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第18話「油を塗る夜」

 最後に、油を塗った。


 ランプ油を二瓶。

 カウンターの天板に沁み込ませ、棚板の裏に塗り、壁際の木材の継ぎ目に垂らした。


 外から見ても分からない。

 だが火が入れば、一気に燃え広がる。


 レイの手は淀みなく動いた。

 一度だけ、棚板の端で止まった。


 エルマが背表紙の向きを直していた場所だった。

 指が油壺を傾けかけて……結局、そのまま傾けて塗った。


 止まったのは一秒だけだった。

 一秒の後は、もう止まらなかった。


 手が覚えている。

 エルマが棚板を拭く角度と同じ角度で、油を塗っている。


 それを彼女は黙って見ていた。


 帳簿番は数字を読む。

 だが帳簿番が本当に読むのは、数字の向こう側にあるものだ。


 油を塗り終えたレイの手を、エルマは見ていた。

 何も言わなかった。


 全ての準備が終わった。


 灰猫商会には偽帳簿だけが残されている。

 油が染みた木材と、空の棚と、誰もいないカウンター。


 罠だった。

 殴らせるための罠。


 メルテンが灰猫を潰しに来る。

 荒事師を送り込み、店を壊し、帳簿を奪う。


 だが帳簿はもうここにない。

 奪いに来た帳簿が存在しない店を壊せば、残るのは破壊の事実だけだ。


 自治法14条第3号……物理的威嚇・破壊行為。

 その現行犯を押さえれば、メルテンの首に縄がかかる。


 灰猫商会は空にした。

 守るべきものを全て外に出した。

 殴らせるために、空にした。


 朝凪への道は、もう塞いである。

 あとは殴らせるだけだ。


 日が暮れた。


 灰猫商会の灯りは点かなかった。

 初めてのことだった。

 開業してから一日も欠かさなかった灯りが、今夜は点いていない。


 レイは店の外にいた。

 路地裏の暗がりに背を預け、壁の冷たさを肩甲骨で感じていた。


 ガルドは裏口側の路地に。

 ミラは表通り寄りの壁の影に。

 エルマは帳簿を抱えて、二筋先の裏路地に待機している。


 全員が指定された位置にいる。

 全員が息を殺している。


 紅茶のカップは、棚の奥にある。


 夜風が頬に当たった。

 冷たかった。

 だがそんなことはもう、関係なかった。


 深夜を回った。


 街の音が消えていく。

 酔客の笑い声が遠ざかり、犬の遠吠えが途絶え、運河の水音だけが残る。


 待っていた。


 レイは壁に背をつけたまま、目を閉じていた。

 眠っているのではない。

 耳だけで路地の気配を読んでいた。


 石畳を踏む音が聞こえたのは、深夜二刻を過ぎた頃だった。


 一つではない。

 五つ。

 六つ。


 いや、もっと多い。


 靴底が硬い。

 足取りが重い。

 隠す気のない歩調。


 だがその中に一つだけ、柔らかい足音が混じっている。

 魔術師だ。


 レイは目を開けた。


 来た。

 表の扉が蹴られた。


 蝶番が軋み、木の板が内側に倒れた。

 ガルドが壊れる前に替えた蝶番だった。

 まだ新しい金具が引き千切れ、石畳に転がる音がした。


 男たちが踏み込んでいく。

 レイは暗がりの中で息を殺した。


 店内に松明の光が揺れるのが、壁の隙間越しに見えた。


「誰もいねえぞ」


 声が一つ。

 低い、しゃがれた声。


「帳簿を探せ。裏も調べろ。あと店を壊せと言われてる」


 声がもう一つ。

 こちらは若く指示を出す声だった。


「裏口がある。ロッコ、ベネト、向こうに回れ」


 分かれた。

 表に六人。

 裏口に三人。


 計九人。


 予測では五から七人だった。

 九人は上限を超えている。


 レイの計算が、一瞬で書き換わった。

 ガルドは裏口を塞ぐ役だった。

 だが裏口側にも三人が回った。


 塞ぐだけではなく、「三人を相手にしながら塞ぐ」に条件が変わった。


 物色が始まった。

 棚を引き倒す音。

 カウンターを叩く音。

 エルマが整えた棚が、横倒しになる音。


 レイはその全てを聞いていた。

 壁一枚の向こうで、自分の店が壊されていく音を。

 そして、松明がカウンターに近づいた。


 音で分かった。

 足音が奥に進み、松明の光が壁の隙間から強くなった。

 カウンター周辺に染み込ませた油が、松明の熱を拾う距離に入った。


 引火は、静かだった。


 最初に青い炎が走った。

 カウンターの天板を低く這うように、油の軌跡に沿って。

 それから棚板の裏に燃え移り、壁板を舐めた。


 一拍の沈黙があった。


 荒事師たちがそれを理解するまでの、一拍。

 そして炎が立ち上がった。


 カウンター全体が赤く膨れ上がり、天井に向かって火柱が伸びた。

 仕込んだ油が連鎖し、店内の空気そのものが熱を持った。


「火だッ!」


 怒号と同時に足音が殺到する。


 裏口に走った者がいた。

 扉に体当たりする音。


 だが裏口は、既にガルドが塞いでいた。

 いや、塞いでいただけではなかった。


 裏口の外で、音が弾けた。

 裏口に回った三人のうち、先頭の男が扉を引き開けようとした瞬間、扉ごと押し返された。


 ガルドの全身がぶつかった。

 先頭の男は扉の縁に弾かれ、壁にめり込むように倒れる。


 残りの二人が短剣を抜いた。

 一人は背が高く、もう一人は小柄だった。


 背の高い男が間合いを詰めた。

 短剣が水平に走り、喉を狙った一撃。


 ガルドは腕で受けた。

 外套の下に革の腕当てを巻いている。


 刃が革を裂いたが、肉には届かなかった。

 そのまま短剣を握った腕ごと掴み、引き寄せ、額を打ちつけた。

 鈍い音がして、男が膝から崩れた。


 小柄な方が回り込んだ。

 背後から脇腹を刺そうと、ガルドの死角を突いた動き。


 だがガルドは振り返らなかった。

 振り返る代わりに、肘を後ろに打った。


 盲打ちだった。

 それが正確に小柄な男の胸に入ったのは、技術ではなく経験だった。


 小柄な男が吹き飛び、壁に背中を打ちつけた。

 まだ短剣を握り、立ち上がろうとしている。


 ガルドは初めて声を出した。


「……動くなよ」


 低い声。

 怒りではなかった。

 面倒だという声だった。


 その声に、立ち上がりかけた男の手が止まった。

 短剣を持ったまま動けなくなったのは、声に込められた質量のせいだった。


 ガルドは黙って小柄な男の手から短剣を取り上げた。

 そして自分の革の腕当ての裂け目に刃を差し込み、手首を捻った。

 乾いた音がして、短剣の刃が根元から折れた。

 武器を無力化する手際に、一言の説明もなかった。


 だが裏口が静まった分だけ、表の音が届いてきた。


 煙の匂い。

 怒号。

 そして走る足音。


 路地の反対側で、レイは壁に背をつけたまま、自分の店が燃える音を聞く。

 灯りを点けなかった夜、灰猫商会は初めて外から見えるほど明るくなっていた。


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