エピソード 1ー4
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天幕から響く女性の慌てる声。
シリル様が「なにがあった!?」と問い掛けると、一瞬遅れで「お待ちください、緊急の事態ではありません!」という女性の声が返ってきた。
いま、天幕の中ではずぶ濡れになったアナスタシアが着替えている。それを考慮したシリル様は「助けは必要ないのだな?」と確認し、そのまま待機することになった。
ほどなく、着替えを終えたアナスタシアが、女騎士に支えられて戻ってくる。
「アナスタシア、なにがあったの?」
セシリアが駆け寄ろうとするけれど、女騎士が手のひらを突き出して私の行く手を遮った。
「お待ちください。彼女は、もしかしたら幻影蝶の毒に侵されているかもしれません」
「――え!?」
慌ててアナスタシアの様子をうかがった。言われてみると、わずかに顔が火照っていて、熱があるように見えなくもない。
だけど――
「アナスタシアは幻影蝶に一瞬、指先で触れただけ。即座に熱が出るほど即効性のある毒ではないはずよ。もちろん、私の知る限りでは、だけど……」
原作では、症状が現れるまで数時間ほどの猶予があった。だからこそ、原作では幻影蝶が原因であると気付かず、王都に被害が広がったのだ。
とはいえ、私が水を掛けたから風邪を引いた、と言うのもあり得ない。風邪の潜伏期間は、それこそ一日二日くらいあったはずだ。こんなにすぐ熱が出るはずがない。
そのとき、アナスタシアが「実は――」と、水に濡れたビビットオレンジの髪を煩わしげに指で払う。彼女が口にしたのは、幻影蝶を見るのは二度目という話だった。
「……幻影蝶が王都にいた、と言うこと?」
「いえ、道中の休憩中に上空を飛んでいる煌めく蝶を見かけたんです。そのときは触れる距離でもありませんでしたし、なにをするともなく見送ったのですが……」
「……鱗粉なら、浴びていた可能性があるわね」
そう仮定すれば、症状が現れるまでの時間的にも辻褄が合う。つまり、アナスタシアは幻影蝶の毒に侵されている可能性が高い。それを理解した皆が狼狽える。
そんな中、冷静な反応を示したのはシリル様だった。
「……ソフィア、幻影蝶に付いて知っていることを教えて欲しい」
私はコクリと頷いて、原作で見たストーリーを思い返す。
「まず、魔力が少ない場合は軽い風邪程度にしか影響がありません。ですが、魔力が多い者は魔力が乱れ、それによって発熱や強い倦怠感、魔力が扱えなくなるなどの症状が現れ、最悪は死に至ります」
私の説明を聞き、皆の視線がアナスタシアに向けられた。彼女は少し困った顔で、右手を挙げて――「魔力が扱えませんね」と力なく口にする。
「……どうやら、幻影蝶の毒に冒されたのは事実のようだな。それで、彼女は……」
大丈夫なのかと、シリル様は言葉にせずに問い掛けてくる。
私は少し考え、言葉を選びながら口を開いた。
「彼女の魔力は決して少なくありません。それに命が助かっても後遺症がないとは限りません。ずっと魔術を使えなくなる、という可能性も……」
決して零ではないとほのめかせば、場の空気が重くなった。そしてツンと引かれる袖。視線を向ければ、セシリアが縋るような目を私に向けていた。
「お姉様、解毒する方法はないんですか?」
「解毒薬は存在するわ。でも、すぐに用意できるものじゃないの」
「そんなっ! どうにか出来ないんですか?」
「……それは」
動揺して答えに窮する。
でも、私がなんとかしなければアナスタシアは死んでしまうかもしれないと、私は必死に頭を働かせた。
「……そうね。見て分かるとおり、症状は毒と言うよりも病気に近い。すぐに症状が急変して亡くなるようなことはないはずよ。だから、まずは治癒魔術を試しましょう」
「わ、分かりました!」
セシリアが私に言われたとおりに治癒魔術の行使を始める。理由も根拠も聞かない辺り、相当に焦っているのだろう。
そんな彼女を横目に、シリル様が口を開く。
「ソフィア、治癒魔術の効果はあるのか?」
「……気休め程度ですが。幻影蝶は瘴気溜まり由来の魔獣なので、治癒魔術、特に聖女の魔力によるものならば、多少の効果は得られるはずです」
断言できないのは、原作が曖昧な書き方をしていたからだ。
作中ではシリル様が毒に侵され、セシリアが治癒魔術を使いながら必死に看病する。そのあいだに特効薬が開発され、シリル様は一命を取り留めるという展開。だが、間に合ったのが偶然か、それとも愛の力か、はたまた治癒魔術の効果なのかは明記されていない。すべては受け取り方次第、という表現だった。
「……そうか。それで、解毒ポーションというのは?」
「それは――」
みなまで言うより早く息を呑む。
森の奥に、煌めく幻影蝶の姿を目にしたからだ。
「三時の方向に幻影蝶の群れです!」
「――っ、やはりまだいたか」
シリル様が幻影蝶がいる方を睨みながら、「マクシミリアン、対処できるか?」と尋ねた。
「……我が部隊には魔力が高い者も多くいますゆえ、接近戦は厳しいです。――エリザベス、おまえの魔術で燃やせるか?」
「ええ、可能ですわ」
「待ってください!」
私はそのやり取りに慌てて割って入る。
「毒の種類によっては、燃やしても無毒化できないものがあります。その場合、炎の上昇気流で拡散させてしまうかもしれません。だから、確認せずに燃やすのは危険です」
「そう、なのですか?」
「ええ、ですから、エリザベスは結界をお願いします。それで、幻影蝶は近づけません」
「かしこまりました」
エリザベスは即座に部隊全体を包むように結界を張った。矢を弾き散らす程度の効果で、ブラッディウルフの攻撃を弾くような力はない。
だが、蝶の接近を防ぐには十分だ。
「鱗粉までは防げませんが、接近されなければ大丈夫でしょう。少なくともこれで時間は稼げます。あとは、幻影蝶を倒す方法ですが……」
私が言葉を濁すと、マクシミリアンが神妙な顔で口を開いた。
「……魔力が低い者なら症状が軽いのですね?」
その問いが意味するところは明らかだ。魔力が低い者に、毒を受ける覚悟で処理させようと考えているのだろう。私は「それも一つの手ですが……」と魔術を発動させた。
イメージするのは湖上の魔術発表会で使用した魔術。
あのときは水の分子を操って虹を架けたけれど、今度はそれを濃霧のようにする。その濃い霧が幻影蝶やその鱗粉に纏わり付き、重さに耐えかねた幻影蝶が地面へと落ちていった。
だが、空気中に漂う鱗粉が消えた訳じゃない。霧に鱗粉が付着しているはずだ。
だから――
「凍りなさい!」
指を鳴らすと霧の温度が急速に低下し、鱗粉が付着した霧が氷の粒となって落下していく。
「これで、毒に侵される可能性は軽減されるはずです」
振り返ると、マクシミリアンが「ソフィア嬢、いまのは一体……」と口にした。私は満面の笑みで、「いまのは、蝶を濡らして、その水分を凍らせただけです」と答える。
「それが、『だけ』ですか」
マクシミリアンが呆れ口調でそう言った。
どうやらやり過ぎてしまったようだ。やはり、前世の知識由来の技術は悪目立ちするようだ。
シリル様がものすごくなにか言いたい顔をしていることに気付いた私は、「地面に落としましたが、まだ倒せていません。あとはお願いします」と誤魔化した。
マクシミリアンがなにか言いたげな顔をしながらも頷く。
「――ソフィア嬢が幻影蝶を落としてくださった。念のため、魔力量が少ない者が、地面に落ちた蝶にトドメを刺して回れ!」
マクシミリアンの指示の元、飛べなくなった幻影蝶が倒されていく。そのうち、数匹の蝶がサンプルとして生きたまま捕獲された。
鱗粉が炎で無毒化されるかなどを実験するそうだ。
そして、いつまた幻影蝶が現れるか分からないと即時の撤退を決定。熱に冒されているアナスタシアのことは、女性の騎士が背負って運ぶこととなった。
瘴気溜まりを浄化しての凱旋――だったはずなのに、部隊に重苦しい空気が漂っている。
その空気を纏ったまま歩き続け、ほどなく休憩を入れる。
だけど――と、私はセシリアの様子を盗み見る。
休憩中にもかかわらず、セシリアはアナスタシアに治癒魔術を使い続けていた。
「セシリア、そんなペースで治癒魔術を使っていたら、貴女の方が先に倒れるわよ」
「それでも、いいです。倒れたら、運んでもらうことになっちゃいますけど……」
まさかの倒れることが前提だった。私は溜め息を一つ、セシリアとアナスタシアの間に割って入った。
「少し代わるわ。聖女じゃない私の治癒魔術にどれくらい効果があるかは分からないけど、やらないよりはマシなはずよ。だから、セシリアは少し休みなさい」
セシリアを説き伏せて休ませる。
私は治癒魔術を行使しながらアナスタシアの様子をうかがった。呼吸は比較的安定しているが、最初よりも確実に熱は高くなっている。
彼女はその熱に浮かされて眠っているようだ。
「……にしても、文献で見たよりも進行が速いわね」
思わず口にすると、セシリアがびくりと身を震わせた。不思議に思って視線を向けると、彼女は罪悪感に苛まれるように顔を歪ませていた。
「……セシリア?」
「私の、せいなんです」
「……どういうこと?」
「この毒は魔力が高い人ほど症状が重くなるんですよね? だったら、アナスタシアの症状が重いのは私のせいです。私と一緒に治癒魔術の練習をして、魔力が増えたって言ってたから!」
その言葉が刃となって私の胸を貫いた。
原作よりも進行が速く、症状が重いように見える。それが、特殊な訓練による魔力の増加のせいだというのなら、元凶は間違いなく私にある。
「……それなら、貴女のせいじゃない、私のせいよ」
「え? あ、違っ、私は、そういう意味で言った訳じゃ……っ」
「貴女がそういうつもりじゃないことは分かってるわ。でも、私のせいじゃないというなら、貴女も自分を責めるのはやめなさい」
そう言って慰めるけれど、このままならアナスタシアは死んでしまうかもしれない。そこまで考えた私は、作中で聖女候補の一人が毒の犠牲になったという記述があることを思いだした。
ライトな乙女ゲームゆえに、『毒の犠牲になった』というのがどういう意味なのかは明記されていなかった。聖女候補からリタイヤしただけなのか、命をも失ったのかは分からない。
それ以前、その聖女候補がアナスタシアなのかどうかも分からない。
けど、いまのアナスタシアが、原作のどの聖女候補よりも魔力が高いのは間違いない。だとすれば、このままならよくて再起不能、最悪は死に至ることになる。
その運命を変える方法は一つだけだ。
「解毒ポーションを用意しましょう」
「……そう言えば、さっき言いかけていましたね」
「ええ。文献に載っていたの。解毒薬に必要な素材の名前が」
私がそう口にした瞬間、「具体的な解毒薬の製法を知っているのか!?」と言うような声が複数上がった。どうやら、他の者達も私達の会話に耳を傾けていたようだ。
そうして声を上げた彼らは顔を見合わせて、代表するようにシリル様が凜と声を響かせた。
「ソフィア、解毒薬があるというのは本当か?」
「文献にその存在が記されていました。ただし、製法までは分かりません。私が分かるのは、その解毒薬に必要な素材の名前まで、です」
素材の名前だけで製法を知らないのは、それが原作ゲームの知識だからだ。必要な素材の名前は作中に登場するけれど、作る描写はなかった。
「素材だけとなると、解毒薬を作るのは難しいか……?」
シリル様の呟きに、アナスタシアが「いえ、恐らくですが可能です」と目を開いた。セシリアが弾かれたようにアナスタシアのもとに駆け寄ってその手を握る。
「アナスタシア、起きて大丈夫なの!?」
「ええ、なんとか、ね。貴女達が治癒魔術を使ってくれたおかげよ。……ソフィア様もありがとうございます。おかげで、少し楽に、なりました……」
アナスタシアの視線が、いまも治癒魔術を行使中の私へと向けられる。
「効果があるのならよかったわ。でも、無理して話すのは止めなさい」
「そう、ですね。では本題、だけ……。私も詳しくは、ありませんが……薬は効果によって、素材が違うだけ……で、はぁ……製法は、どれも似通って……いるはずです」
「――っ」
それならば――と、希望を抱く。
私は製法を知らないけれど、必要な素材はわかる。そして専門家なら、素材から製法がわかるかもしれない、と。
「解毒に必要な素材の大半は一般的なもので、すぐ手に入ります。だから、問題なのはアンチュリスという珍しい花が必要なことですね」
私がそう言うとシリル様が首を傾げた。
「アンチュリス? 聞いたことがない花だが……入手するあてはあるのか?」
「……あります」
原作ゲームには、群生地に咲き誇るアンチュリスを発見したときのスチルがあった。場所はこの森のどこかで、小川と大木の近くにある、土壌に風化した鉱石が混じる場所だ。
私はそれらを、猟師がそれらしき花を見たらしい、という情報として伝えた。
「小川と大木のある場所か……もう少し、詳しい場所は分からないのか?」
「残念ながら。でも……ここに来る途中、小川がありましたよね? その向こうにそれらしき大木がありました。恐らく、それが猟師の見た場所ではないか、と」
これにかんしては確証もなにもない。
本来なら、この遠征が終わったあとに調べるつもりだったからだ。
原作通りなら、王家とルミナリア教団が調べてくれるのだけど……アナスタシアの症状の進行が速いことを考えると、原作通りに待っていると間に合わないかもしれない。
だから、方法は一つだけだ。
「護衛の騎士を数名ほど貸していただけませんか? 私が、アンチュリスの花を持ち帰ります」
「――ソフィア、なにを言っているんだ!」
シリル様が弾かれたように声を上げた。
「……もちろん、聖女を護るための護衛を減らすのに抵抗があるのは理解します。ただ、瘴気溜まりは浄化済みですから、数名程度なら割く余裕はあるのではありませんか?」
「違う、そなたが危険だと言っているのだ!」
「……もちろん、危険は承知の上です。ですが、アナスタシアは私よりも危険な状況です。……私は、友人を死なせたくありません」
前世ではどれだけ望んでも手に入らなかった、ようやく手に入れた友人を失いたくない。そんな思いを込めて見つめれば、シリル様は唇を噛んだ。
「それは、理解できる。だが……」
その続きをシリル様は口にしなかった。
私を気遣うと同時に、アナスタシアのことも心配しているのだろう。とても優しい人だと思う。そんな彼を困らせたくはないけれど……
「シリル様、次は聖女が毒に侵されるかもしれません。そして、聖女が魔力を扱えなくなれば世界が滅びます。だから、アンチュリスの花はなにを置いても手に入れる必要があるはずです」
天秤の向こう側、アナスタシアの命が載る皿に、世界の命運を載せる。シリル様は苦悩に満ちた表情を浮かべながらも、「……分かった」と口にした。
「ではマクシミリアン、護衛を二つに分けてくれ」
「かしこまりました。では、ソフィア様に同行するのは――」
マクシミリアンがそう口にした瞬間、セシリアが勢いよく右手を挙げた。
「……聖女様、なんのつもりですか?」
「私もいきます!」
迷いのない声で宣言する。
それを見たマクシミリアンが困った顔で私を見た。
「……セシリア、貴女は一番護られなくちゃいけない存在なのよ? 幻影蝶に襲われたらどうするつもり?」
「それを言うなら、ソフィアお姉様はどうなんですか? 私より、魔力が多いですよね?」
「……結界を張っていれば、蝶は近づけないわ」
「なら、私が同行しても大丈夫なはずです!」
「それは、そうだけど……」
他の魔物が出たらどうするのと聞いても、きっとセシリアは『じゃあ、ソフィアお姉様はどうするんですか?』と聞いてくるだろう。
それが想像できたから、私は思わず口を閉じた。それから、シリル様に止めてもらおうと視線を向ける。だけど、彼が口を開く直前。
「……私も、同行します」
アナスタシアまでもが予想外のことを口にした。
「貴女までなにを言っているのよ?」
「……群生地は、来た道からそう遠く離れて……いないんですよね? 一緒に行動すれば、護衛を二手に分ける必要はありません」
「それは、そうだけど……」
問題はアナスタシアの体力だ。そんな私の思いが正しく伝わったのだろう。アナスタシアは弱々しくも微笑んだ。
「大丈夫、身体が重いのは事実だけど、それくらいなら、我慢できます。騎士のお姉さんには、もう少しお世話になることになるけれど……」
アナスタシアはそう言いながら、さっきまで自分をおんぶしていた女性の騎士を見上げた。彼女は「体力には自信があるので問題ありません」と胸を張った。
それを見届けたアナスタシアは、覚悟を秘めた目でシリル様を見上げた。
「シリル様、どうか許可を」
「……大丈夫、なのか?」
「はい。ソフィア様やセシリアが私のために危険を冒そうとしてくれているのに、私だけ安全な場所で震えている訳には参りません。どうか、連れて行ってください」
シリル様をまっすぐに見上げる。
アナスタシアの強い意志を秘めた青い瞳がとても綺麗だと思った。なにより、私のがんばりに応えようとしてくれているその気持ちが嬉しい。
だけど――
「シリル様、みんなを危険に晒す必要はありません。私だけで向かいます」
みんなを危険に晒したくないと、私は単独で採取に向かうと宣言した。
「ソフィアお姉様、私も行くって言ってるじゃないですか!」
「セシリア、貴女は聖女なのよ」
「聖女だからって、一人だけ安全な場所にいるのは嫌です。ソフィアお姉様、私にやりたいことをやればいいって、言ってくれましたよね?」
「それは……」
私が言ったのは、危険がなければ、だ。
だけどこれは違う。
そう思ったのだけれど、シリル様が私達の争いを遮るように口を開いた。
「いや、やはり二手に分けるのは危険だ。だが、ソフィアの言うとおり、解毒薬の素材を入手するのが急務なのも事実だ。ゆえに、採取には全員で向かうべきだと考える」
「……それは、いえ、分かりました」
前回、私は命令に逆らって迷惑を掛けたばかりだ。
だから、今回は彼に従おうと引き下がる。
シリル様は、「その上で、そなたの意見を聞かせてくれ」とマクシミリアンに視線を向けた。
「彼女の容態は心配ですが、全員で向かった方が安全なのはたしかです。それに、解毒薬の材料を集めるのが急務なのは間違いありません」
「分かった。ではこれより、全員でアンチュリスの花の捜索に向かおう」
こうして、私達はアンチュリスの花の群生地を探すことになった。私は木々の隙間から見える青い空を見上げ、必ずアナスタシアを救ってみせると新たな決意を固めた。




