アストラレイブ・オーバー・ブルー
約12000字の短編になります。
よろしくおねがいします。
星空に手が届くまでの時間、約一分。
それは私にとって天国でもあり地獄でもある。
つまりは、その時間こそが私が生きているということの証明なんだ。
アストラレイブ・オーバー・ブルー
この世に生まれた理由とはなんだろう。
いま、こうして生きている意味とはなんだろう。
その答えは、吐き出したタバコの煙が宙に舞って、跡形もなく消えてしまうようにどこまでも掴みどころがない。残り香を嗅げば、確かにそこにあるように感じられるのに、実際にはなにひとつ見えてこない。壁の黄ばみも、灰皿に積もる吸いカスもなにも教えてはくれない。
手を伸ばしても決して届くことはない。
どれだけ目を凝らしてみても見えはしない。
もし仮に、本当に答えというものがあったとしても、触れることも感じることもできないようなものなら、それは存在していないに等しい。
ならば、そこに理由や意味なんてなにひとつないのかもしれない。もとより、わたしたちはなにひとつ持たずにこの世に生まれ出てきたのだから。
それでもわたしたちは生まれた理由を、生きる意味を欲する。
貪欲なまでに、
執拗なまでに、
生きる意味を欲する。
なぜなら、それがなければ人間は生きられないからだ。空気がなければ死んでしまうのと同じ。明かりもなく暗闇をうろつけばすぐに道を見失うのと同じだ。
じゃあ、答えが見えないままわたしたちが生きていられるのはなぜ?
それは簡単。
それは、つまりは偽りの答えを手にわたしたちが生きているからだ。
恋人のため、家族のため、会社のため、将来のため、夢のため、あれのため、これのため、僕たちは、わたしたちは生きている。
それは決して悪いことじゃない。けれど真理でもない。
いつか訪れる死を目の前にすると、それらの生きる意味はとても脆弱だ。
一生懸命に勉強して、いい学校を出て、いい会社に入って、幸せな家庭を築いて、それでも死んでしまえばそれらのことはすべて無意味なものになってしまう。
ひとりの人間が死んでなお残せるものなんてわずかなものでしかない。まして、自分のために残せるものなんてひとつもないんだ。
五十年、百年と生きてもほとんどなにも残らないのなら、はじめから生まれていないのとほとんど変わらない。
結局のところ、わたしたちが生きている意味なんてなにもないのだ。
それに気付かないでいられるのなら、それはそれで幸せなのかもしれない。
実際、生きる意味を改めて考えることもなく、偽りの答えに満足して生きている人たちもたくさんいるだろう。
もしかしたら、そのほうが普通なのかもしれない。もとより、生きる意味を考えること自体が無意味なのかもしれない。
それでも、わたしは生きることを欲する。生きたいのか、生きたくはないのか、というごく単純な二択のうちのひとつを選ぶだけのこと。そこに、意味や理屈は存在しない。ただ生きたい、という欲望のままわたしは生きることを選ぶ。
それが偽りの答えを手に生きることだとしても、わたしはわたしの命を、生きる熱量を欲する。
そして、いま自分がここにいるという事実を証明したい。真理や思想もない。奥底から湧く無垢な願望を胸に、夜空に煌く星々のように輝いて、わたしはいまここにいる、そのことだけでも世界に示したい。
それが、わたしがアストラレイブを続ける理由。
一、
『ソラ! エルザ・ソラ=オニヅカ、応答せよ』
頭上にはどこまでも続く宇宙。
目の前には遥か彼方に浮かぶ月。地球のなだらかに薄れていく青い大気の中、まん丸にカットされた氷のように、あるいはブルーハワイソーダの上にのせられたバニラアイスのように冷たく静かに月が浮かんでいる。
眼下には幾億もの命を育む青い惑星。海と大地。砂漠と森林のコントラスト。
そして、漆黒の宇宙に浮かぶのはいま、彼女ひとりきり。
アストラレイブ用の機体のコックピットはなにしろ狭い。それに高い気密性と安全性の確保のために窓がない。だから船外の様子は、船体に多方向に向けてつけられたカメラがシートスクリーンに投影する映像を見るしかない。
それじゃあまりに味気ないというもの。せっかく宇宙までやってきておいて暗く狭い部屋のなかでテレビ画面と睨めっこなんて興ざめもいいところだ。
だから彼女――ソラは、愛機ワイバーンのコックピットからときどきこうして抜け出し、わずかばかりの宇宙遊泳を楽しむ。
地上からの高度約三百キロ。頭上には一面の黒。そして、足もとには一面の青。
ここにいると、自分という存在がいかにちっぽけなものかというのがわかる。ここから地上を伺い見たところで人の姿なんて小さすぎて見えやしない。水中のバクテリアを肉眼で見つけようとしているのと同じようなものだ。
『ソラ! おい、聞いているのか』
ましてや、宇宙全体の大きさを考えたら、人間という存在のなんとちっぽけなことか。星空の尺度で捉えたら、人類の歴史なんて、文明なんてそれこそ存在しないに等しい、微細なものでしかない。
それでも、生きてここにいることは確かなこと。たくましく強かに息づく命がここにあるという事実はなにものにも否定できない。静かに脈打つ鼓動が、瞬きのひとつひとつが、身体を廻る血液の流れが、約三百ケルビンの熱量がそれを確かなものにしている。
腕を伸ばし、遠近感を捨て去って、ソラは三八万キロ彼方の月を掴む。彼女の手の中に納まった月は光り輝く宝石のようにとても綺麗だった。
このままこっそり持ち帰って部屋のインテリヤとして飾ろうか、なんてことをふと考えてみるものの、「あたしはここにいるほうがいいわ」といって月は彼女の手をすり抜けてしまった。どうやら、嫌われたらしい。
それに、そろそろ宇宙散歩もおしまいにしなくては、
『蒼穹の天使、応答せよ!』
ヘルメットの中、カナル型イヤホンからしゃがれた中年男の声が割り込んできた。というか、さきほどから何度か呼ばれてはいたのだがせっかくのお楽しみを邪魔されたくなくてしばらく無視していたのだけれど。
声の主はソラが所属するアストラレイブのチーム、フェルディナンド・ATワークスのチーム監督ジョルジュ=フェルディナンドのものだった。いつもは落ち着いた物腰の、男前と言えなくもないチーム監督の声が今日はすこし不機嫌そうな響きを含んでいた。おそらくはまた他チームの監督と揉めたか、あるいは愛娘と喧嘩でもしたのだろう。この監督はすこし潔癖に過ぎるのだとソラは思うのだった。
対してソラも、幾ばくかの怒気と羞恥心を含ませた声で返す。
「こちら、ソラ。ねぇ、そのあだ名でコールするのやめて。恥ずかしいから」
『なに言ってるんだ、さっきから何度も呼んでいるのに返事も返さないで。恥ずかしいあだ名で呼ばれたくないなら、はじめからしっかりと返答してもらいたいもんだな。それに、試験飛行中に宇宙遊泳に興じるパイロットがどこにいる。だいたい、前々から言っているが君が着ている宇宙服はEVA用には作られてないんだぞ。そんな薄手の服では塵のような極小のデブリでも命を落としかねないし、いくら機体の影に隠れているからといっても、太陽からの放射線がどこまで防げているか。そうでなくたって推進装置ひとつ付けてなんだから、ヘタに船外に出たら機体に戻れなくなってそのまま大気圏に突っ込んでしまう可能性だってある』
そうなったらわたしは流れ星として輝ける。この命と引き換えに。もっとも美しく輝けるその瞬間に命を全うできるのなら、それはきっと素敵なことでしょうね。
――とはさすがに口にはしなかった。リアリズムが服を着て歩いているようなこの男にそんな刹那的ロマンを語ってもせいぜい一笑に付されるか、大真面目な反論や叱責を受けるのがオチだ。
いつだったか、ソラのファンだというテレビ俳優がとある番組で彼女のもとに取材に訪れたことがあった。そのさいにその俳優が「もしよければ君の機体にサインを書いてもいいだろうか?」という話しになったのだが、そこに歩くリアリズムが待ったを掛けた。
電卓を叩きながら、いたって真面目な顔でリアリズムが言うには、
「君がその機体にサインを入れるというのなら、最低でもこれくらいの金額が必要だね」
それはつまり、過去のモータースポーツで駆られた車体が走る広告塔であったのと同様に、アストラレイブ用の機体は宇宙を駆ける広告塔であり、いかに俳優のサインであってもそこには広告費が発生するというのを示唆するものだった。
その俳優もアストラレイブのことをよくわかっている人物だったので、ジョルジュの言葉をちょっとしたジョークと受け流していたが、とてもじゃないがソラにはそれが冗談には聞こえなかった。
結局、チームマネージャーが気を利かせて持ってきた色紙を手渡し、ソラもいずれ塗装のしなおしで消えてしまうからと色紙の方にお願いすることでその場は納めたが、その時ほど彼の人間性に対して辟易したことはない。
もっとも、それくらいでないとアストラレイブのチーム監督は務まらないのかもしれない。潔癖であることはすべてを完璧にこなしたいと言う意志の表れでもあるし、リアリズムとは堅実な未来を予測できる能力のことでもある。
理想で宇宙は飛べない。ジョルジュがいつもチームスタッフに言い聞かせている言葉をソラはふと思い出していた。
『とにかく、そろそろ大気圏突入の態勢に戻ってくれ。そんなところでふらふらしてるのを見せられたのでは、こっちも心臓に悪い』
「了解。これより帰還航行に入ります」
開きっぱなしのキャノピーに手を掛けワイバーンのコックピットに身体をもぐりこませた。座席正面のモニタに気密漏れが発生していることを告げる警告表示が出ているのを無視してキャノピーを閉める。ゆっくりと閉まっていく天蓋をよそにベルトで身体を固定し、各機器のチェック。天蓋が完全に閉まり気密が回復し、室内の気圧が確保されるとモニタに出ていた赤い警告表示も消えた。地上までの高度二三〇キロ。落下している速度を考えればこのへんがちょうど潮時といった具合だろう。
帰還ポイントと予測ルートを座標に表示し、姿勢制御を行ってワイバーンを大気圏突入態勢に入れ、
「また明日、会いに来るから」
正面のスクリーンに映し出された月に触れ、ソラは小さく呟いた。
二、
アストラレイブというモータースポーツ競技を説明するのはとても簡単だ。
ルールはただひとつ。誰よりも早く宇宙まで到達すること。
地上から宇宙までの距離は垂直方向にしてちょうど百キロ。つまり、アストラレイブとは上空百キロに達するまでの時間を競う競技と言える。
現在のアストラレイブにおける最速記録は四九・八二秒。その際の到達最高速度は時速一万四千キロをゆうに超える。
この競技がよく『超音速のバトル』と形容される所以だ。
一方で、アストラレイブには『世界一クレイジーな競技』という異名も付けられている。
それは、時速一万キロオーバーという数字を見るだけでも容易に想像がつくだろう。大気圏内で音の壁を越えることは、それだけで飛行する機体に多大な負荷を掛けることになる。俗に『ホットロッド』と呼ばれるアストラレイブ用の機体にはその音速飛行時の実に十倍以上の負荷が掛かることになる。万全の態勢で望めば別だが、もしもどこかしらに不備があり衝撃や空気摩擦に耐えられず機体が空中分解を起こしでもしたら大事故は避けられない。それは、宇宙開発が始まってから今までの間に起きたスペースシャトルやスペースプレーンの事故を想起すれば明らかなことだろう。
それにたとえ機体が大丈夫であったとしても、8Gにも及ぶ――地球の重力の八倍にもなる加速力はアストラレイブのパイロットに尋常ならざる耐久力を要求する。パイロットが着用している宇宙服兼用の耐Gスーツもないよりはマシ程度のものでしかない。もしもパイロットが加速時の圧力に屈しブラックアウトを起こして意識を失ってしまったとしたら、その先に待つものはもうひとつしかない。
この競技が開催されるようになって三十年。いまでは世界各地でグランプリが行われるようになり、さまざまな名勝負を生み、幾多の栄光を演出し、そして少なからぬ死亡事故を招いてきた。
それでも、アストラレイブの世界選手権は中止されることなく毎年のように開催される。もっともそれは、アストラレイブに限った話ではない。ワールドラリー、パワーボート、エアレース、そのどれもが過去に悲惨とも言える死亡事故を発生させ、それでもいまだに開催が続けられている。まるで競い合うことこそが人間の本質であると言うかのように。
今年もまた比類無き超高速のレース、世界一クレイジーなグランプリがオーストラリアのウーメラで始まろうとしていた。
ウーメラは南オーストラリア州の砂漠の中にある人口二千人ほどの長閑な街だ。街を少し出ればそこには一直線に伸びる道路と一面の砂漠、その先には永遠にたどり着ける気のしない地平線が広がるばかり。
ただ、砂漠と言ってもこのあたりは礫砂漠なのでそこかしこに動植物の姿を目にすることができる。ちなみに、このへんでは閑古鳥のかわりにエミューが鳴いている、というのが地元ガイドが日本人向けに口にする常套句のようだが、アメリカ育ちのソラにはなんのことだかさっぱりだった。おそらくは、彼女の日系の顔立ちをみてガイドが日本人だと勘違いしたのだろう。
それはともかくとして、地元ガイドが自虐的なネタとして使うほどにウーメラには人が少ない。だが年に一度、いつもの実に二十倍もの人でこの街が溢れかえる日がある。それがアストラレイブの初戦、ウーメラグランプリの開催される日だった。
それが、いよいよ明日に迫っていた。
「毎年のことなんだけれど、そのたびにビックリするわ。こんな街によくこれだけの人が集まるな、って」
本戦前日の試験飛行を終え、ソラは足早にホテルに戻り軽く夕食を済ませた。いったん部屋に戻り、シャワーを浴びてからフロント奥のバーでお気に入りのカクテルをオーダーすると、顔見知りのバーテンがさっそく声を掛けてきた。
屈強な身体に濃い体毛、シルク地のシャツに鼻ピアスというかなり変わった出で立ちのこのバーテンは、自らトランスジェンダーであることを公言する開けっぴろげな性格とその容姿に不釣合いな上擦った感じの言葉遣いで、このバーの中ではひとり注目を集める存在だった。彼|(この場合は彼女というべきだろうか)の名前を皆はP・Jと呼ぶがそれがなんの略なのか、少なくとも客の中にその答えを知るものはいない。
P・Jがシェイカーの手を止め、グラスに注いだのは輝くようなスカイブルーのカクテル。そこにチェリーをひとつ。グラスをテーブルの上に載せスライドさせるようにソラの前に差し出した。そこでなにかに気付いたらしく、P・Jはあたりを窺ってからひとつ小首を傾げ、
「ねえ、ところで彼氏はどうしたの? 今日は一緒じゃないの?」
訝しげにソラの方を覗き込んできた。
それに対し、ソラはポケットから出したタバコに火をつけ、近くの灰皿を手繰りながら、
「わかれたの」
煙とともに実にあっさりと一言を吐いただけだった。
あまりに無味乾燥したそのセリフにP・Jも再度聞き直さずにはいられない。それでも返ってくる応えはさっきとまったく一緒だった。
「だって、……わかれたの? あの彼と」
「うん」
「うん、って。そんな淡々としちゃって。だって、あなたたちあんなにラブラブだったのに」
そんなふうに見えていたのか、とカクテルに口をつけながらソラは内心でひとり呟いた。
アストラレイブが世界各国を転戦する競技であるため、選手の恋人や家族がチームに帯同してまわる事はアストラレイブの協会の規定でも認められている。ソラも、その彼氏がオーストラリア在住ということもあってこのウーメラグランプリには必ず呼んでいた。そして、彼も仕事の都合さえつけばここ以外のグランプリにも顔を出していた。
『蒼穹の天使』のあだ名で知られるアストラレイブ随一の女性パイロット、エルザ・ソラ=オニズカには恋人がいる、というのは公然の事実だ。
いや、だったと過去形にするべきだろうか。
「また、なんでわかれちゃったのよ?」
とても驚きを隠しきれないといった様子で身を乗り出しながら聞いてくるP・J。一本目を吸い終えたソラは箱から二本目を取り出し、それを口にくわえながら、
「結婚を申し込まれたのよ。だけど、わたしはまだアストラレイブを辞めるつもりはないって言ったの」
「別に辞める必要なんてないじゃない」
「それがあったのよ。彼が結婚の条件として出したのがそれだったんだから」
僕と結婚してくれないか。恋人が口にしたそのいかにも不器用な、それでも率直な言葉はいまでもソラの耳に残り続けている。それでも、悲しいくらいに二人の気持ちはすれ違ってしまった。
最愛の人を明日にでも失ってしまうかもしれないという恐怖に、僕は耐えられないよ。二人の仲を分かつことになったその最後の一言もまた、ソラの耳に残っている。
辞めてほしい、と直に言われたわけではない。けれど言っている内容は同じことだろう。もっとも、ソラがわがままを通してアストラレイブをやり続けたとしても彼なら許してくれただろう。けれどそれは彼を、彼の言うところの恐怖に陥れ苦しめることになる。ソラには、それができなかった。
彼の部屋に指輪を置き、手紙を添えて彼の元を後にしたのはつい先日のこと。いまだベットの中で寝息を立てる彼を残して部屋のドアを閉めるとき、胸の奥でズキリと鈍い音がしていた。
「そう。そんなことがあったのね」
ひと通りの経緯を話すと、P・Jは溜息混じりにソラのタバコを持っていないほうの手を取り、幼子をあやすように優しく撫でた。
「きっとすぐにいい男が見つかるわよ。あなた、自分では気付いていないみたいだけれど結構美人なんだから」
「そう? それは気付かなかった」
「もう、そういう素直じゃないところが玉に瑕なのよね、あなたは」
言いながらP・Jは注文もしていないカクテルを作り、これはわたしの奢りね、と言ってソラの前に置いた。出てきたのは淡いピンク色のカクテルだった。
「そのカクテルを呑むとね、幸運が舞い込むってもっぱらの噂なのよ」
「ほんと? そんなの初耳だけど」
「もう、ほんとに素直じゃないんだから。いいから呑みなさいよ」
「うん、ありがと」
その後は、お互いの男性の好みや最近観た映画の話し、P・Jが最近飼いはじめた珍しいペットの自慢、ソラが転戦先で経験したその地ならではの珍しい話などで時間が過ぎていった。
アルコールも程よくまわり、明日に備えてそろそろ部屋に戻ろうかとしていた時、
「よお『蒼穹の天使』、ここにいたのか。探したぜ」
バー全体に響くくらいの大きな声をあげながらソラのもとに歩み寄ってくる男がいた。
振り返って見るまでもなく後ろから来る人物が誰なのか、ソラにはわかった。
そもそも、本人を前にして堂々と蒼穹の天使のあだ名を口にする人物は二人しかいない。そのうちのひとりはチーム監督のジョルジュだが、関係者の中では珍しく酒の飲めない体質の彼がバーに足を踏み入れることはまずない。
となれば、おのずと人間は絞られるわけで、
「また、暑苦しい男が来たわね」
さしものP・Jもこういったタイプの男はお気に召さないようだった。
少々げんなりした顔でソラが振り返ると、そこには思ったとおり、チーム・ガントレットACに所属するアストラレイブパイロットのアルフレッド=アーヴァインがにこやかに手を振りながらこちらにやってくるのが見えた。
『真紅の炎』のあだ名がよく似合う、赤く染め上げた燃えるような頭髪とP・Jよりもさらに屈強な身体つきはどこにいてもよく目立つ。性格も外見同様、熱い男なのだが、いかんせん先走りすぎると言うか向こう見ずなところがまま見受けられ、
「お願いだから、そのあだ名で呼ぶのやめて」とソラがいくら言っても、
「え? いいじゃねえかよ。カッコよくて。おれは好きだぜ」と言って毎回ソラのことをあだ名で呼ぶのだ。いまではもう、ソラの方が折れてあだ名で呼ばれることを諦めてしまっている状態だった。
目の前に立つと、バーカウンターの背の高い椅子に座っているはずなのにソラの方がアルフレッドを見上げなければならなかった。まるで熊のような大男。なのにその表情は少年のような無邪気さを醸している。
特段嫌いというわけではない。でも正直なところを言えば、ソラの苦手とするタイプだった。
できればあまり長話をせずに部屋に戻って休みたい。それはアルフレッドとの接触をなるべく避けたいというのもあるが、それ以上に明日の本戦向けての準備という想いの方が強かった。万全な体調管理もアストラレイブパイロットに課せられる重要な仕事のひとつだ。なのだが、
「そういえばアルフ、今日の合同テストに参加してなかったみたいだけど、なにかあったの?」
これだけ目立つ男だ。たとえ意識していなくてもそこにいれば見落とすはずがない。昼間の試験飛行の際にその彼の姿を見かけなかったことを思い出し、ソラは目の前の当人に対してその疑問を口にした。
するとアルフレッドは、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに目を輝かせ、
「実はさ、フレイムタンの整備が遅れてたもんでテストに間に合わなかったんだよな」
と事の顛末を話し始めた。
要するに、彼の駆る愛機フレイムタンの改良が遅れに遅れ、結局仕上がったころにはもうテストは終わってしまっていたと言うのだ。話せばそれだけのことなのだが、しかしテスト飛行も行わず、ましてや出来上がったのがつい先ほどの事となれば諸所の細かいチェックもほとんどされていないはずだ。アストラレイブにおいて、そのような状態で本番に臨むというのはかなりの大博打である。
しかし、彼がほんとうに話したかったところはそのことではないらしい。
「今度のフレイムタンはヤバいぜ。今年のチャンピオンはオレに決まりだなって感じだぜ、マジで」
胸を張り、白い歯をむき出しにして自信満々に彼は告げるのだった。
「もしかしたら、四九・八二の記録も塗り替えられるかもな」とも。
端から見ていればそれは和やかな雰囲気につつまれた談話に見えたかもしれない。しかし、見方を変えれば敵チームのパイロットに対して自分の機体の自慢をして聞かせるというのは挑発しているに等しい。
この男とて、明日の本戦で対戦する相手が目の前のソラであることを知らないはずもないだろう。要するに、彼は喧嘩を売りに来たのだ。
少年のような無邪気な表情。しかし、その瞳には隠しようのない闘志が漲っていた。
やっぱり彼のことは苦手だ、とソラは改めて思う。
「まあ、明日はお互いにベストをつくしましょう」
彼の自慢話に費やしたタバコ一本を灰皿ですり潰し、その一言だけを残してソラはアルフレッドの横をすり抜けバーを後にした。
まさかそれが、彼と言葉を交わす最期になるとはこのときのソラには思いもよらないことだった。
三、
アストラレイブでは開催されるその地域によって一度に飛翔する人数に違いがある。それは設置されたマスドライバー、機体を射出する発射台の本数の違いによるものだ。一番多いのはアメリカのホワイトサンズグランプリで、ここでは一気に六機のホットロッドがいっせいに宇宙に向かって飛び出していくことができる。
ここウーメラではマスドライバーの数は二本。つまりは、一対一でタイム計測を行うことになる。ふたり一組で飛び出してくこのツインライド・スタイルがアストラレイブの中ではもっとも一般的な方式だ。
全参加機体・二十機のうち十八機が計測を終え軒並み五十一秒台の前半をマークしていた。いまのところまだ五十秒台に入った機体はない。
そして、アストラレイブ・ウーメラグランプリもいよいよ大詰めを迎える。
東側の射出台にはエルザ・ソラ=オニズカ、通称「蒼穹の天使」の駆る紺碧の機体ワイバーン。
西側の射出台にはアルフレッド=アーヴァイン、通称「真紅の炎」が駆る緋色の機体フレイムタン。
発射のカウントダウンが始まったことで集まった四万の観客のボルテージは一段と高まり、テンカウント以降は全員の大合唱となって会場に轟いた。
5
蒼穹の天使の大ファンであると豪語する青年は興奮のあまり手にしていた紙コップを握りつぶしていた。
4
メルボルンから駆けつけたアストラレイブファンの一団が拳を振り上げ声を張り上げる。
3
わけもわからず親に連れてこられた少年は会場の迫力におされただただ呆然とするばかりだった。
2
テレビ番組のレポーターが必要もないのに立ち上がり齧り付くようにその会場の熱気を電波に乗せて世界中に伝えようとしていた。
1
轟音、地響、歓声、熱狂、期待、狂喜、羨望、憧憬。狂い咲く歓喜は波となり渦となって、
そして、
0
運命のカウントゼロ。
それは一瞬の出来事だった。
マスドライバーが唸りを上げ二機のホットロッドを押し出す。
約一キロにおよぶ弓状の射出台の上をわずか5秒で駆け抜けていく。その時点ですでに音の壁を突き抜けてしまう。
射出。幾筋ものアークを飛び散らし、白い筋を引いて一直線に空へ、宇宙へ。
唸るエンジン、軋む機体。
同時にパイロットの身体も悲鳴を上げる。
尋常でない圧力を全身に受け、身体がシートにめり込んでしまうようだ。手先足先の感覚がなくなり、視界から色彩が消える。眼球から血液が後退したことで起こる、アストラレイブパイロットに顕著に見られる症状だ。まるでモノクロの世界に迷い込んだよう。
この時点で、ソラは白黒の視界の中にフレイムタンの機影を捉えていた。
明らかに負けている。
それでも勝負はまだわからない。終盤になればマッチョなフレイムタンより機体重量の軽いワイバーンの方が分があるはず。
どこかに持っていかれそうな意識を奮い立たせ前方に見える機影に喰らいつく。
負けない。
絶対に。
強い意志は時に限界を超える力となる。
このとき、ソラが駆るワイバーンはわずかながらではあるが人体が耐え得ると言われる加速度の限界を超えていた。
猛烈な勢いで追いすがるワイバーン。
しかし、そのとき異変が起きる。
前方を行くフレイムタンが突如、強い光の中に飲み込まれ、ワイバーンのコックピット内にあるスクリーンも真っ白に塗りつぶされてしまった。
突然の出来事にソラは焦り、意識を失ってしまったのかと錯覚する。半狂乱に陥り、反射的にスロットルを戻して視線をあたりに泳がせる。しかし、室内の様子になにも変化はない。再び、正面のスクリーンに目を戻すと、すでにそこにはなにも映し出されなくなっていた。素早くモニターに目をやるとそこにはいままでに見たことのない警告表示が出ていて、
彼女の記憶もそこで途絶える。
その後、彼女が意識を取り戻すまでに三ヵ月の時間を要することになる。
自分が巻き込まれた事故の全容を、当時のテレビ中継の録画映像という形でソラが知るのはさらにそれから一ヶ月後のことになった。
その映像を見て、自分がいま生きてここにいることがとてもではないが信じられなかった。
映像を見ると、事故の起きる直前、前を行くフレイムタンが突然その向きを変えたことがわかる。原因は後方左側の燃料タンクの爆発。競技の特製上、超音速における側面からの空気抵抗などもともとホットロッドの機体では考慮されていない。そのため、直線飛行ではビクともしなかったフレイムタンも横倒しになった瞬間に真っ二つに分裂、爆発して飛び散っていた。
そして、悪いことにフレイムタンが突如として向きを変えた先はワイバーンの飛行航路と完全に被ってしまっていた。二機の距離が徐々に縮まりつつあった最中でもあり、結果としてワイバーンは目の前で起きた爆発の直中を突っ切っていくことになってしまう。
真横からの空気抵抗も想定していなければ、飛行中に大量の破片がぶつかることももちろん想定されていない。
刹那の後、ワイバーンも機体から火を吹き、高度五十キロで無残に散っていた。
それでも、ソラの命があるのはまさに強運と奇跡の賜物と言っていいだろう。
ホットロッドの機体も近年、改良が進められ安全性の向上がなされてきた。
特に緊急時のパイロットの救命はなにものにも勝る優先事項とされ、現在では非常に頑強なコックピットが搭載されるようになっている。
とはいえ、高度数十キロで起きる事故に対して、いかに頑強なコックピットといえどその役割を果たせることは滅多にない。
コックピットの後部に内蔵された難燃性のパラシュートが破損してしまっていれば意味はなく、そもそも爆発の衝撃を防ぎきる方法はと言えば現段階では皆無に等しい。衝撃で身体を固定しているベルトが切れてしまえばパイロットは室内の壁にたたき付けられ全身骨折は免れないし、逆に強すぎてもベルトの締め付けで内臓破裂を起こす。ソラが一年近くに及ぶ入院生活を余儀なくされた理由は前者であり、そして、あの暑苦しい熱血漢の死因は後者だった。
後にフレイムタンブレイクと語られることになる事故から丸一年。あの時とおなじウーメラの地で、エルザ・ソラ=オニヅカの復帰会見が行われた。
会見の席でソラは事故の詳細と、復帰に至るまでの経緯を淡々と語り、死ぬような思いをしたのにそれでもなおアストラレイブを続けるつもりなのか、という記者からの問い掛けに対して彼女は、
「わたしにとって生きることは、アストラレイブのパイロットとして飛び続けることです。命の続くかぎり、そしてこの身体が――時間と衰えが許すかぎり、わたしは宇宙を目指し続けると思います」
迷いも怯えもない、なにひとつ揺るぐことのない声で、視線で、静かに応えていた。
四、
あれからきっかり一年。ソラは再び愛機ワイバーンに乗って宇宙に達していた。
あの日と同じように再びコックピットから抜け出し、宇宙遊泳に興じるソラ。
しかし、あの日とひとつだけ違うものがある。
それは、ソラが手にした、ソラの顔ほどもある大きな金属片。
その焼け焦げた金属片にはフレイムタンの、Fの字の片隅がわずかに残っていた。
『おい、ソラ。とっとと終わらせて早く戻ってくれないか。前にも言ったがそんなところでふらふらされている姿を見せられるこっちの気にもなってくれ』
ジョルジュの神経質な声をよそに、ソラは手にした金属片をそっと宇宙に泳がせ、コックピットへと戻った。
回転を続け、徐々に金属片は遠ざかっていく。しかし、このままいけば地球の重力にしたがって大気圏のなかに突っ込んでいくだろう。
そうすれば、大気摩擦の熱で輝いて昼の空を翔る流れ星になるはずだ。おそらく、小さすぎて地上から見ることはできないけれどそれでもいいだろう。問題は誰かに見られていることではないのだから。
キャノピーを閉め、気密性の確認と気圧の確保。機器のチェック。帰還ポイントと予測ルートの確認。やることは一年前と変わらない。最後に、スクリーンに映る小さくなりつつある金属片をしばらく見つめてから、
「こちらエルザ・ソラ=オニヅカ。これより帰還航行に入ります」
了