第6話 隔絶界域
夕実には見えてはいなかった。
見えていたのは、突如として変貌した迅華が、見上げる程に背の高い何かと相対するように、顎を上げて静かに言葉を紡ぐ姿だけだった。
「問いましょう。新島豊さん。あなたは何故、結城瞳さんに拘るのですか? 生前も、そして死後も、あなたは彼女を苦しめている。その執着はどこから来るのですか?」
迅華は先程、本名を名乗った。
それすなわち、彼女が戦闘態勢に入った事を意味すると、夕実は理解していた。
にも関わらず、迅華は対話を続けようとしている。相手がどんなものなのかは夕実には見えないが、彼女の言葉は、戦うべき相手に向けられるものではない。迅華のその姿勢に、彼女の足元にへたり込んだままの夕実の心は大きく打たれていた。
夕実の頭上で迅華が左腕を振り上げた。
同時にフローリングの床に亀裂が入った。
夕実の目には見えていない。
迅華が、ヒグマの化け物となった新島豊の振り下ろした前腕を、がっちりと受け止めている姿が。
「もはや言葉すら失ったのでしょうか? それとも、私とは話すつもりは無いと、そういった意思表示でしょうか?」
それでも、迅華は静かに言葉を紡ぐだけだった。
「ね、ねぇ? もしかして、攻撃されてるの?」
夕実は恐る恐る、口を開いた。
その瞬間だった。
夕実の体が浮き上がった。
浮き上がったかと思うと、まるで濁流に飲み込まれたかのように、一気に体が吹き飛ばされた。
洋間を突っ切り、ガラス窓も突き破り、気が付くと夕実の体はマンションの外、空中に投げ出されていた。
「ひゃ!? ひえぇぇぇ!!!」
夕実に出来る事は、悲鳴を上げるだけだった。
しかし体に痛みは無い。ただ空中に投げ出されただけ。一体何が起こったのか?
夕実は自分の体が、迅華によってしっかりと抱きかかえられている事を自覚した。
「夕実さん。可能であれば声を上げるのを慎んで下さい。言葉は生気。彼は、生気に反応します」
そう囁きかけた迅華の左腕には、くっきりと爪痕のような傷が刻まれており、おびただしいまでに出血していたのだ。
「え!? 怪我してるの!?」
「しーっ……。彼、中々の悪霊です。この私がここまでの深出を負わされるのは、こちらの世界では滅多にある事じゃありません。それに……」
迅華は夕実を抱えたまま空中で身を翻すと、何も無い空間に足を突いたような姿勢で静止した。
「どうやらここは隔絶界域のようですね。ここに見えない壁があり、外部と隔絶しているのです。彼が本性を現した際にこの空間を構築したのでしょう」
「か、隔絶界域?」
「はい。獲物を外部に逃がさないよう張る結界のようなものですね。これの構築は普通の人霊では不可能。やはり既に付喪神級。彼は見た目通り、人の枠を踏み越えてしまっているようです」
「み、見た目って、どんな見た目してるの?」
「そうですね。先程は白骨化したヒグマのような獣型でしたが……」
マンションの窓をサッシごとぶち抜いて、直径5メートルはありそうな骨の塊が迅華と夕実を追撃するように飛び出して来た。
「異形。ただただ異形の骨の怪物です」
骨の塊が、花のつぼみが開くように口を開けた。
その中心にはやはりヒグマの頭蓋骨が埋まっており、その凶暴な口蓋に並ぶ牙をこれでもかと剥き出しにしていた。
迅華が不可視の壁を蹴って飛んだ。
彼女の消えたその場所に、突っ込んで来たヒグマが獰猛な牙を突き立てた。
異形を構成する骨の上を、迅華は駆け抜けると、再びマンションへと向かって跳んだ。
「夕実さん、少しここで待機を。極力気配を隠して下さい」
マンションの屋上へ着地した迅華は夕実の体を下ろしつつ、静かにそう告げた。
「分かった!」
事の重大さはしっかりと理解した夕実が口に両手を当てて息を潜めるのを確認すると、迅華は優雅な身のこなしで右腕を真横に掲げた。
「ドゥ・フォシ」
何やら呪文のような言葉を発したかと思うと、その細くて美しい腕の先端に、黄金に輝くひと振りの大鎌が顕現した。
「今は対話は難しいでしょう。一先ず、無力化を優先します」
大鎌を翻すと、迅華は屋上から飛び降りた。
頭から、真っ逆さまに。
目の前には、既に新島豊が凶骨を広げて迫っていた。
新島豊を覆う無数の骨は鋭い牙のように変態し、迅華を飲み込まんと突き上げてくる。対する迅華は頭から真っ直ぐに新島豊に突っ込んでいくと、まるで花吹雪が風に舞うように、その牙の群れをひらりとかわした。
突き上げる牙の隙間を縫ってヒグマの額に着地した迅華が、腕を振るった。
刹那だった。
迅華を囲んでいた牙の群れは一刀両断にされて、花が散るように空中に散開したのだった。
「す、すご……」
夕実は思わず嘆息を漏らした。
何故だかは分からない。だが、突如として夕実にも見えるようになった新島豊。
その姿に恐怖するよりも、夕実は迅華の姿に見惚れていた。
戦闘と呼ぶにはあまりにも優雅で華麗なその所作に、屋上から覗き込んでいた夕実は魅入られてしまったのだ。
「すみませんが、少し大人しくなって頂きますね」
攻撃手段を失い、直接噛み付こうと口蓋を広げたヒグマの喉に、迅華は鎌の石突を突き刺した。
「おおぉぉぉぉん!!」
悲鳴なのだろうか。ヒグマが初めて声を上げた。
「ドゥ・ヴォアラ」
迅華が畳み掛けるように呟くと、大鎌が更に輝きを増した。
黄金の閃光が新島豊の喉奥から溢れるように輝きを放ち、巨体を一気に包み込んだ。
その直後から、新島豊はピクリとも動かなくなった。
迅華はゆっくりと鎌を引き抜くと、再び軽やかに翻した。
鎌の軌道に合わせるように新島豊の巨体が宙を舞った。
迅華を乗せた新島豊が、夕実の隠れる屋上へと着地した。
そこで迅華が目にしたのは、ひとりの女性の霊に羽交い締めにされた、夕実の姿だった。
「むぬっ! むぬぬ!!」
拘束から抜け出そうと夕実は必死にもがいていたが、それが叶う気配は無い。
血を滴らせた黒髪で顔を覆い隠した女性の霊が、ゆっくりと夕実の首筋に手を掛けた。
「……あなたは、結城瞳さんですか? 何故、そんな事をするのです?」
新島豊の体の上で優雅に佇む迅華が、静かに問い掛けた。
「ゆたかを……ゆたかを……はなして」
結城瞳が、割れたようなおぞましい声で答えた。
「新島豊さんを? あなた、新島豊さんを助けようとしているんですか?」
当然、迅華は眉根を寄せた。
「はなして……おねがい……」
結城瞳の手が、夕実の首を締め始めたのを見て、迅華は息を吐いた。
「はぁ……そうですか。夕実さんを人質に取るとは。あなたをただの弱者と見た私がマヌケだったようですね」
同時に新島豊を覆う黄金の光が失われた。
「むしろこの隔絶界域を構築していたのは、結城瞳さん、あなたの方でしたか」
光は恐らくは拘束の魔法か何かだったのだろう。拘束は解かれた。
だが迅華はそれだけではなく、得物である大鎌すら引っ込めたのだ。
「これで私は丸腰です」
迅華は両腕を腰の位置で広げて見せた。
「もしあなたが、これでも夕実さんを傷付けるなら、その時は私は躊躇しません。ですから……」
迅華の黄金の瞳が、輝きを増した。
「聞かせて下さい。あなた達の本当の関係性を」




