第11話「偽りの帳簿」
「エルマさん、例の帳簿は?」
エルマが帳簿の間から薄い一冊を引き出した。
「あの時から数字を更新しました。ただ現実の売上が下がった分、嘘の数字との差が縮まってます」
レイは帳簿を受け取り、ページをめくった。
「……皮肉ですね。本当に苦しくなったおかげで、嘘がうまくなる」
「帳簿とはそういうものです」
エルマの声には、微かな苦味があった。
偽帳簿と本物の帳簿を、エルマは机の上に並べる。
嘘の数字を書く時だけ、エルマの鉛筆は少し強く紙を押す。
そして持ち方が変わっていた。
帳簿番の持ち方ではなく、もっと古い持ち方に。
レイはそれに気づいていたが、聞いたことはなかった。
「帳簿番は嘘を見ます。この嘘が誰を守るためのものか。それだけ見ます」
確認だった。
レイは紅茶のカップに手を伸ばしかけ、一度止めた。
「……守るための嘘です」
エルマはそれ以上何も言わなかった。
二冊の帳簿を揃え、偽帳簿を手前に置いた。
帳簿番の目に戻っている。
「で、流し方は?」
「今日の客の中に、メルテンと繋がりのある人間が一人います。港の仲買商のルッツ。先週まで来なくなっていたのに、昨日突然戻ってきた」
「偵察ですね」
「ほぼ確実に。来なくなった客が一人だけ戻るのは不自然です。メルテン側が灰猫の状況を確認するために送り込んだ目でしょう」
レイは偽帳簿を指先で軽く叩いた。
「ルッツが来た時に、この帳簿をカウンターの上に置いておいてください。閉じた状態で。表紙の角が少しだけ浮いている程度で」
「覗かせるんですね」
「覗いたのは向こうの判断です」
エルマが紅茶を淹れてきた。
それを前に、レイは続ける。
「嘘をつく時は、相手に嘘を信じる理由を自分で見つけさせるのが一番です」
「旦那がそういう顔をする時は、碌なことを考えていませんね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
レイは帳簿をエルマに返した。
「これでメルテンは、灰猫が瀕死だと判断します。瀕死の相手なら反撃の余力がない。潰すなら今だと考える」
「クラウス・メルテンがこのまま引き下がる人間だとは思えません」
「ええ。帳簿で負けた商人には二つしか残りません。負けを認めるか、帳簿ごと消しに来るか」
レイの目は、手つかずのカップの向こうを見ていた。
「暴力のオッズは、いつも低い。つまり起きやすい。残った問題はどこに来るかです」
エルマが帳簿を閉じかけた手を止めた。
「旦那。それで……来た場合の話ですが」
レイは紅茶のカップを置いた。
「エルマさん、帳簿の写しを作ってください……全ページ欠けることなく。原本は別の場所に移します」
エルマの目が細くなった。
「……この店を、空にするんですか」
「空にするのではなく、中身を移すだけです。灰猫商会は帳簿と数字ですから。壁と扉ではない」
エルマは反論しなかった。
ただ帳簿番の目で、旦那の顔を見ていた。
「写しが終わり次第、原本はフェリクスさん経由で安全な場所に預けます」
「フェリクスさんというのは、確か留学生の?」
「ええ。人質は預かり物の扱いに慣れていますから」
エルマは短く頷き、帳簿を開いた。
写しの作業に入る前に、一言だけ。
「壁のオッズ表は?」
レイは壁を見た。
紙片が隙間なく並んでいる。
三国合議のオッズ。
港の穀物相場。
季節労働者の移動予測。
一枚一枚を書くのに、何時間かけたか覚えている。
だがレイは壁に背を向けた。
一呼吸の間も、数字を確認するために振り返ることはなかった。
確認する必要がないからだ。
「写しは帳簿だけで構いません」
エルマはそれ以上何も聞かなかった。
帳簿は移せる。数字は移せる。
だが壁に貼った紙片は……
午前中。
ガルドが裏口から入ってきた。
「旦那、棚の裏が傷んでたんで、直しておきます。ランプ台も少し増やしておいた方がいい」
手には修繕道具と、ランプ用の油壺がいくつか。
「お願いします。ランプ台はカウンターの下にも一つ。あと入口の壁沿いに」
ガルドは頷いた。
だが手を動かす前に、一度だけ振り返った。
「旦那。本当にやるんですか」
低い声だった。
元軍人の声。
命令を確認する時の、あの声。
「ガルドさん、この店で替えが利かないものは何ですか」
ガルドは少し考えた。
「……人間だけです」
「ええ、つまりそれだけです」
ガルドは黙って作業に取りかかった。
棚の裏板を外し、油壺を据え直していく。
手つきは正確だった。
棚の修繕を終えたガルドは、裏口の扉に移った。
道具箱から蝶番を一組取り出し、古い蝶番を外し始める。
「裏口の蝶番は壊れていましたか?」
「壊れてはいない」
ガルドは古い蝶番を手の中で回した。
錆はない。動きも悪くない。
「だが壊れる前に替える方が安い」
それだけ言って、新しい蝶番を当てがった。
螺子を締める手が、正確に、だが力を入れすぎずに回る。
頼まれていない仕事だった。
だがガルドにとっては、壊れる前に替えることが仕事なのだろう。
レイが奥の部屋で帳簿の写しを確認している間に、ふと仕切りの向こうで小さな音がした。
布が陶器に触れる音。
見ると、ミラがカウンターの上に置かれたままのレイの紅茶カップを布で拭いていた。
短刀を拭く時と同じ手つきで、一方向に、丁寧に。
布を折り返し、新しい面でまた一方向に。
拭き終えると、棚の元の位置に戻した。
ミラは何も言わなかった。
レイも何も言わなかった。
ただ「棚に戻す」という判断をミラが自分でしたという事実だけが、カウンターの上の空白に残った。
昼前、レイは学院に向かった。
渡り廊下の先、中庭のベンチに、フェリクスがいた。
いつもの場所で、いつもの本を持っている。
だが今日もページは動いていなかった。
今から頼むことは、ただの同級生に頼んでいいことの線を越える。
だがレイの足は止まらなかった。
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