第20話「燃える棚」
灰猫商会が燃えていた。
窓から炎が溢れ、硝子が熱で割れ、破片が路地に散っている。
壁板の隙間から煙が噴き出し、赤い光が石畳を濡らしていた。
オッズ表はもう剥がしてある。
鞄の中だ。
帳簿の原本はフェリクスが預かっている。
紅茶のカップは棚の中にあるはずだ。ミラが布で拭いて戻してくれたカップ。あれも燃えている。
エルマが整えた棚が、燃えている。
昼に横倒しにされた音を聞いた、あの棚だ。
エルマは開業の翌週から、毎朝あの棚を拭いていた。
並び順にも彼女なりの法則があり、レイが一冊でも動かすと元に戻された。
ガルドが直したカウンターの脚が、燃えている。
修繕というより作り直しに近かった。
元の脚が折れた日、ガルドは一言も文句を言わず、翌朝には新しい脚を嵌めていた。
少しだけ太くなったその脚を、エルマが「不格好ですね」と言い、ガルドが黙って頷いた。
ミラが拭いた窓硝子が……もう、ない。
熱で砕けて路地に散っている。
ミラは窓を拭く時だけ、外套の袖を捲った。
それ以外で彼女が袖を捲るところを、レイは見たことがなかった。
壁の隅。
最後まで残っていた一枚が、縁から赤く染まっていた。
『ファルニエ諸国同盟の存続年数』
白い紙が炎に舐められ、数字の入らないまま灰になろうとしていた。
書けなかった答えが、問いごと消えていく。
レイはその一枚だけを見ていた。
見ていることに、気づいていない。
数ヶ月前、ここには何もなかった。
空っぽの路地裏の一室に、行き場のない人間が集まって作った場所だ。
それを、自分の手で燃やした。
レイの手は震えなかった。
計算通りだから。
証拠は押さえた。
誰も命を失ってはいない。
帳簿は無事。
全て計算通り……そんなわけない。
だがその計算の中に、エルマの棚の並び順は入っていなかった。
ガルドの不格好な脚は入っていなかった。
ミラが袖を捲って拭いた窓は入っていなかった。
手は震えなかった。
震える理由がない。
計算通りだから。
エルマが路地の奥から歩いてきた。
帳簿を抱えている。
煤もなく、破れもなく、油紙に包まれたままの完璧な状態で。
「旦那、帳簿は無事です」
「……ありがとうございます」
「お礼はいりません。帳簿番の仕事ですから」
エルマが燃える店を見た。
それからレイの右目を見た。
最後にミラが外套の中に隠した右手を見た。
レイはエルマの視線を追った。
ミラの右手。
外套の中に押し込まれているが、指先の赤さは隠しきれていなかった。
ただ静かに、燃えるものを見ている顔だった。
炎が窓枠を焼き、屋根の端に火の粉が散った。
木材が軋む音が、夜の路地に低く響いていた。
「旦那。扉の修繕費は、今回は請求できませんね」
「……気が早い上に、今回は修繕では済みませんので」
声は平坦だった。
いつものレイの言葉遣いだった。
エルマは少しだけ黙った。
「……あの棚、気に入ってたんですけどね」
レイは答えなかった。
答える言葉が見つからなかったのではない。
答えてしまえば、計算が崩れる気がした。
エルマはそれ以上何も言わなかった。
帳簿を抱え直し、レイの隣に立ったまま、燃えるものを見ていた。
やがてガルドが荒事師の拘束を終えて戻ってきた。
路地の角から現れたガルドは、燃える灰猫商会を見上げた。
炎に照らされた大きな顔に、表情はなかった。
革の腕当ての裂け目が、火の光に赤く光っている。
ガルドは何も言わなかった。
もともと多くを語らない男だった。
だが燃える店を見上げる目が、一度だけ、カウンターのあった辺りで止まった。
不格好な脚を嵌めた、あのカウンター。
それから視線が裏口に移った。
壊れる前に替えた蝶番が、扉ごと焼けている。
壊れないようにと替えたものが、壊れる前に燃えた。
ガルドはそれを見て、一つだけ息を吐いた。
ガルドは拘束した荒事師の方へ戻った。
背中が大きかった。
いつもと同じ大きさのはずだった。
ミラが最後に来た。
レイの隣に立った。
何も言わなかった。
いつもそうだ。
だが彼女は外套の内側から布を取り出した。
いつもの布。短刀を拭くための布。
右手が短刀の柄に伸びた。
伸びかけて、止まった。
右手の掌が赤い。
魔力の暴発で焼けた火傷が、布を握る力を奪っている。
ミラは布を左手に持ち替えた。
左手で短刀を抜こうとして、手が止まった。
今夜、短刀は抜いていない。
拭くべき血もない。
それでもミラはいつも拭く。何を拭い取ろうとしているのかは、レイは聞いたことがない。
だが今、止まったのは血がないからではなかった。
彼女が短刀を拭いていた場所が、燃えている。
カウンターの隅。
窓際の壁。
閉店後にいつも立っていた場所の近く。
あの場所で拭くことが、彼女にとっての「ここにいる」だったのだと、レイは初めて気がついた。
ミラは布を握ったまま、燃える店を見た。
手は膝の横に下がっていた。
布を戻さなかった。
戻す場所がなかった。
天井が崩れた。
重い音がして、火の粉が夜空に舞い上がった。
赤い光の中に、灰猫商会だったものの輪郭が崩れていく。
灰猫商会は、灰になっていく。
名前の通りに。
馬鹿みたいだ。
声にはしなかった。
四人が路地に立っていた。
オッズメイカーと、帳簿番と、用心棒と、影。
居場所を失った四人が、その居場所が燃え落ちるのを見ていた。
レイは鞄の中のオッズ表に、触れなかった。
数字は全て頭の中にある。
紙が燃えても数字は燃えない。
だが灰猫商会は、最初から帳簿に載らないものでできていた。
レイは背を向けた。
燃える店に背を向けた。
背を向けた瞬間、音が変わった。
炎の音が遠くなった。
エルマが帳簿を閉じる音を聞きながら紅茶を飲んだ夜があった。
ガルドの足音が表に立つ気配を背中で受けた夜があった。
ミラの沈黙が窓際から届いた夜があった。
あの音は、もうどこにもない。
記憶の中にだけある音を、火が上書きしていく。
「行きましょう」
歩き出した。
一歩目が、半拍遅れた。
レイ自身はそれに気づかなかった。
ミラだけが、半歩後ろでその遅れを見ていた。見ていて、何も言わなかった。
エルマが続いた。
ミラが続いた。
路地の奥で、ガルドが荒事師を立たせる気配がした。
手は震えなかった。
声も震えなかった。
足取りも乱れなかった。
全て計算通りだ。
計算の外にあったものは、もう、灰になった。
だが計算の外にあった人間の痛みは、まだ隣を歩いている。
木が弾ける音がした。
棚板が折れる音だった。
あの棚を拭く時、エルマの手首が布にかすれる微かな音があった。
毎朝聞いていた音だった。
その音の居場所が、今、音を立てて崩れている。
だがレイは……レイたちはもう振り返らなかった。
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