第17話「最後の灯り」
帳簿を最初に運び出すことにした。
3日目の昼。
灰猫商会の奥の部屋で、レイは帳簿の原本を油紙で包んでいた。
三重に巻いて、麻紐で縛る。
水にも火にも耐えるようにと、エルマが指定したやり方だった。
「そこの角が甘いですよ、旦那」
エルマが横から手を伸ばし、紐の結び目を直した。
帳簿番の指は迷わなかった。
10年間、帳簿を守ることだけで生きてきた女の指だ。
包み終えた帳簿をフェリクスの使いに渡す。
使いの男は何も訊かず、包みを外套の内側に入れて裏口から消えた。
次に、壁のオッズ表を剥がした。
レイが自分の手で剥がした。
最初の一枚に手をかける。
鋲を抜く指先に、力が要った。
二枚目からは要らなかった。
三枚目には何も感じなかった。
それが怖いと思った。
数字の羅列が書かれた紙が、壁から離れるたびに、白い四角い跡が残った。
日焼けしていない壁の色。
オッズ表がそこにあった痕跡。
レイは紙を丁寧に折り畳み、鞄に入れた。
数字は全て頭の中にある。
紙がなくても困らない。
だがそれでも折り畳んだ。
壁の隅に、一枚だけ残っている。
『ファルニエ諸国同盟の存続年数』
数字の入っていない白い紙片。
剥がす手が、そこだけ止まった。
鋲に手をかけた。
力を入れかけた。入れた力を、戻した。
残した。
理由を聞かれたら「壁が寂しいので」と答えるつもりだった。
嘘だ。だがその本当の理由を、レイは自分にも言えなかった。
それからカウンターの上を片付けた。
紅茶の缶。
砂糖壺。
匙が二本。
そしてエルマ用の大きなカップと、レイ用の小さなカップ。
レイは小さなカップを手に取った。
持ち上げて、少しだけ見た。
そして木箱の中に入れた。
「旦那。それも運びますか」
エルマの声に、レイは首を振った。
「……いえ。これは置いていきます」
木箱を棚の奥に押し込んだ。
持ち出せば、ここに戻るつもりがないように見える。
それをガルドやミラに見せるわけにはいかなかった。
午後、フェリクスの使いが帳簿の受領書を持って来た。
受領書の裏に、フェリクスの字で短い走り書きがあった。
『提案がある。灰猫の分析をゼノア外交筋の正式な情報源として登録できる。そうすれば灰猫商会はゼノアの外交資産の扱いになり、メルテンは手を出せなくなる。治外法権の傘の下だ。店を燃やす必要はなくなる。返事をくれ。F』
レイは走り書きを二度読んだ。
合理的な提案だった。
フェリクスの頭の良さが、一行ごとに見える。
レイは目を閉じて、三秒で二つの未来を並べた。
傘の下に入る未来。
店が残る。棚が残る。カウンターの脚が残る。紅茶のカップが残る。
誰も傷つかない。
断る未来。
……すべてが燃える。
三秒で並べ終わった。
答えは出ていた。
出ていたから、苦しかった。
店を失わずに済む。
人も傷つかない。
帳簿も壁も、紅茶のカップも残る。
だがその代わりに、灰猫商会は「ゼノアの目」になる。
オッズは灰猫の数字ではなく、ゼノア外交筋の数字になる。
壁の紙片は独立した窓ではなくなり、誰かの壁に嵌め込まれた窓になる。
白い紙片に書く数字を、自分の目で見る力を失う。
レイは受領書を裏返し、ペンを取った。
取って、置いた。
エルマの棚の並び順が見えた。
ガルドの不格好なカウンターの脚が見えた。
ミラが袖を捲って拭いた窓硝子が見えた。
ペンをもう一度取った。
指先が震えていた。
今夜初めて。
この夜で唯一。
帳簿を包む手は震えなかった。
壁の鋲を抜く手は震えなかった。
自分の店を燃やす準備は計算の内にあった。
だがこの一行を書くことは、計算の外にある。
紅茶のカップを持つ手は震えなかった。
油を塗る手も震えなかった。
ペンを持つ手だけが震えていた。
自分の言葉を書く手だけが、重さを知っていた。
『ありがたい提案です。ですがお断りします。灰猫の数字は灰猫のものです。傘の下で書いた数字は、傘の形に歪みます。レイ』
使いに渡した。
使いが去った後、レイはしばらく空の壁を見ていた。
白い四角い跡が並んでいる。
断った。
店を燃やさずに済む道を、自分の手で閉じた。
カウンターの修理費。
棚板の交換。
窓硝子。
扉の蝶番。
壁板の張り直し。
エルマなら三分で算出できる被害額を、レイは頭の中で足した。
その合計が、フェリクスの提案を受けていれば発生しなかった数字だった。
数字は嘘をつかない。
この判断のせいで、あの棚が燃える。
それでも、書いた。
灰猫の数字は灰猫のものだと。
深夜。準備の最後の夜。
レイは紅茶を淹れた。四杯目だった。
「旦那、今夜で何杯目ですか」
「四杯目です」
「必要な杯数は」
「……必要な杯数だけです」
「紅茶のオッズは?」
エルマの声は穏やかだった。
穏やかな声で、余計なことを聞いている。
「温かいうちに飲める確率は、今夜に限って言えば低いですね」
「じゃあ淹れ直す必要がなくなるまで、一杯を大事に飲んでください」
レイは一瞬だけ黙った。
「淹れ直す」が別のものに聞こえた。
「一杯を大事に」も別のものに聞こえた。
だが名前はつけなかった。
ゆっくりとカップを口に運んだ。
まだ温かかった。
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