表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/23

第20話「燃える棚」

 灰猫商会が燃えていた。


 窓から炎が溢れ、硝子が熱で割れ、破片が路地に散っている。

 壁板の隙間から煙が噴き出し、赤い光が石畳を濡らしていた。


 オッズ表はもう剥がしてある。

 鞄の中だ。


 帳簿の原本はフェリクスが預かっている。

 紅茶のカップは棚の中にあるはずだ。ミラが布で拭いて戻してくれたカップ。あれも燃えている。


 エルマが整えた棚が、燃えている。

 昼に横倒しにされた音を聞いた、あの棚だ。


 エルマは開業の翌週から、毎朝あの棚を拭いていた。

 並び順にも彼女なりの法則があり、レイが一冊でも動かすと元に戻された。


 ガルドが直したカウンターの脚が、燃えている。

 修繕というより作り直しに近かった。


 元の脚が折れた日、ガルドは一言も文句を言わず、翌朝には新しい脚を嵌めていた。

 少しだけ太くなったその脚を、エルマが「不格好ですね」と言い、ガルドが黙って頷いた。


 ミラが拭いた窓硝子が……もう、ない。

 熱で砕けて路地に散っている。


 ミラは窓を拭く時だけ、外套の袖を捲った。

 それ以外で彼女が袖を捲るところを、レイは見たことがなかった。


 壁の隅。

 最後まで残っていた一枚が、縁から赤く染まっていた。


『ファルニエ諸国同盟の存続年数』


 白い紙が炎に舐められ、数字の入らないまま灰になろうとしていた。

 書けなかった答えが、問いごと消えていく。


 レイはその一枚だけを見ていた。

 見ていることに、気づいていない。


 数ヶ月前、ここには何もなかった。

 空っぽの路地裏の一室に、行き場のない人間が集まって作った場所だ。


 それを、自分の手で燃やした。

 レイの手は震えなかった。


 計算通りだから。

 証拠は押さえた。

 誰も命を失ってはいない。

 帳簿は無事。


 全て計算通り……そんなわけない。


 だがその計算の中に、エルマの棚の並び順は入っていなかった。

 ガルドの不格好な脚は入っていなかった。

 ミラが袖を捲って拭いた窓は入っていなかった。


 手は震えなかった。

 震える理由がない。

 計算通りだから。


 エルマが路地の奥から歩いてきた。


 帳簿を抱えている。

 煤もなく、破れもなく、油紙に包まれたままの完璧な状態で。


「旦那、帳簿は無事です」

「……ありがとうございます」

「お礼はいりません。帳簿番の仕事ですから」


 エルマが燃える店を見た。

 それからレイの右目を見た。

 最後にミラが外套の中に隠した右手を見た。


 レイはエルマの視線を追った。

 ミラの右手。

 外套の中に押し込まれているが、指先の赤さは隠しきれていなかった。


 ただ静かに、燃えるものを見ている顔だった。


 炎が窓枠を焼き、屋根の端に火の粉が散った。

 木材が軋む音が、夜の路地に低く響いていた。


「旦那。扉の修繕費は、今回は請求できませんね」

「……気が早い上に、今回は修繕では済みませんので」


 声は平坦だった。

 いつものレイの言葉遣いだった。

 エルマは少しだけ黙った。


「……あの棚、気に入ってたんですけどね」


 レイは答えなかった。

 答える言葉が見つからなかったのではない。

 答えてしまえば、計算が崩れる気がした。


 エルマはそれ以上何も言わなかった。

 帳簿を抱え直し、レイの隣に立ったまま、燃えるものを見ていた。


 やがてガルドが荒事師の拘束を終えて戻ってきた。


 路地の角から現れたガルドは、燃える灰猫商会を見上げた。

 炎に照らされた大きな顔に、表情はなかった。

 革の腕当ての裂け目が、火の光に赤く光っている。


 ガルドは何も言わなかった。

 もともと多くを語らない男だった。

 だが燃える店を見上げる目が、一度だけ、カウンターのあった辺りで止まった。


 不格好な脚を嵌めた、あのカウンター。


 それから視線が裏口に移った。

 壊れる前に替えた蝶番が、扉ごと焼けている。

 壊れないようにと替えたものが、壊れる前に燃えた。

 ガルドはそれを見て、一つだけ息を吐いた。


 ガルドは拘束した荒事師の方へ戻った。


 背中が大きかった。

 いつもと同じ大きさのはずだった。


 ミラが最後に来た。


 レイの隣に立った。

 何も言わなかった。

 いつもそうだ。


 だが彼女は外套の内側から布を取り出した。

 いつもの布。短刀を拭くための布。


 右手が短刀の柄に伸びた。

 伸びかけて、止まった。


 右手の掌が赤い。

 魔力の暴発で焼けた火傷が、布を握る力を奪っている。


 ミラは布を左手に持ち替えた。

 左手で短刀を抜こうとして、手が止まった。


 今夜、短刀は抜いていない。

 拭くべき血もない。

 それでもミラはいつも拭く。何を拭い取ろうとしているのかは、レイは聞いたことがない。


 だが今、止まったのは血がないからではなかった。

 彼女が短刀を拭いていた場所が、燃えている。


 カウンターの隅。

 窓際の壁。

 閉店後にいつも立っていた場所の近く。


 あの場所で拭くことが、彼女にとっての「ここにいる」だったのだと、レイは初めて気がついた。


 ミラは布を握ったまま、燃える店を見た。

 手は膝の横に下がっていた。


 布を戻さなかった。

 戻す場所がなかった。


 天井が崩れた。

 重い音がして、火の粉が夜空に舞い上がった。

 赤い光の中に、灰猫商会だったものの輪郭が崩れていく。


 灰猫商会は、灰になっていく。

 名前の通りに。


 馬鹿みたいだ。

 声にはしなかった。


 四人が路地に立っていた。

 オッズメイカーと、帳簿番と、用心棒と、影。

 居場所を失った四人が、その居場所が燃え落ちるのを見ていた。


 レイは鞄の中のオッズ表に、触れなかった。

 数字は全て頭の中にある。

 紙が燃えても数字は燃えない。


 だが灰猫商会は、最初から帳簿に載らないものでできていた。


 レイは背を向けた。

 燃える店に背を向けた。


 背を向けた瞬間、音が変わった。

 炎の音が遠くなった。


 エルマが帳簿を閉じる音を聞きながら紅茶を飲んだ夜があった。

 ガルドの足音が表に立つ気配を背中で受けた夜があった。

 ミラの沈黙が窓際から届いた夜があった。


 あの音は、もうどこにもない。

 記憶の中にだけある音を、火が上書きしていく。


「行きましょう」


 歩き出した。

 一歩目が、半拍遅れた。


 レイ自身はそれに気づかなかった。

 ミラだけが、半歩後ろでその遅れを見ていた。見ていて、何も言わなかった。


 エルマが続いた。

 ミラが続いた。

 路地の奥で、ガルドが荒事師を立たせる気配がした。


 手は震えなかった。

 声も震えなかった。

 足取りも乱れなかった。


 全て計算通りだ。


 計算の外にあったものは、もう、灰になった。

 だが計算の外にあった人間の痛みは、まだ隣を歩いている。


 木が弾ける音がした。

 棚板が折れる音だった。


 あの棚を拭く時、エルマの手首が布にかすれる微かな音があった。

 毎朝聞いていた音だった。

 その音の居場所が、今、音を立てて崩れている。


 だがレイは……レイたちはもう振り返らなかった。


毎日21時更新です!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
居場所だった所がなくなるのは寂しいですね…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ