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第13話「朝凪の塀」

 翌日、レイはメルヴィスの郊外に向かった。

 あの手紙以来、まだ自分の目で確認していない。


 下町の路地を抜け、運河沿いの道を東に歩く。

 石畳が土に変わり、建物の間隔が広がっていくと、畑の向こうに低い塀に囲まれた古い建物が見えた。


 朝凪の家。

 門をくぐると、庭先で遊んでいた子供たちが顔を上げた。


「先生!」


 最初に駆け寄ってきたのは、膝小僧に擦り傷のある男の子だった。

 トビアス。

 朝凪の家で一番年上の子供で、一番よく転ぶ子供だった。


「先生、今日は何の話してくれるの?」

「今日は話じゃなくて、届け物です」


 レイは外套の内側から封筒を取り出した。

 今月の寄付。

 帳簿上は匿名だが、届けるのはいつもレイ自身だ。


「なんだ、つまんないの」


 トビアスが頬を膨らませた。

 その後ろから、もう二人、三人と子供たちが集まってくる。


「先生、前に教えてくれた星の話の続きは?」

「航海士が使う星の読み方のやつかな。あれは長いから、今度ゆっくり来た時に」

「本当? 本当に来てくれる?」


 トビアスはいつもそうだった。

 約束には必ず「本当?」と確認する。


「はい、約束です」


 レイは少し屈んで、トビアスの頭に手を置き、軽く撫でた。

 慣れた手つきではなかったが、拒まれてもいなかった。


「先生、お茶飲む?」


 年下の女の子が、両手でカップを差し出していた。

 中身は紅茶だった。


 色が薄い。

 茶葉の量が明らかに足りない。

 淹れ方も雑で、温度も湯の量も適切とは言い難い。


 レイはカップを受け取った。

 ひと口飲んだ。


 温かかった。


 計算が止まった。

 止めたのではない。

 止まった。


 頭の中でいつも回っている数字の歯車が、一瞬だけ空回りした。


「……ありがとうございます」

「おいしい?」

「ええ。温かいです」


 飲み干すまで、計算をしなかった。


「先生、いつもお茶の文句ばっかり言ってるって聞いたけど」

「……誰に聞きましたか」

「ミラ姉ちゃん」


 レイは小さく苦笑した。

 カップを両手で持ったまま、庭先に立っていた。


「おう、来たか」


 建物の入口から、大柄な男が出てきた。


 白髪。

 日に焼けた肌。

 穏やかな目。


 だが肩幅と背筋のつくりは、穏やかな老人のそれではなかった。


 ヴォルフ。

 朝凪の家の院長。


「いつもすまんな。この子たちも喜んでる」

「いえ……それよりヴォルフさん、少し二人で話せますか」


 ヴォルフの目が変わった。

 封筒を受け取る手はいつも通りだったが、子供たちの前で見せる穏やかさが一段引いて、凄みを感じさせる目が覗いた。


「裏だ。来い」


 建物の裏手。

 洗濯物が風に揺れている。

 子供たちの声が壁越しにくぐもって聞こえる。


 庭の隅で、ミラが子供の相手をしていた。

 小さな女の子がミラの外套の裾を引っ張っている。


 ミラは身じろぎしなかった。

 だがその口元は、かすかに緩んでいた。

 短刀を拭く手が、子供の手を取っている。


 レイはそれを一瞬だけ見て、目を戻した。


 手短に事情を説明した。

 ヴォルフは黙って聞いていた。

 腕を組み、一度も口を挟まなかった。


「……それでどうしたい」

「二つ、お願いがあります」


 レイは指を一本立てた。


「一つ目。門に『寄付者募集』の貼り紙を出してください。匿名の支援者が離れたように見せるためです」

「……芝居か」


「はい。そしてもう一つ。明日の午後、門の前で僕と口論のふりをしていただきたい」


 ヴォルフは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。

 洗濯物が風に鳴っている。


「子供たちには見せるのか」

「いいえ。門の外でやります。子供たちが庭にいない時間を選びます」


 レイの言葉にヴォルフは口を閉じたままだった。


「ヴォルフさん、お願いします。あの子たちに手が届かないようにするために必要なことです」


 ヴォルフが腕を解いた。

 大きな手で顎を撫で、息を一つ吐いた。


「お前を信じるんじゃない」

 低い声だった。


「あの子たちの安全を信じるんだ。間違えるなよ、小僧」

「……はい」


 ヴォルフは腕を組み直し、建物の方を一瞥した。

 その目は、門から裏口までの距離を測り、子供たちの避難動線を頭の中で引いている目だった。


 この男が孤児院を守っている。

 その事実が、門前の芝居よりもずっと確かな防壁だった。


「しかしだ、もしかしたらこっちに本当に寄付者が来るかもしれんぞ」

「それはそれで、ありがたいことです」


 ヴォルフが鼻を鳴らした。

 笑ったのかもしれない。


 帰り道、運河沿いの土道をミラと並んで歩いた。


 灰猫商会に戻ると、エルマが待っていた。

 今の彼女は帳簿番の顔をしていなかった。


 カウンターの上に、紅茶のカップが一つ置かれていた。

 エルマが淹れたものだ。左手でカップを置いた痕跡がある。取っ手が左向きだった。

 この店でレイ以外が紅茶を淹れたのは、初めてのこと。


 何も言わずにひと口飲んだ。

 温かかった。


「旦那、一つ報告があります」

「朝凪の家ですか?」


 エルマが迷わず頷く。


「朝凪の家の周囲で見慣れない男が一人、午前中から夕方まで、塀の向かいの木の下にいたそうです。足の情報ですので、間違いないでしょう」


 レイは外套を椅子にかけ、奥の部屋に入った。

 壁のオッズ表を見た。


 この紙片の一枚一枚に、何時間をかけたか覚えている。


 だがあの塀の向こうには、星の話の続きを待っている子供がいる。

 どちらが重いかは、数字にするまでもない。


「偵察は灰猫だけでなく、朝凪にも及んでいます。ですが、だからこそ灰猫で決着をつけます」


 エルマが小さく息を吐いた。

 だが決着をつける前に、一つ片づけなければならない問題があった。


 灰猫を殴らせることはできる。

 だが15%の確率で、拳は朝凪に向かう。

 この15%を消さなければ、罠は完成しない。


 レイは机の上に紙を一枚だけ広げた。

 白紙だった。

 しばらくそれを見つめてから、ペンを取った。


 何かを三行だけ書き、すぐに紙を裏返した。


「エルマさん」

 エルマが顔を上げた。


「明日の午後、朝凪の家の近くにいてください。門の外で構いません」


「……何をするんですか」

「帳簿番には帳簿の仕事を。それ以外は僕がやります」


 エルマの目が細くなった。

 意味を問い返す代わりに、別のことを聞いた。


「朝凪の子供たちは?」

「建物の中にいる時間を選びます」


 それだけで、エルマの表情が変わった。

 だがその先は、旦那が語るまで聞かない。


「帳簿番として一つだけ言わせてください」

「どうぞ」

「何をなさるにせよ、嵐の後に朝凪には行ってくださいね」


 レイは答えなかった。

 だから彼女は続けた。


「帳簿番として記録しておきます。『旦那は嵐の後に朝凪に行く』と」

「……それは帳簿に書く内容ですか」

「帳簿には事実を書くものです。約束も事実のうちですよ、旦那」


 明日、あの門の前で芝居を打つ。

 見届ける目は、すでに塀の外にあった。


次回、明日21時更新です

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