第1話 除霊
「お、お邪魔しまーす」
尾栗夕実は生唾を飲みながら恐る恐るスニーカーを脱ぐと、その部屋へと上がり込んだ。
703号室。間取りは2DK。築30年、8階建ての鉄筋コンクリートのマンションの一室。
玄関のすぐ目の前にダイニングキッチンがあり、奥にフローリング敷きの6畳洋間が2部屋ある、至って普通の部屋ではある。
が、その様子は明らかに普通ではなかった。
春先の昼間だと言うのに室内の空気はやたらと冷たく、背筋に悪寒が走った。
「まぁどうぞどうぞ、お寛ぎ下さい」
先陣を切って部屋に入った女性は鎌渡迅華。霊媒師だった。
寛げと言うものの、部屋は今初めて入居する状態なので、家具のひとつどころか電灯すら付いてはいない。今がまだ春先だから何とかなっているものの、これが真冬や真夏であれば、寛ぐなどもっての外の環境だった。
「ええと、はい」
寛ぐ気になどなれるはずもなく、ダイニングキッチンに立ち尽くす夕実を他所に、迅華は手馴れた様子でスーツケースからランタンを取り出すと、部屋の真ん中に置いた。
「え? 電気とか引かないの?」
唖然とする夕実の質問に、迅華は悠然とした態度で答えた。
「除霊するまでの間しか住まないから、そういうのはいいんです」
「え? じゃあ水道も?」
「お水はコンビニで買います」
「お風呂は?」
「銭湯を探します」
「マジか」
迅華の淡々とした様子に、夕実はこれは本気だと認めざるを得なかった。
「ねぇ、本当に除霊なんて出来るの? 確かにこの部屋は事故物件だし、霊が出るって前の入居者は言ってたけど。ただ単に、無料でホテル代わりにしようとしてるんじゃないよね?」
「え? 出来ますよ。その為に1週間、時間を貰った訳でして」
「と言うか、本当に霊なんているの? うちってばそういうの全く見える人じゃないから、全然信じられないんだけど」
訝しがる夕実だったが、迅華はおもむろにキッチンの窓を指差した。
「いますよ。夕実さんの背後に、今」
バンッ!!
迅華が言い終えた瞬間、夕実の背後の窓が大きな音を立てた。
驚いて振り向くと、くもりガラスの窓に赤い手形がひとつ、べったりとへばり付いていた。
「ええ!?」
夕実は心臓が飛び出る程に驚いてダッシュで迅華の背後に逃げ込んだ。
「ほら、いましたよね?」
「ううう嘘でしょ? うち、今までこういうの本気で見えた事ないんだけど」
「それはまぁ、私がここにいるからなんですけどね。ちなみにあの方は、結城瞳さんというお名前だそうです。5年前にこの部屋でお亡くなりになりました。享年21歳。死因は、当時交際中だった男性によるDVですね。部屋に置いてあったライトスタンドで後頭部を殴られて撲殺されたそうです。死の間際、逃げようとしてちょうどあの窓に手を突いたまま亡くなったみたいですよ」
「マジ怖っ! なんでそんな事知ってるの!?」
迅華に背後からしがみつきながら、夕実は声を震わせて尋ねた。
「え? それはまぁ、結城瞳さんご本人からお伺いしましたので。今」
「怖いんですけど! 物凄く怖くて仕方ないんですけど!」
泣き叫ぶ夕実を他所に、迅華はゆっくりとキッチンの窓へと歩み寄って行った。
「まぁまぁ、結城瞳さん。そんな所で悶え苦しんでいても何ですので、こっちでお掛けになって下さいな。ほら、お座布団もありますので」
いつの間にかスーツケースの中から取り出されていた座布団を指差しながら、迅華はヘラヘラしながら独り言のように言った。
「はい、どうぞ。今お茶も用意しますからね」
座布団に足跡らしき形が浮き上がった。
勿論、その上に誰かの姿はない。夕実は更に震え上がった。
そして座布団の足跡が広がり、恐らくは尻が乗せられたであろうと同時だった。
座布団の下から、真っ赤な血溜まりが漏れ出してきたのだ。
「ひぃいゃぁぁぁぁ!!!」
これには夕実も遂に悲鳴を上げるしかなかった。
「あー、ダメですよ、夕実さん。結城瞳さんが驚いて、また部屋中を走り回ってしまいますので」
迅華の冷静そのものな注意を受け、夕実はやっとの思いで口に両手を当てて悲鳴を抑え込んだ。
「いやだって! こんなん見たら驚くでしょ普通は!」
夕実は歯を鳴らしながら、小声で怒鳴りつけた。
「仕方ないですよ、心霊現象ですから。慣れて下さい。結城瞳さんがお漏ら血してしまっただけですので」
「なんだお漏ら血って! 可愛く言ってるけど怖いわ!」
憤慨しながらツッコむ夕実を他所に、迅華はまたしてもスーツケースをまさぐると、今度はペットボトルのお茶を取り出した。
「んでは、これより除霊に取り掛かります。夕実さんもその辺にお座り下さい。これでも飲んで落ち着いて」
迅華は夕実にペットボトルを手渡した後、自分の前に1本、そして血濡れた座布団の前に1本、お茶を配置した。
「な、なに? このお茶。もしかしてこのお茶が、お清めとかになるとかそういう除霊道具なの?」
「いいえ? ただの《怨意!お茶》ですよ。コンビニで買った」
「ただのお茶かーい! てかなんで幽霊の前にも置いてんの!」
「だって、仲間はずれは可哀想じゃないですか」
ヘラヘラと笑う迅華は、更にスーツケースから塩せんべいとチョコサンドクッキーを取り出すと、床に並べていった。
「んじゃ、お茶でもシバきながらお話しをお伺いしましょうか。結城瞳さん、あなたはどうしてこの部屋の地縛霊になったんですか? ……ふむふむ、へぇへぇ、はー、そうですか」
完全に独り言で相槌を打つ迅華の背中に、夕実は訝しげに問い掛けた。
「え? 何してんの?」
「え? 除霊ですけど?」
「え? どの辺が除霊なの?」
「え? この対話が」
「え? 除霊ってこう、お念仏を唱えながら祓いたまえ、清めたまえとか言うんじゃないの?」
「え? そんな事したら可哀想じゃないですが。それってただのパワハラですよ」
「え? どういう事?」
「あのですね、地縛霊になるって事は、それ相応に理由があるんですよ。私はですね、それを聞いて、ご本人に気を晴らして頂いて、その場から動いて貰うんですよ。頭ごなしに出てけ! なんてやるのはパワハラだし横暴だし、何よりフェアじゃないですよね? そういうのは除霊とは言いませんよ」
そう言った迅華の表情は、至って真面目だった。
「え……そうなんだ」
「はい、そうです。んなので、私は1週間のお時間を頂き、地縛霊さんが気が済むまでお話しを聞くのです」
確かに迅華の言う通りで、相手が人間であればそれが真っ当な対応方法である。その言葉に、夕実は何故か感心していた。
「じゃあ、地縛霊は最終的に成仏するって事なんだ」
「あ、いえ。成仏はしませんよ。と言うかそんなシステムは存在しません。それは妄想ですね」
「え!? じゃあ霊はどこ行くの!?」
「あ、それはですね、私が次の心霊スポットを見付けるまで付いてきて頂いて、ファンタジー力を供給し続けて貰うのです。まぁ、体のいい携行食料みたいなものですね。私がファンタジー力を吸い尽くしたら、幽霊は消滅します」
「いやあんたの方がよっぽど横暴でパワハラ気質なんですけど!?」
夕実はどてーん! っとひっくり返るのであった。




