第14話「門前の芝居」
翌日の午後。
ミラが先に動いた。
外套の留め金に手を触れ、一度確かめてから身を翻す。
朝凪の家の周囲を一巡し、偵察員の位置を確認する。
「南西。塀沿いの木の影。昨日と同じ男」
ミラの報告は短かった。
塀の外に、目がある。
つまりメルテンの偵察員は、まだ朝凪を監視している。
好都合だった。
見ていてもらわなければ芝居にならない。
レイは朝凪の門に向かって歩いた。
子供たちは昼食の時間で建物の中にいる。
庭に人影はない。
門の前に、ヴォルフが立っていた。
腕を組んでいる。
いつもの穏やかな顔ではなかった。
演技ではなく、本気で腹が立っている顔だった。
レイは心の中で頭を下げた。
木の影に人の気配がある。
ミラが確認済みの位置。
偵察員の視界に入る距離。
「約束が違うだろう」
ヴォルフの声が響いた。
大きすぎず、小さすぎず。
門前で口論する人間の、自然な音量。
「毎月届けると言っていたじゃないか」
レイは振り返らなかった。
振り返ったら演技が崩れる。
そう思った。
だが本当は、ヴォルフの顔を見たくなかったのだ。
「申し訳ありません。ですが、もう余裕がないんです」
嘘だ。
嘘だが、声に混じった震えだけは嘘ではなかった。
「あの子たちを見捨てるのか!」
ヴォルフの声が大きくなった。
塀の向こうから子供たちの笑い声がくぐもって聞こえている。
その笑い声と、ヴォルフの怒声が重なった。
レイは一瞬だけ足を止めた。
「……見捨てるのではありません。優先順位の問題です」
そう言って、歩き去った。
背中にヴォルフの大きな溜め息が聞こえた。
角を曲がった。
門の前が見えなくなった瞬間、レイの足が止まった。
ミラが半歩後ろにいた。
「……見てましたか?」
「うん」
「演技、下手でしたか」
「知らない。でも」
ミラの声が少し低くなった。
「旦那の足、震えてた」
レイは答えなかった。
答える代わりに、歩き出した。
二歩目からは、もう震えていなかった。
翌朝。
朝凪の家の門に、一枚の貼り紙が出された。
『当院への寄付を募集しております。ご支援いただける方は、院長ヴォルフまでお声がけください』
素朴な字。
ヴォルフが自分で書いたのだろう。
匿名の支援者が離れたことを、外部に静かに告げる貼り紙だった。
同じ日の夕方、足の者が港の酒場で噂を流した。
「灰猫商会が経営難で朝凪の家への寄付を打ち切ったらしい』
噂。
物証。
目撃。
三つの層が揃った。
メルテンの偵察員は噂を聞くだろう。
そして朝凪の門の貼り紙を見るだろう。
さらにあの門前の口論を、自分の目で見ている。
裏を取ったつもりになる。
なにより彼らの手元にある灰猫の帳簿は、もはや寄付を続けることが困難であることをこの上なく物語っていた。
自分で見つけた結論は、人から聞いた結論よりも強く信じる。
それが人間の性質だ。
メルテンの人間にとって、殴る価値があるのは灰猫だけになった。
朝凪を殴っても、もう灰猫は痛がらないと、彼らは確信する。
金の切れ目が縁の切れ目。
結果、15%を0%にした。
そして全ての駒を灰猫に集めた。
「帳簿の写しは終わりました。原本は明日の朝、フェリクスさんに届けます」
エルマが帳簿を閉じながら言った。
「お願いします」
レイは紅茶を淹れた。
カップを持ち上げる。
まだ温かい。
偽帳簿は届いた。
帳簿の原本は明日退避する。
噂と物証と目撃で、朝凪への道は塞いだ。
この店の中身は、もうすぐ空になる。
あとは、向こうが動くのを、待つだけだった。
***
学院の留学生棟、フェリクス・ゼノアの部屋。
治外法権の部屋は静かだった。
誰も入ってこない。
誰もノックしない。
それは安全を意味するが、安全はいつも孤独の別名だった。
フェリクスは机の上を見た。
明日の朝、レイの使いが灰猫商会の帳簿原本を届けてくる。
今この机の上にあるのは、先日受け取った三国合議の予測の紙だけだ。
だが明日にはこの机の上に、灰猫商会の全てが載る。
すでに準備はしてある。
机の右端に、ゼノアの古典書を三冊積んである。
帳簿が届いたらその下に重ねる。
万が一部屋に誰かが入っても、属国の王子が古典書を読んでいるとしか見えない。
隠す技術は、人質の生存技術だ。
灰猫に初めて行ったのは、メルテン商会の貼り紙を見た翌日だった。
帝国の商社がゼノアにも同じ手口を使ったことがある。
あの貼り紙を見た瞬間に、既視感が走った。
同じ構造の中で戦っている人間がいるかもしれない。
それが最初の理由だった。
本を開いた。
今日もページは進まなかった。
だが今日は、ページが動かない理由が少し違った。
誰かの大事なものが、明日ここに届く。
自分の部屋に、自分以外の人間の痕跡が増える。
ゼノア本国への書簡便は明後日だ。
レイから受け取った予測は、既に書簡の中に組み込んである。
本国の穀物担当官が半年かけて出す予測より、正確かもしれない数字が。
人質が本国に送れるのは情報だけだ。
そして情報の質が上がれば、人質の価値も上がる。
価値が上がれば、少なくとも、忘れられることはない。
それは生存戦略だ。
あの小さな店の壁に、世界の輪郭が数字で貼られている。
自分には見えない窓を持つ人間が、この街にいる。
その窓が自分の部屋にもう一つ開く。
それだけで……治外法権の部屋の温度が少し変わった気がした。
次回、明日21時更新です




