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第53話 怒り

 紅沢不動産から預かっていた鍵を使い、再びアパートの扉を開いた。

 小春日和の午後とあって、室内は、少しだけ暖かかった。

 3人は靴の上にビニールカバーを装着すると、順に室内へと上がって行った。

 前回、座敷牢の女性の霊が居たのは、1階のリビングだった。

 そこにまっすぐと向かうと、室内を見渡した。

 簡易的なカーテンに陽光を遮られ、内部は薄暗かった。

 が、やはり空気は暖かいままだった。


「居ませんね」


 駒場が呟くと、迅華は小さく頷いた。


「前回も、一旦全ての部屋を確認した後に、ここに出現しましたよね。それがトリガーなのかもしれません。もう一度、全ての部屋を回ってみましょう」

「うん」


 夕実が小声で同意したのをきっかけにして、3人は階段を登って行った。

 2階にも異常は見当たらなかった。

 奥の部屋を確認し、念の為に手前の部屋も開けてみる。しかし、階下に何かが現れたような気配を感じ取れなかった。


「おかしいですね。もう一度、下に戻ってみましょう」


 そう言った迅華の表情は、少しだけ強ばっているように感じられた。

 3人は1階に戻ってみたが、やはりそこに何かの気配は無かった。

 室内の気温も暖かいままで、以前に迅華が言ったような不穏な変化も感じられない。

 どう見ても、今ここには、地縛霊が居るような雰囲気は感じられなかったのだ。


「どうしたんでしょうか?」


 駒場が迅華に視線を向けた、その時だった。


「兄様」


 背後からチヨの声が聞こえてきた。


「嘘、ついたの?」

「え?」


 その言葉に、駒場は驚いて振り返った。

 駒場だけではなく、迅華も夕実も、彼の背後に憑くチヨに振り返っていた。


「ここに、おユキが居ると言った。でも居ない。兄様、チヨに嘘をついたの?」


 駒場の肩に掴まるチヨの愛らしい顔は、白目まで真っ黒に染まりきり、鼻はそげ落ち、口は耳まで裂け、完全に崩れきっていた。


「チヨちゃん!?」

「うわわ!? 何こいつ!?」


 驚愕の声を上げて固まった駒場と夕実とは違い、迅華だけが動いていた。

 チヨの襟首を掴むと、全力で腕を振るって引き剥がしたのだ。


「チヨさん、こっちへ」


 チヨの小さな体を腕から吊り下げ、迅華は玄関に向かって駆け出した。


「ラ・モンド!!」


 玄関を通り抜ける瞬間、迅華が呪文を唱えた。

 そして外に出ると、そこに広がっていたのは、一面の花畑だった。


「迅華!?」

「迅華さん!」


 夕実と駒場が迅華を追って玄関から飛び出そうとしたが、ふたりは何か見えない壁に当たって弾き返された。


「痛ったぁ!」

「なんだこれ!?」


 折り重なるように倒れたふたりが顔を上げると、やはりそこには何もない。だが、玄関の向こうに広がる花畑と、そこに立つ迅華、そしてその腕に絡みつくチヨの姿だけは見る事が出来た。


「これ、もしかして隔絶界域ってやつ!?」

「だとしたら、迅華さんが展開したのか!?」


 ふたりは玄関の枠の中に収まった空間をまさぐるように確認したが、やはりそこには見えない壁のような物が存在していた。


「もしかして迅華、うちらをチヨから引き離す為に?」

「ああ、きっとそうだ。この先の隔絶界域の中で、チヨちゃんと決着を着ける気なんだ」


 花畑の中、迅華は腰を落とし、右腕を伸ばしていた。

 その腕には、凶悪な面相のチヨが、まるでムカデのように変貌した体を巻き付かせていた。


「嘘つき……嘘つき……嘘つき」


 おびただしい数の足が迅華の細腕に無数に食い込み、鮮血を溢れさせていた。


「チヨさん。私達は嘘をついたわけではありません。結果として嘘にはなってしまいましたが、ここには確かにおユキさんが居たのです」

「嘘だ! お前達は嘘をついた! チヨを騙して、どうするつもりだった!?」

「ええ、仰る通りです。私達はチヨさんを騙してどうするつもりだったと思いますか? 私達に何の利益もありません。だから、私達は、あなたを騙すつもりなんか無かったんですよ」

「黙れ! チヨをからかって笑っていたんだろう!? お前らも同じだ! チヨを殺した奴らと、チヨをからかいにトイレに来ていた奴らと、お前らは同じだ! チヨをバカにしてるんだ!」

「そんな事はしてません。断じて。信じて下さい」

「信じられるか!!」


 咆哮を上げたチヨが、迅華の喉元に食いつかんと首を伸ばした。

 牙と化したその鋭く尖った歯が、迅華の喉笛に深く突き刺さった。

 鮮血が噴き上がった。


「迅華!」

「迅華さん!」


 夕実と駒場の上げた悲鳴は壁に遮られ、迅華の耳に届く事は無かった。


「チヨさん」


 喉笛に食いつかれた迅華は、口許を血で濡らしながらもチヨの名を呟いた。


「信じられないのなら、このまま私の喉を噛み砕いて下さい。ですが、それでも」


 迅華が、チヨのおぞまく変貌した体を抱き締めた。


「私は、あなたを騙してはいない!」


 強く強く、抱き締めた。

 黄金の光が、迅華の全身から輝きを放っていた。


「私には、こうするしかないんです。例え信じてもらえなくても、私は、あなたに訴えかけるしかない」


 迅華の黄金の輝きが、チヨまでも包み込み始めた。


「もしあなたがこのまま矛を収めないのなら、私がこのまま殺されたのなら……」

「黙れ黙れ黙れ!」

「あなたを守る者がいなくってしまうから」

「え?」


 それは、チヨにとって寝耳に水の一言だった。


「一体……何を?」

「感じませんか? チヨさん。この周辺一帯には、おユキさんはおろか、浮遊霊ひとりの気配も見当たりません」

「た、確かに……」

「それは何故なのか? 恐らく第三者が、おユキさんを、おユキさんだけではなく、この周辺一帯の浮遊霊さえも消し去ったからです」

「……本当にそんな事が?」

「この状況が事実です。そしてもし今私があなたに殺され、あなたが力を暴走させれば、その何者かは必ずあなたに襲い掛かります」

「チヨ、負けない」

「ええ、あなたは負けないかもしれない。ですが、きっと恐らくは深手を負うでしょう。あなたは回復する事も出来ず、無念を抱えたまま消滅する事となります」

「そんなの……嫌」

「だから信じて下さい。私はあなたを騙していない。落ち着いて、私達と共に今起きている状況を見極めましょう。それが、あなたも私達も、この場の全員にとっての最善策です」


 迅華の腕の中で、チヨは、いつの間にか元の小さな少女の姿へと戻っていた。


「分かってくれたんですね。チヨさん、ありがとう」

「ううん。チヨも、怒ってごめんなさい。それに、チヨを怒らずにいてくれて、ありがとう」


 花畑から花吹雪が舞い上がった。

 それふたりを優しく包み込むと、迅華の傷を癒し、そして、光となって空に昇って行ったのだった。

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