第11話 タケル
まるで1ヶ月も炎天下に放置された淡水魚の水槽のような、水も死骸も何もかもが腐ったような、そんな悪臭を放つ吐息が頬を撫でた。
夕実は思わず胃の内容物を戻しそうになるのを堪え、目の前に現れた男の霊と向き合っていた。
小太り。首にはロープで締められた跡が刻み込まれている。髪はざんばらで脂ぎっており、見るからに不潔そうな肌とところどころ抜け落ちた歯が目を引く。そして何よりも、その瞳は曇り、まるで薄皮を被されたように濁りきっていた。
「あ……あの……」
夕実は口ごもり、ただただその異様さに圧倒されていた。
侮っていた。
まさか本物の霊と対峙するのが、これ程までに精神を圧迫されるとは。昼間は迅華が一緒にいてくれたから感じなかっただけで、本来はただの人間が踏み込んでいい領域ではないのだと、改めて思い知らされていた。
「下がって!」
駒場が夕実の二の腕を引っ張ってフェンスの前に割り込むと、御札のような物を首吊り男に突き付けた。
しかし、御札を持った駒場の手は、するりと霊をすり抜けるだけだった。
『なんだよ? お前は。俺に用があるのは、お前じゃないだろ?』
何事も無かったかのように、首吊り男は駒場を一瞥した。
「まさか!? この駒場家に代々受け継がれる退魔の札が効果無いなんて!」
『お前、うるさいな』
首吊り男が呟いた瞬間、駒場は腰が抜けたかのようにその場に腰から砕けてしまった。
『俺に用があるのは、君だろ?』
駒場から夕実へと視線を戻した首吊り男が、もう一度問い掛けてきた。
「あ……え……ええと、そう。用が、あります」
『何の用?』
「ええと……うちは、うちは……夕実です」
訳も分からず、夕実は何故か自分の名を名乗っていた。
「ダメだ、名前を教えては……。名前は君を現す記号そのものなんだ。憑かれて逃げられるなくなるぞ」
足元の駒場が苦しそうに声を上げた。
『夕実』
しかし時既に遅し。首吊り男は夕実の名を反芻するように口に出していた。
「あ、あなたは……? 名前は?」
しかしそれでも、夕実は億しながらも名を問い返した。
それが確固たる意思なのか、ただ流れに身を任せた行いなのかは、自分でも分からなかった。
『俺は……タケル。大塚……タケル』
「タケルさん……どんな字を書くの?」
『山岳の岳に、流れるで、岳流』
「そうなんだ。岳流さん。綺麗な名前だね」
無意識に口走った夕実の一言だったが、その一言が発されたと同時に、タケルの瞳からほんの少しだけ濁りが薄れたような気がした。
『夕実は、俺に何の用?』
タケルが改めて問い直してきた。
「ええと……タケルさんは、何歳?」
『30歳』
「そうなんだ。うちは17歳」
『へぇ。それで、何の用?』
「あ、ええと。あの、タケルさんは……」
『タケルでいい』
「あ、タケルは、どうしてここで自殺なんかしたの?」
その質問が放たれた瞬間、タケルの表情が一気に歪んだ。
目玉が左右で不規則にギョロギョロと回転し、あまつさえ、そのまぶた自体が縦に変形し、異形のものとなった。
『俺は……俺は……ミサキの傍に居たかった。ずっとずっと、ずっと居たかった。だから、ミサキの部屋の一部になりたかった。そうすれば、ずっとミサキと居られると思ったから』
タケルが悲痛な声で訴えた。
生前の苦しみの全てを思い返しているかのように、異形の顔を更に歪ませ、怨念の籠った言葉を吐き出した。
「……ええと……」
タケルが話す度に、夕実の鼻腔を不快な腐臭が突いたが、それでも、夕実は堪えて声を漏らした。
「だけど、ミサキさんは引越して、家は取り壊されちゃったんだ」
夕実の口から放たれた言葉が、駒場とタケルを襲った。
(それは挑発じゃないか! 霊を刺激するだけだぞ!)
駒場は唖然とし、タケルは……真顔に戻っていた。
『……そうだよ!』
一瞬の間が開き、そして、タケルが声を荒らげた。
『そうなんだよ! 折角これでずっと一緒に居られると思ったのに! 酷いよね!? なんで引越しちゃうかな! しかもその跡地が牛丼屋って、俺、もうご飯とか食べられないのに! 毎日ずっとずっと、ずぅーっとここで、色んな人が牛丼とかカルビ丼とか食べてるのを眺めてるだけなんだもん!』
タケルの訴えは、別の意味で悲痛なものであった。
『俺もう、ここ嫌なんだけど! もうここで地縛霊したくないんだけど!』
そしてその本音が遂に暴露されたのだった。
「ああ、だから敷地内なら移動出来たんだ。地縛霊としての存在意義に抵抗しているから」
これまで様子を静観し続けていた駒場も立ち上がり、端的な分析を述べた。
「そうだよ! もうどっか行きたいし、何なら消滅したい! でも出来ない! と言うかミサキに会いたい! 俺、どうしたらいい!?」
更に訴え続けてくるタケルに、夕実は首を傾げた。
「え、じゃあどっか行ったらいいじゃん」
『行けるわけないだろ! 地縛霊だよ!? 俺! そんな簡単に行けるなら、もうどっか行ってるよ!』
「それはうちに言われても」
半笑いの夕実だったが、そこで突如としてタケルの口調が暗く沈んだのが分かった。
『俺、嬉しかった。夕実に声を掛けてもらって。夕実の事が好きになった。だから、ずっと一緒に居たい』
「「え!?」」
その意味はすぐに分かった。
タケルの霊体が、フェンスをすり抜けて来たのだ。
それはつまり、タケルの執着が、ミサキから夕実へと移った事を意味していた。
『俺、夕実が好きだ』
「え、ちなみに聴きますけど、タケルがミサキさんと出会ったのって、どんな感じ?」
『駅で見掛けた瞬間、俺は、ミサキに恋に落ちた。運命の人だと思った。だけど俺、こんな見た目だし、声を掛ける勇気が無かったから、ずっとミサキを見てた。家まで付いていった。その間だけは、俺とミサキは繋がっていた』
「え? じゃあ、面識は? 喋った事は?」
『無い! だけど、俺とミサキは運命で繋がっていた!』
タケルは、問答無用で完璧な、ただの片想いストーカーだった。
そんなタケルが、声を掛けてくれた夕実に惚れる事は、至極当然であるとも言えた。
「尾栗さん、逃げるよ!」
駒場が夕実の手を引いて走り出した。
夕実もそれに抗わず、一緒に走った。
背後を振り返ると、タケルもふたりを追い掛けて走って来た。
だが……
「え? 遅くない?」
振り向いた夕実は、タケルの走る速度に度肝を抜かされた。
「牛丼屋の敷地内から出たからかは分からないけど、さっきの瞬間移動みたいなものは使えないらしい! きっと、生前の運動神経が反映されてるんだ!」
「え、じゃあ逃げるの簡単じゃない!?」
そこで夕実にあるアイディアが浮かんだ。
「駒場さん! チャリで逃げましょう! 付かず離れずのいい感じに距離を取って、いい感じに逃げましょう!」
「ええ!? どういう事だよ!? 振り切らないとまずいだろ! それか、その感じで逃げるなら僕の家だ! 僕の家ならもっと強力に除霊出来る手段があるから!」
「大丈夫。行く所は決まってますので」
夕実の脳裏に浮かんだアイディア。
それは勿論、このままタケルを迅華のいるマンションへと誘い込む事だった。
ふたりはチャリに跨ると、夜の街をいい感じのスピードで飛ばすのだった。




