無音の消耗線
時刻:06:43|場所:南西諸島・T島仮設滑走路(旧海自通信基地跡地)
朝霧はまだ地面にとどまり、島全体が沈黙していた。視界は50メートルもなく、夜の余熱と湿度が身体にまとわりつく。瓦礫を埋め戻して作った仮設滑走路には、苔のようなカビのような湿気臭が染みつき、風はない。
霧の向こうで、1機のF-15Jが鼻先を地面に落として停止していた。
排気口からは白い蒸気が断続的に立ち上っている。**主翼の下で傾いたまま動かない可動板。すでに再起動は3回失敗していた。**姿勢制御の油圧系が不調で、水平安定板のフィードバックが無限ループを起こしている。
エンジン音は止んでいるのに、整備員の間には誰も声を発しない。
「コンプレッサー……もうだめだ」
整備2曹・荒谷誠は、ゴーグルを額に上げ、嗄れた声でつぶやいた。彼の手はすでに油と塩で黒く染まり、指の関節は浮腫んでいた。
「この島じゃ、予備ユニットもなければ、交換部品の輸送予定もない。冷却装置だけで3時間、動かせてねえ」
**仮設のコンテナ型整備モジュールは、室温37℃、湿度90%。**工具は海塩で酸化し始め、タブレット端末のスクリーンには砂粒が貼りついてタッチ反応すら鈍い。
若い整備員が沈黙したまま、防護マスク越しにタブレットで冷却システムの配管図を追っているが、応急キットに代替配管はなく、ジョイントも劣化していた。
「これじゃもう、この機体は一回しか飛べねえ。しかも、その一回すら……ギャンブルだ」
荒谷が目を伏せる。後方では仮設の発電ユニットがうなるような低音を響かせるが、それすら電圧が不安定で、夜中には照明すら消えていたという。
彼らは分かっていた。F-15Jは、機体そのものは頑丈だが、“支える装備体系”が脆弱すぎる。
時刻:08:21|滑走路北端・弾薬装填エリア(旧倉庫コンテナ前)
F-2戦闘機が帰還した。1時間前、ASM(対艦ミサイル)で敵輸送艦を撃沈。実戦での勝利は、島にとって貴重な希望だった。
だが、帰還機は翼をやや下げたまま、“弾薬ゼロ”で滑走路端に放置された。
「再装填キットが……ない?」
「ない。というか、来てない。第3整備補給群が“後送指示”を受けてた」
パイロットの千葉1尉が叫んだ声に、若い補給員が縮こまった。整備リストには「現地再装填対応不能」のマークが赤く残っている。
ミサイルクレーン:那覇基地保管。装填要員:不配備。安全装置:未到着。
「まさか、リフトすらねえのか……」
**再装填は、冷却・弾体移送・エンコード入力を含めて5人1組の専門チームが必要。**だがその人間は、島にいなかった。
「弾を撃ち尽くしたら、1日寝かせろってか……」
千葉は頭を抱える。
「なあ、俺たち、空戦やってんだよな?」
「いや、どう見ても……“物流戦”です」
隣の管制官が乾いた笑いをこぼした。前線の戦闘機部隊が、敵の火線ではなく、“補給の遅延”で消えていく異常。
時刻:09:05|管制車両内(作戦デブリーフィング)
管制記録士・三田尉は、静かに報告書を更新していた。電源が不安定なタフパッドに、赤字で次のように入力される。
> 本日出撃可能機:3機(うち1機再装填不能)
> 前日比:-4
> 整備不能:8、再装填不能:5、通信不良:2、部品未配備:1
そして、一番下の行――
> 被撃墜:0
つまり、“誰にも撃たれていないのに、戦力が半減”していた。
この事態に抗議する術もない。那覇の空自統合幕僚幹部は、「臨機応変な分散展開」としてこの状態を評価しているらしい。だが、ここで戦っている者たちはわかっていた。
敵が一発も撃たなくても、こっちの空は沈んでいく。
時刻:10:17|衛星通信室・自衛隊幕僚本部仮設チャンネル(音声通信ログ)
「こちらT島前線滑走路。緊急要請です。再装填機材および整備部品の前倒し搬入を求む」
無応答。
5秒後、冷たい電子音だけが返った。
> 「通信回線:使用限度超過。空中優勢の確認により補給優先度を下方修正します」
誰も撃たれていない。
誰も落ちていない。
だが、戦力だけが――音もなく減っていく。
空の沈黙こそ、最も恐るべき敗北だった。