第15話「帳簿で殺す」
五日目の朝だった。
偽帳簿を流してから、ちょうど五日。
「旦那、来ました」
エルマの声がいつもより半拍速い。
前回は半拍遅かった。
同じ男の来訪だが、今回は予定通りだ。
「こんにちは。お久しぶりです」
穏やかな声。
低く、柔らかく、よく通る。
何千回と人に挨拶してきた声。
だが前回とは、何かが違った。
笑顔の下に、力が入っている。
「クラウス様、お久しぶりです」
エルマが応じた。
今日は待っていた側だ。声が、それを知っていた。
「今日は少し、具体的な話をしに参りました」
クラウスが椅子に座った。
前回と同じ穏やかな笑顔だが、目の奥は笑っていなかった。
「灰猫商会さんの経営状況が、少し心配でして」
エルマは答えなかった。
「客足がずいぶん減っているようですね。帳簿をお持ちでしたら拝見させて頂けませんか。経営の相談に乗れるかもしれません」
そう口にして、ちらりと偽帳簿に視線を向ける。
おそらくルッツが報告し、クラウスは「瀕死」と判断したのだろう。
「ご心配はありがたいのですが、経営状況は当方の内部事項ですので」
「そうですか」
クラウスは初めて笑みを消した。
前回の訪問では、最後まで笑顔を崩さなかった男がだ。
「では率直に申し上げます」
声の温度が変わった。
穏やかさは残っている。
だがその穏やかさの底に、鋼が見えた。
「灰猫商会の売上の7割を、メルテン商会への上納とする。これは提携ではなく条件です。お受けいただけない場合は、店を閉じていただく」
エルマの指が帳簿の上で止まった。
カウンターの上の空気が、一段冷えた。
「……ずいぶんと率直になりましたね」
「前回は名刺をお渡しした。今回は条件をお持ちした。次に来る時は、何も持ちませんよ」
穏やかな脅迫だった。
仕切りの向こうで、レイは立ち上がった。
「エルマさん」
声を通した。
前回と同じ声。
仕切りの向こうからの、若い声。
「お客様に、お茶を」
「いえ、結構です。お返事だけで——」
「お茶を。お時間は取らせません」
仕切りが開き、レイが表に出た。
クラウスの目が、レイを捉える。
一瞬の沈黙。
「……若いな」
クラウスの声が、微かに変わった。
「本当に、若い」
声で推測していたのだろう。
だが実際に見て、その推測が甘かったと悟った顔をしていた。
「レイ・ラマリンと申します。灰猫商会の分析担当です」
「クラウス・メルテン。お声は覚えています」
クラウスが椅子に座り直し、姿勢を正す。
「前回は失礼しました。仕切りの向こうから声だけでは、さすがに不躾でしたので」
「いえ、お声だけで十分でしたよ。だからこそ、今日は顔を見せていただけると期待していました」
エルマが紅茶を運んできた。
三人分。左手で盆を持ち、右手でカップを並べる。帳簿を書く手は常に右だが、物を運ぶ手はいつも左だった。
メルヴィスの南の平地で摘んだ安い茶葉。一袋三十ディナール。だが淹れ方だけは丁寧だ。
レイは自分のカップには触れず、カウンターの下から三つの書類を取り出した。
「クラウスさん。お見せしたいものは三つあります」
「どうぞ」
クラウスは紅茶をひと口飲んだ。
余裕の所作。
だが目はレイの手元を離れなかった。
「一つ目」
レイが最初の書類を広げた。
「メルヴィス自治法第14条。自治管理局に登記された商会に対する営業妨害は、加害者の営業許可の停止事由に該当します。妨害の認定要件は三つ。取引先への圧力による顧客排除、虚偽の風説の流布、物理的威嚇。うち二つが、メルテン商会の行為と一致しています」
クラウスの表情は動かなかった。
「二つ目」
レイがエルマの帳簿を開いた。
偽物ではない。本物の顧客記録だ。
今朝フェリクスに預けるはずだった原本を、この一戦のために手元に残してある。
「灰猫商会の帳簿です。過去3週間の顧客記録。来なくなった客の名前と、その客がメルテン商会から仕事を受けている事実。時系列が完全に一致しています。ヴェルナー、ギュンター、アルベルト、全員、メルテンとの取引がある人間です」
クラウスの指が、紅茶のカップの上で止まった。
「三つ目」
レイの指先が、三枚目の書類の端で一度だけ止まった。
この書類の数字は、精度七割だ。
残りの三割は、推測で埋めている。
だがクラウスが自分の帳簿の穴を知っているかどうかは問題ではない。
確実ではないことをクラウスが確かめようとするかどうか。
商人は、知らない数字を突きつけられた時、嘘だと切り捨てるか、真偽を確かめようとするかの二択を選ぶ。
クラウスは確かめる側の人間だ。
確かめようとする瞬間に表情が動く。
表情が動いた時点で、七割の数字は「否定されなかった数字」に格上げされる。
帳簿の勝負ではない。
表情の勝負だ。
「メルテン商会メルヴィス支店の経理報告に、本社への送金額と現地の売上の間に不整合があります。差額は年間で約4000ディナール。これはメルヴィス支店の裁量で動かせる金額を超えています」
レイが最後の書類を置くと、クラウスの目が数字の上を走った。
左から右へ。
一度戻った。
戻った。
嘘だと思う人間は、読み直さない。
だが読み直した。
つまりこの数字に覚えがある。
七割の数字が、今この瞬間、十割になった。
クラウスの笑顔が、完全に消えた。
「……どこで手に入れた」
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、いつだって数字を書く人間です」
声は穏やかだった。
レイは三枚の書類をカウンターの上に並べたまま、紅茶のカップを持ち上げた。
ひと口飲んだ。
まだ温かい。
この分析の過程で、一つだけ腑に落ちなかったことがある。
メルテン支店の仕入れ伝票を照合した時、取引先の一つに下一桁を切り捨てた伝票が紛れていた。
エルマが以前見つけたものと同じ種類の不整合だ。
あの時は一件で、点にしかならなかった。
今回で三件になった。
三つの点は全て同じ処理……下一桁の切り捨て。
メルテンの書式ではない。
同盟圏の標準でもない。
帳簿の角に「切り捨て・保留」と書き足した。
エルマが折った角の隣に、もう一つ折り目が増えた。
「クラウスさん。提携ではなく上納を求めた。つまりオッズそのものが欲しい。あなたが灰猫を横目にして内々で試みたブックメイカーは、散々な結果だったのでしょう」
そこまで口にして、レイはクラウスに微笑みかけた。
「ですが、この三つの書類が自治管理局に届けば、メルテン商会メルヴィス支店の営業許可が停止される。つまり面子どころではなくなりますね」
クラウスは書類を見下ろしていた。
長い沈黙があった。
「……お見事です」
声は穏やかだった。
だがその穏やかさの中に、初めて苦味が混じっていた。
「だが商人は帳簿では死にませんよ」
「ええ、死にません」
レイの声も穏やかだった。
「ただ営業許可が停止されるだけです」
クラウスが立ち上がった。
紅茶のカップは空になっていた。
一気に飲み干した。
商人の作法だった。
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