表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/16

第2話「出席率32%」

 出席率32%——学院最下位。

 その数字が、掲示板のレイ・ラマリンの名前の隣に並んでいた。


 メルヴィス学院の正門脇にある掲示板に、赤い枠線で囲まれた一枚の紙。

『出席率ワーストランキング980年度』

 まさに不名誉な一覧表だった。


 掲示を決めた人間は抑止力のつもりなのだろう。

 名前を晒せば出席率が改善するという、いささか楽観的な仮説に基づいている。

 ただ少なくとも、1位の人間にはまるで効いていなかった。


 改めて一覧表に目をやると、2位との差は14ポイント。

 ここまで離れると、むしろ誰も追い越せはしないだろう。


 実際、周囲もこの張り紙に対し関心を失っていた。

 誰も出席の悪い生徒などに興味はない。


「なあ、下町にできた灰猫って店、知ってるか?」

「知らね。なんだそれ」

「なんか壁一面にオッズ表が貼ってあって、何でも賭けにできるらしい」

「ふうん」


 掲示板の脇に立つレイなど気に留めることもなく、二人の学生はそんな会話を繰り広げながら正門をくぐっていく。


 店の噂がここまで届いている。広がる速度が想定より早い。

 それが吉と出るか凶と出るかは、まだオッズに載せていない。


 レイは教室へ向かった。


***


「ラマリン」


 ヘルマン教授。

 文学科の主任にしてレイの担当教官であり、この学院で最も彼の出席率に心を痛めている白髪交じりの中年男性だった。


「3回連続欠席だ……理由は?」

「体調不良です」

「3回ともか?」

「お恥ずかしながら体が弱いので」

「出席率32%の人間が体の弱さを主張するなら、今すぐ入院を勧める……座りなさい」


 教授の温情で済んだのは、今回が初めてではない。

 小言を長引かせても他の学生の時間を奪うだけだということを、ヘルマン教授は理解している。

 怒りの表明としては効率がいい。

 レイはそこに小さな敬意を持っていた。


 席に向かう。

 左の袖の内側に、昨夜できた小さな裂け目がある。

 もう一つの夜が、まだ布の上に残っている。


 窓から差す朝の光が、一瞬だけ右目を刺した。

 昨夜、構造式を読んだ残滓だ。明るい光の下では、霞の名残りがときおり視界の隅を掠める。

 左目で補えば気づかれない。気づかれなければ問題はない。


「よう、生きてたか」


 窓際の席から手を挙げたのは、ジュリアス・ヴァルトシュタインだった。

 日に焼けた腕が無造作に上がり、こちらを見て笑っている。


 この諸国同盟を代表する一家であるヴァルトシュタイン公爵家の三男。

 だがその名前の重さに、本人の腕の上げ方が一切追いついていない。

 レイが学院で最初に名前を覚えた人間だった。


「死んではいません」

「それは見れば分かる。3日どこ行ってたんだ?」

「図書館です」

「3日間も?」

「いい本があったので」

「お前さあ……」


 ジュリアスは呆れた顔をしたが、それ以上の追及はしなかった。

 踏み込まない距離感が、この男の持ち味だった。


「レイさん、大丈夫? 顔色悪いよ」


 前の席から振り返ったのはマリエルだった。

 柔らかい声。

 この教室でレイに「大丈夫?」と聞く人間は、彼女くらいしかいない。


「大丈夫です。寝不足なだけですので」

「ちゃんとご飯食べてる?」

「……概ね」

「概ねって……何?」


 戸惑いを見せるマリエルの目が、ふとレイの左腕に止まった。


「レイさん、袖どうしたの?」

「引っかけました」


 マリエルは「気をつけてね」と笑って前に向き直った。


 だがジュリアスの視線が一瞬だけ裂け目の上で止まったことを、レイは気づいていた。

 ジュリアスは何も言わなかった。


「どうせまた禁書庫にでも侵入したんだろ」

「侵入はしていませんよ……侵入されたと言いますか。まあ、いずれにせよ大差ありませんが」

「何言ってんだ、お前」


 マリエルが小さく吹き出す。

 ジュリアスは呆れた顔を隠さなかった。


 いつもの朝の風景だ。

 裂け目の本当の意味には、誰も触れなかった。


 そこへヘルマン教授が講義を始めた。


「今日の主題は、ファルニエ同盟協約の成立経緯とその構造的限界だ。200年前、三つの主要国がなぜ一つの協約にまとまったのか……その経緯をまず確認する」


 ノートを開く音が教室を満たした。

 レイも形だけノートを広げたが、ペンは動かない。

 この講義の内容は全て知っている。


「では……ナディア」


 教授が名前を呼ぶと、教室の右前方の席で少女が立ち上がる。

 椅子を引く音が小さかった。

 立ち上がる動作に無駄がない。生まれつきの所作ではなかった。


 努力の形をした背筋だった。


 ナディア。

 軍学科1年であり、南方都市同盟出身の同じ奨学生。


 レイとは学科が違うが、文学科の政治史講義は軍学科との合同で行われる。

 彼女はこの講義の全ての回に出席し、毎回一番前の席に座り、誰よりも早くノートを開く。


 たとえ軍学科の試験に政治史が出なくてもだ。


「ファルニエ同盟協約は、ロンベルグ帝国の軍事膨張に対する集団安全保障として締結されました。単独では外圧に耐えられない三つの小国を中心に、対等な同盟として合議体制を構築し、軍事および外交の協調を図ったのが発端です」


 教科書通りの回答。

 正確で、簡潔で、一分の隙もない。


 だがナディアの声には、暗唱している響きがなかった。

 自分の言葉として出している。


「よろしい、座りなさい。では補足だ、同盟協約の構造的な弱点はどこにあるか……誰か?」


 教室が静まった。

 ナディアはまだ立ったままだったが、教授は別の学生を求めている。


 誰も手を挙げない。

 5秒。

 10秒。


 レイは目を閉じていた。

 閉じていたが、聞こえていた。


 教授の視線が教室を巡り、レイの席を通過し……そしてゆっくりと戻ってきた。


「ラマリン、起きているなら答えなさい」

「……起きています」


 レイは目を開けた。

 窓の外を一瞥してから、教授に視線を戻す。


「同盟協約の構造的弱点は、票決構造です。三国の君主はエスターツで中小領邦の票を必要としますが、票の取りまとめを禁じる条項がそもそもありません。つまりは合議の場で議論に勝つよりも、裏で票を買い集める方が合理的だということです……200年間、誰もそれを直そうとしなかった。直さない方が三国にとって都合が良かったからでしょう」


 教室が静まった。

 先ほどの沈黙は「誰も答えられない」静けさだった。今の沈黙は違う。

 どちらの沈黙も、レイにとっては変わらなかった。


 右前方で、ナディアのペンが動いているのが見えた。

 出席率32%の男の発言を、ノートに書き取っている。


 迷いなく書いている。

 つまり書く価値があると判断してから動いた手だ。


 教科書にはこう書かれているのだろう。

『エスターツの票決構造は議論の対象となった』。

 だがレイの口から出たのは、教科書の一行が意味する『裏側』だった。


 ヘルマン教授が眼鏡の位置を直す。


「……よろしい。だがラマリン、出席率32%の学生がそこまで詳しい理由を、私は少々気にかけているのだが」

「ただの読書の成果です」

「読書か……なるほど、結構。では次回は必ず出席しなさい。出席してから読書の成果を披露してくれると助かるのでな」


 レイが座った。


 ナディアが一瞥だけ寄越した。

 冷たいというよりは、測るような目だった。


 何かを確認し、それを自分の中で処理している目。

 だが彼女はすぐに前を向いた。


 嫌われている、とまでは思わない。

 ただ、好かれてもいない。

 それは正しい感情だろう。


 昼休み、ジュリアスに食堂に引っ張られた。

「お前、また一人で図書館行くつもりだろ。たまには飯くらい食え」


 食堂はいつも通り賑わっていた。

 ジュリアスはパンと肉の皿を取り、向かいに座って話し始める。


「来週の文芸祭の出し物、何やるか聞いたか? マリエルがさ、朗読劇をやりたいって言っててな。で、セドリックが大道具を引き受けたんだけど、あいつ不器用だからさ」


 レイはスープを啜りながら聞いていた。

 聞いてはいたが、名前と名前の関係が繋がらない。


 三国合議の票読みは空で言える。

 だがセドリックが誰の友人かも分からない。

 それらは出席率32%の時間の中で、レイが持ち帰らなかったものだ。


「あと寮のほうで面白い話があってさ。ハンスが訓練中に……って、ハンスは知ってるか?軍学科の」

「……名前だけは」

「お前の同学年だぞ。まあいいけど。で、そいつが」


 ジュリアスは楽しそうに話し続ける。

 それをレイは聞いている。


 聞いてはいるが、同級生のあだ名も、寮で起きた笑い話も、文芸祭の段取りも、レイの頭の中には残らなかった。


「おーい、聞いてる?」

「聞いています。ハンスさんが訓練中に」

「そこから先を話してないんだけど」

「……すみません」


 ジュリアスは溜め息をつきながらも笑った。

 その溜め息に悪意がないことを、レイは知っている。

 だからこそ、少しだけ居心地が悪かった。


 窓の外で、鐘が鳴った。

 午後の講義が始まる。出席率がこれで僅かに向上する。


 だが壁に貼ったあの白い紙片は、まだ白いままだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ