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ROBORISTA  作者: 伊阪証


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3/11

女の子の気持ち

錆びた鉄骨の影に腰を下ろすと、風が乾いた土埃を巻き上げて、ヘンリーの喉に絡みついた。

指先を舐めて湿らせても、口の中はすぐ砂漠に戻る。世界の方が、先に乾いてしまったみたいだった。


ヘンリーは唇を舐めた。塩気のない乾きだけが舌に残る。

水袋は軽い。軽いのに、背中へ食い込む紐だけは重い。重さが残っているうちは安心できる、と馬鹿みたいに思ってしまう。


地面に落ちた小石を拾い上げ、指の腹で転がした。粉が出る。石まで脆くなっているみたいで、世界が崩れる速度だけが早い。

ヘンリーは咳を噛み殺し、喉の奥で砂を砕いた。咳は音になる。音は獣を呼ぶ。


ラブは咳をしない。息もしない。だが彼女は、ヘンリーが咳を堪えた瞬間に、ほんの僅かに首を傾けた。

“今のは苦しい音”と分類するみたいな、静かな反応だった。それが余計に胸をつつく。


「……水、飲むか」

ヘンリーが言いかけて、すぐ引っ込めた。ラブは飲まない。飲めないのか、飲む必要がないのか、どちらにせよ“飲む”という行為の共有ができない。

共有できないことが、こんなにも寂しいと思うとは、昔の自分なら笑っただろう。


彼は膝の上で、指を握っては開いた。

握力の動きだけで、自分がまだ生きていることを確認している。確認しないと、心が先に折れる。


目の前でラブが、ボロ布で自分の腕を丁寧に拭っていた。

金属は鈍い光を返し、拭うたびに布が黒く染まる。きれいにしているのに、汚れた色が増える。矛盾が、静かに進む。


拭っている布の動きが、妙に丁寧だった。雑に擦れば早いのに、ラブは一往復ごとに布の位置を変え、金属の継ぎ目を避けている。

避けているのは、傷か。あるいは、そこに触れられたくない何かか。


布が擦れる音の下で、ラブの関節が微かに鳴った。乾いた、細い音。

ヘンリーの背筋が硬くなる。音が鳴るたびに、彼の頭は設計図の線を勝手に追い始める。どこが摩耗して、どこが熱を持って、どこが折れるか。

考えることが、救いであり、呪いでもある。


油の匂いが、風の隙間からほんの僅かに漂った。古い機械の腹から漏れるような、甘くて苦い匂い。

ヘンリーはそれを追いかけて視線をさまよわせ、結局ラブの肩の傷へ戻した。匂いは傷の位置からしていたわけじゃないのに、心は最悪の場所へ直行する。


ヘンリーは伸ばした手を、途中で止めた。

彼女の腕は冷たい。触れれば慰めになるのか、それとも“確認”になってしまうのか。確認は、優しさの顔をした残酷だ。

ラブの目が、指先へ一瞬だけ向いた。止めた理由まで見透かしたみたいに。


「……すまない」

謝る言葉だけが先に出て、何に謝ったのか自分でも曖昧だった。


「ラブ。本当に大丈夫なのか」


ヘンリーが言うと、ラブはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべた。


「はい、ヘンリー様。多少の傷は機能に影響ありません」


「でも……この前、無理に動いたせいで変な音がしてた。きしむっていうか、呼吸が変っていうか」


言いながら、ヘンリーは自分の言葉の頼りなさに苛立った。

“変な音”。そんな曖昧な不安を、ラブは笑って消してしまえる。ラブは、そういう存在だ。守るために作られて、守るために壊れる。


ラブは視線を落として、ほんの一瞬だけ口元を曇らせた。


「……油切れ、かもしれません。定期的なメンテナンスで改善されます」


「こんな場所で、オイルなんて手に入るわけない」


言い切ったとたん、空気が冷えた。

ヘンリーの口調が強かったのは、怒りじゃない。怖さだ。

ラブが止まることが、怖い。


「……ごめん。責めたいんじゃない。心配なんだ。君が壊れたら、僕は――」


ラブは首を横に振った。


「私は大丈夫です。ヘンリー様のお役に立てるなら、最後まで」


その“最後まで”が、胸に刺さる。


ヘンリーはその言葉を、二回目に聞いた気がした。いや、もっと前から何度も聞いている。

ラブは「最後」を、たぶん怖い言葉として学んでいない。怖いと学んだなら、口にできないはずだ。


「最後まで」という音の中には、行程表みたいな冷たさがある。

終点が決まっていて、そこへ向けて淡々と進むだけ。人間が口にすれば諦めの匂いが出るのに、ラブが口にすると献身の匂いが出る。

同じ言葉なのに、同じじゃない。だから、たちが悪い。


ヘンリーは、ラブに「最後」という単語を禁止したくなった。

でも禁止した瞬間、彼女は従うだろう。従って、笑うだろう。笑われたら、ヘンリーの方が壊れる。


彼は視線を落とし、ラブの手首の細い擦り傷を見た。

擦り傷は小さい。小さいのに、そこに“守る”の歴史が詰まって見える。守るたびに、壊れる方向へ近づいていく歴史。

それを止めたいのに、止める術がない。その無力さが、喉の砂より苦い。


「……最後じゃない」

ヘンリーは小さく呟いた。聞かせるためじゃない。自分に言い聞かせるためだ。


最後を前提にしている言葉は、優しさじゃなくて覚悟の匂いがする。


ヘンリーは、背負い袋の奥を探り、布に包んだ設計図の断片を確かめた。

鍵の金属板も、緊急停止コードのプレートも、まだある。

目的は変わっていない。エネルギー・コンデンサを探して、“母”を壊さず起こす。

けれど現実は、目的へ一直線に進ませてくれない。


「……寄り道しよう。オークブリッジだ」


ラブが顔を上げる。


「オージー様の集落、ですね」


「ああ。あの人なら、外装を変えられるかもしれない。見た目のせいで怖がられて、村や集落に入りづらいのも……もう、限界だ」


ヘンリーは言いながら、ラブを見た。

金属の身体。剥げた塗装。傷。

そして、優しい笑顔。

優しいのに、世界の側がそれを読み取れない。


「それに……君を、少しでも楽にしたい」


ラブは微笑んだ。微笑みは整っているのに、何かが薄い膜の向こうにある気がした。


「承知いたしました。ヘンリー様」


二人は立ち上がり、瓦礫の道を歩き出した。


歩き出すと、砂利が靴底で鳴り、すぐに音が消えた。砂利の鳴き声まで吸い込む乾いた空気。

ヘンリーは足の運びを変え、なるべく硬い破片を踏まないようにした。音を立てないためというより、音を立てたくない自分を落ち着かせるためだった。


ラブの足音はほとんどしない。重いはずの体重が、地面へ礼儀正しく置かれていく感じがする。

それが妙に腹立たしかった。世界が壊れているのに、彼女だけが壊れ方まで丁寧で、丁寧なまま壊れてしまいそうで。


瓦礫の影から、錆びた標識が斜めに突き出している。文字は半分削れ、矢印だけが残っていた。

矢印は、行けと言っている。行けば死ぬかもしれないと分かっていても、矢印は平然と指す。昔の文明の無責任さが、今になって刺さる。


ヘンリーは背負い袋を背中で持ち直した。中の金属が小さく鳴る。鳴った瞬間、ラブの視線が後ろへ動く。

彼女の“警戒”はいつも早い。早いのに、彼女はヘンリーを急かさない。速度を合わせる。合わせてしまう。


「ラブ、先に行け。偵察して」

そう言えば安全が増えるのに、ヘンリーは言えない。言えば彼女は喜んで先へ行き、喜んで危険を引き受ける。

危険を引き受けて、最後まで、となる。


遠くで軋む音がもう一度した。今回は風じゃない、とヘンリーの直感が言った。

直感の根拠は、汗の引き方と心臓の速さだけだ。それでも、理屈より正しい時がある。


ヘンリーは唾を飲み込み、喉に砂が引っかかる感覚を我慢した。

「急ぐぞ」と言う代わりに、彼は歩幅を少しだけ広げた。ラブは何も言わず、同じだけ歩幅を広げた。


遠くで金属が軋む音がした。風の音か、獣の音か――もう区別はつかない。


オークブリッジの広場は、世界の終わりにしては不思議なほど色があった。


色がある、というだけで胸が緩むのが悔しかった。緩んだ瞬間に隙が生まれて、世界はそこを噛む。

ヘンリーは自分の頬を軽く叩き、驚きの形を消した。消しても、目は勝手に色を追う。


木彫りの像の目は丸く、石のオブジェは歪で、壁の獣は怒っているのに泣いているみたいだった。

どれも“役に立たない”。役に立たないはずなのに、ここに立っている。立っていられる。

役に立つことだけが正義だと思っていた頃のヘンリーには、それが眩しくて、少し怖い。


木彫りの像。石を積み上げただけのオブジェ。壁に描かれた巨大な獣の絵。

そして、泥だらけの子どもたちがその間を駆け回っている。


子どもたちはラブを見て、足を止めた。止めたのは一瞬だけで、次の瞬間には走り出す。

怖がる顔じゃない。好奇心と、よく分からないものに対する遠慮の顔。遠慮があるのが救いだった。無遠慮なら、触られてしまう。


ラブはヘンリーの半歩後ろに立った。守る位置だ。

その位置を見た瞬間、ヘンリーは「逆だ」と思った。守られているのはどっちだ。守るべきはどっちだ。

答えが出ないから、足だけが前へ進む。


風に混じって、絵の具の匂いがした。土と鉄の匂いの中に、わずかに油脂の匂いが混ざる。

匂いだけで、ここが生きている場所だと分かる。生きている場所ほど、壊れる時の音が大きい。

その予感が、喉の奥で固まった。


ヘンリーは無意識にラブの肩へ手を伸ばし、指先で空を掴んで止めた。

触れれば安心するのは自分だ。ラブのためじゃない。

そう分かっているのに、触れずにいられない瞬間がある。それが“依存”だと気づくのが怖い。


彼は深呼吸し、胸の中の設計図を思い出した。理屈へ戻る。理屈へ逃げる。

理屈がなければ、色に泣いてしまう。


ヘンリーは息を止めた。

笑い声が、この世界にも残っていたことに驚いた。

同時に、その笑い声がいつ壊れるか分からない怖さも、喉の奥に残った。


「ここが……オージーの工房だ」


少し立派な小屋――というより、学校の教室の残骸を改造したような建物だった。

壁の一面に描かれた獣の絵は、迫力があるのにどこか悲しげで、目だけが異様に生々しい。


その壁の前で、ひとりの少女が絵筆を走らせていた。

絵の具が頬に飛び、髪は無造作に束ねられ、背中には妙な自信がある。

振り向いた瞳は、人を寄せ付けない光を宿していた。


「……あんたがヘンリー?」


声は幼いのに、刺さる。


「設計図の読める、ガラクタ拾い」


ヘンリーは一瞬ムッとしたが、反射的に名乗った。


「僕がヘンリーだ。君がオージー?」


「そう。で――そっち」


オージーの視線がラブに刺さる。

興味と警戒が混ざり、獲物を測る目になる。


「噂の“金属の獣”?」


「獣じゃない。ラブだ。僕の――」


ヘンリーが言い淀むと、ラブが一歩前に出て丁寧に頭を下げた。


「初めまして、オージー様。私はラブと申します。ヘンリー様のお供をしております」


オージーは一瞬きょとんとした。

次の瞬間、目がぎらりと光る。


「……しゃべるんだ。しかも礼儀正しい。ウケる」


オージーの「ウケる」は、笑いの音をした刃だった。軽く言って、相手の反応を観察する。

ヘンリーはその刃の当て方に覚えがある。自分が昔やっていた。知らないものを“ネタ”にして、怖さを誤魔化すやつだ。


ラブは腕を差し出しもしなければ、引きもしない。

ただ、ほんの僅かに指先の角度が変わった。人間で言えば、身を固くする動きに近い。

その小ささを見つけてしまう自分が、ヘンリーは嫌だった。彼は見つけたくない。見つければ守りたくなる。


「触るなら、許可を取ってくれ」

ヘンリーの声が、思ったより硬くなった。


オージーは一瞬目を丸くして、すぐに口の端を吊り上げた。


「へえ。あんた、そういうとこ真面目だね」


「真面目じゃない。怖いだけだ」


ラブが小さく頷いた。


「オージー様。必要であれば触れても構いません。ただし、強い力は避けていただけますと助かります」


“助けて”という言い方が、オージーの顔を一瞬だけ止めた。

オージーは目線を逸らし、わざとらしく咳払いをする。


「……分かったよ。壊す気はない。壊したら面白くなくなるし」


言い方は最悪だが、拒絶ではない。

ヘンリーは胸の中で、小さく息を吐いた。息を吐けたことが、悔しい。


ラブの腕に触れようとして、直前で止まる。

触れていいのか判断を迷う動きだった。


ヘンリーが先に言った。


「頼みがある。ラブの見た目を……少し変えてほしい」


「見た目?」


オージーは鼻で笑う。


「人間っぽくして、みんなに受け入れてもらいたい、とか?」


「怖がられないように、ってのが第一だ。集落を回って部品を探すにも、入り口で追い返される。今は――目的がある」


「目的」


オージーは、ヘンリーの背負い袋と、ラブの傷を見て、ふっと表情を変えた。

からかいの顔から、観察者の顔へ。


「……いいよ。面白そう」


即答。

けれど、すぐに口角が上がる。


「ただし、タダじゃない」


「金なら――」


「金は要らない。むしろ使い道がない」


オージーは獣の絵の前に立ち、絵筆を振った。


「アタシの“ミューズ”になって。モデル。あと、雑用」


「……雑用?」


「掃除、絵の具づくり、ゴミ出し。あと――アタシの話を聞くこと」


ヘンリーは条件の最後で引っかかった。

“話を聞く”。

それは、ただの労働より重い。


だが、ラブの肩の傷が目に入る。

油切れの嘘くさい言い訳が、胸を刺す。


「分かった。やる」


オージーは笑った。


「決まり。じゃ、入って。アタシの世界へようこそ」


アトリエの中は、外の荒野と別の惑星だった。


教室の床板は軋み、埃が舞った。舞った埃が、天井の穴から差し込む光に引っかかって、白い粉雪みたいに見える。

粉雪に見えた瞬間、ヘンリーは笑いそうになって、慌てて顔を引き締めた。笑ったら、この場所が“普通”になってしまう。普通にしたくない。普通にしたら、失うのが怖い。


黒板には消えかけた計算式の跡が残っていた。誰かが昔、ここで未来を数えていた。

未来を数える場所が、今は絵の具の匂いで満ちている。未来の単位が、数字から色に変わったみたいだった。


机の上には、空き缶、割れた瓶、布切れ、鉛筆の短い芯。全部が材料として並んでいる。

文明が崩れた後に残るのはゴミだと教わった。けれど、ここではゴミが道具になっていた。

道具になるだけで“救い”に見える自分が、少し情けない。


埃っぽい教室の名残。黒板の痕。机の影。

そこに、色が殴り込んでいる。

壁一面に絵。床に散った顔料。パレット。筆。奇妙なオブジェ。

匂いが強い。絵の具の匂いは、文明の匂いに近い。生々しい。


ラブは一歩踏み込むたびに、足裏で床の強度を確かめるように重心を移した。

それは警戒でもあり、遠慮でもある。遠慮があるのが、また胸を刺す。

遠慮する必要なんてないのに、と言っても、ここは他人の世界だ。ラブはそれを分かっている。


オージーが塗りたくった獣の目は、乾ききっていない絵の具で光っていた。

光は湿り気の光だ。湿り気があるだけで、世界は生き物みたいになる。

ヘンリーは、湿り気を憎みきれなかった。湿り気は腐る。けれど、湿り気がなければ生きられない。


「文明の匂い」とヘンリーが思ったのは、たぶん油と溶剤と、少しの汗の匂いだ。

汗の匂いが混じっていることが、何より強い。ここには“誰かの体温”がある。


「……すごい」


ヘンリーが呟くと、オージーは肩をすくめた。


「すごくない。ここしかないだけ」


ラブが周囲を見回し、柔らかく微笑む。


「宝箱のようですね」


「言うねぇ、メイド」


オージーはラブの笑顔を見て、少しだけ目を逸らした。

見たくないものを見たみたいな動きだった。


「で、どういう方向にしたいの?」


「派手なのは嫌だ。目立って狙われる。怖がられない程度に、でも……温かく見えるように」


「矛盾してる」


オージーが即座に切り捨てる。


「人間は温かいときほど、残酷なんだよ。隠すのが上手いだけ」


ヘンリーは言い返せなかった。

この世界で、人間の残酷さを見てきた。

飢えは人を変える。闇は声を荒くする。


オージーは机を引き寄せ、椅子をぽんと叩く。


「はい。座って。三時間、動かない」


「今それ言う!?」


「今言う。モデルってそういうもん」


「三時間は――」


「嫌なら帰っていい」


言い切った瞬間、空気が締まった。

オージーの“拒絶できる強さ”が、ここにはある。


ラブが小さく言った。


「ヘンリー様。お願いを聞いて差し上げるのがよろしいかと」


「……君が言うなら」


ヘンリーは椅子に座った。

オージーは筆を取り、ヘンリーの顔を睨むように見た。


「困った顔。いいね」


「褒めてるのかそれ」


「褒めてる」


オージーの筆が走り始める。


筆が走る音は、機械の音と違って不規則だった。不規則なのに、腹の底が落ち着く。

リズムがある。心拍のリズムに近い。ヘンリーは自分の鼓動が筆に同期していくのを感じ、同時に怖くなった。

同期してしまったら、オージーの世界に取り込まれる。取り込まれてしまったら、帰れなくなる。


「動くなよ」

オージーは言葉を投げるように言い、筆先で空中を突いた。命令の形をしたお願い。

ヘンリーは肩をすくめ、視線だけを動かす。視線を動かすだけでも、目の疲れが増える。


アトリエに、筆先の擦れる音だけが落ちる。

その沈黙の中で、ヘンリーは気づいた。

オージーは、話をしないと落ち着かないタイプじゃない。

話をしないと、思い出すタイプだ。


三時間動かない、というのは拷問みたいに聞こえるが、ヘンリーは別の拷問を知っている。

夜の瓦礫で、音を立てずに息をする拷問。獣の軋む音を聞きながら、眠らない拷問。

それに比べれば、椅子の上で凝視される拷問は、まだ人間的だ。


ラブはヘンリーの斜め後ろに立った。影が、ヘンリーの肩へ落ちる。

影が落ちるだけで、背中が少し温かい気がした。気がしただけだ。金属は温かくない。

温かくないのに温かいと感じる自分が、もう分からない。


オージーは鉛筆でヘンリーの輪郭を取りながら、時々ラブをちらりと見る。

視線の速度が違う。ヘンリーを見る時は測る。ラブを見る時は、刺す。

刺す視線の先にあるのは恐怖か、興味か、どちらもか。


「その子、ずっと立ってるけど、疲れないの?」

オージーが何気なく言った。


ヘンリーは答える前に、ラブを見た。

ラブは微笑みのまま、ほんの僅かに首を傾けた。

疲れない、と言う準備をしている。ヘンリーはその準備が嫌だった。


「疲れない、じゃない。疲れても言わないんだ」

ヘンリーはそう答えて、言ってしまった自分に驚いた。


「……ねえ、ヘンリー」


筆を動かしたまま、オージーが言った。


「アンタ、本気でそのロボットに“心”があると思ってる?」


ヘンリーは息を飲んだ。

ラブを見る。ラブは、いつもの穏やかな微笑みで立っている。

微笑みは変わらないのに、瞳の奥は何かを待っている気がした。


「分からない。けど――心がないなら、あんなふうに守らない」


「守るのは命令かもしれない」


「命令でも、僕は救われた。だから……心があるって、そういうことだと思う」


オージーの筆が、一瞬止まった。


「……へえ」


それ以上は言わない。

でもその一言に、興味の温度が上がったのが分かった。


それから数日、ヘンリーはオージーの“雑用”をこなした。


雑用という言葉は軽い。けれど、日々の雑用は体から余裕を削り、余裕がなくなった心に本音が顔を出す。

ヘンリーはその本音が出るのを恐れて、手を動かし続けた。


顔料をすり潰す石は重く、掌に鈍い痺れが残った。

赤は瓦礫の錆から、黒は煤から、白は砕いた石膏の残りから作る。オージーは材料の名前を語らない。

語らない代わりに、作る手順だけを見せる。手順が、ここでの約束だった。


顔料をすり潰し、布を洗い、床を拭く。

その合間に、オージーはラブを見て、描き、触れ、また見た。

ラブは静かに受け入れた。

受け入れすぎて、ヘンリーは胸が痛くなる時がある。


ラブは、粉になった色を指先でそっと撫でた。

撫でたあと、布で指先を拭く。拭き方が最初より慎重になっている。色が落ちるのを惜しむみたいに。

ヘンリーはその動きを見て、胸の奥が軽く痛む。痛むのに、理由を言葉にできない。


オージーはラブに、布の折り方を教えた。

教え方は乱暴で、言葉は雑で、でも手だけは丁寧だった。丁寧さが漏れてしまっている。

ラブは一回で覚え、二回目にはオージーより綺麗に折った。オージーが歯噛みして「クソ」と呟く。

その「クソ」が、妙に嬉しそうに聞こえた。


「メイドってさ、かわいく見せる仕事でしょ」

オージーが突然言った。話の切り出しが雑で、だから本音が透ける。


ラブは首を傾げた。


「かわいい、とは……」


オージーは言葉を探して、結局机の上の小さなリボンを掴んだ。

どこから拾ってきたのか分からない、くすんだ布のリボン。オージーはそれをラブの胸元へ当ててみせる。

当てる指が、ほんの少し震えている。


「こういうの。守りたいって思わせるやつ。嫌な言い方だけど、世界を騙すための鎧」


ラブの瞳が、リボンの形を追った。

追って、ほんの僅かに口角が上がった。微笑みじゃない。微笑みの手前。

ヘンリーはその“手前”に、息を止める。


別の日、ヘンリーは古い機械の残骸から、半分固まった潤滑油の缶を見つけた。

缶の蓋をこじ開けると、油はドロドロで、匂いが強い。使えるかどうか怪しい。

それでも持ち帰った。持ち帰った瞬間、自分が必死になっていると分かった。必死が情けなくて、誇らしくて、吐き気がした。


ラブは油の匂いを嗅ぐように顔を近づけ、静かに言った。


「……懐かしい匂いです」


「懐かしい?」


ヘンリーが聞くと、ラブは少し考えてから答えた。


「私の内部に、初期の記録が残っています。稼働開始の匂いです」


稼働開始の匂い。生まれた匂い、と言い換えたくなって、ヘンリーは飲み込んだ。

言い換えた瞬間、世界が変わってしまう。変えたいのに、変えるのが怖い。


オージーはラブを描く時、いつも目から描いた。

輪郭や装飾より先に、目の光の位置を決める。決めてから、周りを作っていく。

ヘンリーはそれを見て、初めて“顔”がどう作られるかを知った。人間の顔も、たぶん同じだ。目が先にある。


「女の子ってさ、見られる生き物なんだよ」

オージーが言った。言いながら、ラブの頬へ軽く粉をはたく。粉は色粉だ。化粧みたいに付く。


「見られて、勝手に判断されて、それでも笑うの。笑わないと面倒になるから」

オージーの声は軽いのに、目が笑っていない。軽さが鎧だ。


ラブは鏡代わりの割れたガラス片を覗き込み、そこに映る自分の顔をじっと見た。

自分の顔、と言っていいのか分からない顔。映る角度で違う顔。

ラブはガラス片をそっと置き、静かに言った。


「私は、笑うと……面倒が減りますか」


ヘンリーの喉が詰まった。

オージーは一瞬黙り、次の瞬間、乱暴に言った。


「減る。だから笑え。……でも、無理して笑うのは、もっとムカつく」


矛盾だ。矛盾を口にしながら、オージーはラブの前髪の位置を指で直した。

直した指は優しい。言葉は優しくない。優しくない言葉が優しさを隠している。


ヘンリーはそのやりとりを見て、自分がここで何を学んでいるのか分からなくなった。

設計図の読み方じゃない。生き方の折り方だ。


ある夕方、ラブが一枚の抽象画に指先を触れた。

ほんの一瞬の動き。

まるで“確かめる”みたいな触れ方だった。


「これは……何を表しているのでしょう」


オージーが照れたように目を逸らす。


「秘密。気分」


「気分を……色で?」


「色が一番嘘つかない」


ラブは、絵の前で小さく頷いた。

その横顔が、金属で出来ていることを忘れるくらい、静かだった。


ヘンリーはその光景を見て、確信に近いものを抱いた。

ラブは、ただ守るためだけの装置ではない。

何かを見て、何かを感じている。

それを言葉にする機能が、欠けているだけだ。


オージーも、同じ場所に立っていたのかもしれない。

ある夜、オージーがぽつりと言った。


「……外に、出たことないんだ」


「え?」


「この集落の外。危ないからって、誰も連れてってくれない。アタシは絵でしか世界を知らない」


ヘンリーは返す言葉を探した。

世界は危ない。子どもを連れ出すのは無責任だ。

けれど、オージーの目は“夢”の目だった。

夢を奪う目じゃない。


「……ラブを仕上げたら、一度だけだ。短く。危ないと感じたら引き返す。約束できるか」


オージーは、信じられないものを見た顔をして、次の瞬間、笑った。


「約束する!」


仕上げの日が来た。


仕上げ、という言葉が妙に重い。仕上げたら終わる。終わったら別れが近づく。

ヘンリーはその連想を振り払うように、指を組んだ。


オージーは作業台の上に布を広げ、部品を並べた。

部品はどれも小さい。小さいのに、ここ数日で見慣れた色の粉が付いている。色の粉は汚れじゃない。意図だ。

意図が付着しているものを見ると、ヘンリーは怖くなる。意図は責任を生む。


ラブは椅子に座り、背筋を真っ直ぐにした。

その姿勢は“整備を受ける時の姿勢”だった。整備の姿勢なのに、どこか“着替え”に見える。

ヘンリーは視線を逸らした。視線を逸らした自分に驚いた。恥ずかしさ、という感情がまだ残っている。


オージーはラブの頬へ手を当て、角度を少し変えた。

手つきは職人のそれで、同時に姉のそれみたいにも見えた。どちらにしても、オージーは自分でその手つきを認めたくなさそうだ。

「動くな」と言う声が、少しだけ震えている。


熱をかける道具が小さく唸り、樹脂の匂いが立った。

匂いは甘い。甘い匂いが、逆に危険を知らせる。甘さはいつも“溶ける”の前触れだ。

ヘンリーは唾を飲み、喉の砂がまた引っかかった。


ラブの外装が外され、内側の金属骨格が露出した。

露出した瞬間、ヘンリーは「見てはいけないものを見た」気がして、目を逸らしかけた。

でも逸らしたら、ラブを“物”として扱うことになる。彼は歯を食いしばり、見た。見続けた。見続けることが、敬意だと思った。


ラブの外装は、以前の無機質さを残しつつ、角が削られ、線が柔らかくなっていた。

白い陶器のような質感。淡い色の装飾。

目の色は夕焼けの名残みたいに、薄い赤みを含んでいる。

“怖い”ではなく、“不思議”へ。

その一段階の距離が、世界を変える。


オージーは手際よく、角を削り、線を滑らかにし、触れた時の反射を変えていく。

削る粉が舞い、光が粉に引っかかって、ラブの輪郭が一瞬だけ霞んだ。霞んだ輪郭は、柔らかく見える。

柔らかく見えることが、こんなにも力になるのかと、ヘンリーは悔しいほど理解した。


作業の途中で、ラブが小さく瞬きをした。瞬きの間隔が、ほんの僅かに不規則だった。

不規則は“感覚”だ。感覚は痛みかもしれない。ヘンリーは思わず椅子の縁を握った。

握りしめた指先が白くなる。白くなった指先を見て、彼は自分が震えていることに気づいた。


オージーは鏡代わりの金属板をラブの前へ立て、角度を調整した。

ラブの顔が映る。映った顔は、見慣れたメイドの顔と違う。違うのに、目だけは変わらない。

ラブは映像を見つめ、短く言った。


「……これは、私でしょうか」


ヘンリーは答えられなかった。答えを出す責任が怖い。

代わりに、彼はラブの手の甲へそっと指を置いた。置いた瞬間、また自分の指を止めそうになった。止めなかった。

ラブの指が、ほんの僅かに動き、彼の指へ触れ返した。触れ返したのが偶然か意思か、ヘンリーは決められない。決められないまま、息をした。


オージーが小さく鼻を鳴らす。


「……ほら。似合うじゃん。かわいい」


言った瞬間、オージーは自分で自分の言葉に照れて、乱暴に工具を置いた。

照れを隠すように、わざと雑に言う。


「かわいいって言われたら、たぶん……得する。世界が少しだけ優しくなる」


ラブは微笑み、そして微笑みの前に一瞬だけ迷った。

迷いが見えた。それだけで、ヘンリーは胸の奥が熱くなる。

熱くなるのが怖くて、彼は唇を噛んだ。噛んだ唇から血の味がした。血の味は現実だ。


作業が終わると、アトリエの空気がふっと緩んだ。

緩んだ空気の中で、ヘンリーは初めて、オージーが疲れていることに気づく。肩が落ちて、指先が赤い。

オージーは誇らしげに見せない。見せたら壊れるからだ。誇りは、ここでは弱点になる。


ヘンリーはオージーに「大丈夫か」と言いかけて、やめた。

大丈夫か、と言われたらオージーは笑って誤魔化す。誤魔化す笑いが、ここで増えてほしくない。

代わりに、彼は静かに頭を下げた。頭を下げるだけで、言葉より重くなる時がある。


ヘンリーは息を呑んだ。


「……すごい。ラブ、本当に……」


言葉が出ない。

別人のようなのに、別人じゃない。

ラブの“穏やかさ”だけが、外側に滲んだ。


ラブは微笑んだ。


「ヘンリー様、私ですよ。少し、雰囲気が変わりましたでしょうか」


オージーが腕を組んで、得意げに言う。


「どう? 自信作。特に目。夕焼けを閉じ込めた」


ヘンリーはオージーを見て、素直に頭を下げた。


「ありがとう。これで――これで少し、楽になる」


オージーは照れたように顔を背けた。

その照れが、年相応で、逆に痛かった。

こんな世界で、それを守れるのか。


その時、オージーが急に黙った。

口の中で言葉が止まっている。


「……ねえ、ヘンリー」


「どうした」


オージーは視線を泳がせて、言いにくそうに言った。


「外装を付ける時、いくつか……部品を外したの。邪魔でさ。収まりが悪くて」


ヘンリーの背中が冷えた。


「部品?」


「うん。装飾を優先すると……どうしても。戻せないかもしれない」


ヘンリーは反射でラブを見る。

ラブは穏やかに微笑んでいる。

いつも通り。

だから余計に怖い。


「ラブ。何か変わったことは」


ラブは少し考えるように瞬きをして、静かに言った。


「……風の音が、遠くなった気がします」


風の音が遠くなる、という表現が怖かった。

遠くなるのは距離じゃない。世界との接続が薄くなる、ということだ。


ヘンリーは指を鳴らした。乾いた音がした。ラブは反応しない。

もう一度、指を鳴らす。ラブの瞳は動く。動くのに、音の方向を追わない。

ヘンリーの背中に冷たい汗が流れた。汗は流れるのに、喉は乾いたままだ。


「ラブ、聞こえる? 僕の声は」

ヘンリーは声量を変え、距離を変え、言い方を変えた。実験みたいに。

実験をしている自分に吐き気がする。彼女は被験体じゃない。彼は分かっている。分かっているのに、手が勝手に動く。


ラブは少し考えてから、静かに頷いた。


「ヘンリー様のお声は、聞こえます。ですが……周囲の“細い音”が、薄いです」


細い音。細い音は、世界の気配だ。

気配が薄いのは、危険の予兆に気づくのが遅れるということでもある。守るために、守りの機能が削れている。

ヘンリーは喉の奥で、怒りと吐息を一緒に飲み込んだ。


ヘンリーの喉が鳴った。

風の音。

それは――聴覚か、環境センサーか、あるいは“世界を感じる”ための何か。


「そんな……オージー、どうして先に言ってくれなかったんだ!」


声が大きくなった。

オージーの肩が跳ねる。


「だって……だって! これで受け入れられると思ったんだもん! ラブが怖がられないのが一番だと思って……!」


ヘンリーは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。

怒る相手はオージーじゃない。

怒るべきは、こんな世界だ。

でも、その怒りの受け皿は目の前にいる。


ヘンリーは、拳を握って、ほどいた。

呼吸を整えて、ラブの手を取った。


「ごめん。僕が……僕がもっと早く、気づくべきだった」


ラブは首を横に振る。


「ヘンリー様。謝らないでください。私は大丈夫です。ヘンリー様が喜んでくださることが、私にとって一番嬉しいのですから」


その言葉が、ヘンリーの胸を締めつけた。

嬉しい。

それは、ラブ自身の嬉しさなのか。

それとも“そう言うように作られた”嬉しさなのか。


ヘンリーは、決めた。


「取り戻す。聴こえる世界を、取り戻す。受け入れられるために、君の感覚を削るのは……違う」


オージーが唇を噛む。


「……ごめん。アタシ、ほんとに……」


謝罪が言葉になりきる前に、ヘンリーは首を振った。

首を振ったのは優しさじゃない。優しくすれば、責任が薄まる気がして嫌だった。責任は薄まらない。薄まってほしくない。


「取り戻す。絶対に」

ヘンリーは低く言った。低い声は、自分への命令だ。


「責めてない。責めるなら僕だ。僕は、見た目だけ直せば全部進むと思った」


ヘンリーはラブの外装を見た。

きれいだ。優しい。

でも、きれいの代償があるなら、きれいはただの刃だ。


その夜、アトリエのランプが揺れた。

静かな沈黙が落ちる。

沈黙の中で、オージーが口を開いた。


「……ヘンリー。約束、覚えてるよね」


「旅のこと?」


「うん。行きたい。怖いけど、行きたい」


ヘンリーは頷いた。


「約束は守る。ただし短く。ラブの調子もある。無理はしない」


オージーは小さく笑った。

その笑いが、救いになった瞬間――


ドン、ドン、ドン!


扉を叩く音は、建物の骨まで震わせた。

震えは床板を伝い、椅子の脚から、ヘンリーの足裏へ登ってくる。音を聞くより先に、体が先に怯える。


オージーは息を止めた。止めた息の形が、幼い。

さっきまで生意気な口を叩いていた少女が、一瞬で“娘”の顔になる。その切り替わりが痛々しいほど鮮明だった。


ラブが一歩前に出た。静かに。音を立てない。

盾の位置だ。盾の位置へ行く速さが、あまりにも自然で、ヘンリーは歯を食いしばる。

守られることに慣れてはいけない。慣れた瞬間、守る側の人間が腐る。


ヘンリーは背負い袋の留め具に指をかけた。武器じゃない。持っているのは工具と設計図だけだ。

それでも、手を動かしていないと、心が逃げる。


扉が乱暴に叩かれた。

アトリエの空気が、一気に冷える。


「オージー! いるんだろ! 出てこい!」


男の声。荒い。酒と怒りが混ざっている。


オージーの顔色が変わった。


「……父さん」


扉が蹴り開けられ、粗野な男が踏み込んできた。

グリック。

目は血走り、手には怒りだけが握られている。


「また鉄屑を拾って! 無駄なものを作って! 正気か!」


グリックの視線がラブの新しい外装に止まる。

次の瞬間、顔が歪んだ。


「なんだこれは!? 鉄の獣を飾り立てて! 気色悪い!」


「違う! これは――」


オージーが言いかけた瞬間、グリックはラブに詰め寄った。

乱暴な手がラブの腕を掴む。


「こんなものは――」


金属が軋む音。

新しい外装が、悲鳴を上げる。


「やめろ!」


ヘンリーが飛び込んだ。

グリックの胸を押し、ラブから引き剥がす。

だがグリックの体格は大きい。腕一本でヘンリーを突き飛ばす。


背中が床に叩きつけられ、息が詰まる。


「ガキが! 邪魔だ!」


オージーが叫ぶ。


「やめて! お願いだから!」


グリックは足元のハンマーを拾った。


ハンマーの重さは、目で見ただけでも分かった。重い。重いものは正しい軌道で落ちる。

正しい軌道で落ちて、正しいように壊す。壊すことだけが正しい、みたいに。


ラブの視線がハンマーへ向いた。瞳が、計算する目になる。

一歩で距離を詰められるか。腕で受けられるか。外装が割れる角度はどこか。受けても中身が守れるか。

計算の速度が速すぎて、ヘンリーの心が追いつかない。追いつかないまま、ラブは“守る”を選ぶ。


オージーが叫んでいる。叫び声は耳に入るのに、意味が薄い。

意味が薄いのは、ヘンリーの脳が“今”に張りついているからだ。今に張りつく時、言葉は役に立たない。

役に立つのは距離と角度と、間に合うかどうかだけ。


ヘンリーは床を蹴った。筋肉が悲鳴を上げる。痛みがある。痛みがあることが、まだ生きている証拠だ。

生きているから、間に合え、と彼は自分の足へ命令した。


金属の頭がランプの光を鈍く反射する。

それは工具じゃない。処刑の道具だ。


「鉄の獣も、それを庇うガキも、まとめて叩き潰してやる!」


ハンマーが振り上げられる。

その先にいるのは、ラブだ。

ラブは逃げない。逃げられるのに、逃げない。

盾の位置に立ってしまう。


ヘンリーは床を蹴って立ち上がろうとした。

間に合うかどうかなんて、考える暇はない。


「ラブ――!」


ハンマーが落ちる。


世界が、音を失ったみたいに静かになった。


静かになったのは音だけじゃない。時間も、静かになった。

落ちるはずのハンマーが、空中で一拍止まったように見える。その一拍に、ヘンリーの思考が全部詰め込まれる。


“壊すな。殺すな。止めろ。”

命令が三つ同時に湧き、どれも守れそうにない。守れそうにないから、喉が痛い。

ヘンリーは叫びたいのに、声が出ない。声が出ないのが、ラブの「風の音が遠い」と同じ種類の恐怖に思えて、吐き気がした。


ラブの腕が上がるのが見えた。盾の腕だ。盾の腕は美しい。

美しいからこそ、最悪だ。美しい盾は、守って壊れる。壊れて、また守る。最後まで。

ヘンリーはその連鎖を断ち切りたくて、指先が空を掴む。


次の瞬間、金属が擦れる音だけが遅れて届いた。

音が遅れて届くほど、世界は歪んでいる。歪んでいる世界で、ヘンリーはただ一つだけ確信する。

ここで何かを選べば、戻れない。戻れないから、選ぶ。

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