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第10話「人質の取引」

 渡り廊下を抜けた先の中庭で、レイは足を止めた。

 見慣れない紋章の外套を纏う一人の学生が、ベンチに座っていた。


 いつも一番後ろの窓際に座っていた、あの留学生。

 本を読んでいるように見えたが、ページが動いていなかった。


「自治会、面白かった?」

 本から目を上げずに、その学生が言った。


「……聞こえていましたか」

「声が大きい子だったから。壁一枚じゃ足りないね」


 学生が本を閉じた。


 薄い、穏やかな笑み。

 だがその目はクラウスとは違う種類の鋭さを持っていた。


「フェリクス・ゼノア。一応、同学年」

「レイ・ラマリンです」

「知ってる。出席率最下位だ」


 フェリクスが小さく笑い言葉を続ける。


「でも僕も出席率は低い方だよ。人質に講義は必要ないから」


 レイは黙った。

『人質』という言葉を、この軽さで口にする人間は珍しかった。


「ゼノア公国というと、ロンベルグ帝国の」

「友好国。第二王子で、跡目にも関係ない。ちょうどいい駒なんだよね」


 フェリクスはベンチの端に座り直した。

 レイに座れ、と言う代わりに、横の空間を少し広げた。


 レイは座らなかった。

 だが立ち去りもしなかった。


「……何か用ですか」

「取引の提案」


 フェリクスの目が、レイを正面から見た。


「外交筋の情報を少し持ってる。ゼノアは小国だけど、帝国の内部にいる分、彼らの動きは見える。メルテン商会が帝国とどう繋がっているかも断片的になら」

「それを僕に?」

「交換条件がある」


 フェリクスが一拍置いた。


「正確な情報が欲しい。僕の国は小さくて、何も見えない。この同盟で何が起きているのか、誰が何を考えているのか。灰猫商会のオッズは、それ自体が窓になる」


 レイの表情は動かなかった。


「はて、灰猫商会と僕に何の関係が――」

「一度、灰猫商会に行ったことがある。小さい店だった。仕切りの向こうから若い声が聞こえた。確か分析担当だと言っていた」


 フェリクスが小さく肩をすくめた。


「出席率32%の文学科の学生が、その店を守るために自治法14条を読みに来る。条例集の埃の厚さは少なくとも2年分くらいだったかな」


 レイは一拍だけ黙った。

 それから、口の端だけで笑った。


「埃が2年分だったことには気づいていました。それと、隣の棚板に指の跡が残っていたことにも。身長はおおよそ……フェリクスさん、あなたと同じくらいです」


 フェリクスの目が、初めてわずかに見開かれた。


「……なるほど。お互い様だったわけだ」

「ええ。僕の前にあの本を読んだ確率の高い人間が、いま目の前にいる。それくらいは理解していました」

「君の前にあの本を引き抜いた人間は、僕だからね。もっとも僕は舞って失われた埃を他の本から移して戻しておいたけど、どうやら意味があったようでよかったよ」


 レイは小さく頷いた。


「……一つだけ聞いていいですか」

「どうぞ」

「なぜ黙っているんですか。カードとして使えると思いますが」

「人質は誰かの秘密を暴いて得をする立場にない。いつだって暴かれる側だからね」


 フェリクスが立ち上がった。

 本を脇に挟む。


「返事はいつでもいい。でもメルテンが動いてるなら、そんなに時間はないと思うけど」


 歩き出した。

 背中は細く、外套が少し大きかった。


「フェリクスさん」


 足が止まった。


「灰猫に来たのは、先々週の木曜日ですね。ゼノアへの書簡便が出る前日だ」


 フェリクスの肩が、わずかに止まった。


 レイはそれを見てから、続けた。


「灰猫のオッズを本国への報告に使えるか確かめに来た。違いますか」


 振り返ったフェリクスの顔から、笑みが消えていた。

 それは初めて見る表情だった。


「……読むんだね、やっぱり」

「お互い様です」


 フェリクスが息を吐いた。

 笑みがいつの間にか戻っていたが、今度の笑みには、最初の軽さとは別の何かが混じっていた。


「灰猫のオッズは、窓です。でも窓から見える景色が正しいかどうかは、見る人が判断することです。それでよければ検討することもやぶさかではありません」

「それで十分だよ」

「では一つだけ。不要な情報は拡散しないで頂けると」


 フェリクスが頷いた。


「秘密の扱い方は、人質の専門分野さ」


 日が暮れた。


 灰猫商会に戻ると、エルマがカウンターの上に今日の帳簿を広げていた。

 来客数は4人で、売上は昨日の半分。


 レイは数字を一瞥し、奥の部屋に入った。

 条例集の内容をノートに書き写していく。


 第14条。

 営業妨害。

 停止事由。

 証拠の要件。


 仕切りの向こうから、ミラの声がした。


「旦那、今日も異常なし」

 レイはペンを止めた。


「……異常がないことが、一番怖いですね」


 ミラは何も答えなかった。

 答える必要がないことを、二人とも分かっていた。


 エルマが椅子に座った。

 帳簿番の顔ではなく、もっと古い顔をしていた。


「追い詰められた商人が次に何をするか、エルマさんは知っていますか」

 エルマは少しだけ目を伏せた。


「10年いましたから、ああいう組織に」

 声が低かった。

 だが震えてはいなかった。


 10年の時間が、そうさせた。


「追い詰められた商人がやることは、チンピラと大して変わりません。帳簿で負けた上に、負けた事実が外に漏れる恐れがあれば——帳簿の外に出るしかなくなる」


 エルマの鉛筆が止まった。

 一瞬だけ。

 止まって、動いた。


 だがレイが目を上げた時にはもう動いていた。


「……何か?」

「帳簿のつけ方に、見覚えがある気がしただけです」

「見覚えというと」

「いえ、気のせいでしょう」


 気のせいではなかった。だがレイはそれを帳簿に載せなかった。


「……つまり?」

「殴りに来ます」


 エルマがレイの目を見て言葉を続ける。


「となれば、いつ、どこを殴るかです。旦那」


 レイは指先をテーブルの上で止めた。

 音は立てなかった。


「殴る場所が分かっているなら、そこに罠を張ればいいだけです」


 壁のオッズ表を見た。

 灰猫商会の全てが、あの壁に貼ってある。


「……問題は、罠の代償です」


 エルマはその言葉の意味を、すぐには問い返さなかった。


次回は明日21時更新です

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