第35話 敷金2ヶ月
警視庁庁舎、捜査一課。
「新谷さん、これ、どう思います?」
捜査一課所属の若き巡査部長、中東が、喫煙室で紫煙をくゆらしながら、先輩で上司である新谷警部補に資料を差し出した。
「ああ、これな」
神経質そうに丁寧に髪を中分けにした30代後半の男性。非常に精悍な顔付きの新谷は、資料を受け取ると、深く吸い込んだ煙を吐き出しながら頷き返した。
「扉に付着した指跡には指紋は無し。室内にはゲソ痕はあるものの、模様は判別せず。明らかに誰かしらがあの部屋に押し入った事は間違いないはずなんですが」
「らしいな」
「手袋をしてたわけでもないんでしょうね。繊維片や繊維紋なんかも見当たりませんし。それに、それなりに暴れたとは思いますが相手に外傷も与えず、しかも毛髪なんかの遺留物も無し。わけが分かりませんよ」
「周辺の防犯カメラにも、それらしき人物は映ってないだろ?」
「よく分かりましたね。その時間帯、例のビルの周辺に向かう人物はこの若い男ひとりでした。女はひとりも映ってないんですよ」
「7、8年前だったかな。俺がまだ捜査一課に入りたてのペーペーの頃だった。同じような件が起きた事がある。その時は、麻府で半グレ集団のアジトが襲撃されたんだが、やはり今回同様、特定可能な遺留物や痕跡は見付からなかった。だが、半グレ全員から同じ証言は取れてる。女がひとりで乗り込んで来たってな」
「まさか、その時も映像が?」
「無かった。やられた奴のひとりが隠れてスマホのカメラを回してたんだが、そこに映ってたのは、何も無い所で勝手にぶっ飛ばされる半グレの姿だけで、肝心のぶっ飛ばしてる方の人物の姿が映ってなかったんだよ」
「なんですか? それは。まるで幽霊みたいですね」
「ああ、そうだな。だから、その件は麻府の怪異なんて言われて、そのまま放置される事になった。別に誰か殺されたわけでもないし、何よりも半グレ壊滅に一役買ってるんだからな。悪事を働いたわけでもない幽霊を追う意味が無いってな」
「確かに……今回も、誰も死んでないし、むしろ藤咲野々花を助けてますものね」
「ああ。正義のヒーローなんだろ。そんなんがいてくれるなら、俺達にとってこれほど都合の良いもんはないからな」
「そうですね……」
「さて、次はどこだったか?」
「ええと、植野で起きた傷害事件の聴き込みですね」
「よし、お前、運転しろよ」
「分かりました」
ふたりは同時に煙草を灰皿に擦り付けると、再び仕事へと戻るのだった。
―――
舞台は再び勇市。
開店と同時に尾栗ハウジングに迅華が訪ねて来たとの一報を受け、夕実はチャリをかっ飛ばして駆け付けた。
「迅華!」
吾郎の事務所でお茶をすする迅華の姿を見付けると、夕実は飛び付くようにその隣に腰を下ろした。
「駒場さんからシャインのメール入ってたから、大体の経緯は知ってるけど、解決出来たんだね!」
「ええ、まぁそれなりに簡単な内容でしたよ。今、その辺のご報告を吾郎さんにしてたところです」
「うん、本当に霊がいたのにも驚いたけど、その除霊まで完了してるって事だから、更に驚いたよ。流石は鎌渡さんだね。きちんと仕事をこなしてくれるのはありがたいよ」
「まぁ、私が口頭で報告してるだけで、それを信じてくれてる吾郎さんの方がありがたいんですけどね。霊が居たって証拠も何も無いのに、普通なら信じるわけないですから」
「ははは。まぁ、普通はそうですけどね。でも鎌渡さんが嘘を言う人じゃないのは知ってるから、そこは安心してますよ」
「それはそれは、どうもです」
まるで団らんでもしているかのように言葉を交わす迅華と吾郎。ふたりの関係が夕実よりも長いのは心得てはいるものの、そんな関係性に、夕実は嫉妬を禁じ得なかった。
が、そこは空気を読んで我慢する自分は偉いと、夕実は内心で腕組みし、深く頷くのだった。
「それで、報酬は駒場君の口座に振り込めばいいんでしたよね?」
「ええ、それでお願いします。そういう形じゃないと足が攣りますので」
「……それはどんなジョークです? まぁでも分かりました。では、早速送金しておきますね」
事前に夕実から預かっていた口座のメモを見ながら、吾郎はパソコンを操作し始めた。
「あ、それでですね、今日は折り入ってお願いがありまして」
画面を見つめる吾郎に、珍しく迅華の方から話しを切り出した。
「あの、こないだ除霊をしたマンションありますよね? お宅に泊めて頂いた時の依頼のマンション」
「フルール勇ですかね? あそこがどうかしましたか?」
「あのマンションの703号室。あそこって、まだ空いてますか?」
「703? 除霊して頂いた部屋ですよね? あそこならまだ誰も契約してませんよ」
「あそこを私に貸して頂きたいんです。お家賃は確か、5.8万円。今回の報酬で、お借りしたいと思ってるんです」
「契約って事ですか? それは構いませんよ。ただ……」
「ただ?」
「家賃以外に、敷金が2ヶ月分掛かるんです。鎌渡さんなので、礼金は頂きませんが……」
吾郎がそこまで言いかけたところで、夕実が勢い良く身を乗り出した。
「ええ!? 敷金って、そんなの取るの!? 迅華から!?」
「そりゃそうだよ。これはビジネスなんだから。最低限、礼金は頂かないって言ってるだろ? 本来なら1ヶ月分の礼金も設定されてる物件なんだぞ」
いくら娘とは言え、流石に仕事内容にまで口出しされるのは癪に触ったのか、吾郎は憮然とした表情で窘めるように言い放った。
「いやー……でも、さぁ」
このふたりの父娘関係で、こうも直接的に叱られる事はあまり無いのだろう。夕実もそれ以上は言及出来ないようで、途端に大人しくなってしまった。
「敷金ですか。2ヶ月、11万6千円。高いですね」
「あ、管理費は含まれませんので、11万でいいですよ」
「うーん、優しいような優しくないような」
夕実は頭を抱えてしまった。
「ま、あと何回かお仕事をすれば貯まりますでしょうし、その間は根無し草でやりますか」
迅華にとってはいつもの事。全く気にする素振りも見せず、あっけらかんとヘラついた時、事務所のドアをノックする者があった。
夕実がドアを開けると、そこに立っていたのは駒場だった。
「え? 先輩、どーしたんですか? 今日はフルでバイトでしたよね?」
首を傾げる夕実だったが、駒場は彼女には頷いただけで、すぐに視線を迅華へと向けた。
「あの、お話しは聞こえてました。敷金の件なのですが……」
その表情からは、若干の緊張が見て取れた。
「そのお金、僕に出させて下さい」
「「え?」」
その申し出に驚きの声を上げたのは、夕実と吾郎だった。
「それは鎌渡さんと君の問題だろうから、こちらは構わないけど」
「どうして先輩が?」
当然の疑問を投げ掛けられ、駒場は一拍の間を置いて、突然頭を下げた。
「僕、ついさっき、バイトを辞めてきました!」
「は!? バイト辞めたの!?」
更に驚く夕実だったが、吾郎に静かにするようジェスチャーをされ、慌てて口を抑えた。
「迅華さん。僕を、あなたの弟子にして下さい! 僕、あなたみたいな、本物の霊媒師になりたいんです!」
多舞での出来事。渋屋での出来事。
それが駒場の気持ちにどんな影響を与えたのかは、本人にしか分からない。
ただ言えるのは、その眼差しはとても真っ直ぐだという事のみ。
だからだろうか。
迅華は苦笑いを浮かべながら言った。
「駒場さん、大して勉強にはならないかもしれませんよ? それでもいいんですか?」
「はい」
「んじゃ、ま、敷金は授業料って事で、お支払い頂きましょうか」
「ありがとうございます!!」
再度、駒場は深く頭を下げるのであった。




