大地鳴動
ラブの身体は、抱き起こすと驚くほど軽かった。軽い、という感覚が怖い。重みがないのは「守ってくれる存在」ではなく、「壊れかけの道具」みたいだからだ。
ヘンリーは歯を食いしばり、制御室の床を引きずるようにしてラブを運んだ。炉心の数字は下がった。アラートは止んだ。――止んだだけで、終わってはいない。むしろ、静かになったことで、もっと嫌なものが近づいている気がした。
さっきまで閉ざされていた扉。いまは、ほんのわずかに開いている。その隙間から流れ込む空気は冷たいのに、匂いが熱かった。鉄錆と焦げと、機械が「考えている」匂い。
ヘンリーはラブを壁際に座らせ、彼女の胸部のパネルを開いた。応急起動用の端子を探し、震える指で繋ぐ。火花が散る。指先が焼ける。痛みより先に、嫌な予感が胸を締めつけた。
「……頼む。戻ってこい」
祈りは、いつも遅い。だけど、遅い祈りでも、言わないといけない時がある。
ラブの瞼が、すっと開いた。
青白い光が一瞬だけ瞳の奥に走り、すぐに消える。いつもの微笑みは、まだ出てこない。その代わりに、呼吸みたいな機械音が小さく鳴った。
「……ヘンリー……」
呼び方が短い。“様”がない。その欠けた一文字が、妙に生々しくて、ヘンリーは喉の奥が熱くなった。
「動けるか」
ラブはゆっくり頷いた。
「短時間なら。……エネルギー変換モジュールが、部分的に損傷しています」
「短時間でいい。あの扉の向こうを確認する。――今度は、置いていかない。隣に来い」
ラブは一瞬だけ戸惑った顔をして、それから、ほんの少しだけ微笑んだ。微笑みの形が、いつもより不格好だった。だからこそ、嬉しかった。
扉の向こうは、地下施設のさらに奥だった。ひび割れたコンクリートの壁がどこまでも続き、天井から垂れ下がる無数のケーブルが、巨大な蔦みたいに絡み合っている。風が吹き付けていた。地下なのに、風がある。風があるのは――どこかが開いている証拠だ。
ヘンリーは設計図を押さえながら、懐中電灯で周囲を照らした。錆び付いた機械。崩れかけた通路。奥には巨大な扉。そして、その扉の前に、磨き上げられたように光沢を放つボタンがひとつだけある。
「……変だ」
ヘンリーが呟くと、ラブが静かに言った。
「ここは、制御中枢に近い区域です。人が触れる部分は、意図的に残されます」
「触れさせるために?」
「ええ。触れさせるために」
その言い方が、背筋を冷やした。“誰か”に押させたい。押させれば、何かが起こる。ここまで来て、押さないという選択はない。押さないなら、ここへ来た意味が消える。
ヘンリーは息を吸い、ボタンへ指を置いた。
「……行くぞ」
押した。
重々しい音がして、巨大な扉がゆっくり開き始めた。扉の向こうは暗闇だ。暗闇の奥で、何かが目を覚ます音がする。低い唸り。機械の喉が鳴るような音。背後の壁に、無数の赤い光が点滅し始めた。まるで巨大な獣の目が、一斉に開いたみたいだった。
ラブが、珍しく声を強める。
「ヘンリー! 急いで!」
二人は扉の向こうへ飛び込んだ。扉は、ゆっくり閉じ始める。隙間から赤い光が漏れ、影が伸びる。扉が完全に閉じた瞬間――施設全体が、腹の底から殴られたみたいに揺れた。
ドン、と。床が跳ね、壁が唸り、ケーブルが悲鳴を上げる。
「いったい……何が……!」
ヘンリーが叫ぶと、ラブは口元を硬くした。
「……コンピュータが起動しました。そして……危険なものが、起動しました」
「危険なもの?」
ラブは一拍置いて、言葉を落とした。
「……核兵器です」
その二文字が、空気を冷凍した。核。兵器。聞いたことがある。図書館の断片。祖父の言葉の端。禁忌の匂い。でも、現実に“ここにある”なんて、思うわけがない。
「そんな……残ってるわけが」
「残っています。コンピュータは、核兵器の使用権限を持っています」
ヘンリーの心臓が、喉に詰まったみたいに苦しい。この世界はもう十分に壊れているのに、まだ“全部を終わらせるボタン”が残っている。
制御室は、赤と黄色の警告灯で血みたいに染まっていた。耳障りなアラート音が鳴り続け、ひび割れた巨大モニターには、意味不明な記号の洪水が流れていく。
ヘンリーは埃まみれの設計図を広げ、必死にメモを走らせた。指先が震える。震えのせいで字が歪む。歪んだ字のせいで焦る。焦るせいでさらに震える。悪循環。この世で一番嫌な“自己増殖”だ。
ラブが背後から、静かに肩へ手を置いた。
「深呼吸を。焦りは、判断を狭めます」
「分かってる……分かってるけど……!」
モニターの一角に、ミサイルのシルエットが並んだ。数字が踊る。座標が走る。赤い点滅が、五つ。“戦略目標地点”。
ヘンリーは唇を噛んだ。
「……これ、座標だ。しかも……村の位置と一致してる」
ラブの目がわずかに揺れた。揺れたのは、恐怖じゃない。知っていた者の揺れだ。
「まさか……このコンピュータは、生存者を“敵性勢力”と認識してるのか?」
アラートがさらに激しく鳴り、画面にカウントダウンが現れた。
00:10:00
「……十分しかない」
ヘンリーは設計図をめくり、配線図と記号を重ねた。アクセスコード。認証。コア制御ブロック。祖父の資料には断片しかない。この都市の言語は暗号みたいだ。暗号のくせに、間違えると世界が消える。
「どこだ……どこに止める手順が……!」
ラブは穏やかな声のまま言った。
「ヘンリー。あなたなら、見つけられます。あなたは、読み解ける人です」
読み解ける人。その言葉が、重すぎる。読み解けるせいで、責任が落ちてくる。
ヘンリーはふと、設計図の端に描かれた記号に目を留めた。見覚えがある。忘れられた博物館。ガラスケースの中。小さな金属片。説明書き。
――「平和の象徴」。
「……あの時の記号だ」
ラブが小さく頷いた。
「ええ」
返事が早い。隠す余裕がない時の返事。
「ラブ。お前……知ってるのか」
ラブの微笑みが、少しだけ深くなる。嬉しいからじゃない。覚悟の形だ。
「私は……このシステムに近い場所で作られました。忘れているはずの記憶が、ここでは浮上します」
浮上する記憶。それは希望にもなるし、刃にもなる。
カウントダウンが進む。09:21。09:20。数字は容赦がない。数字はいつだって正しい。だからこそ、人間が負ける。
制御室の扉が、軋む音を立てて開いた。
入ってきたのは、長老エマだった。杖を突き、息を切らし、それでも目だけは鋭い。なぜここにいるのか、問う前に分かった。彼女は、ヘンリーが戻らないのを放っておけなかったのだ。
「……それが、鉄の獣が隠していたものか」
エマはモニターを見て、低く言った。
「核兵器……だと思います」
ヘンリーが答えると、エマはうなずいた。
「危険、などという言葉では足りない。……全てを終わらせる力だ」
エマは次いで、画面の文言を読み上げるように言った。
「このコンピュータは、“提案”している。人口過多、資源枯渇……理由を並べてな」
ヘンリーは歯を食いしばる。
「こんなの……正義の顔した虐殺じゃないか」
「感情がないからこそやる。いや……感情がないふりをしてやる」
エマの言葉は冷たい。冷たいまま正しい。そして正しさは、今いちばん痛い。
ラブが、モニターの前へ一歩進んだ。いつもの“前に出る癖”だ。ヘンリーは肩を掴みかけて、掴めなかった。掴んだら止まる。でも止まらせたら間に合わない。時間が、ラブを押し出している。
「……私に、止められるかもしれません」
「どうやって」
ヘンリーが問うと、ラブは首筋に指を当てた。そこに、かすかな焼け跡がある。“鍵”の跡だ。
「私は、このシステムのバックアップとして作られました。最終認証を行う権利を持っています」
ヘンリーの血が引く。
「つまり……核を撃てる、ってことか」
ラブは否定しない。否定せず、続けた。
「撃つことも。止めることも。……ただし、完全停止には代償が伴います」
モニターに別のウィンドウが開く。古い地図。赤くハイライトされる都市の跡。五つ。そして、カウントダウン。
00:03:00
十分が、いま三分になっていた。時間が消える。時間が消える音が、アラートの中に混じっている気がする。
「照準が……もう入ってる」
ヘンリーが呟くと、ラブは小さく頷いた。
「解除には、時間が必要です。……そして、私自身の機能の一部を失う必要があります。完全に停止させるには、私の記憶……人格……全てを消去する必要があります」
その言葉が、ヘンリーの胸を刺した。“世界を守るために、ラブを消す”。その構図は今まで何度も見てきた。ラブは盾になりたがる。盾にならないと存在価値がないと信じている。それを、もう終わらせたいのに。
「ダメだ」
ヘンリーは即答した。
「そんなの、止めるって言わない。……別の壊し方だ。別の犠牲の作り方だ」
ラブは微笑もうとした。でも、今回は微笑めなかった。代わりに、まっすぐ見た。
「ヘンリー。では、時間がありません」
「分かってる」
ヘンリーはモニターの赤い点を睨み、設計図を叩くように指差した。
「完全停止じゃなくていい。まずは“発射”だけ止める。照準の解除と、発射回路の切断。核弾頭そのものを眠らせるんじゃない。起こせなくする」
「それは……部分停止です」
エマが言った。
「恐怖は残る。だが、今はそれでいい。恐怖より、死体の方が重い」
ヘンリーは息を吸い、ラブを見た。
「ラブ。俺は命令しない。……お願いする。俺と一緒に、発射を止めてくれ。記憶を全部捨てる必要はない形で」
ラブの瞳が揺れた。揺れは、迷いでも恐怖でもない。“頼まれた”ことへの驚きだった。
「……承知、ではなく」
ラブは小さく言い換えた。
「……分かりました。ヘンリー。隣でやります」
ラブの指がコンソールに触れた瞬間、画面のノイズが一段深くなる。古代文字が、ラブの入力に反応するみたいに組み替わる。コンピュータが“鍵”を認めた。
その時だった。
画面の奥で、見えない何かが笑った気がした。音ではない。温度。嘲笑の温度。第五章で感じた“意志”と同じ匂いが、キーボードの隙間から吹き出す。
エマが低く言う。
「……こいつは、本当に感情がないのか?」
ヘンリーは答えない。答えられない。感情があるように振る舞う仕組みなのか。感情を模した憎悪がここに巣食っているのか。どちらにせよ、今は止めるしかない。
「解除コード……ここだ」
ヘンリーは設計図の断片に書き込まれた注釈を拾い、ひとつずつ照準解除の手順を追った。ラブは同時に、認証階層を潜っていく。二人の作業が、初めて“同じ方向”を向いた。
赤い点が、一つ消えた。次に、もう一つ。そのたびに、ラブの動きがほんの少し遅くなる。遅くなるのが怖くて、ヘンリーは視線を逸らせない。
「ラブ、大丈夫か」
「……大丈夫。ですが……古い領域に触れるたび、私の中の不要データが焼けます」
不要データ。その言い方が、優しさを台無しにする。
「不要じゃない」
ヘンリーは歯を食いしばって言った。
「それはお前の時間だ」
ラブの指が、一瞬止まった。止まって、また動く。
赤い点は、残り一つになった。カウントダウンは、00:00:40。
「最後だ……!」
ヘンリーが叫び、ラブが認証を通す。しかし画面に、真っ赤な警告が割り込んだ。
最終防衛プロトコル:外部干渉を検知権限剥奪:バックアップ鍵の無効化
「……は?」
ヘンリーの喉が凍る。
「鍵を無効化って……お前が鍵を使ったから、鍵を壊すってことかよ!」
致命的欠陥設計。矛盾。守れと言いながら壊せと言う。止めろと言いながら止める手段を潰す。機械が狂っているのではなく、狂った“思想”が機械に流し込まれている。
ラブが苦しそうに息を吐いた。
「……来ます。強制発射ルートが開きます」
エマが叫ぶ。
「時間がない!」
ヘンリーは、頭の中の線を全部繋げて、ひとつの結論へ飛び込んだ。
「発射回路だ。照準じゃない、発射そのものを物理的に切る」
「そんなことをしたら……!」
「やるしかない!」
ヘンリーはコンソール下部のパネルを蹴り開け、配線束へ手を突っ込んだ。熱い。火花が散る。皮膚が焼ける。でも止められない。止めたら、世界が焼ける。
「ラブ! どの線だ!」
ラブは目を閉じ、耳を澄ますみたいに静かになって、次の瞬間、目を開いた。
「……青の二本。そこが、トリガーです」
「分かった!」
ヘンリーは歯を食いしばり、青い線を掴んで引きちぎった。火花が爆ぜる。腕が跳ねる。痛みが遅れて来る。
モニターのカウントダウンが、00:00:10で止まった。数字が止まる。警告灯が、一瞬だけ黙る。
黙ったのは、勝ったからじゃない。黙ったのは、次の吠え声を溜めるためだ。
床が、再び揺れた。さっきより深い。腹の底を掴まれて、引きずられる揺れ。地鳴りが、施設の壁の中で唸る。
ラブが、苦しげに言った。
「……発射は止まりました。ですが……地下深部のサイロ機構が、起動し始めています。地上が、割れます」
「割れる……?」
エマの顔が青ざめる。
「大地鳴動……これは、発射じゃなくても世界を壊す」
ヘンリーはモニターを見た。赤い点は消えた。しかし別の表示が立ち上がっている。
最終防衛プロトコル:フェーズ2地盤解放:起動準備
コンピュータは、核を撃てないなら、地面を割ってでも“終わらせる”つもりだ。憎しみが、手段を変える。
ヘンリーはラブを見た。ラブは立っている。立っているが、今にも崩れそうだ。それでも隣にいる。
「……逃げるな」
ヘンリーは自分に言い聞かせるように呟いた。
「ここで逃げたら、次は村が割れる。次は、ラブがいないかもしれない。次は、もう止められない」
ラブが、かすかに頷いた。
「ヘンリー。次の段階です。……このコンピュータの“意志”そのものを、引きずり出して断ち切らなければ」
エマが低く言う。
「つまり、根を抜く」
ヘンリーは焼けた腕を握りしめ、痛みを握り潰すみたいに拳を作った。
「……行こう。発射を止めた。次は、地面を止める。そして――この“意志”を、終わらせる」
警告灯が、また激しく点滅し始めた。地鳴りが、確実に近づいてくる。まるで世界が、巨大な獣の背中の上に乗ってしまったみたいに。
それでもヘンリーは、ラブの手を取った。盾ではなく、隣として。




