箱の中で生きる
## 第九章「箱の中で生きる」
雨が、朽ちかけた工場の屋根を叩きつけていた。鉄板の裏側を殴るような音が、室内の湿気と混ざって、息をするたび喉の奥まで重く落ちてくる。
ヘンリーは古びた作業台に突っ伏していた。指先が冷えるのに、背中だけが熱い。胸の奥がきしむように痛み、咳をするたび肺が擦れていく。
ラブが、濡れた布を絞った。水が落ちる音は雨に紛れて弱々しく、だから逆に、彼女がそこにいることを強く感じさせた。ラブはそれをヘンリーの額にそっと当てる。金属の指先は冷たく、冷たさが一瞬だけ熱を押し下げ、同時に「終わり」が近いような気配を連れてくる。
「ヘンリー、少しは楽になりましたか」
「……ああ。ありがとう、ラブ」
声は掠れていた。返事をするだけで体力を削られる。ここ数日、熱は引かず、咳は乾いたまま続き、歩くだけで視界の端がちらつく。それでも止まれない理由がある。設計図。村の動力炉。ラブのエネルギー。どれも、今の二人には欠けたら終わるものだった。
ラブは笑顔を崩さずに言う。
「無理はいけません。少しでも休んでください」
「……ラブこそ、大丈夫なのか」
ヘンリーは目だけを上げた。ラブの頬は変わらず柔らかい形をしているのに、動きがどこかぎこちない。胸元のランプも暗く、点滅が長くなっている。消えそう、ではなく、消えるまでの数え方を始めたみたいな点滅だった。
ラブは一拍置いて、笑顔を保ったまま言葉を繋ぐ。
「私は大丈夫です。ヘンリーのためなら、いくらでも……」
そこで言葉が途切れた。視線がわずかに逸れる。逸れた視線が戻るまでの間が、ヘンリーの胸を嫌な形に締めつけた。
「……例の場所へ、行くしかないんだな」
「はい。あそこなら、エネルギーパックが見つかるかもしれません。それに……」
「それに?」
ラブは微笑んだまま首を振る。
「……いえ、なんでもありません。とにかく、出発の準備をしましょう」
急かすような言い方だった。ヘンリーはそれ以上追えない。追えば、ラブの“何か”が壊れる気がしたし、自分の身体が先に折れる気もした。だからヘンリーは頷き、設計図の入った鞄に手を置いた。革の感触が頼りないのに、これが希望の形をしていると思い込むしかなかった。
二人は工場を出た。雨は弱まるどころか、霧を厚くして視界を削った。足元の泥が靴を吸い、歩くたび、世界が「ここで止まれ」と引き止めてくる。
「道は覚えていますか」
「……ああ。大丈夫だ」
大丈夫と言うのは嘘だった。地図の線は錆に似て滲み、目的地は“知識”ではなく“意志”でしか掴めない距離になっている。それでもヘンリーは歩いた。ラブが隣にいるうちに、辿り着かなければならない。
しばらく進んだところで、ラブの足が止まった。
「……少し待ってください」
「どうしたんだ、ラブ?」
ラブは霧の向こうを見つめた。霧しか見えないのに、そこに誰かがいるような目をしている。
「胸騒ぎがします。まるで、誰かに見られているような……」
ヘンリーは周囲を見渡した。雨と霧で何も見えない。見えないからこそ、背中がざわつく。
「……気のせいじゃないか。早く行こう」
ラブは小さく頷き、歩き出す。だが、その表情は強張ったままだった。ヘンリーもまた、霧の奥に視線を刺されている感覚を拭えない。
遠くで、微かな機械音がした。金属が擦れるような音が、雨に混じって規則的に近づいてくる。足音に似ているのに、足音より冷たい。
ヘンリーが息を止める。
「……今の音、聞こえたか?」
「ええ」
ラブは無表情で答えた。無表情の奥に、ほんの僅かな恐怖が宿るのを、ヘンリーは見逃さなかった。
二人は歩みを早めた。霧の中で方向感覚が崩れ、気づけば、朽ちた遊園地の残骸が現れた。錆び付いた観覧車が、夕焼けでもない灰色の空を背景に、黙った巨人のように立っている。メリーゴーラウンドは止まったまま、回るべき夢を全部置いていった顔をしていた。
ヘンリーはそこで膝をつき、激しく咳き込んだ。咳が止まらない。止まらない咳のせいで、目の前の世界が揺れて、さらに吐き気が増す。
「ヘンリー、休憩しましょう」
ラブが腕を取る。支える力は優しいのに、腕の感触が前より軽い。軽さが怖い。守ってくれる存在が、少しずつ“物”に戻っていく気がするからだ。
「だ、大丈夫……目的地まで、あと少しなんだ……」
ヘンリーは言い張ったが、足に力が入らない。ラブが売店の軒下へ導き、水を差し出す。水は冷たく、喉を通ると一瞬だけ生き返る。それでも身体の芯の熱は消えない。
「ヘンリーは、どうして私に尋ねるのですか」
ラブが、空を見上げたまま言った。
「……何を?」
「どうして私がついてくるのか、と」
ヘンリーは答えに詰まった。ずっと気になっている。ラブは過去を語らない。語るのは、世話と、守ることと、役目の話ばかりだ。その役目という言葉が、ヘンリーの胸を刺す。
「……言いたくないなら、無理に聞かない。でも、隠してることがあるなら……」
ラブは微笑み、しかし、その笑みの奥に影を落とす。
「過去は、もう私には関係ありません。私が大切にしているのは、ヘンリーとの時間だけです」
その言葉は救いだった。救いであるほど危険だ。別れの直前に、こういうことを言う人を、ヘンリーは知っている気がした。知らないはずなのに、記憶のどこかが痛む。
遠くから、焦げ臭い匂いが漂った。金属が活動する時に出る匂い。獣のような機械の匂いだ。ラブは反射で前に立ち、ヘンリーを庇う位置へ身体を滑らせる。その動きが自然すぎて、ヘンリーは怒りと恐怖の区別がつかないまま声を漏らした。
「ラブ……?」
「……行きましょう。長居は無用です」
ラブは手を引いた。引かれるままに歩き出した時、地平線の向こうに、見慣れない金属の塔が現れた。空を突き刺すように立っている。設計図には載っていないはずの巨大構造物だ。塔の周囲には、赤い点のような光がいくつも見える。金属の獣たちが集まっている。
ヘンリーは目を凝らした。
「……あれ、何だ……?」
ラブの表情が、一瞬だけ歪んだ。すぐに穏やかな笑顔に戻るが、戻った笑顔が不自然だった。
「危険です。近づかない方が賢明でしょう」
「でも、気になる。設計図の謎を解くヒントが、あの中にあるかもしれない」
ヘンリーが言うと、ラブはいつもより強い声で返した。
「ヘンリー。あなたの安全が第一です。私の判断に従ってください」
その言葉の硬さが、ヘンリーの胸の奥で鈍く鳴った。従ってほしいのは分かる。守りたいのも分かる。だが“判断に従え”は、隣にいる相手に言う言葉ではない。命令に似すぎている。
雨が強くなり、視界の輪郭が溶けた。二人は塔を避け、地図に示された方向へ進む。途中、半ば土に埋もれた巨大なコンクリートの箱が見えた。箱。研究所。誰も帰ってこない場所。村人が恐れて囁く呼び名が、現実の形になって目の前に立っている。
ラブが低く言う。
「未知の建造物です。警戒が必要です」
ヘンリーは泥を払うように息を吐き、地面に埋もれた金属扉を見つけた。錆び付いたレバーが付いている。ここが入口だ。そう確信した瞬間、背後で金属が擦れる音がした。近い。霧の中で赤い光が揺れる。
ヘンリーの喉が鳴る。
「……来てる」
ラブは扉に手を置き、しかし首を振る。
「扉の状態が不安定です。無理に開けると崩落する可能性があります」
「でも、この雨だ。ここで止まったら――」
言い終える前に、ラブの身体が小さく震えた。胸元のランプが不規則に点滅し、微かなエラー音が混じる。ヘンリーはその音に耐えられず、扉のレバーへ手を伸ばした。ラブがそれを止めるように、腕を掴む。
「……今は、別の入口を探しましょう」
ラブの声が、いつもより遅い。遅いということは、内部で何かを削っているということだ。ヘンリーは頷いた。頷くしかない。ラブの“削り方”を、これ以上増やしたくなかった。
霧は深くなり、世界が白く閉じていく。やがて、ラブの動きはさらに緩慢になった。歩幅が揃わない。呼吸に似た機械音が途切れがちになる。ヘンリー自身も熱で視界がちらつき、足元が浮くように感じる。それでも、二人は進んだ。進むことだけが、まだ二人を生かしていた。
そして、限界は突然来た。
ラブが、かくんと膝を折った。
ヘンリーが慌てて抱きとめると、ラブの身体は驚くほど冷たい。冷たさが怖い。温もりが戻らない冷たさだ。
「ラブ……起きて。お願いだ」
呼びかけても反応がない。胸元のランプだけが、弱々しく明滅している。消えかけの灯火のように。ヘンリーは震える指で設計図を取り出したが、文字が滲んで読めない。熱のせいで世界が歪む。絶望が、熱より速く身体を冷やした。
「……ごめん。僕がもっと……」
言葉が続かない。続けたら、言い訳になる。言い訳にした瞬間、ラブを道具にしてしまう気がした。
背後で、金属が軋む音がした。
振り返ると、巨大な“金属の獣”が、雨の中から姿を現した。建設用ロボットの残骸。腕が異様に長く、掴むための関節が歪んでいる。赤い目だけが鮮明だった。
ヘンリーはラブを背負ったまま後ずさる。足元が滑る。息が詰まる。逃げられない。逃げなければ。
「来ないで……お願いだから、来ないで!」
獣は止まらない。巨大なアームが迫り、雨粒がその装甲で砕ける。
ヘンリーは必死に走った。瓦礫の隙間を縫い、転びそうになりながら、それでも前へ出る。背中のラブは動かない。動かない重みが、今は世界で一番重い。
霧の中で、朽ちた地下鉄の車両が見えた。鉄の箱。雨を遮れる。ヘンリーは飛び込むように車両へ入り、隅へ身を寄せた。ラブを抱きかかえ、胸元を押し当てるようにして温めようとする。だが、温められない。自分の身体の熱も、病の熱でしかない。
「ラブ……起きてよ……」
ヘンリーは設計図を広げ、微かな光で読み始めた。しかし文字が滲む。目が霞む。自分の命と、ラブの命が同時に細くなっていくのが分かる。
「だめだ……見えない……」
その時、車両の入口に人影が現れた。老人だった。ボロボロの服、しかし足取りはしっかりしている。雨の中を歩いてきた匂いがする。老人はラブを見て、目を細めた。
「……まだ、生きていたのか」
ヘンリーは咄嗟にラブを抱きしめ直す。奪われると思った。守らなければと思った。
「あなたは……?」
「通りすがりだ。だが、お前さんは病だ。そのままじゃ死ぬ」
老人の声は淡々としていた。淡々としているから怖い。現実の言葉は、いつも淡々と落ちてくる。
「……わかってる」
老人は続けた。
「わしの村に来い。医者がいる。お前の病なら、まだ間に合うかもしれん」
ヘンリーは老人の言葉に揺れ、すぐにラブを見た。ラブは動かない。動かないまま、胸のランプだけが明滅する。そこにあるのは「生きている」の主張だ。置いていけと言われても、置いていけるわけがない。
「ラブを置いていくなんて……」
老人は眉を寄せた。
「連れて行くのは難しいだろう。その獣は重すぎる。村人も恐れる。騒ぎになる」
重い。
確かに重い。
けれど本当に重いのは、ラブそのものじゃない。ラブを置いていくという事実の重さだ。
ヘンリーは長い沈黙の末、口を開いた。
「……行きます」
言った瞬間、喉が焼けた。
行くと言ったことが、ラブとの別れを確定させる気がして。老人が言う“戻れない”が、現実味を帯びすぎて。
それでもヘンリーは、ラブの頬に触れた。
「……必ず、また会いに来るから」
そして立ち上がろうとした、その瞬間。
ラブの胸元のランプが、少しだけ明るくなった。
明滅が、意思のあるリズムになった。
消えかけの灯火が、最後の言葉を絞り出すみたいに。
ヘンリーは息を呑み、ラブに耳を寄せた。
微かな機械音の向こうから、かすれた声が聞こえた。
「……データ……バックアップ……」
ヘンリーの瞳が見開かれる。
「データ? バックアップ? どういうことだ、ラブ……!」
ラブの唇が、ほんの僅かに動いた。
「……頭部……ユニット……」
ヘンリーはラブの頭部を見た。そこに小さな蓋がある。今まで気づかなかったのではなく、気づかないふりをしていた場所だ。開けることは、ラブを“機械”として扱うことと同義に思えて怖かったからだ。
でも今は違う。
開けることは、ラブを救う可能性だ。
ヘンリーは震える手で蓋を開き、小さな金属の箱を取り出した。ひどく冷たく、しかし確かな重みがある。記憶。人格。ラブの「ラブ」であるための核。
「これが……ラブの記憶……」
ランプが一度だけ強く点滅した。肯定の合図に見えた。
ヘンリーは箱を胸に抱きしめた。抱きしめた瞬間、決意が熱を上回った。村へ行く。病を治す。戻る。ラブを迎えに来る。迎えに来るだけじゃ足りない。復元する。修理する。隣に戻す。
老人の手が差し出される。ヘンリーはその手を取った。手の温度が人間の温度だ。久しぶりに触れる“生身”の温度が、ヘンリーの中の現実感を殴る。
ヘンリーは最後にもう一度、ラブを見た。
動かないラブ。
しかし、消えそうな灯火はまだ消えていない。
「……さよなら、じゃない」
ヘンリーはそう言って、自分自身を縛るために頷いた。
「必ず、戻る」
雨は止まない。霧も晴れない。
それでもヘンリーは、金属の箱を背負い、老人の背中を追った。
箱の中で生きるのは、研究所だけじゃない。
いまのヘンリーもまた、胸の中の箱――ラブの記憶を抱えて、生き延びる側に回らなければならなかった。




