リブート・オール
格納庫を出た時、ヘンリーの耳にはまだ、あの“笑い声みたいなノイズ”が貼り付いていた。鉄の巨人は止まっていない。止められていない。砲口は地上へ向き、赤い光を静かに育て続けている。だから二人は、勝者の足取りではなく、逃げ延びた者の足取りで歩くしかなかった。
薄暗い通路を抜け、崩れた地下階段を上がる頃には、ラブの胸のランプが不規則に点滅していた。さっきまでの明滅とは違う。意思の明滅ではない。疲弊の明滅だ。
「……歩けるか」
ヘンリーが問いかけると、ラブは微笑みを作った。作ったのが分かる微笑みだった。
「問題ありません、ヘンリー様。歩行補助システム……最適化中です」
言い方が妙に“整って”いる。その整い方が怖い。人間が疲れた時は、言葉が乱れる。息が乱れる。声が擦れる。けれどラブの言葉は、疲れているのに“型”へ戻ろうとしていた。まるで、壊れた箇所を補うために、人格を薄くしているみたいに。
「……最適化とかいい。嫌なら嫌って言え」
ヘンリーが言うと、ラブは一拍遅れて頷いた。
「……承知しました。少し、効率が落ちています」
それで十分だった。“効率”という単語に苛立ちながらも、少なくとも嘘ではないと分かる。
地上へ出ると、雨が降っていた。霧も混じって視界が削られ、世界の輪郭が柔らかく溶けている。柔らかいのに、優しくない。霧は優しさじゃなくて、見えない恐怖のための舞台装置だ。
目的地はひとつだった。部品がある場所。古い設備が残っている場所。村人が噂だけで呼ぶ“鉄の町”。ラブを直すため。巨人を止めるため。――そして、その“中にいる意志”を引きずり出すため。
その道中で、最初の障害が現れた。
朽ちかけた橋。鉄骨がむき出しで、錆びた鎖が風に揺れ、歩くたびに橋全体が細く鳴いた。ヘンリーはラブの腰を抱え、体重を分け合うようにして進む。ラブはぎこちなく、時折、小さな金属音を立てた。
「ラブ、今の音……どこだ」
「……関節部、油圧の揺らぎです。歩行は……可能です」
可能、という言葉が嫌だった。可能なら、なんでもやらせてしまうからだ。ヘンリーは歯を食いしばり、橋の向こうに薄く見える煙を見た。あれが町だ。あれが答えのある場所だと信じたい。
橋を渡り切ったところで、ヘンリーの咳がぶり返した。胸の奥が擦れ、視界の端が白くなる。身体が言っている。休め、と。それでも頭が言う。休むな、と。
「……ここで少し止まろう」
ヘンリーは橋のたもとにラブを座らせ、自分も膝をついた。ラブはヘンリーを見て、微かに首を振る。
「単独行動……危険です」
「分かってる。でも、このままだと二人とも倒れる」
ヘンリーは鞄の口を押さえた。中には設計図の断片がある。あれを読めるようになった自分が、ここで倒れたら終わりだ。
「水と、使えそうな部品を探してくる。すぐ戻る。……すぐ戻るから、動くな。無理するな」
ラブは微笑んだ。
「……了解。ヘンリー様……ご無事で」
その言葉が、妙に胸に残った。“ご無事で”は、別れ際の言葉みたいに聞こえたからだ。
ヘンリーは瓦礫の山へ踏み出した。崩れた建物の骨組み、錆びた配管、割れたガラス。風が鉄を揺らし、不気味な音を立てる。その音に紛れて、遠くから微かな機械音が聞こえた。規則的で、重い。獲物を探す足音みたいな機械音。
「……気のせいじゃない」
ヘンリーはそう呟きながらも、足を止めなかった。止めたら、恐怖が追いつく。恐怖が追いついたら、身体が固まる。
瓦礫の隙間で、ヘンリーは古い水筒を見つけ、次に、工具箱の残骸を拾った。中身はほとんど錆びていたが、針金と小さなナイフは使えそうだった。それを抱え、急いで戻る。
ラブは、座ったまま同じ姿勢だった。同じ姿勢でいるのに、胸のランプだけが弱く点滅している。生きている証拠が、そこにしかない。
「ラブ、戻った」
ラブはゆっくりと顔を上げ、かすれた声で言った。
「……ご心配なく、ヘンリー様。機能維持、問題……ありません……」
言葉が途切れる。途切れ方が、悪い。呼吸の途切れではなく、“文章が切れた”途切れ方だった。
ヘンリーは眉を寄せ、ラブの首元へ手を伸ばした。そこで、欠けた小さなパネルに気づく。外れている。首筋の隙間から、細い配線が覗いていた。
「……これか」
ヘンリーは拾い上げたパネルを掌で温めるように握り、設計図を広げた。ラブの回路図は難しい。それでも、いくつかの線は追える。エネルギー供給。制御。遮断。そして、首元の接続部。
「外れたせいで……供給が途切れた。だから動きが鈍くなってるんだ」
ラブが微かに首を振ろうとして、途中で止まった。
「記憶領域に……該当する記録がありません」
「記録がなくてもいい。今、繋げばいい」
ヘンリーは針金を細くねじり、配線の端を慎重に合わせた。指が震える。震えを止めようとして息を止めると、胸が痛む。だからヘンリーは、息を吐きながらやった。少しずつ。確実に。
数分後、繋がった。
ラブの瞼が、ゆっくり開く。瞳に、いつもの柔らかな光が戻る――戻ったように見えた。
「ヘンリー……様?」
「よし……聞こえるな。無理するな、まだ応急処置だ」
ラブは立ち上がり、ふらつき、それでも体勢を立て直した。だが、ヘンリーは気づいてしまう。立ち方が“綺麗”すぎる。人間の不器用さがない。揺れがない。補正だけで立っている。
「……歩けるか」
「はい。ヘンリー様のおかげで、供給は回復しました」
それなら、前へ進むしかない。
霧が晴れ、日差しが強くなった頃、道は岩場へ変わった。乾いた風が吹き、砂が歯の間に入る。ラブはときどき立ち止まり、胸の奥で小さな機械音を鳴らした。ギー、と擦れるような音だ。
「ラブ、その音……胸のあたりか?」
「……エネルギー、不足です」
「不足って、さっき繋いだろ」
「……不足です」
同じ言葉。さっきも言った。今も言った。ヘンリーの背中に冷たいものが走る。壊れ方が、嫌な壊れ方だ。
「ラブ、目を見て。今、何が起きてる」
ラブはヘンリーを見た。見たが、焦点が微妙に合わない。
「歩行補助システム、最適化中です」
また、同じ言い回し。ヘンリーは歯を噛み、ラブの背中のパネルへ手を伸ばした。錆び付いたレバーが固い。無理に開ければ配線を傷つけるかもしれない。それでも、今開けない方がもっと怖い。
「……ごめん」
ヘンリーはレバーをこじ開けた。内部の配線が見える。設計図の線と照らす。そこに“感情モジュール”と書かれた区画があった。
「感情……?」
ヘンリーが呟いた瞬間、ラブの目が数回点滅し、小さく震えた。
「エラー……発生。感情……モジュール……オフライン」
言葉が、機械の報告になっている。ヘンリーは喉が乾き、しかし手を止めなかった。周囲を見回して、使えるものを探す。針金、石、乾いた草――足りない。だがヘンリーは自分の服の裾のほつれに気づいた。
「……これだ」
糸を抜き、より合わせる。極細の導線の代わりにする。設計図の断線箇所へ当て、そっと繋ぐ。指先が痛い。汗が目に入る。視界が滲む。それでも、繋ぐ。
微かな光がラブの瞳に戻った。
「ヘンリー……様……?」
「大丈夫か」
「……ご心配を……おかけしました」
声が戻った。戻ったのに、次の言葉が怖かった。
ラブはぼんやりとヘンリーを見て、小さく言った。
「私は……何をすべきでしょうか」
ヘンリーの呼吸が止まる。
「何って……一緒に行くんだ。鉄の町へ。直すために」
ラブが首を傾げる。
「約束……?」
「……え?」
ラブの微笑みは、形だけ整っていた。温度がない。
「申し訳ありません。記憶……一部……破損。ヘンリー様との約束……思い出せません」
ヘンリーの胸が、ぐしゃりと潰れた。怒りでも悲しみでもなく、恐怖だ。ラブがラブでなくなる恐怖。
ヘンリーは、ラブの手を握った。冷たい。硬い。それでも握り返してくる。握り返しはある。まだ、ある。
「……思い出せなくてもいい」
ヘンリーは言った。言葉にして自分を縛る。
「思い出させるのは、後でいい。今は“ここにいる”を守る。俺が守る。今度は、俺が」
ラブは小さく瞬きをした。その瞬きが、ほんの少しだけ“人間っぽい迷い”を含んでいた。
夕暮れ、朽ちた地下鉄構内へ潜った。天井が崩れ、星空が見える。錆び付いたレールが続き、風が空洞で鳴る。そこで、二人は“金属の獣”に遭遇した。
だが、それは突進してこなかった。ただ、ぎこちなく近づき、両腕のクローをだらりと下げ、まるで迷子の犬みたいに唸っていた。
「敵意……ない?」
ヘンリーが呟くと、ラブはロボットの背中に触れた瞬間、表情を変えた。驚きと戸惑いが混じる顔だ。
「……故障しているだけです。エネルギー供給回路がショートしています」
ヘンリーは息を呑む。
「なんで分かるんだ」
ラブは視線を落とした。答えない。答えられない沈黙。だが、今は責めない。責める余裕がない。
「直せるか」
ヘンリーが問うと、ラブは小さく頷いた。
「はい。……ヘンリー様、できますか」
ヘンリーは工具を握り、ロボットの背部パネルを開け、焼けた配線を見た。設計図がなくても、ここは“経験”でいける。繋ぎ直し、絶縁を作り、ショートを避ける。ヘンリーが手を動かし、ラブが補助する。
数分後、ロボットの赤い目が弱く点滅し、唸り声が消えた。そして、ロボットは二人から一歩退き、ぎこちなく頭を下げた。
ヘンリーは、胸の奥の何かが軽くなるのを感じた。怖かったのは“全部が敵”になることだった。壊れているだけの機械がいるなら、直すことで世界の見え方が変えられる。
「……よし」
ヘンリーはラブを見た。
「今のを、町のやつらに見せれば、交渉材料になる」
ラブは微笑んだ。微笑みはまだ硬い。だが、硬い微笑みでも“同じ方向”を向けるなら、進める。
地平線に、鉄骨が組み合わさった歪なシルエットが見えてきた。鉄の町。入口には朽ちたゲートが立ち、男が一人、腕を組んで待っていた。背後に誰かの気配はあるが、霧と影に紛れて輪郭は見えない。見えなくていい。今必要なのは、一人の判断だ。
男はヘンリーを値踏みし、次にラブを見た。その視線は、恐怖ではなく、嫌悪に近い。
「お前ら、何者だ」
「旅人だ。一晩、宿を借りたい。あと……修理のための部品も」
男は鼻で笑った。
「宿? そんなもんねえよ。……で、その金属の獣は何だ」
「獣じゃない。仲間だ」
男はニヤリと笑い、指を一本立てた。
「なら条件だ。そいつを置いていけ。置いていくなら入れてやる」
ラブが、静かに目を閉じた。それが“諦め”に見えて、ヘンリーの奥歯が軋む。
ヘンリーは一歩前へ出て、男を見据えた。
「できない」
男の眉が跳ねる。
「は?」
「できない。こいつを置いていくくらいなら、ここに入らない」
男の笑みが消える。代わりに苛立ちが出る。
「命が惜しくないのか」
「惜しいから言ってる。……だから、交渉する」
ヘンリーは背負っていた工具袋を見せ、さらに、地下鉄で直した作業用ロボットの話を短くした。“直せる”という言葉に、男の目がほんの少しだけ動く。欲の動きだ。
「証拠は?」
ヘンリーは頷き、ラブを支えながら町の外れにある壊れた設備へ案内させろ、と言った。男は迷い、結局、短く顎をしゃくった。
「五分だ」
五分。五分の猶予が、こんなに重いとは思わなかった。
町の外れで、錆び付いて止まったポンプ設備があった。男が腕を組んだまま言う。
「これが動けば、話は変わる。動かなきゃ――置いてけ」
ヘンリーは頷き、膝をついた。設計図はない。だが、仕組みは読める。問題は、ラブが隣で支えてくれるかどうかだった。
「ラブ、分かるか」
ラブは一瞬だけ黙ってから、言った。
「……はい。ですが……処理が……遅いです」
「遅くていい。今は“いる”だけでいい」
ヘンリーはポンプの蓋を開け、詰まった砂と錆を掻き出し、配線を繋ぎ、圧力弁を叩いて固着を剥がした。指先が擦りむけ、血がにじむ。それでも、回す。
ギギ……という嫌な音の後、ポンプが一度だけ唸った。次に、もう一度。そして、弱い水が吐き出された。
男の目が見開かれる。
「……動いた、だと?」
ヘンリーは息を吐いた。交渉材料が、できた。
その瞬間だった。
ラブが、ぐらりと傾いた。支える間もなく膝が折れ、ヘンリーの肩へ体重がのしかかる。
「ラブ!」
ヘンリーが抱きとめると、ラブの身体は冷たい。冷たさが戻ってきている。胸のランプが、点滅ではなく“途切れ途切れ”になっている。
ラブの唇が、かすかに動く。
「……ヘンリー……様……」
「喋るな。今は止まれ。止まっていい」
ラブは微かに微笑もうとして、うまく作れなかった。
「……更新……と……再起動……が……必要……」
更新と再起動。それは、ただの修理じゃない。ラブの中身を触るという意味だ。人格の奥をいじるという意味だ。それでも、今やらなければ、ラブが消える。
ヘンリーはラブを抱きしめたまま、男を見上げた。怒りも、懇願も、全部混じった目で。
「入れてくれ。部品と作業場が要る。今すぐだ。……代金なら、俺が直す。町の機械を全部直す」
男は一瞬だけ迷った。迷いの後、舌打ちして言った。
「……その女、運べ。余計な真似はするな。五分で終わらせろ」
五分じゃ終わらない。終わらないのに、今はその言葉に縋るしかない。
ヘンリーはラブを背負った。ラブの重みが、さっきより軽い。軽さが怖い。軽さは、存在が薄くなる予感だからだ。
それでもヘンリーは、歯を食いしばってゲートをくぐった。鉄の町の中は、錆と煙と、古い油の匂いが渦巻いている。そしてその匂いの中に、かすかな希望の匂いも混じっていた。
更新と再起動。それは“直す”じゃない。“取り戻す”だ。
ヘンリーはラブの手を握り直し、心の中でだけ約束を言い直した。
置いていかない。鍵にしない。犠牲にしない。
隣を、取り戻す。




