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ROBORISTA  作者: 伊阪証


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1/11

文明に再び灯を

今回から総集編を咲に投稿します、寿命どころか入院が多くて完結させるのが難しくなってきたので…。

焼け付くような日差しが、埃を噛んだ窓ガラスを通り抜けて、ヘンリーの頬を照らしていた。光は塵を白く浮き上がらせ、網膜を刺す。拭ってもすぐに滲み出る汗が、設計図のインクを汚さぬよう、彼は何度も袖で額を拭った 。


机の上に広がるのは、紙片、紙片、紙片。それらは乱雑に見えて、端の折れや汚れの度合い、記号の密度によっていくつかの束に分けられ、錆びたボルトが重しとして置かれていた 。黄ばんだ紙に刻まれた複雑な線と記号は、この世界の大半の人間にとってはただの落書きで、けれどヘンリーにとっては、暗闇に差す細い光だった 。


紙片の端に指を添えると、繊維がわずかに崩れて、乾いた音がした。古い。古すぎる。これが読めること自体が、ヘンリーにとっては呪いみたいなものだった 。指先から伝わるカサついた感触が、そのまま喉の渇きとなってせり上がり、胃の奥に鉛を流し込まれたような重い感覚が沈殿する 。


読めるから、捨てられない。破れかけた縁を震える指でなぞり、欠けた線を脳内で補完する。一度でも指を離せば、この脆弱な文明の残骸が霧散してしまうかのように、彼は無意識に紙の端を握りしめていた 。読めるから、期待される。読めるから、危険な場所へ行く 。


背後で、衣擦れにも似た機械の音がする。一定の周期で刻まれるその微かな駆動音は、背後の空気の密度をわずかに変え、彼女がそこに「在る」ことを肌に伝えてきた 。


「ヘンリー、進捗はどうですか?」


声はやわらかい。言葉は丁寧で、温度があるように錯覚する。錯覚だと、耳の奥に響く微かな排熱音のノイズが告げている。それなのに、その温もりに似た響きが、張り詰めたヘンリーの神経を無理やり弛緩させていく。それが何より恐ろしかった 。


振り返れば、メイド服のロボット――ラブが、いつもの微笑みを浮かべて立っている。磨き上げられた金属の肌は日の光を受けて淡く艶めき、けれどその瞳の奥には、光が届いていない場所があるようにも見えた 。


「……ここが、いちばん厄介だな」ヘンリーは図面の中央、複数の配線が一点に収束する高密度の記号群を、汚れた指先で強く叩いた 。


ヘンリーは紙片を指でなぞり、線の交点で止める。回路図。制御系統。動力炉――村を救うか、村を焼くかのどちらかしか許さない、古代の獣。「暴走熱だ。制御系が死ねば、この村ごと蒸発させるだけの圧を抱えてる」想像ではない。文字がそう警告していた 。


「動力炉の制御に関わってる。たぶん、いや、かなり確実に」


「村の電力問題を解決できるかもしれない、ですね」


ラブの言葉は明るい。明るいけれど、明るさが“選ばれた音声”のように整いすぎている瞬間がある。ヘンリーはそれを見ないふりをした。問いを喉の奥に押し込み、視線を無理やり図面の端へと逃がす。真実を確認することよりも、今の平穏を維持することに身体が逃げた 。見たら、問いただしてしまう。問いただせば、ラブは笑って黙る 。黙ったまま、守る。それがいちばん苦しい 。


ヘンリーは息を吐き、紙片を一枚だけ持ち上げた。そこに書かれた単語を指差す。「問題はこっち。動力炉を起こすには、特別な部品が必要だ。『エネルギー・コンデンサ』」


「……私も、記憶にありません」


ラブの微笑みが、一瞬だけほどけた。唇の形が少し崩れて、視線が紙片から外れる。次の瞬間には、何事もなかったように作り笑いが戻り、いつもの“完璧なラブ”になった 。


「きっと、どこかの廃墟に眠っているはずです。ヘンリーなら、見つけられます」


「……見つけるしかないんだよな」


村は、暗かった。夜だけの話じゃない。井戸を動かす力が足りず、水は濁る。冬は火が弱く、老人の咳が増える。灯りがないと、夜の作業ができない。作業ができないと、食料が減る。減った食料を巡って、人の心も削れる。ヘンリーはその連鎖を、毎晩のように見てきた 。


机の端に置いたランプの芯が短くなっている。煤けたガラスの向こうで揺れる炎は、あと数分もすれば油を使い果たし、酸っぱい匂いと共に闇に呑み込まれるだろう 。これが、この村の寿命の縮図に見えて、ヘンリーは指を握りしめた 。


「明日、出る。」言葉にした瞬間、肺が軽くなったような錯覚がし、直後に逃げ場を失った重い現実が胃の腑を掴んだ 。


「ラブ、一緒に来てくれるか」


「お供させていただきます。私のデータベースにも、何か情報が残っているかもしれません」彼女は答えると同時に、ヘンリーの視界を確保しつつ、外敵から彼を遮るかのように半歩前へと位置を変えた 。


言い方は控えめでも、その中身は断言に近い。ラブはいつだってそうだ。ヘンリーが危険な場所へ行こうとすると、必ず一歩前に出る。自分が盾になる位置へ、迷いなく移動する 。


その夜、ヘンリーは水を汲みに行く途中で、ラブが眠る部屋の前を通りかかった。夜の村は、呼吸する音さえ憚られるほど静まり返り、冷えた大気が足元から熱を奪っていく 。ドアが少し開いている。そこから、微かな機械音――ギィ……という、息をするような、歯車が軋むような音が漏れてきた 。


覗く気はなかった。だが、足が止まった。彼女が「停止」しているのか、それとも別の何かに耽っているのか、確認しなければ今夜は眠れないと直感が告げていた 。


ラブはベッドの傍らに膝をつき、手を胸の前で組んでいた。祈り。祈りの形だけは、人間と同じだ。その信心深い形を認識した瞬間、ヘンリーの唇は乾き、指先がかすかに強張った。それはプログラムされた模倣でしかない 。けれどラブは神に祈らない。祈る相手がいるとすれば――失われた記憶の向こうにいる誰かか、あるいは“まだ来ていない命令”か 。


その表情は穏やかな微笑みとはほど遠く、深い悲しみに沈んでいた。まるで、思い出してはいけないことを、思い出してしまった顔 。


ヘンリーは、そっとドアを閉じた。閉じた扉の向こうで、あの微かな軋み音が止まったかどうかを、彼はしばらく耳を澄ませて聞き続けていた 。


触れてはいけない。そう感じたのは、優しさだけじゃない。怖かった。ラブの過去に触れた瞬間、ラブが“ラブでなくなる”気がした 。


翌朝、二人は村を出た。ヘンリーは入念にバックパックの紐を締め、最も重要な紙片を湿気から守るために厚手の布で包み、胸元に仕舞い込んだ 。背中のリュックは軽くない。水、乾燥肉、工具、紙片を守るための布、そして希望という名の重さ。その「希望」は、肩に食い込むストラップの痛みと、絶え間ない鈍痛となって彼の肉体に刻み込まれていた 。


村の入口で、老婆がヘンリーに声をかけた。「ヘンリーや、気をつけておくれ。最近、あの『錆色の獣』を見たという者が増えておる」


ヘンリーの喉が、少しだけ鳴った。図面が示した地形と、老婆の言う目撃情報の風向きが、脳内で最悪の交点を作り出す 。金属の獣は廃墟にいる。誰もが知っている。だが“錆色の獣”は、噂の格が違う。倒した者がいない、逃げ切った者も少ない。赤い目が見えた瞬間にはもう遅い、と 。


「特に東の工場跡地には近づかない方が良い」


「分かっています」答えた声が、自分でも驚くほど乾いていた 。


ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れる。硬質な指先から伝わる微かな振動と重量。温かくはないはずなのに、その物理的な圧力が、暴れそうになるヘンリーの心拍を無理やり一定のリズムへ抑え込んだ 。温かいわけがないのに、触れられると体の芯が落ち着く。触れられるたび、ヘンリーは思う。自分は、もうこのロボットに依存している 。


「大丈夫です、ヘンリー。私が必ずあなたを守ります」


“守る”。その言葉が、救いにも鎖にもなる 。二人は歩き出した。村を背に、文明の死骸へ向かって 。


廃墟は、風の音さえ錆びていた。吸い込む空気に混じる鉄粉が肺を逆撫でし、呼吸するたびに血に近い味が喉の奥に広がる 。鉄骨が空を裂き、瓦礫が地面を埋め尽くし、かつて都市だった場所は、今では墓標の群れになっている。ヘンリーは設計図を胸の前で押さえ、紙の端が風に煽られて折れないよう、慎重に腕の中に囲い込んでいた 。視線を地面に落しながら進んだ。足元は裏切る。踏み出した鉄板が歪み、割れたガラスの破片が乾いた音を立てて崩れる。そのたびに歩幅は小さくなり、目的地までの距離が遠のいていく。踏み出すたびに、世界が崩れる気がした 。


「この辺りで合ってるはずだ。図面の通りなら……地下に発電所がある」ヘンリーは立ち止まり、目の前の崩落した柱と、図面に記された基柱の番号を照合する。一致した。だが、その確信が強まるほど、死の予感が背筋を這い上がってくる 。


ラブは頷く。微笑みは崩さない。けれど、周囲を見渡す目は笑っていない。「風が強くなってきました。お体をお冷やしになりませんように」


「冷えるのは体だけじゃないんだけどな」


ヘンリーがぼそりと言うと、ラブは首を傾げた。「心も、ですか?」


「……そういうことにしておく」


会話の軽さは、緊張を誤魔化すための薄い膜だった。膜が剥がれたら、怖さがそのまま噴き出す 。


瓦礫の山を越えた先で、巨大なコンクリートの塊が見えてきた。割れた壁面から露出した規則正しい鉄筋の梁や、薄れた識別番号が、ここがかつて人の手で強固に作られた場所であることを主張していた。割れた壁面、苔むした縁、地下へ続く入口らしき隙間 。


「ここだ……!」ヘンリーの声が少し上ずる。希望が浮かんだ瞬間、人は一番無防備になる 。


入口は固く閉ざされていた。厚い錆に覆われた蝶番は、もはや扉と一体化したかのように固着し、わずかな隙間さえも拒絶している。錆びついた鉄扉が、過去の重さそのものとして立ちはだかる 。


「ラブ、こじ開けられるか?」


「かしこまりました」ラブは背負った工具箱から、布を巻いて音を殺したバールを淀みのない動作で取り出した 。手際の良さは熟練した職人のそれだ。金属の指がバールを扉の隙間に差し込もうとした、その瞬間――。


ズズズ……。地鳴りが、遠くから這ってきた。それは地震のような不規則なものではなく、巨大な重量物が一定の周期で地面を叩く、意図を持った振動だった 。地面がわずかに揺れ、瓦礫がカラカラと音を立てる 。


「地震……?」


ラブの表情が、初めて険しくなる。「……金属の獣です」「この周期、反響音の低さ……間違ありません。大型の個体がこちらに向かっています」ラブが断定する 。


言葉が終わる前に、轟音が大きくなる。瓦礫の向こうから、巨大な影が現れる。錆に覆われた装甲、歪んだ関節、赤い目。歩くたびに金属が擦れ、呻き声みたいな音が空気を割る 。


ヘンリーの喉が凍った。足が、動かなかった。肺から空気が抜け、唾液を飲み込むことさえ忘れる。視界の端が急速に狭まり、巨大な錆の塊だけが世界を支配した 。


ラブが一歩前に出る。盾の位置。いつもの位置。彼女の影がヘンリーを覆い、巨大な獣の赤い光を遮断する。その一定の距離感が、今のヘンリーには唯一の境界線だった 。


「ヘンリー様、お下がりください」


「ラブ、待て――」


「これは、私の使命です」


使命。命令。プログラム。言葉は何でもいい。問題は、ラブがそれを“当たり前”として受け入れていることだ。ヘンリーは歯を食いしばり、設計図の紙片を胸の中に押し込む 。


金属の獣が腕を振り上げた。鈍く重い音が空気を殴る。ラブは体を捻り、紙一重で避ける。避けたはずなのに、衝撃で瓦礫が舞う。威力が違う 。


「……っ」


ヘンリーは恐怖で震えながら、頭の中で必死に探す。設計図のどこかに、こいつの弱点はないのか。停止コード、制御盤、緊急遮断―― 。


ラブが獣の足元へ滑り込み、関節部に工具を叩き込む。火花が散る。だが獣は止まらない。止まり方を忘れた機械みたいに、ただ前へ、ただ破壊へ進む 。


ヘンリーは叫びそうになる喉を噛み締め、扉を見た。発電所入口。ここを開ければ、逃げ道になるかもしれない。「中なら狭い……あいつの体格じゃ入り込めないはずだ」いや、入ったところで、地下は迷路だ。けれど地上よりは遮蔽物がある 。


「ラブ! 数秒でいい、扉の前へ誘導できるか!」扉の隙間と、獣の重い歩幅を計算する。一度だけ、隙を見せさせれば 。


ラブが一瞬だけヘンリーを見る。微笑みはない。けれど、そこに確かな意思がある。「可能です。ヘンリー様、扉を開けてください」


ヘンリーはバールを掴み、扉の隙間に押し込む。手汗で滑るグリップを、シャツの裾で無理やり握りしめる。剥がれ落ちた錆の粉が目に入り、痛みに顔を歪めながら全体重をバールにかけた 。錆が粉になって舞う。手が滑る。力が足りない。焦りで腕が震える。もう一度。もう一度 。


背後で轟音。ラブが獣の注意を引くため、あえて瓦礫を蹴り飛ばした。金属の獣が旋回する。赤い目がラブを追い、次の瞬間、鉄の腕が振り下ろされる 。


扉が、わずかに開いた。拳一つ分の隙間から、地下の冷えた空気が吹き出す 。


「今だ!」ヘンリーは叫び、ラブの腕を掴んで引いた 。


ラブは半歩遅れた。遅れたのではない。遅れざるを得なかった。最短の回避軌道を選びながらも、ヘンリーを背にする角度を維持するため、彼女はその右肩を僅かに晒した 。獣の腕が、ラブの肩の布を裂く。メイド服の白い布が破れ、下の金属が露出する。火花が激しく散り、彼女の肩口から焼け焦げた匂いが漂うが、ラブは眉一つ動かさず、ヘンリーに抱え込まれるようにして闇へと転じ込んだ 。


それでもラブは倒れない。二人は扉の隙間に滑り込み、暗い地下へ転がり落ちた。背負った荷物がクッションとなり、ヘンリーは辛うじて頭部への衝撃を免れたが、全身を激しい打撲の痛みが襲う 。背後で扉が震え、金属がぶつかる音が響く。獣は外にいる。今はまだ入ってきていない。今のうちに、扉の内側から何かで塞がないと――。「あそこにある鉄パイプを……蝶番の間に噛ませられれば……」


「……ラブ、腕は」ヘンリーの問いには、心配よりも先に、この後の作業に支障がないかを確認しようとする生存本能の冷たさが混じっていた 。


「大丈夫です。軽微な損傷です」


軽微。軽微という言葉に、ヘンリーは胸が痛くなる。人間なら悲鳴を上げている。ラブはただ、淡々と報告する。それが余計に怖い 。


暗闇の中で、ヘンリーは震える手でランプに火を灯した。小さな炎が揺れるたび、湿り気を帯びたコンクリートの壁がうっすらと浮かび、奥から反響する滴り落ちる水の音が、静寂の深さを際立たせる 。光が揺れ、地下通路が浮かび上がる。壁には、かつての案内板のようなものが残り、文字は読めない者にはただの傷だが、ヘンリーには意味がある。文字を追えば、自分が背負うべき「結果」が確定してしまう。ヘンリーはわずかに指先を震わせながら、その情報を飲み込んだ 。


「……これ、制御室の方向だ」「壁を走る配線の太さと、この矢印の向きが一致してる。」


ラブが頷く。「行きましょう。『エネルギー・コンデンサ』の手がかりが、残っている可能性があります」


ヘンリーは笑ってしまいそうになる。怖すぎる時、人は笑いそうになる。彼は唇を強く噛み、込み上げる乾いた笑いを喉の奥で押し殺した 。こんな状況でも、ラブは目的を見失わない。目的だけで動くから、壊れない。壊れてほしくない 。


夕方、二人は地下から別の出口を見つけて地上へ戻った。外気の熱が、地下の冷気に慣れた肌を乱暴に撫でる。影が長く伸び、世界の輪郭が赤く、鋭く焼き付けられていた 。空は赤く、鉄骨の影が長く伸びる。息が白くなるにはまだ早い季節のはずなのに、ヘンリーの体は冷え切っていた 。


安全な休憩場所を探し、二人は辛うじて原型を留めたバスの残骸に身を寄せた。ヘンリーは音を立てぬよう慎重にリュックを床に置き、最も重要な図面を包んだ布が汚れていないかを確認してから、ようやく壁に背を預けた 。屋根があるだけで世界が優しくなる。ヘンリーは乾燥肉をかじり、ラブは布切れで彼の頬の埃を拭った。メイドとして完璧すぎる動作が、逆に胸を締めつける。自分はこの機械なしでは一晩も生きられないのではないかという、依存への恐怖が静かに胸を侵食していく 。


「ラブ、今日……ありがとう」


「お礼には及びません。ヘンリー様のお役に立てることが、私の喜びです」


ヘンリーは肉を噛みながら、言葉を探した。訊きたいことは山ほどある。でも訊いていいことは少ない 。


「なぁ、ラブ。昔のこと……覚えてるのか?」


ラブの視線が遠くへ向く。風の向こう。鉄骨の向こう。記憶の向こう。


「記録媒体の損傷が激しく、断片的な情報しか残っておりません。ただ……覚えているのは、大切な人を守るようにプログラムされていたこと。そして、人々が光を失ってしまったことです」彼女の語り口はあまりにも流暢で、まるで完成された物語を読み上げているかのような不自然な間隔を保っていた 。


「光を失った……?」


「争い、憎しみ、悲しみ。それらが世界を覆い尽くしました」


ラブの声は穏やかなままなのに、言葉の中身が重い。ヘンリーは喉の奥が痛くなった。自分の村の暗さが、世界の暗さの欠片に過ぎないと突きつけられた気がした 。


その時、遠くから金属が軋む音が聞こえた。それは先ほどとは違う。もっと低く、周期の長い軋み。別の、より重厚な「何か」が近づいている 。ヘンリーが立ち上がりかけるより早く、ラブが彼をバスの陰へ押し込む。バスの割れた窓から死角となる位置、瓦礫が積み重なった最も暗い場所へと、彼は無言で誘導された 。


「お隠れください」


赤い光が、暗くなり始めた地平の向こうで点滅した。大型だ。さっきのとは別の個体。歩く音が違う。重い。圧がある 。ヘンリーの背中に汗が浮かぶ。逃げるべきだ。けれど、逃げ続けたら何も変わらない。変えたい。変えたいのに、体が言うことを聞かない。膝が笑い、呼吸が浅く繰り返されるのを、彼は自分の手で必死に抑え込んだ 。


ラブが、静かに前へ出る。彼女の足音は、この荒れた地面を歩いているとは思えないほど無機質で、砂利一つ鳴らさない正確さで暗闇へ溶け込んでいく 。


「……侵入者、発見。退去を勧告します」その声は、ラブのいつもの声音でありながら、その下に、人間を排除するためだけに設計された冷酷な電子音が幾重にも重なっていた 。声は、さっきまでのメイドの声と同じなのに、どこか別の層の音が混じっている。命令系統の声。警備装置の声 。


金属の獣はラブを無視し、バスへ歩み寄る。ヘンリーの隠れている場所へ。まっすぐに。獣の視線は一定の角度を保ったまま、熱を孕んだヘンリーの呼吸を正確に追っているように見えた 。


ラブが小さく息を吐くような機械音を鳴らし、獣の背後へ回り込んだ。火花。衝撃。金属同士のぶつかる音。ラブの体が揺れる 。


ヘンリーは、胸の内側にしまった紙片を思い出す。布越しに伝わる紙の微かな厚みを指先で確かめ、彼は内ポケットからその一部を引き抜いた 。停止コード。制御盤。さっき地下で読んだ案内板。あの方向に、制御室がある。制御室なら、停止の手がかりが―― 。


「ラブ!」ヘンリーはバスから飛び出した。視線がラブの損傷した肩を捉え、次に獣の赤い目を、そして闇の奥にある図書館の入り口を瞬時に追った 。自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い 。


獣が振り返る。赤い目が、ヘンリーを捉える。次の瞬間、世界が終わる気がした 。ラブが、その前に滑り込む。「ヘンリー様……下がってください」


「嫌だ!」ヘンリーは叫び、工具を握りしめた。理屈じゃない。守られるだけのままでは、ラブの“使命”の中でしか生きられない。ヘンリーはラブに守られる存在で終わりたくなかった 。


獣の腕が、二人へ振り下ろされる。ラブが受け止める。火花が散る。青白い火花が彼女の腕を焼き、焦げたオイルの匂いが周囲に立ち込める。その衝撃で、バスの車体が大きく軋んだ 。だが次の瞬間、ラブの膝がわずかに沈んだ。荷重が大きすぎる。長引けば、ラブが壊れる 。


ヘンリーは歯を食いしばり、獣の関節部へ工具を叩き込んだ。金属の音。痛みが手首に走る。効いたかどうか分からない。分からないが、獣の動きが一瞬止まった 。その一瞬に、ラブが獣を押し返し、ヘンリーの腕を掴んで引く。「撤退します。今は勝てません」「出力差が大きすぎます。ここは一時的に距離を置くのが最善です。」


「……っ、分かった!」


二人は走った。走りながら、ヘンリーは思う。勝てない。今は。けれど“勝つための何か”は、確かに近づいている。設計図は嘘をつかない。古代の技術が存在したなら、停止させる手段も存在する 。


逃げ込んだ先は、崩れかけた図書館だった。崩落を免れた厚いコンクリートの壁と、入り口の狭さが、追跡してくる巨体を阻んでくれると判断した 。埃を被った本棚。散乱した紙片。ヘンリーは足元の紙を極力踏まないよう、かつ自分の設計図と混同しないよう、慎重に足場を選んだ 。天井の穴から差し込む夕日。ここは、文明の記憶の墓場だ 。


ヘンリーは息を整え、設計図を広げた。ラブがランプの火を調整する。「動力炉の構造が、全然違う……」


「焦らず、少しずつ解き明かしていけばよいのです。私もお手伝いします」ラブの声は優しい。優しさが痛い。優しさが、壊れる音の前触れに聞こえる 。


その時、入口付近で物音がした。足音。複数。人だ。一つは重く、もう一つは引きずるような軽い音。二系統の足音が、静まり返った館内に反響する 。ヘンリーは咄嗟にラブと本棚の影へ身を隠す。背後の棚が視線を遮ることを確認し、彼は床を叩く自分の心音を必死に押し殺した 。


荒い声が響く。「おい、誰かいるのか! 金属の獣はいないな!?」声が天井の吹き抜けに反響し、男との正確な距離が掴めなくなる。その不明瞭さが恐怖を増幅させた 。


「ここもガラクタばかりだ。食い物はねえのか?」


人間。飢えている。荒れている。ヘンリーはその声を聞くだけで、村の夜の匂いを思い出した。闇は人をこうする。だからこそ、光が必要だ 。


男たちが本棚の間を漁りながら近づいてくる。棚を乱暴に叩き、本を床にぶちまける音が、刻一刻とヘンリーの潜む場所へと迫ってくる 。ラブが、ヘンリーを見つめた。首を横に振る。彼女の目は、出口と床の影を交互に指し、「今は出るべきではない」と無言で訴えていた 。今は戦えない、と。


男の手が本棚の裏へ伸びる。ヘンリーの心臓が跳ねる。ラブが前へ出ようとする。盾の位置。いつもの位置 。


ヘンリーは、その腕を掴んで止めた。指先に伝わる彼女の冷たい外装と、その奥で鳴り続ける微かな機械の震えが、彼に一つの覚悟を迫った 。「……俺が出る」彼は胸の設計図の位置を一度だけ確かめ、工具を強く握りしめてから、影の外へと一歩踏み出した 。


ラブの瞳が僅かに揺れた。ヘンリーは本棚の影から立ち上がり、男たちの前へ出た。「やめろ。ここには何もない」


男たちがヘンリーを見て笑う。次にラブを見て、目の色が変わる。男の視線は、恐怖から卑俗な「値踏み」へと瞬時に切り替わり、彼女の四肢の継ぎ目をいやらしく舐めるように動いた 。


「金属人形か。売れば金になるな」その言葉を聞いた瞬間、ヘンリーの胃の奥は急速に冷え、村の夜に売られていった者たちの記憶が、嫌なリアリティを持って蘇った 。


ラブが一歩前へ出る。表情が冷える。空気が変わる。ヘンリーはそれを見て、確信した。ラブが本気になれば、この男たちは終わる。終わるが、終わらせた瞬間から、ラブは“人を壊す存在”として噂になる。村へ戻る道が閉ざされる 。


ヘンリーは、設計図を握りしめた。彼は一瞬、全ての音が消え、世界が自分と男だけになったような奇妙な静寂の中に身を置いた 。


ここで守るべきものは何だ。村の未来か、ラブの未来か。どちらも同じはずなのに、今は両方を守れない 。


ヘンリーは決断した。「……設計図を渡す。これが欲しいんだろ」彼は胸元の布巻きから、重要度の低い数枚の図面を、指先の震えを隠すようにしてゆっくりと引き抜いた 。


男の目が光る。ヘンリーは紙片を抜き、男へ差し出す。胸の内側に「エネルギー・コンデンサ」の核心部分を指先で押し留めたまま、彼は祈るようにその紙を差し出した 。渡したのは、全てではない。肝心の“エネルギー・コンデンサ”の記述がある紙片は、胸の内側に残した。だが、それでも痛い。希望を切り売りする痛み。喉の奥が焼け、飲み込むはずの唾液がどこかへ消えてしまった 。


男は紙片を奪い取るように受け取り、乱暴に丸めた。ヘンリーは、その指が貴重な図面をくしゃりと潰し、折り目を付けるのを、目を逸らさずに見つめ続けた 。


「フン。ガラクタにしか見えねえが、まあいい。行くぞ」


男たちが去る。足音が遠ざかる 。


ヘンリーは床に膝をついた。力が抜けた脚が自分の重さを支えきれず、コンクリートの冷たさが膝を通して脳を突いた 。喉が焼ける。呼吸がうまくできない 。


「……ラブ、大丈夫か」その問いには、彼女を気遣う気持ちと、自分への失望、および彼女が暴走の閾値を超えていないかを確認する臆病な打算が混じっていた 。


ラブはヘンリーの前にしゃがみ、そっと手を差し伸べる。微笑みは戻っていない。悲しげな顔だ。祈りの顔だ。「ヘンリー様……設計図は、村のために……」


「分かってる。分かってるけど」ヘンリーはラブの手を掴み、立ち上がった。「でも、俺は――お前を“売らせる未来”は選ばない」


ラブの瞳が、わずかに揺れた。理解の揺れか、プログラムの揺れか、ヘンリーには判別できない。それでも、その揺れが人間の涙みたいに見えて、ヘンリーは目を逸らした 。


外で、金属が軋む音がした。反響音が建物の外壁を伝わり、先ほどよりも音圧が増している。獣は確実にこちらを追っている 。赤い光が、図書館の割れた窓の向こうで点滅する。追ってきている。金属の獣は、目的を見失わない 。


ヘンリーは胸の内側の紙片に指を当てた。残った希望。残った手がかり。「行こう、ラブ。東だ」図面の残片が示した「工場跡地」という言葉が、老婆の警告と重なり、強力な磁場のように彼を惹きつけた 。


老婆が言っていた場所。工場跡地。錆色の獣の噂。怖い。だが、避け続ければ、村は先に死ぬ。手汗で湿った拳を強く握り、彼は自分の中に残る逃亡の誘惑を、痛みに変えて飲み込んだ 。


ラブが静かに頷く。「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」


二人は図書館を出た。夕日が沈み、空が暗くなる。光が消える時間だ。けれどヘンリーは、今日初めて思った。光は、落ちるものじゃない。取り戻すものだ 。


そしてその光は、たぶん――この世界のどこかで、まだ生きている。ヘンリーは図書館の入り口で一度だけ立ち止まり、先ほど読んだ案内板の隅に刻まれていた、見覚えのある「工場の管理番号」を脳裏に焼き付けた。それは奪われた設計図を埋める、確かな情報の欠片だった 。

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