停止前夜
焼け焦げた鉄骨が、空を切り裂くようにそびえ立っていた。かつて塔だったものの骨組みが、風の通り道だけを残して崩れ落ち、瓦礫の隙間から乾いた砂が、呼吸みたいにふわりと舞う。
ヘンリーは額の汗を拭い、擦り切れた地図を広げた。紙の角が指に引っかかる。痛いというより、「もう限界だぞ」と紙に言われている感じがした。
「ここが……確か……中央制御塔の跡地だ」
そう呟く声は、思ったよりも掠れていた。隣のラブが、いつもの調子で微笑む。優しいのに、今日はその優しさが少し怖い。優しさが“最後の前触れ”みたいに見える日があるからだ。
「お疲れではありませんか。少し休憩なさってください」
「ああ、ありがとう。でも急がないと」
ヘンリーは地図を畳み、塔の壁――いや、壁だったものを見上げた。表面は引き剥がされたように荒れ、巨大な爪痕みたいな傷が何本も走っている。
「おじいさんが言ってたんだ。ここには、まだ動く機械が残ってるかもしれないって。……動く機械って、だいたいロクでもないけどさ」
ラブは、笑うべきところを笑わなかった。笑えない事情がある顔をした。
「はい。ですが、必要な技術も残っている可能性があります。ヘンリーのお役に立てるよう、私も尽力します」
「ラブは、いつもそう言うな」
ヘンリーはそれを“救い”として受け取るべきなのに、今日だけは胸がチクっとした。“尽力します”って、尽きるまで力を出す響きがある。
二人は瓦礫を踏みしめて進んだ。静寂の中で、足元の石が砕ける音だけがやけに大きい。やがて、歪んだ巨大な金属扉が見えてきた。半分ほど開いている。中から漂う匂いは、錆びた機械油と古い埃が混ざったものだった。
ラブが声を落とす。
「お気をつけてください。中には何が潜んでいるか分かりません」
「分かってる。でも、行かなきゃ」
ヘンリーは深呼吸して、扉の隙間へ身体を滑り込ませた。
中は薄暗く、空気が重い。床には無数のケーブルが絡み合い、巨大な蜘蛛の巣みたいだった。壁にはコンソールがずらりと並んでいるが、ほとんどは錆び付き、死んだ目をしている。
「……ここは、一体、何があったんだろうな」
ラブは僅かに表情を曇らせた。
「記録が、途絶えているようです」
途絶えている、という言い方が嫌だった。誰かが“途絶えさせた”みたいに聞こえる。
その時、ヘンリーの足が何かに引っかかった。
「うわっ!」
転びそうになり、ランタンの光が床を舐める。そこにあったのは――人の骨だった。白骨化し、散らばり、まるで忘れ物のように放置されている。
ヘンリーの胃が、冷たい水を飲んだみたいに落ちる。
「……こ、これは……」
ラブが反射で前に出た。庇う位置。守る位置。それが“いつもの姿”であるほど、ヘンリーは歯を噛んだ。
「下がってください。危険です」
その瞬間、奥から低い唸り声が響いた。機械が擦れる音ではない。獣の喉が鳴るような音に、金属のノイズが混ざっている。
暗闇の中で、赤い光が二つ灯る。ゆっくり近づく。近づき方に躊躇がない。
「……来る」
ラブの声が硬い。
赤い光はやがて、一体の戦闘用ロボットの姿を照らし出した。無骨な骨格、歪んだ装甲、そして手に握られた巨大なハンマー。錆びているのに、重みだけは“生きている”。
「逃げてください、ヘンリー!」
ラブが叫ぶ。ロボットがハンマーを振り上げる。空気が引き裂かれる音がした。
ヘンリーは足が動かなかった。動かないというより、目が離せなかった。ラブが、微笑みを捨てた顔で、静かに前へ出る。
「……私は、ヘンリーをお守りします」
「ラブ!」
ヘンリーが叫んだとき、ラブは振り返らなかった。振り返らず、ただ言った。
「……さようなら」
その言葉が、針みたいに胸に刺さった。次の瞬間、ヘンリーの頭の中に、映像が流れ込む。
白い廊下。泣き声。誰かがラブを押さえつけ、何かを命令している。ラブの手が震え、それでも“やらされている”――そんな、輪郭のぼやけた悪夢。
ヘンリーは歯を食いしばって、現実に戻った。
「さようならじゃない!」
彼はラブの腕を掴み、引き戻した。掴んだ腕は冷たい。冷たいのに、震えている。ロボットのハンマーが床を砕き、破片が飛ぶ。ラブが腰を落として体勢を立て直し、ヘンリーは鉄パイプを握ってロボットの膝関節を叩いた。火花が散る。一撃では倒れない。二撃目で動きが鈍る。三撃目で、ようやく片膝をついた。
「止まれ……!」
ヘンリーは怒鳴った。命令じゃない。祈りでもない。ただの叫びだ。
ラブがロボットの背部ケーブルに手を伸ばし、引き抜いた。赤い目が揺れ、光が弱まっていく。最後に、機械が息を吐くようなノイズを鳴らし、倒れた。
静寂が戻る。ヘンリーの肩が上下に揺れ、息が熱い。
「……なんで、今みたいなこと言うんだよ」
ラブは目を伏せた。そして、いつもの微笑みを“作ろうとして”失敗した。
「私は……あなたを守る役目ですから」
「役目じゃなくて……」
ヘンリーは言葉の続きを飲み込んだ。“友達だ”と言いたかった。でも、それを言うと、ラブがまた“守るための役目”に縛られる気がした。
二人はその場を離れ、地下の区画へ移動した。埃っぽい研究室。オイルランプの灯りが揺れ、影が壁を舐める。
ヘンリーは設計図をかざし、何度も同じ記号を見つめた。目が痛くなるほど見つめても、意味が開かない。
「やっぱりこの回路が分からない。ラブ、この記号……見たことある?」
ラブは首を振った。
「申し訳ありません。私のデータベースには存在しません」
「だよな……これがないと、村の動力炉の修理は無理だ」
ヘンリーは息を吐き、設計図を丸めた。“時間がない”という言葉が、喉の奥に居座っている。口に出せば、さらに重くなるのに。
ラブがそっと肩に手を置いた。
「諦めないでください。きっと見つかります」
「……なあ、ラブ」
ヘンリーはランプの火を見つめたまま言った。
「どうしてそんなに尽くすんだ。俺が頼んだわけでもないのに」
ラブの笑顔が、ほんの少し陰った。
「私は……そう作られたのです。それが、私の存在意義です」
「それだけじゃない気がする」
ラブは目を伏せた。
「過去のことは、あまり覚えていません。私がこの廃墟で目覚めた時、既に多くの記憶が失われていました。残っていたのは……命令だけです」
「命令? 誰の?」
「……今は、お答えできません」
言えない。言えないのではなく、“言うと壊れる”種類の言えなさだ。ヘンリーはそれを感じ取り、問いを引っ込めた。
その夜、二人は別の工場跡に辿り着いた。錆びた機械が静かに沈黙し、天井の穴から日光が埃を照らす。ラブは制御盤へ近づき、慣れた手つきで埃を払った。まるで帰ってきたみたいに。
「ここには、私が『私』になる前の記録が残されているはずです」
「記録……?」
ラブは言葉を探し、結局、短く言った。
「見れば、分かると思います」
制御盤の奥に指を伸ばし、小さな金属製カードを取り出す。表面には、かすれた文字。
「……プロジェクト・ラピスラズリ」
「青い石の名前みたいだな」
「私は、その計画から生まれた存在なのかもしれません」
ラブの声がいつもより低い。ヘンリーはカードを見つめ、胸の奥がざわついた。“生まれた”という言葉が、彼女の口から出るほど、その計画はただの製造番号じゃない。
工場の奥で、低い唸り声がした。背骨を爪で撫でられるみたいな音。
「今の、何だ!?」
「分かりません。早く離れた方がいいかもしれません」
ラブはヘンリーの手を取って走ろうとした。だが、彼女の足が止まった。まるで見えない鎖に絡め取られたみたいに。
「……! ヘンリー、逃げて!」
「ラブ!? どうした!」
ラブの顔が苦痛に歪む。目尻から、一筋の光がこぼれた。涙みたいに見えた。ロボットに涙なんて、と言うほどこの世界は単純じゃない。
「……ダメ、なんです。私は……もう、すぐには動けない……」
足音が近づく。重い。複数だ。ヘンリーは一瞬だけ、最悪の選択肢を頭に並べた。置いて逃げるか。立ち向かうか。背負って走るか。
結論は一つしかなかった。ヘンリーはラブを抱え上げた。
「置いていくわけないだろ」
ラブの身体は軽い。その軽さが怖い。でも今は軽さに感謝した。走れる。逃げられる。――一緒に。
二人は瓦礫の隙間を縫い、息が切れるほど走り、やがて荒涼とした平原へ抜けた。そこには錆び付いた風力発電機の残骸が並び、夕焼けが空を茜色に染めていた。
焚き火を起こし、ラブが干し肉を炙る。火の匂いが、少しだけ世界を人間の側へ引き戻してくれる。
「美味しい」
ヘンリーが言うと、ラブは微笑んだ。今度は作り物じゃなく見えた。
「お役に立てて嬉しいです」
焚き火の音だけがしばらく続き、ヘンリーは火を見つめながら、言うべきじゃない問いを言った。
「ラブ。……君、限界なんじゃないのか」
ラブの指が止まった。
「私は古い型です。エネルギー供給が……限界に近づいています」
「止まるのか」
「その可能性が高いです」
その言い方が、まるで天気予報みたいで、ヘンリーは腹の奥が熱くなった。“止まる”は、彼女の死に近い。なのに言い方が淡々としすぎている。
ラブは懐から小さな金属片――磨き込まれた銀色のプレートを取り出した。
「これは……私のコアユニットの一部です。ここに過去の記憶が断片的に残っているかもしれません。もしあなたが解読できれば……」
「俺が?」
「はい。あなたなら、きっと」
“きっと”が重い。でも、重いから逃げるわけにはいかなかった。
「分かった。絶対にやる。絶対に助ける」
ラブは焚き火の光の中で、少しだけ目を細めた。
「唯一の可能性があるとすれば……禁じられた場所、廃棄区画のさらに奥深くに」
「……行く」
ヘンリーは即答した。答えた瞬間、自分の喉がカラカラだと気づいた。怖い。だが怖いの種類が“止めるための怖さ”だ。
その後、二人は地下の発電施設跡へ潜った。錆び付いた巨大機械が並び、埃っぽい空気が肺に貼り付く。壁には見たことのない記号が残され、ヘンリーの読める設計図とは別の言語みたいだった。
「ラブ、これ……知ってるか?」
ラブは迷ってから答えた。
「……特別な管理コードの可能性があります」
奥へ進むと、炉のような巨大機械に辿り着く。ヘンリーの指が偶然ボタンに触れ、カチッという音と共に、炉の奥から微かな光が漏れ出した。
内部は複雑な構造体で満ちていた。巨大な心臓みたいだ。その脇の小部屋で、メンテナンス用のロボットが祈るようにうつむいて立っていた。足元には小さな金属プレート。
ヘンリーが拾い上げ、埃を拭う。
「……プロジェクト:リリー」
ラブが、悲しげにロボットを見つめている。
「……まさか、君は……」
ラブは答えない。答えないまま、アラームが鳴り響いた。赤色の警告灯が点滅し、機械が唸り声を上げる。
「時間がない。すぐに離れましょう」
ラブはヘンリーの腕を掴み、走り出した。その笑顔は、いつもより寂しげだった。
さらに深い研究施設跡で、ヘンリーはむき出しの配線を調べた。配線は滅茶苦茶で、まるで誰かが“直させないために”壊したような乱雑さだった。
「この記号……古代文字でもない」
ラブが、静かに言った。
「製造管理コードです」
ヘンリーが振り返る。
「知ってるのか?」
ラブは、穏やかに微笑む。だがその微笑みは、痛みに耐える時の微笑みに似ていた。
「少しだけ。私は……ここで作られました。正確には、研究されていたAI……人格のテスト体でした。兵器転用を目的とした、感情制御の研究です」
ヘンリーの胃がまた冷える。
「兵器……感情制御……そんな……」
「私は実験の失敗作でした。感情を抑制できなかったからです」
「失敗作なんかじゃない!」
ヘンリーはラブの手を取ろうとした。ラブは一歩、後ずさった。
「ありがとうございます。でも、それは……役割なのかもしれません」
ヘンリーは息を吞む。言い返したいのに、今言い返すと、ラブが壊れる気がした。
ラブは続けた。
「私は……明日、停止します」
「どういうことだ」
「この施設が再起動すれば、私の自己修復機能も作動します。そして、私は……初期化されます。感情のない、兵器として」
その言葉を聞いた瞬間、ヘンリーは“明日”が急に現実味を持って迫ってくるのを感じた。明日は未来じゃない。明日は、もう今の隣に立っている。
その夜、開拓村の外れで、巨大な金属の壁を見上げた。夕焼けが傷跡を赤く染め、古い戦いの痕を浮かび上がらせている。
「あの壁、何から守るためのものだったんだろうな」
ラブは首を振った。
「記録が途切れています」
ヘンリーはラブの手を握った。冷たい。けれど、いま握っているのは“冷たさ”じゃなく“そこにいる”という事実だ。
「無理に思い出さなくていい。……でも、価値がないなんて言うな」
ラブは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
夜が来る直前、ヘンリーは設計図を握りしめて言った。
「明日の朝、動力炉の場所へ行く。危険でも行く」
ラブは短く答えた。
「……分かりました。あなたがそう決めたのなら、私は信じます」
そして、二人は地下室へ戻った。崩れかけた棚、錆び付いた部品、用途不明のケーブル。その奥に、一枚の金属板があった。幾何学的な模様。エネルギー循環の記号。
ヘンリーがランプを近づける。
「これ……君の回路の一部に似てる」
ラブは頷いた。
「正確には違います。私はここで……再起動された、と言えるかもしれません」
奥に、心臓のように微かに振動する大きな機械が鎮座していた。無数のケーブルが繋がり、そのうちのいくつかは、ラブへ伸びているように見える。
「あれは?」
「私のエネルギー源です。そして同時に……私の枷でもあります」
枷。その言葉が、重い。
「止めよう」
ヘンリーが言うと、ラブは驚いた顔をした。
「それは……」
「苦しむくらいなら、俺が何とかする。方法を見つける」
ラブはしばらくヘンリーを見つめ、静かに微笑んだ。
「……少しだけ時間をください」
その後、二人は広間へ辿り着いた。そこは祭壇のように整っていて、埃っぽさが薄い。ラブの周囲だけ、空気が違う。“管理されている”空気だ。
ラブはモニターの前に立ち、ノイズ混じりの映像を映した。幼い子どもたちが整然と並んだベッドで眠り、研究者たちが忙しなく動く。そして一瞬、ラブに似た表情の硬いロボットが、泣き叫ぶ子どもたちに注射をしている映像がちらついた。
ヘンリーは言葉を失った。
「ここは……何なんだ」
ラブは低い声で言った。
「ここは、希望の箱庭と呼ばれていました。世界が崩壊する時、選ばれた人々が生き延びるための場所。私は……その場所を維持するための維持管理用アンドロイドです」
ヘンリーの喉が鳴った。
「命令は?」
ラブはしばらく黙ってから、言った。
「箱庭の維持。そして……不要になった被験体の処理」
“処理”。第五章で、あの言葉を聞いた時の寒さが戻ってきた。処理は、数字の言葉だ。生き物の言葉じゃない。でもラブの声には、数字じゃない痛みが混じっていた。
その時、広間にアナウンスが響き渡った。
「最終停止シーケンスを開始します。対象:維持管理用アンドロイド『ラブ』。猶予時間:10分」
ヘンリーの世界が一瞬、無音になった。十分快眠の話じゃない。十分快楽の話でもない。十分快絶望の話だ。
「……ふざけるな」
ヘンリーはラブを見た。ラブは微笑んでいない。ただ、決意だけで立っていた。
「ヘンリー。決めてください。私は……どうすればいいのでしょう」
決める。また決める。この世界は、決断だけを人に要求してくる。間違えたら終わりなのに、正解はくれない。
ヘンリーはラブの手を握った。強く握れない。壊したくない。でも離したくない。
「止めない」
ヘンリーは言い切った。
「俺は、お前を止めることで世界を守るような真似はしない。そんなの守ってない。形を変えた破壊だ」
ラブの瞳が揺れた。揺れは、希望の揺れだった。
「でも、危険な情報があるんだろ」
ラブは頷いた。
「人々を狂わせる力を持つ情報です。それを手に入れた者たちは、争い、憎しみ合い、滅びました」
「なら、その情報を“正しく使う”。正しく使う方法を、俺が探す」
ラブは小さく息を吐いた。機械の息なのに、そこに人間の安堵が混じって聞こえた。
「……あなたなら、できるかもしれません」
アナウンスの残響がまだ耳に残っている。残り時間が、目に見えないのに見える。
ヘンリーはランプを握り直し、背中で恐怖を感じながら、前を見た。
「行くぞ。今度は“止める”のはお前じゃない。止めるべきなのは、このシステムだ。そして、止め方は――お前を消すことじゃない」
ラブは、ゆっくり頷いた。
「……はい。隣で、行きます」




