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第16話「勝者の年齢」

「一つだけ聞いてもいいですか、ラマリンさん」

「どうぞ」

「この三つ目の書類。外交筋からの情報ですね」


 レイは答えなかった。

 代わりに、微笑んだ。


 クラウスが外套を整えた。


「この年齢でこれだけの盤面を組む人間を、私は初めて見ました」


 レイは深く頭を下げた。


「クラウスさん。条件をお持ちいただきましたが、お持ち帰りいただけますか」

「……ええ」


 クラウスが扉に向かった。

 だが敷居の手前で、足を止めた。


「残念ながら、次はもっと大きな相手が来ますよ。メルヴィス支店は小さな駒です。本社はこの街とは規模が違う」


 扉の取手に手をかけたまま、クラウスが振り返った。


「ただ私が去った後も、この街には私の下で動いていた人間が残ります。帳簿に載る人間ばかりではない。彼らが何をするかまでは、私には保証できません」

 一拍の間。


「あの仕切りの向こうの声を、忘れないでおきます」


 扉が閉まり、鈴が鳴った。

 鈴の音が消えた後、店には沈黙だけが残った。


 エルマが動かない。

 レイも動かなかった。


 カウンターの上に、三つの紅茶カップが置かれている。

 レイのは半分残っている。エルマのは手をつけていない。

 クラウスのだけが、空だった。


「……行きましたね」


 エルマが言った。


「ええ」


 レイは三枚の書類を揃え、帳簿の原本を手に取った。

 今日のうちにフェリクスのもとへ届ける。

 この帳簿が武器として使われるのは、これが最後だ。


 エルマがカップを三つ、盆に載せた。


 一つは自分の。

 一つはレイの。

 そして一つは、もういない客の。


「紅茶の飲み方でその人間が分かると、母が言っていました」

「クラウスさんはどうでしたか」

「一気に飲み干す人間は、勝負を受け入れた人間です。あの男は去りますが、去り方を選んでいます」


 レイはその言葉を、静かに受け取った。


***


 学院の商学科資料室。

 カティア・ヴァルトシュタインが、弟の隣に座った。


「ジュリアス。ちょっといい?」


 教科書を広げているように見えたが、その下に別の紙が挟まっている。


「何だよ。今から講義」

「これ、見て」


 カティアが紙を滑らせた。

 メルテン商会の取引記録の写し。


 商学科の授業で使う公開資料ではなかった。

 足で稼いだ数字だった。


「メルテン商会の帝国向け輸出品目。『加工済み鉄材・特殊合金棒』。年3回、定期便でフルスタ港に出ている」

「鉄材の輸出なんて珍しくないだろ」

「普通の鉄材はね。でもこの品目名、軍学科の子に聞いたら『特殊合金棒は剣や槍の芯材に使う規格だ』って言ってた」


 ジュリアスの手が止まった。


「……武器素材?」

「痕跡だけ。証拠じゃない」


 カティアの声は低かった。

 だがそこに笑顔はなかった。


「でも匂う。うちの国の商社が帝国に武器素材を流しているかもしれないって、けっこう大きな話だよ」


 ジュリアスは紙を見下ろしていた。

 メルテン商会はヴァルトシュタイン家の系列商社。

 つまり父の管轄の中にある。


「……親父に言うべきか」

「まだ早い」


 カティアが即座に言った。


「裏を取ってからにして。今これを持って行っても、メルテン側に否定されたら終わり。証拠を揃えてから動かないと、逆にこっちが潰される」


 ジュリアスはカティアの目を見る。

 姉の目は、まさに商人の目だった。

 だがその奥に、弟への心配が見える。


「……分かった。もう少し調べる」

「うん。私も商学科のルートで裏を取る。何か分かったら言うから」


 カティアが紙を回収し、教科書の下に戻した。

 ジュリアスは窓の外を見た。


 メルテン商会。

 灰猫商会の噂。

 レイの不在。

 帝国への武器素材。


 点が、少しずつ線になりかけている。


 日が暮れた。


 帳簿の原本は、まだここにある。

 明日、フェリクスに届ける。


 表のカウンターには、閉店後の静けさが降りている。

 ガルドが入口の脇に立ち、腕を組んでいた。

 ミラは裏口に控えている。


 エルマが帳簿の写しを閉じ、奥の部屋に来た。


「旦那、クラウスの最後の言葉ですが」

「ええ」

「『彼らが何をするかは保証できない』——あの男は、手を離すと言ったんです」

「ええ。あの人らしい去り方です」


 クラウスの最後の言葉は、警告であり、同時に引き金だった。


 レイは壁のオッズ表を見た。


 紙片の群れの端に、一枚だけ数字の入っていない紙片がある。

 合同実習用のオッズ表はまだ手を加えていない。


 隣に一枚の白い紙片。

「ファルニエ諸国同盟の存続年数」。

 二枚の紙が、並んで壁にある。


「クラウスさんは去ります。ですが、残された人間は帳簿で負けたことを知りません。知っているのは、面子を潰されたという事実だけです」

「面子を潰された人間は、最も安い手段で報復します」


「来るとすれば、夜です」

「ええ。そしてこの店に」


 レイが頷いた。


「ガルドさんとミラに伝えてください。明日から、夜は全員店の外に出ます。灰猫の中には誰もいない状態で、周囲を見張る」


 エルマは一つだけ確認した。


「帳簿の写しは?」

「持ち出してください。エルマさんの手元に」


 エルマの目が、壁のオッズ表から、カウンターへ、そして奥の部屋の棚へと動いた。

 この店に残るものが何で、残らないものが何か。

 帳簿番は、数えなくても分かっている。


「……了解しました」


 エルマが表に戻った。


 一人になった奥の部屋で、レイは壁に手を置いた。

 紙片の端が指に触れる。


 この壁の前で、何杯の紅茶を飲んだだろう。


 エルマが帳簿を閉じる音を聞きながら。

 ガルドの足音が扉の向こうに立つのを感じながら。

 ミラの無言の頷きを背中で受けながら。


 そのどれもが、ここで生まれた。

 この壁と、この扉と、このカウンターの中で。


 帳簿は写しがある。

 数字は頭の中にある。

 人はここにいる。


 なくなるのは、壁だけだ。

 壁だけのはずだった。


 紅茶を淹れた。

 カップを持ち上げる。


 この店で飲む紅茶が、あと何杯残っているか。

 レイはその計算を、途中でやめた。


***


 クラウス・メルテンは、馬車の中で帳簿を閉じた。


 閉じたのではない。

 閉じなければならなかった。


 もう数字が目に入らなくなっていた。


 灰猫商会を出てから二十分。

 馬車の窓の外に港の灯りが流れている。


 メルヴィスの港は入り江の奥にあり、波の音は届かない。

 届かないことを知っている。


 この街に赴任して三年になる。


 三年。

 メルテン商会メルヴィス支店を任されて三年。


 婿養子が支店を任されるということは、試されているということだ。

 本家の血ではない人間が結果を出せば認められる。

 出せなければ……戻る場所がない。


 帳簿を膝の上に置いた。

 灰猫商会の少年が突きつけた三枚の書類が、まだ目の裏に残っている。


 一枚目。自治法。営業妨害の認定要件。

 二枚目。顧客記録。時系列の一致。

 三枚目。経理報告の不整合。


 三枚目が致命的だった。


 本社への送金額と現地売上の不整合。

 あの数字を、あの少年は正確に指し示した。


 少年は知っていた。

 理由はわからない。


 だがあの少年は、誰にも見せてこなかった帳簿の真実にたどり着いたのだ。


 帳簿の原本は金庫の中だ。

 副本は本家にしかない。

 支店の人間でさえ、送金額の内訳を知る者は自分を含めて二人しかいない。


 外から辿れる経路はないはずだった。

 ないはずの場所に、あの少年は立っていた。


 クラウスは窓の外を見た。

 港の灯りが一つずつ通り過ぎていく。


 営業停止は、おそらく避けられない。

 条文を盾にされた以上、行政手続きの土俵では覆せない。


 本家には報告しなければならない。

 報告すれば査定に傷はつく。

 だが営業停止だけなら「現地の行政対応に不備があった」で収められる。


 婿養子の体面は傷つくが、致命傷ではない。

 致命傷は別の場所にある。


 あの三枚目だ。

 送金額の不整合。


 あれは営業妨害とは無関係の数字だ。

 あの数字が示しているのは……本家への上納の外で、支店の裁量を超えて動かしていた金の存在だ。


 営業停止は行政処分だ。

 だが送金の不整合は背任だ。

 処分と背任では、本家の受け取り方が根本から違う。


 あの少年は今日、三枚目を条件として使っただけで、外には出さなかった。

 だがあの数字は、灰猫の帳簿のどこかに残っている。

 あの少年の頭の中にも残っている。


 灰猫商会が営業を続ける限り、あの数字がいつ、誰の手に渡るかは分からない。


 商人は情報を蓄える。

 蓄えた情報は、使える時が来れば使う。

 来なければ永遠に寝かせる。

 だがいつ使われるか分からない情報が、敵の手の中にある。


 営業停止は甘んじて受ける。

 だが灰猫を残したまま去れば、背任の数字が時限装置として残る。


 本家の査察が入った時、行政の再調査が走った時、あるいは灰猫が別の取引先にあの数字を見せた時……いつ爆発するか分からない装置を、メルヴィスの路地裏に置いたまま本国に帰ることになる。


 帰れない。

 あれを残したままでは。


 取引先に見せる帳簿と、本家に見せる帳簿。

 どちらにも書けない事態が起きた時、商人は三冊目の帳簿を開く。

 三冊目の帳簿には数字が載らない。


 クラウスは馬車の窓を閉めた。

 外の灯りが消えた。


 帳簿を鞄にしまった。

 鞄の底に、もう一通の封筒があった。

 赴任した年に本家から渡されたもの。「万が一の時に使え」と。


 封筒の中身は人の名前だった。

 商人ではない人間の名前。


 メルヴィスで「仕事」を請け負う人間の名前。

 三年間、開かなかった。

 開く必要がなかった。


 今夜、封筒を開いた。


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