第26話 壁文字
そこにいたのは、制服姿の女子高生。ボブカットの黒髪を持った少しふくよかな少女で、一心不乱に壁に文字を書き込んでいた。
その文字は細かく、そして凄まじい量だった。
比較的小柄な彼女の手の届く範囲のほぼ全てが、びっしりと埋め尽くされていた。
「うぉぉ……」
驚きの声を上げたのは迅華ではなく、彼女の背後から中を覗き込んでいた夕実だった。
「わ、夕実さん。待機って言ったじゃないですか」
「いいでしょ? 危険そうな感じもなかったし、うちだって迅華の助手なんだから」
「いつからですか」
やはり助手気取りであったかと呆れつつ、迅華は後ろ手で守るようにして、夕実を少しだけ後退させた。
「これは調査なんですよ? まだ危険かどうか判断出来ないんですから、夕実さんは下がってて下さいよ」
「えー? 大丈夫でしょ」
「油断してはいけませんよ」
「はーい」
迅華に窘められ、夕実は不服そうに扉から離れるのだった。
「さて、彼女は何を書いてるんでしょうね? 字が小さくて読めませんが」
「なら、これ使う?」
即座にリュックから取り出されたのは、小さなオペラグラスだった。
「え? 夕実さん、なんでこんな物を持ってるんですか?」
「え? いや、助手たるもの、役に立ちそうな物は用意しておくのが嗜みかと思って」
意外にも有能な返答に、迅華は呆れつつも感心するしかなかった。
「じゃあ、お借りしますね」
「はいどうぞ」
オペラグラスを迅華に手渡しつつ、夕実は更にもうひとつ、リュックから取り出していた。
「ええと、なになに?
マリカは襲い来るゴブリンに向かって杖をかざした。
「フレイムボール!」
大きく燃え盛る炎の玉が杖から放たれ、ゴブリンを飲み込んだ。
炎に巻かれて絶命するゴブリンだったが、すぐに次のゴブリンがマリカに襲いかかってくる。
「くっ! キリがないわね!」
「諦めるな! 諦めなければ、きっと活路は見い出せるはずだ!」
「分かったわ! ファイヤーアロー!」
背中合わせになったユーリの言葉に励まされ、マリカは力を振り絞って次の魔法を放った。
「敵が怯んだぞ! この隙に俺が包囲をこじ開けるから、マリカは援護を頼む!」
「任せたわよ、ユーリ! 死なないでね」
「ああ、死ぬもんか。マリカ、これが終わったら、結婚しよう」
「ユーリ……嬉しい。ええ、もちろんよ!」
勇ましく斬りかかるユーリの背中を頼もしく思いながら、マリカは懸命に魔法を放ち続けるのだった。
だ、そうです」
「は? 何言ってんだ?」
細かな文字を迅華が読み上げると、一応それまで清聴していた星が訝しげに問い返してきた。
「え、書いてあるままに読んだんですけど」
オペラグラスを下ろした迅華は真顔で言い返した。
「書いてあるって、そんな事書いてあるのかよ」
「はい、書いてあるんで。つまりあの壁には、小説が書いてあるんですよ」
あくまで真顔で交わされる迅華と星の会話に、同じくオペラグラスで文字を読んでいた夕実も参戦してきた。
「小説って言うかラノベだよね。異世界ファンタジー系の。ってか、迅華の演技すごいね。まさか男女と地の文とで声色を変えて読むとは思ってなかったよ」
「え? まぁ、前に一度、声優のお仕事をした事がありまして。体調不良で現場に穴を開けまくってすぐに廃業しましたけど」
「え? 声優? マジ? それが前に言ってた、普通の職業? てか、声優の養成所とか行ってたの?」
「いえ、ワークショップだけですね。授業料安かったんで。そこで運良く事務所からスカウトされました」
「確かに、演技も良かったし、何よりも迅華の声って良いよね。F分の1揺らぎってやつ? なんか、癒されるもん」
「そうですかね? そう言って頂けると嬉しいんですけど、私的には口惜しい思い出しか無いですね」
「あぁー、せっかく声優になれたのに続けられなかったんだもんね。それは悔しいよね。ちなみになんて芸名だったの?」
「華村ウタハです」
「んー、知らないかなぁ」
「はい、大した役は貰えませんでしたから」
ふたりの声優談義に花が咲く直前で、タケルが割って入った。
「あのさ、アイドル声優の鷹野ミリアちゃんに会った事ある!?」
「あ、私がやってたのってもっと前の事なんで。当時人気だったのは、平山マヤさんでした」
「っあー、その頃かぁ! むしろ俺の青春時代全盛期だったわ!」
訂正。割って入ったのではなく、参戦したのだった。
「おいお前ら」
本当に割って入ったのは、やはり真面目枠本命の星だった。
「見てみろ。あの霊、こっちを向いてるぞ」
「「あ」」
迅華と夕実が扉の隙間に振り返ると、星の言う通り、室内の少女がざんばら髪を振り乱して、こちらを睨み付けていた。
「な、なんか怒ってる?」
「怒ってるんですかね?」
怒ってるかどうかは定かではないが、少なくとも壁の文字はランダムに蠢き、ところどころ、生物の心臓のように脈打っている。こちらを睨む少女の頭部から大量の血液が流れ出し、全身を伝い、床に血溜まりを作っていく。
「怒ってると言うか、威嚇されてますね」
「当然だろうな。勝手にテリトリーに入られたんだ。普通は警戒する」
星の冷静な解説を受け、ようやく夕実も状況を把握したようだった。
「え!? じゃあ、いきなり戦いになっちゃうの!?」
「いえ、それはこちらも本意ではないですから」
迅華はオペラグラスを夕実に手渡すと、両手を軽く挙げながら、壁文字の部屋に足を踏み入れた。
「勝手にお邪魔してすみませんね。こんにちは。私は鎌渡迅華と申します。後ろの3人はタケルと星、もうひとりは今のところ、名前はお伝え出来ませんので悪しからず」
入室してすぐに立ち止まった迅華の足元に、部屋中の文字が壁や床を伝って寄り集まってくる。それはまるで、無数のゴキブリが蠢くような、えも言えない不快感を帯びた光景だった。
『邪魔を……しないで……』
第一声での明らかな拒否反応。
確かに霊力は弱いし、威嚇の方法も直接危害を加えるようなものではない。その気になれば無理やりに抑え込む事も可能だろうが、やはり迅華の持ち味は対話である。
そして、このような手合いが相手であれば、必要なのはむしろ対話であろう。
「邪魔ですか? それは失礼しましたが、あなたはここで何をされてるんですか?」
『邪魔を……しないで……』
取り付く島もない。
その言葉を聴いた室外の夕実は、迅華がこの後どう出るのか、固唾を飲んで見守っていた。
「分かりました。邪魔はしませんが、ひとつ、いいですか?」
『邪魔を……しないで……』
「この、フレイムボール! とか、ファイヤーアロー! とか、あまりにも安直じゃないですか? もう少し捻りましょうよ」
『!?』
これには少女の霊だけではなく、夕実すらも驚愕した。
まさかこのタイミングで小説についてのダメ出しを行うとは思ってもみなかった。
が、これが有効打なのかどうかは未知数だ。
現に少女の霊は、ワナワナと震えだし、噴き出す血液も更に勢いを増していた。
やはりだろうが、どうやら彼女の逆鱗に触れてしまったよう……
『その声は、声優の華村ウタハさん!?』
「反応したのそっちかい!!」
夕実は久々にどてーん! とひっくり返るのだった。




