ひっくり返す魔法2
…
「リシェルさん。リシェルさんはアートには詳しいですか?」キアンはふと、質問する。
「アート……というと?」
「芸術という意味です。僕が今疑問に思っていることをさらによく表現すれば、美術における芸術です。音楽でもなければ、演劇の類でも無いやつ」
ここへ訪れて数日目になるけれど、この金髪の少年キアンはかなりの勤勉家であるとリシェルは評価している。この年にしては様々な事に興味を持っている様子であるし、それを気持ちの赴くままにさせるだけの自由をヴァンダインは与えている様である。
ただし、それにヴァンダインが強く答えているかと問われれば、それは否である。キアンの知識収集の基本は専らこの毎日山の様に積み重なる雑誌と新聞などの文書になるのだが、無論その中で意味の理解できない単語が出ることなど茶飯事であろう。ただでさえ、言葉の表現を膨らませ、ポートマントーにレトロニム、知らない単語なんて私だってざらにある。
その単語や知識の回答をヴァンダインは彼には教える事はない様であるのだ。その証拠にキアンは毎朝、私に丁寧な挨拶をした後、郵便物を取ると一旦その場で軽くそれぞれの一面を見通し、私の横に座り込んで疑問に思った事を質問するのである。
魔痕探知師としての能力を持つヴァンダインを尊敬してはいるものの、1人の子供を預かる教育者としてはあまり褒められたものでは無いと思う。
だからこそ、私ぐらいは本来の目的とは違うけれど、キアンの疑問に答えてあげたいとそう思うのである。
「アート、芸術分野の話ね。私もあまり本格的に学んでいる訳では無いから表面的なことしか教えられないのだけれど、そうね身近なところで言えば最近のアートの流行は、この前君が行った六区が代表する『見せる芸術』と呼ばれるものが主流かしら」
「アルトステータ?」
「そう、アルトステータ。昔は『見える芸術』と呼ばれていたのだけれど、今は専ら『見せる芸術』と意味するところを変えているわ」
「内容を簡単に述べれば、外観に強く表現を見せる芸術。基本的には彫刻、絵画での表現が中心。そして、見せる為に必要な分かりやすさを意識してるの」
「分かりやすさとは、写実性とリアリティですか?」
「もちろん、写実性とリアリティも分かりやすさの為に必要な要素よね」
「それ以外になにか?」
「答えは色よ。それも目につきやすい明度と彩度を富んだ色。それを活かしたのが六区を発展に導いた1人、オルセン・ドラモンドという彼の持っていた芸術センスなのだけれど。いや、隠す訳では無いのだけれど、つまりはどんな事柄でも見えなくては、理解してもらえるチャンスすら与えられない言う事なの」
「あの街の景色は覚えています。花畑の様な色彩の外壁の数々、あれは確かに目に焼き付くものでした。見られる為の差異を確保することが今の芸術ですか」
「まぁ、全てがそうでは無いのだけれど、大方はそうね。この世界では」
キアンは頭を傾げる。セプタ・プレス、その一面を彼は見ている。
「ではこの『アルトヴェルサ』とは何のことですか?」
「あぁ、それは最近作られた造語なのだけれど、六区における『見せる芸術』、それに対して使われる用語ね。一般的には『見えない芸術』とも言うわ」
「『見えない芸術』、それが七区の芸術という事なのですか?」
「そう……元々は七区の人々が中心に起こした芸術の形だったのだけれど、対比構造を取るのが都合のいい人が居たの」
そこまでつらつらと説明したところで、リシェルは不安を覚える。間違えた知識を教えると良くないことは分かるだろうけれど、こういった分野の差異は特にデリケートである。少しばかり移動して、キアンの持っているセプタ・プレスの内容を確認する。
「何が書いてあるの?」
キアンは距離を詰めるリシェルに対して抵抗もしなければ、誌面を見せようと体を動かすつもりもない。ただ茫然と文章に目を通して続ける。
リシェルは隙間から大きな文字だけを見えるだけ見る。
「『サロ・ヴァルデン』が…………」
見えた唯一の単語、サロ・ヴァルデンと言えば、現代を代表する七区芸術家の1人である。そもそも『見えない芸術』の認識が世間に浸透していない事もあり、彼の名もそれほどメジャーなものではないが、知る人ぞ知る程度の人物ではある。
体をゆっくりと動かして、キアンの体の隙間から誌面を読み進めようとする。
『サロ・ヴァルデン氏、自宅にて死亡』
リシェルはその内容を言葉にはしなかった。驚きをただ息を飲み込み、体の中に染み込ませる。それ以外は何も出来ない。じんわりと熱が全身に流れているのが、朝の涼しさと反比例してぐっと強くなっていく。




