エピソード 3ー4
「ソフィアお嬢様……」
廊下で泣き崩れていた私に、クラウディアがそっと声を掛けた。私は彼女が差し出したハンカチで涙を拭い、歯を食いしばって立ち上がる。
「……セシリアの部屋に、行くわ。状況を、伝えないと」
クラウディアに宣言することで逃げ道を塞ぐ。そうしてセシリアの部屋を訪ねると、彼女は私を見るなりベッドから飛び起きた。それから私のまえまで駆け寄ってくる。
「ソフィアお姉様、そんなに泣きはらして、なにがあったんですか?」
「……エリザベスが浄化に失敗したの」
「え? それで、彼女は無事なんですか!?」
「ええ、無事だそうよ。でも、瘴気溜まりを浄化できなかったの」
「そう、なんですね。えっと……じゃあ、次は誰が行くんですか?」
彼女の疑問に私はスカートを握りしめた。
それから絞り出すように「貴女よ」と告げる。
「……私、ですか? でも、解毒ポーションがしばらく用意できないんですよね? 私が自然に魔力が回復するまで、瘴気溜まりは大丈夫なんですか?」
「分からないわ。だから、貴女には出来るだけ早く回復してもらう必要があるの」
「それって、まさか……」
「ええ。貴女には、残りの三分の一を、明日、飲んでもらうことになる」
私がそう口にした瞬間、セシリアはキョトンとした。
「え、でも、シリル様の分はどうするんですか? かなり容態が悪いって聞いていますよ? あ、それとも、解毒ポーションを追加で作る算段が立ったのですか?」
私はその問いに唇を噛んだ。
セシリアには、負担を掛けるようなことを言いたくない。でも、あとからその事実を知れば、セシリアは取り返しのつかないほど心に深い傷を負うかもしれない。
だから――と、私は笑おうとした。
でもうまく出来なくて、泣き笑いのような引きつった顔になる。
「……ソフィアお姉様? まさか……」
「ええ。方々に問い合わせているけれど、解毒ポーションを追加で作るあてはないわ」
「そんなっ! じゃあ、シリル様は……」
「助からないかもしれない」
「それで、納得したんですか?」
「ええ、シリル様はそれでいいと言ってくれたわ」
それでも、シリル様は泣き言を口にしなかった。誰よりもこの世界の未来を願う乙女ゲームの攻略対象――うぅん、現実に存在する、一人の素敵な男の子だ。
「違います。シリル様が、ではなくて、お姉様が納得したのかと聞いているんです!」
「……どうして、私?」
問い返すと、本気で聞いているの? とでも言いたげな顔を向けられる。
「お姉様、まだ自覚がないんですか? それとも、気付かない振りをしているんですか? お姉様は、シリル様のことが好きなんですよね?」
「ど、どうして……」
「あんなに甘い空気を振りまいて、気付かれないとでも思っていたんですか?」
そ、そんなふうに見えていたんだ……と、私は少しショックを受けた。
「……そうね。私はシリル様に惹かれてる。でも、シリル様一人と人類すべて、どっちを犠牲にするかなんて、考える余地はないでしょう?」
たとえば、人類が滅びる道を選び、残りの時間を好きな人と過ごすという選択をする人はいるだろう。でも、シリル様はそんな選択を受け入れられる人じゃない。
そして私も、護りたいのはシリル様だけじゃない。私は、家族を、セシリアを決して見捨てないと誓った。だから、家族を護る方法があるのに、それを棒に振るなんて出来ない。
だから仕方ないと思うのに、その決断をセシリアが否定した。
「違います、間違っていますよ、ソフィアお姉様」
「……なにが、違うって言うの?」
「そもそもからして違います。どうして、シリル様が死ぬって決めつけているんですか? 解毒ポーションを飲ませればいいじゃないですか!」
「だから、シリル様のために、人類を危険に晒す訳にはいかないの」
「だったら、危険に晒さなければいいじゃないですか!」
「……なにを……言ってるの?」
セシリアが言わんとしていることを理解できずに困惑する。
「お姉様が、浄化するんです」
「……私? でも、エリザベスが失敗したのよ?」
「だからって、お姉様に出来ない理由にはなりません」
「セシリア、貴女が私を評価してくれるのは嬉しいわ。でも、私に瘴気溜まりを浄化する力はないの。あれは、貴女の魔力を借りただけよ。だから、エリザベスに無理なら、私にも無理なのよ」
「――本当に?」
セシリアが珍しく食い下がってくる。彼女はなにかを確信しているようだった。その自信がどこから来るのか、私は戸惑いを覚えた。
「……セシリアは、なにが言いたいの?」
「たしかに、私は触れるだけで瘴気溜まりを浄化できました。でも、お姉様も浄化できたのに、エリザベスに出来なかったのなら、やはりお姉様が特別なのでは?」
「そんなはずは……」
「ないと? では、お姉様ではなく、今回の瘴気溜まりが特別だと思う根拠はなんですか?」
私は答えることが出来なかった。
でも、設定的に、私とエリザベスのあいだに違いはない。なら、瘴気溜まりが浄化できなかったのは、今回の瘴気溜まりが特別と考えるのが普通だ。
それに、現実のこの世界は、原作乙女ゲームよりも瘴気溜まりの発生が多い。オラキュラ様はそれについて、私をこの世界に招いた副作用だと言っていた。
なら、聖女にしか浄化できない瘴気溜まりが発生した可能性も十分にある。
そうして沈黙していると、セシリアは小さく息を吐いた。
「では質問を変えましょう。お姉様、まだ出来ることがあるのに諦めるんですか? 悩んでるアイリスに言いましたよね。私なら両方諦めないと。あの言葉は嘘だったんですか?」
「それ、は……嘘じゃない、けど」
「だったら諦めないでください! まだ出来ることがあるじゃないですか!」
「……出来ることがある?」
ぱちくりと瞬いた。
「さっき言いましたよね。瘴気溜まりが浄化できない以上、私の回復を優先せざるを得ないと。でも、私が最後の薬を飲むのは明日の予定です。まだ、時間があります」
「……無理よ。一日で浄化して帰ってくるなんて。日の出と同時に出立したとしても、到着するのはその夜。帰りを考えれば、せめて二日は必要よ」
それでも、相当な強行軍になる。
「なら、一日遅らせばいいじゃないですか」
「……セシリア。私も出来ればそうしたい。でも、ダメなのよ」
三度目の服用をした瞬間、魔力が戻るならやりようもあった。でも、そうじゃない。アナスタシアを見るに、三度目の服用から魔力が少し動かせるまで数日は掛かっている。
その一日、二日で瘴気溜まりの状況が急変する可能性が否定できない以上、服用を遅らせることは出来ない。
なにより、王族には特権があり、だからこそ責務がある。家族のために解毒ポーションを使い、人類を危険に晒す。これを認めれば、家族のために解毒ポーションを横領した職員の行動を認めることになってしまう。私は力なくそう口にするが、セシリアは首を横に振った。
「違いますよ。これは私のためです」
「……セシリアの? やっぱり、貴方もシリル様のことが好きなのね」
「恋愛になると途端にポンコツになるお姉様も可愛いですよ」
「笑顔で酷いことを言われた!?」
衝撃を受けるが、セシリアはなにやら優しい目で私を見ている。
「シリル様のことはいい人だと思いますが、そういう好きじゃないですよ。と言うか、どう見てもシリル様は、ソフィアお姉様のことが好きじゃないですか」
「そんなはずは……」
「あんなふうに何度も護られて、それでも違うと言うなら、私はお姉様を軽蔑します」
そんなふうに言われて、私は答えることが出来なかった。
ホントは分かってる。いつからか、シリル様が私を見てくれていることに。
でも、認めることは出来なかった。
だって、シリル様はセシリアの運命の相手だ。それが乙女ゲームの設定だ。なのに、シリル様が私に惹かれていると認めるのは、私が二人の幸せな未来を奪ったと認めるのと同じことだから。
そうして言葉を失っていると、セシリアの顔がくしゃりと歪んだ。
「シリル様が死んで、お姉様が傷付いたら、私は立ち直れません」
「それは、別にセシリアのせいじゃ……」
「いいえ、私のせいです。だから、私は解毒ポーションを飲みません」
「はっ!? な、なにを言ってるの? そんなことをしたら、世界が滅ぶかもしれないのよ?」
「お姉様にそんな顔をさせる世界なら、滅びてしまえばいいじゃないですか」
にこりと微笑んで、とんでもないことを口にする。
私の思考は完全に置いてきぼりになった。
「ほ、本気で言ってるの?」
「さぁ、どうでしょう? でも、お姉様はどうですか?」
「……わ、私?」
「さっき言ったようにすれば、二日くらいは稼げます。それでも、なにもしないつもりですか?」
「……なるほど」
ようやくセシリアの言いたいことがわかった。
シリル様のために人類の命を懸けることは出来ない。でも、世界を唯一救える聖女の精神状態を護るためなら、人類の命を懸けることも致し方ない。
セシリアは自分が嫌だと言うことで、私が足掻くための時間を作ろうとしてくれているのだ。
「……ありがとう、セシリア。貴方の気遣いはすごく、すごく嬉しいわ。でも、解毒ポーションは明日、飲まなきゃダメよ」
「ソフィアお姉様!」
セシリアが声を荒らげる。
「何度も言うけど、個人的な感情で人類すべてを危険に晒すなんて絶対にダメ。――だけど、私も諦めない。もう少しだけ、足掻いてみようと思う」
「それは……どういうことですか?」
「私のわがままで、人類を危険に晒すことは出来ない。だけど、だからって、それが諦める理由にはならない。貴方のおかげでそう気付くことが出来たの。だから、私は浄化に向かうわ」
往復で三日は掛かるだろう。でも、それは通常の速度で行き来した場合だ。死に物狂いで移動すれば、なにか奇跡が起きるかもしれない。
少なくとも、足掻かなければ奇跡は起きない。
だから――と、私は立ち上がった。
「ソフィアお姉様、待って」
セシリアが私の袖を引き、金色に輝く魔石のネックレスを押しつけてきた。
「……これは?」
「私が作った試作品です。壊れにくいどころか、逆に脆い魔石になってしまったんですが、お守りとして持っていってください」
壊れにくい魔石の研究をしていたのに、なぜ脆い魔石を作ったのか――と呆れつつ、私はそれをありがたく受け取った。そうして、お兄様にもらったネックレスと合わせて首に提げる。
「セシリア、ありがとう。必ず浄化して帰るから」
セシリアのくれた機会を無駄にしないと、私は気合いを入れる。
とはいえ、さすがに私一人で行くのは無理だ。だから、まずは協力者が必要だ。
そう考えながら振り返った私は、そこで息を呑んだ。入り口がいつの間にか開かれ、そこにアラン陛下とお父様が並び立っていたからだ。
「……ア、アラン陛下、どうしてこちらに?」
「グラニアに相談があってな。だが、ちょうどよかった」
「……ちょうどよかった、ですか?」
どういうことだろうと首を傾げると、アラン陛下は金色に輝く魔石を差し出してきた。それが、聖女の魔力を込めた人工魔石だと理解すると同時、私は大きく目を見張った。
「……私に、機会を与えてくださるのですか?」
「勘違いするな。頼んでいるのは私の方だ。今後のことを考えれば、エリザベス達のやり方に問題があったのか、それとも今回の瘴気溜まりが特別なのか、程度は確認せねばならない。だから、もう一度問おう、そなたなら瘴気溜まりを浄化することが出来るか?」
アラン陛下を始めとした、その場にいるみんなの視線が私に注がれる。私に掛けられた責任が重すぎる。正直、逃げ出したい。でも、やらずに後悔するのはもう嫌だ。
だから――
「必ず、浄化してみせます」
私は力強く答えた。
私の視線と、アラン陛下の視線が交差する。彼はわずかな沈黙の後、「ならば、そなたに託そう」と私の手のひらの上に人工魔石を載せた。
「最善を尽くします。それで、期限ですが……」
「期限は、明日の深夜までだ」
「明日の深夜、ですか?」
「そうだ。研究機関やナビアの協力を得て、解毒ポーションの効能について見解を出した」
アラン陛下がそう口にして、私にレポートを差し出した。それによると、解毒ポーションを数回に分けて飲むのは、強い薬の副作用を和らげるためと、毒の分解を効率よくおこなうためだそうだ。
ゆえに、残りの三分の一をさらに半分に分け、朝と夜に分けて飲んでも解毒の速度は落ちないとのことだった。
「……つまり、深夜までに浄化を成功させれば、六分の一をシリル様に回せる、と?」
「そうだ。それが、我々が捻り出した最大の猶予だ」
夜通し駆けても片道が限界だ。それでは、たとえ瘴気溜まりを浄化したとしても、それを王都に伝える方法がない。
そんな思いに駆られるが、アラン陛下は「大丈夫だ」と口にした。
「なにか、考えがあるのですか?」
「ああ。成功の知らせは、照明弾を使った合図でおこなう。街道に魔術師を配置して、順番に照明弾を上げれば、成功の知らせは瞬く間に王都に届くことになるだろう。加えて、マクシミリアンは、迅速に聖女を迎えるために、各地点に騎士を配置している。いまなら、馬を乗り換えて走ることで、大幅に時間を短縮させることが出来る」
「……それなら」
間に合うかもしれないと希望を抱いた。
だが、問題がある。私は乗馬があまり得意ではないことだ。少なくとも、真夜中に徹夜で走り続けるほどの技量はない。
「アラン陛下、私を乗せて走ってくださる騎士はいらっしゃいますか? 馬を疲れさせないように、出来るだけ軽い方が望ましいのですが」
「それなら、私が引き受けます!」
不意に女性の声が響いた。直後、アラン陛下達の後ろから、アイリスが顔を出した。続けて、アナスタシアも顔を出す。
「……アイリス、どうしてここに? それにアナスタシアも、もう起きて大丈夫なの」
「アラン陛下から協力を要請されました。私がソフィア様を目的地までお連れします」
「私もお手伝いです。魔力もだいぶ戻りましたので、合図を上げる役目を担います」
アイリス、そしてアナスタシアがそれぞれの役目で協力を申し出る。
続けて、お兄様までもが姿を見せて、照明弾を上げる手伝いをすると口にすれば、お父様が、屋敷にいる、魔術を使える者を派遣すると言ってくれた。
これなら、間に合うかもしれない。
いや、必ず間に合わせる。
どうやっても間に合わないはず時間が、みんなの力で短縮された。みんなが力を貸してくれたことが嬉しくて、私は泣きそうになる。
でも、泣いている時間はない。私は袖で涙を拭い、アラン陛下に向き直った。
「アラン陛下、私は必ず瘴気溜まりを浄化し、シリル様を救います」
「ああ、どうか世界を、息子を救ってやってくれ」
頭を下げる陛下を前に、私は決意を胸に強く刻んだ。




