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第21話「帳簿は語る」

 手が震えなくなったのは、朝になってからだった。


 灰猫商会の壁だけが、朝日に照らされている。

 そう、壁だけが。


 屋根は半分落ちていた。

 カウンターは黒く焦げ、奥の部屋の床板は踏めば抜ける。

 オッズ表が貼られていた壁は残っていたが、紙片はすべて燃えていた。


 数字だけは覚えている。

 壁がなくても、数字は消えない。


 紅茶のカップは、もうない。

 茶器も、棚も、湯を沸かす火口も。

 あったはずの場所に、灰が積もっている。


 左袖の焦げ跡に包帯が巻かれていた。

 それだけが、昨夜の痕だった。


 レイは焼け跡の中に立ち、焦げた壁に手を触れた。

 触れた指先が黒くなった。


 背後で足音がした。


「旦那」


 エルマの声。

 そう、いつもの声だった。


 だが「旦那」の響きが、以前より少しだけ重い。

 気のせいかもしれない。

 いや、気のせいであってほしかった。


 エルマは焼け跡の前に立っていた。

 帳簿を腕に抱えている。

 あの帳簿だけは、持ち出していた。


「昨夜、二筋先で待っている間……あの燃える匂いがした時、私が何を考えていたか分かりますか」


 レイの手が止まった。


 エルマはレイの方を見ず、焼け跡を見ていた。

 声だけが、ただまっすぐに届いた。


「帳簿の原本は腕の中にありました。油紙も無事。紐も解けていない。帳簿番としては、何も失っていない」


 エルマの声には、特別な感情はなかった。

 事実を報告しているだけの声。

 帳簿番の声だった。


「でも煙の匂いがした時、最初に数えたのは帳簿の頁数じゃなかった。棚に何冊残っていたか、でした。あの棚はもう帳簿に載らない。載らないものを数えていた」


 レイは焦げた壁に向き直った。

 指先の炭が、風に散った。


「……すみません」


 エルマの鉛筆が、帳簿の表紙を一度だけ叩いた。

 小さな音だったが、焼け跡に響いた。


「旦那。一つだけ、聞いていいですか」

「……今ですか」

「一度だけです。二度は聞きません」


 エルマは帳簿の表紙を指先で撫でた。


「店を燃やすと決めた時、迷いましたか」


 レイは答えなかった。

 しばらく焼け跡を見ていた。


「……いいえ」

 声が低かった。


「迷わなかったことが、一番痛いです」


 エルマは何も言わなかった。

 風が、焼け跡の灰を巻き上げた。

 二人の間に、炭の匂いだけが漂っていた。


 エルマは帳簿を開き、一行を指で辿った。

 何かを確かめるように。


「旦那。帳簿に嘘を書いた夜のこと、覚えていますか」


 レイは頷いた。

 偽帳簿を作る前夜のこと。


「あの時は言わなかったことがあります」

 エルマの目は焼け跡を見たまま動かなかった。


「帳簿に嘘を書くのは、二度目でした」

 レイの手が止まった。


「10年前、私は組織の帳簿係でした。当時、数字は嘘をつかないと思っていました。でも帳簿をつけていた組織は、嘘をつく側でした」


 少しだけ間があった。

 灰が風に舞った。


「ある日、帳簿の中に知っている名前を見つけました。弟の名前です」


 レイは黙った。

 問い返すまでに、二秒。


「……借金の欄に」

「ええ。弟が一生かけても返せない数字でした」


 エルマの声は震えなかった。

 焼けた店の匂いの中で、その声だけが変わらなかった。


「帳簿番が帳簿に手を入れれば、すぐにバレます。消せない。書き換えられない。できることは……帳簿の外で稼ぐことだけでした」

「……10年、ですか」

「10年かかりました。数字が減っていくのを毎晩確認して。弟の名前が消えるのを待った10年です」


「消えましたか」

「消えました。そして消えた翌日に、組織を出ました」


 エルマは焼け跡の壁に目を戻した。


「帳簿をつける手には、帳簿しか残らない。でもその帳簿で守れるものがあると、あの10年で知りました。今度は帳簿ごと、店ごと燃えた。でも帳簿は残った」

 エルマの指が帳簿の背を一度だけ撫でた。


「次に店が燃える時は、先に言ってください。帳簿だけじゃなく、茶器も持ち出しますから」

 レイは一つ息を吐き出した。


 反論はしなかった。

 次も先に言えるとは、約束できなかったから。


 昼前には、裏口——だった場所の瓦礫の隙間に、封筒が置かれていた。

 差出人の名はない。

 だが封蝋の形に見覚えがあった。


 レイは封を切り、中の書面を広げた。

 几帳面な字。

 法的な用語が正確に使われている。


 フェリクス・ゼノアの仕事だった。


 実行犯三名の拘束。

 雇用記録からメルテン下請けへの接続。

 荷役業者の帳簿にある「特別警備費」と襲撃時期の一致。

 そしてクラウス・メルテン本人の署名が残った支払い指示書。


 下請けの独断という逃げ道を、この一枚が塞いでいた。

 そこまでならば、情報収集の範疇だ。


 だが書面はそこで終わっていなかった。

 最後の一枚に、レイがクラウスに突きつけた不正取引の記録と、この放火の証拠との関連が一覧で整理されていた。


 自治法14条の一号と三号。

 両方で処分が可能であることが、法的な論理の飛躍なしに示されている。


 灰猫商会の名前は、書面のどこにも書かれていなかった。

 フェリクス・ゼノアの名前も。

 情報だけが、正確に、匿名で、ここにある。


 ただし一点だけ、法的な文言の外に小さなメモが添えられていた。

 本件が不当に遅延した場合、ゼノア公国は同盟自治法に基づく外交照会を行う用意がある。


 フェリクスは自分の名を伏せながら、国の名前だけを剣先に添えていた。

 行政が手続きを先送りにする余地を、外交の一手で塞いでいる。


 レイはエルマを呼んだ。


「エルマさん。これを」


 書面を渡した。

 エルマは受け取り、ページをめくった。


 速い。

 帳簿番の目だった。


 数字を追い、証拠の繋がりを確認し、法的な構成を検証している。

 三枚目で手が止まった。


「……旦那。これを書いた人間は」

「名前は聞かないでいただけますか」

「聞きません。ただ……この人は大事にした方がいい、とだけ言っておきます」


 エルマは帳簿を閉じ、左手で書面を外套の内側に入れた。右手はペンを持ったままだった。


「3時間で戻ります。それ以上かかったら、何かあったと思ってください」


 外套を羽織って、通りへ歩き出した。

 足音が遠ざかる。

 裏社会で10年を生きた女が、政府機関の窓口に灰猫商会の代表として立ちに行く。


 ガルドが焼け跡の入口に立っていた。

 腕を組み、外を見ている。

 だが彼は何も口にすることはなかった。


 ただ、靴の泥が違っていた。

 灰猫の周囲の石畳ではつかない、赤い土。


 レイは何も言わず、そのまま焦げた壁にもたれた。

 壁の紙片を見つめる癖が出た。

 もうない壁の、もうない紙片を。


 灰猫の帳簿に書かれているのは数字だけで、その数字を支えている人間の名前は、どこにも載らない。


 2時間半後、通りの向こうから足音が聞こえた。


 エルマの足音だった。

 帳簿番の足音は、いつでも同じ速さで歩く。

 そしてその足音が今日も変わらなかったことに、レイは小さく息を吐いた。


 外套の埃を払い、帳簿を開く。


「結果を報告します。メルテン商会メルヴィス支店は営業停止。発効は三日後です」

 鉛筆で帳簿に一行書き込む。


「クラウス・メルテン。本国召還命令。7日以内にメルヴィスを退去すること。以上です」

「……あっけないですね」

「帳簿の仕事はいつもそうです。数字が揃えば、あとは手続き。派手なのは帳簿の外で起きることだけです」


 エルマが帳簿を開き直すと、別のページに指を滑らせた。


「……旦那。これ、全部分かっていたんですか」

「灰猫商会の構造がそうなっていただけです。僕がやったのは、その構造を壊さなかっただけです」


 エルマは鉛筆の先で帳簿の表紙を一度叩いた。


「設計と呼ぶんですよ、そういうのは」

 レイは答えなかった。

 答えない顔を、エルマは帳簿番の目で見ていた。


 エルマが帳簿を閉じた。

 鉛筆を帳簿の間に挟む。


 ナイフが挟まっているのと同じ場所に。


「窓口の人間は、私を見て少し怯えていましたよ」

「……怯えた?」

「元犯罪組織の人間が、焼けた店の書類を持ってくるんです。怯えない方がおかしい」


 レイはそれを何と呼べばいいか分からなかった。

 分からないまま、通り過ぎた。


「ただ、受理は渋りました。出自を理由に」

「それで?」

「帳簿を開いて見せました。メルテン支店の便数と売上の不整合を、この数字と通関記録で照合してください……そう申し上げたら、担当官の顔色が変わりました」


 エルマの口元に、かすかな笑みが浮いた。

 営業用でも、皮肉混じりでもない、見たことのない顔だった。


「この数字の不整合を、このまま公開帳簿に載せるおつもりですかと。載せるなら載せますが、それは管理局の監督責任の問題になりますねと」

「……帳簿で窓口を動かしたんですね」

「帳簿番は帳簿しか武器がありません。でも帳簿は、振り方次第で誰でも動かせます」


 発効までの三日間、灰猫商会は焼け跡の中にいた。


 初日、エルマは瓦礫の上に木箱を置き、帳簿をつけた。

 客は来なかった。

 それでも帳簿は閉じた。


 二日目、ガルドが焼け残った柱を二本立て直した。

 屋根はないが、雨除けの布を張った。


 三日目の朝、ミラが朝凪の家から戻ってきた。

 外套の裾に、東の街道の埃がついていた。


 三日間、誰も「いつまでここにいるのか」と聞かなかった。

 聞く必要がなかった。


 灰猫商会は場所ではない。

 人が立っている場所が灰猫だ。


 そして三日目の午後、処分が発効した。


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