出しました」


 帳簿を広げた。


 来客数。

 売上。

 支出。


 店がなくても帳簿はつけている。

 それがエルマだった。


「メルテンの圧力がなくなって、ポツポツと客が戻り始めています。店はありませんが、人づてに。新規が2人。復帰が3人」

 レイが焼け跡の柱に寄りかかって聞いていると、エルマが帳簿の一行を指で叩いた。


「あと……ヴェルナーが来ました」

 レイの足が止まった。


 ヴェルナー。

 最初に離れた客だった。


「何に賭けました?」

「三国合議の否決。1.1倍に10ディナール」


「10ディナールで安全を量るのは、仲買商らしい堅実さですね」

「本当に戻ったかどうかは、来週分かります」


 エルマが帳簿を閉じた。

 数字が揃っている。


 一日の終わりに帳簿が閉じられる。

 店は焼けても、帳簿は閉じられる。


 読む人間が読めば……帳簿は語る。


 エルマが帰った。

 ガルドが帰った。

 ミラは朝凪の家にいる。


 一人になった焼け跡で、レイは残された壁の前に立っていた。


 壁の隅を見た。

 白い紙片が貼られていた場所。


「ファルニエ諸国同盟の存続年数」。


 紙は燃えていた。

 白紙のまま燃えていた。

 書けなかった数字は、紙が燃えてもまだ書けない。


 だが問いは消えたか?

 いや、問いだけが灰の中に残っている。


 あの名刺を、外套の内側から取り出した。


「良い夕べを」


 商人は去った。

 だが商いは残る。


 灰猫商会を潰しにきたのは、大商会とはいえただの商社に過ぎなかった。

 その上にいる人間が、この焼け跡の名前を知ることになる。


 名刺を外套に戻した。


 焼け跡の壁にもたれて、夜空を見上げた。

 屋根がないから、星が見えた。


 L-7が……あの星が頭の真上にある。

 秋の初めには東寄りだったのが、もう天頂を越えている。


 記録は全部燃えた。

 半年分の座標が、帳簿の余白ごと灰になった。


 帳簿は書き直せる。

 数字は変わらない。


 だが余白の点は、もう書き直せない。

 どの夜にどの星がどこにいたかは、帳簿の仕事ではなかったから、控えを取っていなかった。


 ナディアの声が、不意に耳の奥に戻ってきた。

 賭博に関わるなんて恥ずかしいと思わないんですか。


 あの時は答えなかった。


 ナディアは正しかった。

 ただし、正しさの種類が違った。

 同じものを見て、違うものを読んだ。


 いつか交わることがあるかもしれない。


 ポケットに手を入れた。

 指先に触れたのは、鉛筆の先だった。


 エルマが予備に渡してくれたもの。

 紙はない。


 でも壁はある。


 レイは立ち上がり、焦げた壁の前に立った。

 鉛筆を壁に当てた。


 紙がなくなっただけだ。

 数字は変わらない。


 否決1.1倍。

 可決7.1倍。


 焦げた壁に、白い文字で数字を書いた。

 オッズ表の、最初の一枚。


 続けてリヒトフェルデン関連の数字を書こうとした時、鉛筆が一瞬だけ止まった。

 止まった理由は自分でも分からなかった。


 そのまま次の数字に移った。

 最初の一桁だけ右端から書き始めていたことに、レイは気づかなかった。


 紅茶は淹れられない。

 カップはまだない。


 だが壁はある。


 灰猫商会は、ここから始まる。

 二度目の朝を待つために。


 足音が聞こえた。

 足音というよりは、気配だった。


 ミラが路地の角から現れた。

 レイの隣に立った。焼け跡の壁に書かれた数字を見た。


 否決1.1倍。

 可決7.1倍。


 外套の内側から布を取り出した。


 いつもの布。

 短刀を拭くための布。


 短刀を抜いた。

 今夜は使っていない。

 血もついていない。


 それでもミラは拭いた。


 一方向に。

 丁寧に。


 布を折り返し、新しい面でまた一方向に。

 いつもと同じ手つきで。

 だが拭き終わった後、肩が下がらなかった。


 いつもなら下がる。

 今夜は下がらなかった。


 代わりに、ミラは布を握ったまま壁の数字を見た。

 焦げた壁に白い鉛筆で書かれた、最初のオッズを。


 レイはそれに気づいた。

 でも……聞かなかった。


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