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第12話「書架の約束」

「頼みたいことがあります」


 レイは挨拶を省いた。


「珍しいね、単刀直入だ」

「帳簿の原本を預かってくださいませんか。数日だけでよいので、安全な場所に」


 フェリクスが本を閉じた。

 背表紙を指で叩きながら、レイの目を見た。


「それは灰猫の帳簿番が了承した上での話?」

「帳簿番は写しを作っています」

「……つまり原本を手放してでも守りたいものがあると」

「あくまで移すだけです。数字は場所を選びませんから」


 フェリクスが小さく笑った。


「……本当にそう思ってる?」


 レイは答えなかった。


「人質の部屋は治外法権に近い。誰も調べに来ないし、来たところで外交問題になる。だから……明日持ってきて」

 フェリクスがベンチから立ち上がった。


「お代は情報で。帝国の秋の穀物予測、灰猫のオッズで見るとどうなってる?」


 レイは一拍だけ間を置いた。

 それから外套の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。


「来週と言うつもりでしたが、預かり物の対価が後払いでは筋が通りません」


 フェリクスの目が変わった。


「三国合議の次回議決は否決です。確率は94%。これが動くと南方の港の穀物相場が連動する。帝国の備蓄計画に影響が出るのは早ければ来月……この数字はゼノア本国への書簡に使えるはずです」


 フェリクスは紙を受け取った。

 開いて、数字を見た。

 目が細くなった。


「……本国の穀物担当官が半年かけて出す予測より、正確かもしれない」

「お世辞は結構ですよ。数字が外れたらただの紙切れです」

「人質が本国に送れるのは情報だけだから。紙切れでも、ありがたい」


 フェリクスの声は軽かった。

 だがその軽さの下に、紙を握る指の力があった。


「楽しみにしてる……というより、助かるよ」

 フェリクスが立ち上がりかけて、ふと足を止めた。


「もう一つ。対価に追加だ。メルテンの本社送金の規模感なら……ここで伝えられる」

 フェリクスの目が、穏やかなまま鋭くなった。


「メルヴィス支店の申告売上に対して、本社への送金が明らかに多い。差額は四桁。年に三回。定期便に合わせている」


 レイは黙ってフェリクスの言葉を頭に入れた。

 確実な数字ではない。だが輪郭は掴めた。


「……ありがとうございます。預かり物の対価には十分すぎます」

「人質が出せるのは情報だけだからね。使い方は君に任せるよ」


 その日の午後、灰猫商会の壁に新しいオッズ表が貼り出された。


『メルヴィス学院合同実習チーム別優勝オッズ』


 Aチーム——1.8倍

 Bチーム——3.5倍

 Cチーム——5.2倍

 Dチーム——7.0倍

 Eチーム——12倍

 Fチーム——28倍

 Gチーム——15倍

 Hチーム——22倍


 Aチームが1.8倍。自分のFチームが28倍。


 正確な数字だ。

 灰猫のオッズメイカーが、学生レイ・ラマリンとして動く限りにおいては。


 オッズ表を貼り出してから1時間で、最初の客が来た。

 学院の学生だった。


「合同実習のオッズ、これマジ? ディートハルト1.8倍って安すぎない?」

「過去3回の合同実習の結果と、チーム構成から算出しています」


 エルマが対応した。


「へえ……じゃあ穴狙いで。Cチームに100ディナール」


 2時間後、3人目の学生が来た。

 3時間後、8人目。


 閉店時間には、その日だけで新規客が14人。

 メルテンの圧力で失った客を、1日で上回った。


 もっとも学生が中心だから、一人あたりの額は小さい。

 それでも店が賑わいだしているように見せるには十分だった。


「旦那、目立ちすぎです」

 エルマが帳簿を閉じた。


「ええ、目立つのは嫌いです。でも今は必要ですので」

 レイは奥の部屋からオッズ表を見ていた。


 壁に貼られた数字の羅列。

 その中に、自分のチームの28倍という数字がある。


 オッズを作る側が、賭けの対象の中にいる。

 このオッズはあくまで「灰猫のオッズメイカー」が算出した客観的数字だ。

 だがオッズメイカー自身がその結果に関与できる立場にいることを、数字はまだ織り込んでいない。


 織り込まない。

 それでいい。


 ルッツが帰ったのは、学生客が増え始める前だった。

 偽帳簿をカウンターに置いた状態で来店し、エルマの報告によれば、帰り際に表紙の隙間をちらりと見ていったという。


「安心した顔をしていました。灰猫が弱っていると確信した顔です」


 レイは頷いた。

 餌は撒いた。


 あとはいつ喰いつくか。

 だがまだ足りないものがある。


 突きつけるべき書類は三枚。

 一枚目の自治法は確認済みだ。

 二枚目の顧客記録はエルマの帳簿にある。


 だが三枚目……メルテン支店の経理の不整合を示す数字が、まだ完成していない。


 足の報告で便数だけは分かっていた。

 通関記録から拾った月次の入出荷便数と、公開されている売上報告の間に不自然な差がある。


 だが金額の裏は取れていない。

 帳簿の穴の輪郭は見えている。

 あとはその穴を証言で埋める最後のひと手間が要る。


 フェリクスの外交筋には、断片的な情報はある。

 だが裏を取るには、現場の声が必要だった。


 エルマが帳簿を閉じた手で、卓を軽く叩く。


「旦那、一つ拾いものがあります。足の者が港で聞いてきた話ですが、メルテンの荷役を請けている連中の中に、最近やたら愚痴をこぼしている男がいるそうです。古株の荷役頭で、赤毛の大男。名前までは取れていませんが、毎晩、港の〈錨亭〉で飲んでいると」

「愚痴の中身は?」

「便が増えているのに、帳簿上の荷量が減っている。そういう趣旨だそうです。仲間うちで何度か口にしているとか」


 レイの指が止まった。


 帳簿の穴の輪郭は、通関記録で見えている。

 だが輪郭と証言は違う。

 数字の不整合を「おかしい」と感じている人間が現場にいるならば、その声が三枚目の裏付けになる。


 ただしその男が自分から灰猫に情報を売りに来ることはない。

 愚痴は愚痴であって、告発ではないのだ。

 酒場で仲間に漏らす程度の不満を使える証言に変えるには、こちらから糸を引く必要がある。


 レイは外套を羽織った。


「ミラ、今夜は僕が出ます」


 ミラが窓際から振り返った。

 表情のない目が、一瞬だけ動いた。


「ついていく」

「いいえ。学院の学生が港の酒場に入るだけです。護衛がいたら目立つ」

「……だけど」

「もちろん外にはいてください。何かあった時のために」


 ミラは頷かなかった。

 だが否定もしなかった。


 夜の港。

 潮の匂いと酒の匂いが混じる一帯に、灰猫商会から歩いて四半刻。

 レイは外套のフードを上げず、学院の制服の上着だけで酒場の扉を押す。


 〈錨亭〉の中は煙草の煙と油の匂いで澱んでいた。

 港の酒場は三軒並んでいるが、ここが一番古く、一番安い。

 常連が多い店だ。


 カウンターに座った。

 もちろん酒は頼まなかった。


「温かいものを一杯」

「学生さん? こんな時間に珍しいね」

 店主が怪訝な顔をしたが、金を置けば追い出しはしない。


 店内を見渡した。


 隅のテーブルに四人。

 手前の席に二人。

 カウンターの端に一人。


 赤毛の大男は、隅のテーブルにいた。

 杯はすでに三つ目に見える。

 声が大きく、笑い方に荒さがある。


 周囲の男たちも同じ格好。

 そう、荷役の作業着だ。


 レイはカップを手に、隅のテーブルの隣へ移った。

 空いている席に腰を下ろす。

 距離にして腕二本分。


 男たちの会話は、船の遅れと明日の積荷の話だった。

 仕事の話を酒で流している。

 まだ核心には遠い。


 レイは店主に声をかけた。

 隣のテーブルに聞こえる程度の声で。


「すみません、メルテン商会の荷受けの仕事って、ここで人を募ることはありますか。学院の休みの間だけでも」


 店主が首を傾げた。


「さあ、うちは酒を出すだけだからね。もしやりたいならそこの連中に聞いてみたら?」

 その言葉を受けて、赤毛の男がこちらを見た。


「学生が荷役? やめとけ。腰壊すぞ」


 笑いが起きた。

 だがレイは笑わなかった。


「最近便数が増えていると聞いたので。港で荷を見ていれば分かりますよ」

 赤毛の男の笑いが消えた。


「まあな。便は増えてる。だがよ——」


 男は杯を傾けた。

 そこで言葉が途切れた。


 酒の勢いで口が滑りかけたことに、自分で気づいたのかもしれない。


「便が増えているなら、その分稼げるんですか」


 荷役の仕事を探している学生が、賃金を気にする。

 それだけの問いだ。

 だからこそ赤毛の男の顔に、苦い笑いが浮かんだ。


「それがよ、稼げるなら文句はねえんだ」

 男は四杯目の杯を手で呼んだ。


「荷が増えてんのに、帳簿上は売上が減ってるってんだ。あの支店長が来てからだぜ。仕事は増える、だが金払いは良くならねえ。帳簿上は減ってるからって、ふざけた話だろうが」


 隣の男が杯を鳴らした。


「まあいいさ。俺たちは運ぶだけだ。中身は知らん。知らねえほうがいい」


 笑いが起きた。

 だがその笑いには、最初の陽気さがなかった。


 荷が増えて売上が減る。

 帳簿上の数字だけが縮む。

 通関記録で見えていた輪郭に、現場の声が重なった。


 レイは杯を空にして立ち上がった。


「ありがとうございます。荷役の件、少し考え直してみます」

「そうしろそうしろ。兄ちゃんには向かねえよ」


 男たちの笑い声を背に、金をカウンターに置き、扉を押した。


 夜風が顔に当たった。

 路地の影に人の気配はない。


 だがレイには分かっていた。

 三軒先の角の暗がりに、ミラがいる。


 酒場を出て二十歩。

 ミラが音もなく横に並んだ。


「無事?」

「ええ」

「……旦那、酒臭い」

「飲んでいません」


 ミラは何も言わなかった。

 だが半歩後ろに戻る前に、一瞬だけレイの顔を見た。


 灰猫商会に戻ると、すぐにメモを取った。


 荷の便数と本社送金額の不一致。

 現場の荷役の証言。

 三枚目の書類が、完成した。


 道具は三つ揃った。

 あとは、いつ使うかだ。


次回、明日21時更新です

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