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ROBORISTA  作者: 伊阪証


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2/11

巨大機構と歯車

風は、乾いた骨みたいな音を立てて吹いていた。砂利が剥き出しの鉄骨に当たって乾いた音を立て、薄い空気のせいで呼吸が浅くなる。土は焼け、草は痩せ、地平線は割れたガラスの縁のように揺らいいでいる。地面から伝わる熱が靴底をじわじわと焼き、蜃気楼が距離感を狂わせる。ヘンリーは何度も瞬きを繰り返し、歩幅を調整しながら進んだ。


ヘンリーは錆びたゴーグルを押し上げ、目を細めた。ゴーグルのレンズに刻まれた無数の傷に砂が入り込み、視線の先に伸びる「筋」が、遠い島の一部であるかのように錯覚させる。遠く――空の上に、島がある。


島に見えたのは錯覚じゃない。巨大な歯車と金属の骨組みが、雲の切れ間に確かに浮かんでいた。陽光を反射する輪郭が、あり得ないほど整っていて、だからこそ現実味が薄い。神話の挿絵が、勝手に空に出てきたみたいだった。見上げ続ける首の筋肉が強張り、強い日差しが瞳を焼く。ヘンリーは一度視線を落とし、乾いた唾を飲み込んでから、再びその「現実」を仰ぎ見た。


雲の流れに合わせて、金属の反射がゆっくりと明滅を繰り返している。動いているのか。その短い疑念を打ち消すように、ヘンリーの手が無意識に布に包まれた「鍵の板」を強く押さえた。指先に伝わる金属の冷たさが、彼をこの乾いた世界に繋ぎ止めていた。


「……あれが、“ギア”……」


呟いた声が、風に削られていく。唇はひび割れ、舌に触れる砂がざらついた。言い直すための湿り気すら、今の喉には残っていない。世界はこんなに死んでいるのに、空の上だけは、まだ文明が息をしている。地上のしじまを切り裂くように、空からは巨大な金属が擦れ合う微かな、しかし生々しい音が降り注いでいた。


隣でラブがスカートの裾を押さえた。風に引っ張られた布の縫い目が小さく鳴り、彼女は足の位置を半歩ずらして姿勢を安定させる。荒野の風の中で、白いメイド服は不釣り合いなほど清潔で、まるで「この世界が汚れているだけ」と言っているみたいだった。白地には汚れが付着しているが、乾いた粉となって次々に払われていく。ヘンリーはその様子を指でなぞるように見つめた。


「設計図の記述と一致します。ヘンリー様。『浮遊都市ギア』――『母』へ動力を送る機構です」


ラブの声は穏やかで、いつも通り整っている。照合の瞬間、彼女の視線が一点で止まり、声の間隔が不自然なほど一定になる。ヘンリーはその整い方に、ふと寒気を覚える瞬間がある。背中に汗が冷え、逃げるように荷物の紐を強く締め直した。それは感情の温度ではなく、音声の品質の問題――つまり、ラブが“そう出力している”だけに見える瞬間だ。


ヘンリーは背負ったリュックの上から、布に包んだ金属板を確かめた。薄い。冷たい。軽いのに、妙に重い。物理的な重量ではない。冷えで強張った筋肉が、その板を落とすことを恐れて拒絶しているような重さだ。


図書館跡で拾ったものだ。埃の海の底から、まるで「見つけてください」と言わんばかりに突き出していた。指先に残るあの時のざらついた感触が、今の乾いた風と繋がっている。刻まれていた紋様は、設計図の断片と一致していた。一致した瞬間、ヘンリーは理解してしまった。


――これは鍵だ。


鍵があるということは、扉がある。扉があるということは、閉じられている。


「この板を差し込めば、“母”が目を覚ますかもしれない……」


ヘンリーが言うと、ラブは僅かに目を伏せた。


「世界が変わる可能性があります」


「……緑が戻る、ってやつか」


そう言った瞬間、ヘンリーは自分の言葉が軽すぎる気がして、舌を噛みそうになった。緑が戻る。水が増える。飢えが減る。争いが減る。どれも遠い夢に聞こえる。けれど村では、それがただの夢ではなく、明日を迎えるための条件だった。


ラブが、静かに頷いた。「ヘンリー様が望むなら。私は、必ずお供します」


その“必ず”が、救いでもあり、鎖でもある。ラブがそう言った時点で、ヘンリーはもう引き返せない気がした。二人は歩き出した。


荒野を抜けるほど、金属の匂いが濃くなる。砂に混じる錆。目に見えない鉄粉。遠くで軋む音が、風の鳴き声とは別のリズムで響いている。


歯車都市の入り口は、砦の残骸みたいな崩れたゲートだった。ゲートの錆が赤い粉になって足元に落ち、触れた指先が赤茶に染まる。かつては人を守るために立っていたものが、今では“入ってくるもの”を選別するために残っているように見える。通路の幅が一定で、背負った荷物が壁に引っかかり、踏むたびに沈み込む床の板が、通り方を選ぶように強要した。


ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。湿度が急激に落ち、吸い込むたびに鼻の奥に金属粉が刺さる。ヘンリーは込み上げる咳を必死に堪えた。


街全体が、巨大な機械の腹の中みたいだった。壁も床も、道の端も、露骨に歯車で構成されている。部品が都市を装っているのではなく、都市が部品だった。足音が壁に反射して遅れて返り、自分たちの位置を見失わせる。二人は自然と歩調を合わせ、音を殺して進んだ。床の歯車の「歯」が欠けている箇所に靴底が引っかかり、躓きかけるヘンリーの肘を、ラブが音もなく支えた。


それなのに――


「……動いてる」


ヘンリーは足を止め、息を呑んだ。微振動で地面の砂が粒状に踊り、壁のネジがカタカタと鳴っている。彼は膝をつき、手のひらでその震えを確かめた。


停止したはずの街が、わずかに脈打っている。歯車が“回っている”のではない。回ろうとしている、という感じだ。油が切れて金属同士が擦れ合い、耳の奥を刺すような高音が響く。固着した関節が、たまに思い出したように震える。


ラブが、足元の歯車に指先を触れた。その動作は丁寧で、優しすぎて、まるで生き物を撫でているようだった。指腹に伝わる微弱な振動を、彼女は一定の間を置いて数えているようだった。


「微弱な振動を感じます。完全停止ではありません。どこかで動力が残っています」


「動力が残ってるなら……母に送られてるのか」


熱ではなく、振動と音の反響。ヘンリーは左右から返ってくる音の差で、動力が眠る方向を推定した。彼は設計図の断片を取り出し、風で飛ばされないように口を閉じ、端を押さえた。紙の繊維は脆く、指が触れるだけで端が崩れていく。紙は脆く、角が欠けている。欠けた部分が多いほど、そこに何が書いてあったかを想像してしまう。


「……メインシャフト。動力炉へ繋がる縦穴。街の中心部にあるって書いてある」


空気の流れが変わった。目には見えないが、深い穴がそこにある気配が、湿った匂いと共に漂ってくる。ラブが周囲を見渡し、首を傾げた。足跡はなく、埃は均一に積もっている。だが、錆が剥げていない道具が放置されているのが、不自然に目に付いた。


「……人の気配がありません。記録上は、住民は避難したとされていますが」


「でも、避難したなら何か痕跡があるはず、って顔してる」


ヘンリーが言うと、ラブは一瞬だけ言葉を詰まらせた。「……いいえ。設計図を信じましょう、ヘンリー様」


“信じましょう”。その言い方が、微妙に“自分に言い聞かせている”みたいに聞こえた。


二人は街の影の中へ進んだ。巨大な歯車が作る影は、時間の流れそのものを狂わせる。陽の角度が変わっても、影が動かない場所がある。逆に、風が吹くだけで影が揺れる場所もある。進むほどに靴底が削れ、ヘンリーは音を立てないよう踵を浮かせた。背後で一度、金属がパキと鳴り、彼は思わず振り返ったが、そこには影が伸びているだけだった。


歩いていると、歯車が地面に突き刺さっている光景に出くわした。墓標のような大歯車。錆に覆われ、刻まれた文字は読めない。それでも、「ここで何かが終わった」という事実だけは伝わってくる。ラブの白いメイド服が金属粉で薄く曇り、ヘンリーがそれを払ったが、白さは完全には戻らなかった。


「……ここ、死んでるのに、死にきってない」


ヘンリーが呟くと、ラブは小さく頷いた。「はい。眠りの途中のようです」


眠り。それは優しい言葉だ。機械にとって眠りとは停止だが、人間にとって眠りは、また起きることを前提にしている。つまりこの都市は、いつでも起きる。


それが怖かった。


街の中心に近づくほど、風の音が低くなる。代わりに聞こえるのは、金属が擦れる微音。どこかで、巨大な何かが、息をしている。


やがて二人は開けた場所へ出た。中央に垂直にそびえる巨大なシャフト。地面に突き刺さり、地下へと続いている。周囲には梯子と足場があるが、どれも古く、今にも崩れそうだ。


「ここだ……メインシャフト」


ヘンリーの声が少し震えた。見つけた喜びよりも、見つけてしまった恐怖の方が大きい。


ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れた。「慎重に。ヘンリー様」


二人は一番状態の良い梯子を選び、ゆっくり降り始めた。降りるほど空気が重くなる。湿り気が増す。そして、温度が下がる。地下は、地上の終末とは別の終末が沈んでいた。


半分ほど降りたあたりで、ヘンリーは止まった。


「……聞こえるか」


ラブが頷く。


暗闇の奥から、赤い光が点滅していた。ゆっくり、規則的に。それは警告灯のリズムだ。“起きています”と知らせるための光。


赤い光が、少しずつ大きくなる。ヘンリーの背中に冷たい汗が流れた。


「……戻るぞ」


言うより早く、二人は梯子を登り始めた。地上に出た瞬間、暗闇の中から巨大な機械の腕が突き出してきた。


腕は――止まった。赤い光を灯したまま、静止する。動かないのに、存在感だけが圧倒的だった。まるで「お前たちがここにいることは分かった」と言っている。


ヘンリーは息を呑んだ。


「……眠れる守護者、って……これか」


ラブの声が低くなる。「無事では済まないかもしれません」


守護者。つまり、ここは守られている。何を? 動力炉を。母への供給を。あるいは――“起動してはいけないもの”を。


ヘンリーはシャフトから目を逸らし、設計図を握り直した。


「迂回する。別の制御区画を探そう。直接潜るのは……今じゃない」


“今じゃない”という言い方は、撤退の言い訳でもある。でも、言い訳が必要なほど、あれは怖かった。


制御区画は、街のさらに奥にあった。広場の中心に、巨大な制御盤が鎮座している。無数のレバーとボタン。配線。ランプ。かつては規則正しく光っていたはずの目が、今はほとんど死んでいる。


「これが……街を動かす中枢」


ヘンリーが近づき、設計図と見比べる。「……配線が切れてる。そりゃ動かない」


ラブが制御盤に手を触れ、静かに目を閉じた。「微弱ですが……エネルギーの流れがあります。完全に死んでいるわけではありません」


その時だった。


広場の奥から、かさついた足音が聞こえた。金属音ではない。人間の足音だ。


ヘンリーが振り返ると、ボロボロの服を着た老人が立っていた。痩せ細り、目は怯え、手には石ころを握り締めている。老人はヘンリーを見るより先に、ラブを見て――顔を歪めた。


「ひっ……また……機械の使い魔め……!」


老人は石を投げた。狙いはヘンリーではなく、ラブだった。石はラブの肩に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。


ラブの表情が、一瞬だけ歪んだ。痛みではない。“この扱いに慣れている”という歪みだ。


「やめてください」


ラブが穏やかに言うと、老人は逆に怯えたように後ずさった。


「喋るな! 喋るな! お前らが機械を弄ぶから……こんなことに……!」


老人の声が震える。喉が乾ききり、歯の根が合わない音が漏れる。その震えには、単純な恐怖だけではなく、長い年月をかけて蓄積された怒りと、自分では成し得なかったことへの羨望が混ざり合っていた。


ヘンリーは両手を上げ、敵意がないことを示した。


「違う。僕らは壊しに来たんじゃない。直しに来た」


「直す……? 直すだと……?」


老人の声が震える。震えの中に、怒りと羨望が混ざっている。


「この街は、“母”のために作られた。母は天の上にいる。母が目を覚ませば、世界は――」


老人は周囲の歯車の影へと怯えた視線を走らせてから、言葉を継いだ。誰もいない暗がりの中に、何か実体を持った恐れが潜んでいるかのように。


「世界は、また壊れる」


老人が遮った。息を吸い損ねて激しく咳き込み、割れた声を振り絞る。


「お前らは知らない。知らないから触る。触ったら、また起きる。起きたら、また食われる。昔と同じだ……!」


ヘンリーは唾を飲み込もうとしたが、喉はひりつくように乾ききっていた。それでも質問を投げかけるために、必死に舌を湿らせる。


「……昔、何があった」


老人は答えない。答えないまま、視線だけが制御盤の赤いボタンへ向いた。老人の瞳孔の焦点が一点で固定され、震える指が微かに宙を浮く。その視線そのものが、取り返しのつかない答えだった。


ヘンリーは老人の手元を見る。老人は石とは別に、小さな金属プレートを握っていた。プレートの角が老人の掌を赤く変色させており、長年これを握りしめてきた執着を物語っていた。


「それ……何だ」


擦り切れた文字。古い刻印。数字の並び。ヘンリーはプレートに当たる光の角度を変え、凹凸を指先で丹念になぞって、ようやくその意味を判別した。


老人は一瞬、袖で覆うようにして隠そうとした。だが、老いた身体の反射はあまりにも遅く、既にヘンリーの目はその全てを捉えていた。


「緊急停止の……制御コードだ」


その言葉が落ちた瞬間、今まで背景に溶けていた歯車同士の擦れ合う音が、急に耳の奥にまで入り込んできた。ヘンリーの心臓が跳ねる。


停止。この街を止める手段がある。それは同時に、起動する手段があるということでもある。ヘンリーの指が、無意識に制御盤の赤いボタンへと向きかけたが、彼は自分の反対の手でそれを強く抑えつけた。


「……それを、貸してくれ」


「貸したら、お前は押すだろう。赤いのを」


「押さない。今は押さない。まず理解する。止める術があるなら、起こすこともできる」


老人は、ヘンリーをじっと見た。その目は怯えではなく、ヘンリーを試すような、測る目だった。やがて、老人は金属プレートを、拾わせるのを躊躇うような冷たい場所へと投げるように渡した。


「……嘘なら、呪う」


老人の言葉が空気に消えると同時に、彼の細い肩ががっくりと落ち、怒りよりも深い疲労が全身を包み込んだ。ヘンリーはプレートを受け取り、胸にしまった。


「嘘はつかない」


ヘンリーが言うと、老人は背を向け、歯車の影の中へと溶け込むように消えていった。


ラブが静かに、ヘンリーの袖を引いた。引く力は弱かったが、彼女の視線はヘンリーの懐のプレートをじっと射抜いていた。


「ヘンリー様。危険な情報です。ですが……必要な情報でもあります」


ヘンリーは頷いた。


「行く。制御区画を動かす。最低限でいい。母へ“触れる”ための電力だけ送る」


壊すためじゃない。救うためだ。その言い訳が、今のヘンリーには必要だった。


制御盤の側に、作業用の工具箱が残っていた。錆びたペンチの角は丸まり、レンチは使い物にならないほど歪んでいた。ヘンリーは残された道具を見比べ、代替の手順を思考し始めた。錆びたペンチ、折れたレンチ、硬化した布。そして、半分空になった油の小瓶。


「……残ってた」


ヘンリーは油を持ち上げ、光に透かす。鼻を突く揮発成分の匂いが、それがまだ生きていることを示していた。腐ってはいない。匂いは強いが、使える。油でベタついた指先で設計図を汚さないよう、ヘンリーは布を使って瓶を包んだ。


制御盤の脇には、小さな歯車がある。設計図と照合すると、この歯車だけが異常に摩耗しておらず、ここが“流れの喉元”になっていることが判別できた。ここが固着しているせいで、全体が息を止めている。


ヘンリーは油を垂らし、歯車に指を添えた。指先で微かな振動を与えようとするが、油は跳ね返り、固い金属はびくともしない。


ペンチで挟み、力を込める。軋む音。小さな火花が飛び、油の匂いに焦げた匂いが混ざった。ヘンリーは反射的に顔を背け、引火の恐怖から距離を取った。手首が痛む。


「……くそ」


ペンチが悲鳴を上げ、金属が折れた。破片が飛び、ヘンリーの頬を掠めた。熱い痛み。


ヘンリーは息を呑んだ。痛みよりも、絶望が先に来る。やっぱり、無理なんじゃないか。読めるだけで、できないんじゃないか。


その時、ラブが一歩前に出た。


「……私を使ってください」


ヘンリーは反射で首を振った。


「ダメだ」


「私の関節はまだ動きます。必要なトルクを――」


「ダメだ!」


ヘンリーの声が荒くなった。ラブが“自分を道具として差し出す”言い方をした瞬間、ヘンリーの中で何かが切れた。


「お前は……油の代わりじゃない。レンチの代わりでもない」


ラブの目が、僅かに揺れた。理解の揺れか、プログラムの揺れか。その判別がつかないのが、ヘンリーには苦しい。


ヘンリーは歯車の周囲を見回し、床に落ちていた布切れを拾った。油を染み込ませた布に、床の乾いた砂をわざと混ぜ、自作の研磨ペーストのようにして歯車の噛み合わせの隙間に押し込む。摩擦を減らすのではなく、滑りを“作る”。


「……こういうのは、図面に書いてない」


ヘンリーは息を吐き、もう一度手をかけた。


今度は、動いた。一度だけ重く回り、止まりかけるが、ヘンリーはその回転の癖を掴むように指を添え続けた。ほんの少し。けれど確かに、歯車が“回り始めた”。


その瞬間、街が震えた。激しい振動で工具箱の金属が鳴り、頭上から積もった埃が落ちてくる。街全体の音が低く唸り始め、生々しい「起動感」が世界を満たした。


遠くで、巨大な歯車が軋みを上げる。眠っていた金属の巨人が、背伸びをするような音。


制御盤のランプが、ひとつ、ふたつ点いた。その光が錆びた金属面に反射し、ヘンリーの視界を白く焼き付ける。死んだ目に、光が戻る。


「……いける」


ヘンリーは設計図を広げ、記された矢印と番号を頼りにレバーの順序を確認した。ここを誤れば、街は壊れる。老人の言葉が脳裏を掠める。“起きたら、また食われる”。


ヘンリーは、息を整えてレバーを引いた。指先に粘り気のある抵抗が伝わり、固着した過去が、ゆっくり剥がれていく。耳の奥を刺すような高音が鳴り響き、歯が浮くような振動が身体を駆け抜けた。


次の瞬間――警報が鳴った。錆びたスピーカーから割れた音が吐き出され、不気味なリズムが空間を圧迫する。


「……侵入者……検知……自動……排除……プログラム……起動……」


ラブが即座にヘンリーの前に立つ。巨大なハンマーの軌道を予測するように半身を構え、彼女の影がヘンリーを遮蔽した。


「ヘンリー様、危険です」


広場の奥。暗がりから、巨大な影が現れた。赤い目が粉塵の中で散乱し、その正確な輪郭を捉えさせない。


警備ロボット。人型。両腕に巨大なハンマー。赤い目が、まっすぐヘンリーを捉える。


ヘンリーは胸の奥が冷たくなるのを感じた。体が固まる。周囲を回る歯車の檻が、逃走という選択肢を奪っていた。けれど、今は逃げない。逃げたら歯車は止まる。止まれば、ここまでの努力が無駄になる。


ヘンリーは胸の内側から、老人の金属プレートを取り出した。焦りから布が引っかかり、取り出すのが一瞬遅れた。その刹那、振り下ろされたハンマーの風圧が彼の頬を叩いた。


「……ラブ。時間を稼げ。十秒でいい」


自分の心拍で十秒を刻む。ラブが頷いた。言葉はなかった。動作が答えだった。


ラブが警備ロボットの進路へ躍り出る。ハンマーが振り下ろされる。ラブは避ける。避けた衝撃で地面が割れ、粉塵が舞い上がって視界を白く塗りつぶす。


ヘンリーは目を細め、ボタンの凹凸だけを頼りに制御盤を探った。設計図の端子の形、傷跡、刻印。当たりを付ける根拠を一つだけ掴み取る。プレートの数字と対応する入力部を探した。ここだ。ここが緊急系統。


指が震える。だが震えている暇はない。


入力。作動。


次の瞬間、警備ロボットの動きが――止まった。赤い目が消えることはなく、じっとヘンリーの首筋を追っているような冷たさだけが残る。完全停止ではない。赤い目は灯ったまま。けれど、関節の力が抜けたように、そこで固まる。


「……止まった」


ヘンリーの声が、かすれる。


ラブが振り返り、僅かに頷いた。その頷きが、“よくやりました”にも、“早く次を”にも見えた。


ヘンリーはレバーを最後まで押し込んだ。


轟音。低音の連続した振動が空気を震わせ、反響の遅れが一定に揃う。街全体の歯車が、一斉に動き出す。


風景が変わるのではない。音が変わる。世界が、巨大な機械として“整い始める”。その光を受けて、金属表面の無数の傷が銀色に浮き上がった。ヘンリーは膝が抜ける前に、制御盤の縁を強く掴んだ。


そして――空が、光った。


雲の切れ間。浮遊都市の下部で、微かな光が走る。母へ、エネルギーが送られた。


「……届いた」


ヘンリーの膝が少し抜けた。やった。少なくとも“接触”はできた。


だが、その直後。


制御盤から激しい火花が散った。袖が焦げ、焼けるような痛みが目を襲う。焦げ臭い匂い。ランプがいくつか完全に死ぬ。


「……壊した」


ヘンリーが呟くと、ラブが首を振った。「必要な動作でした。ヘンリー様は、出来ることをしました」


慰めの言葉のはずなのに、ヘンリーは嬉しくなかった。“出来ることをしただけ”という言葉は、“それ以上は出来ない”にも聞こえるからだ。


ヘンリーが制御盤の赤いボタンに目を向けた、その瞬間――


「待て」


声がした。声はすぐそばで響いているのに、反響のせいで姿が見えない。ヘンリーが反射的に逆を向くと、ラブが彼の肩を静かに押して、正しい方向へと向けさせた。


広場の影から、一体のロボットが現れた。無骨で、傷だらけで、装甲は継ぎ接ぎ。そして目は、赤い。


だが、警備ロボットとは違う。動きに“意志”がある。壊れた機械が偶然動いているのではなく、動くために動いている。


ロボットは、錆びた声で言った。


「起動……不可……。停止……せよ……。システム……エラー……」


ヘンリーは、息を呑んだ。


――老人の言葉。――“母の声を聞け”。


ヘンリーは赤いボタンを見つめた。押せば、何かが決定的に動く。押さなければ、今のまま中途端に終わる。


ラブが小さく言った。「ヘンリー様。これは……警告です。ですが、同時に“会話”でもあります」


ヘンリーは拳を握りしめた。自分の手が震えているのが分かった。怖い。でも、怖いからこそ、押してはいけない瞬間がある。


ヘンリーは、赤いボタンから手を引いた。「……押さない」


ロボットの赤い目が、わずかに光を変えたように見えた。怒りではない。安堵でもない。ただ、確認しただけの光。


ヘンリーは、制御盤の脇にある端子を見つけた。金属板の紋様と一致する差し込み口。ヘンリーは布包みを解き、鍵の板を取り出した。


冷たい板が、夕暮れの光を反射する。


「……まず、母に“呼びかける”。押すのはそれからだ」


板を差し込む。


カチリ、と小さな音がした。その音は、世界の歯車が一枚噛み合った音に聞こえた。


制御盤の奥で、何かが起動した気配がする。ノイズ混じりの声が、今度はスピーカーではなく、都市全体から響いてきた。


言葉にはならない。音でもない。“圧”だ。古い記憶を、直接脳に流し込むような圧力。誰かの夢の続きを見せられるような、息苦しさ。


ヘンリーは思わず膝をつき、耳を塞いだ。ラブが支える。ラブの腕は冷たいのに、今はそれが救いだった。


圧の中で、ヘンリーは“感じた”。


母は、眠っているのではない。眠らされている。


そして――どこかが壊れている。壊れているから、起きられない。壊れているから、起きたら危ない。


ヘンリーは荒い呼吸のまま、顔を上げた。


「……コンデンサだ」


ラブが目を見開く。「エネルギー・コンデンサ……」


「母に送るエネルギーの“整流”が壊れてる。だから街を無理に動かすと、全部が焦げる。……さっき火花が散ったのは、その前兆だ」


ロボットが、ゆっくり頷いたように見えた。「補修……必要……。供給……不安定……。起動……危険……」


ヘンリーは歯を食いしばった。


遠回りだ。でも、道が見えた。“押すか押さないか”じゃない。“直すべきものを直してから押す”という第三の道だ。


ヘンリーはラブを見た。「行こう。コンデンサを探す。母を起こす前に、母が壊れないようにする」


ラブが静かに頷く。「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」


ヘンリーは、最後に赤いボタンを見た。押さない。今は押さない。


押すために、押さない。


歯車都市は轟々と動き続けている。だが、それは復活ではなく、準備運動のようだった。空の上の“母”へ繋がる道が、再び開こうとしている。


そしてその道の先には――救いだけではない。かつて世界が壊れた理由そのものが、眠っている。


ヘンリーは、金属板を布で包み直し、背負った。背中に加わる重みが、帰り道のない覚悟を物理的に教えていた。「……帰り道は、もうないな」


ラブは微笑む。いつもの整った微笑みではなく、瞳の焦点がわずかに揺れ、言葉を紡ぐ前の予感に満ちた、ほんの少しだけ――揺れた微笑みだった。


「はい。ですが、進む道はあります」


二人は、動き始めた歯車の街を背に、次の廃墟へ歩き出した。エネルギー・コンデンサ。母を起こすための、そして壊さないための、最後の部品を探しに。

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