サクソフォンガールIKU
音楽には不思議な魔力があります。
この物語は、そんな音楽の魔力の虜となった、ひとりの少女の物語です。
これからの束の間、あなたの心は、この不思議な空間へと入って行くのです。
少女がサクソフォンと出会ったのは、中学生の時だった。
入部した吹奏楽部で、希望してサックスの担当になった。
もともと音楽が好きで、小学生の時にはピアノを習っていたので、楽譜を読むことは出来た。
サックスに憧れるようになったのは、小学六年生の時、母親に連れられて行ったデパートのイヴェントに出演したジャズ・バンドの紅一点として活躍する女性プレイヤーに感動したからだった。
古いポップスや、馴染みのある歌謡曲をジャズ風にアレンジし、ステージを飛び出して客の間を練り歩くように演奏する姿は、どこかチンドン屋のような趣きがあり、とびきりの楽しさと同時に、絶妙のタイミングで奏でられる哀愁のこもったメロディが、サックスの艶やかな音色とともに、少女の心を鷲づかみにしたのだった。
「イク、サックスが吹きたい」
と母親に訴えたが、すぐにサックスは買ってもらえなかった。ピアノの稽古を途中で辞めてしまった過去があるからだった。
まずは中学に進学して吹奏楽部に入り、部の備品のサックスを借りて練習することになった。
もちろん新品ではなかったけれど、遂に憧れのサックスに触れることが出来て、とっても嬉しかった。
吹奏楽部ではアルト・サックスの担当となり、まずは先輩の後について部の定番曲を練習した。少女の上達はめざましかった。通常の新入部員の半分の時間で奏法をマスターし、聴ける音を奏でるようになったのだ。
一年生にしては異例の早さで、彼女はレギュラー入りした。文化祭や定期演奏会、吹奏楽コンクールなどで演奏するメンバーの一員である。その分、練習は厳しく、時間も長かったが、それは一向に苦にならなかった。
さすがに演奏会の本番は緊張したが、回を重ねるごとに、その緊張がある種の刺激となり、時には快感にさえ感じるようになって行った。
二年生になると、中核メンバーとなり、部員や顧問の先生からの信頼も厚くなった。
だけど、コンクールではなかなか良い成績を出すことは出来ず、県大会止まりだった。こればかりは自分一人が頑張っても、どうにもならないことだった。
三年生になって、進路のことを考えるようになった時、少女は近隣では最も吹奏楽部が充実していて、全国大会にも常連として出場している高校を目指すことを心に決めた。両親は最初は反対したが、彼女の真摯な態度を認めて、志望校の選択を支持してくれた。
その年、彼女の所属する吹奏楽部は、県大会で決勝戦まで進み、準優勝という開部以来最高の成績を残したが、やはり全国大会に進めなかったという口惜しさだけが残った。
その口惜しさをバネにして、少女は受験勉強に没頭し、次の年の春には、見事志望校に合格した。両親からはご褒美として、新品のサックスを買って貰った。
とうとう手に入れた自分のサックス!
また一歩、夢に近づいた。
そう思った。
しかし、念願の吹奏楽部に入部した彼女に、予期せぬ壁が立ちふさがった。それは、部長であり指揮を担当する三年男子の言葉だった。
「君の演奏は音符が並んでいるのを見ているようだね」と彼は言った。
「楽譜に正確で、ミスもほとんどない。そういう意味では見事なんだけど、それだけなら機械でも出来る。厳しいことを言うようだけど、君の演奏は〃音〃であって〃音楽〃じゃない」
それは自分を全否定されたようなものだった。少女は硬直し、泣くことすら出来なかった。異性として、密かに恋心を抱いていた先輩だっただけに、その言葉は彼女を激しく打ちのめした。
どん底に落ち込んだ少女の唯一の救いとなったのは、同じ頃発売された一枚のアルバムだった。それは、彼女がサックスに憧れるきっかけとなった、あの女性ミュージシャンの初めてのソロ・アルバムだった。
伸びやかで艶があり、そこに女性らしい色香さえ漂わせた演奏は、少女に自分の目指すべき方向を示してくれたように感じられた。
翌日から少女は早朝練習を開始した。
場所は、家の近くを流れる大河に渡された橋の下だった。そこならば、多少大きな音を出しても、苦情を受ける心配はなかった。
練習曲はもちろん、あの女性サックス奏者のソロ・アルバムの楽曲だった。楽譜は購入せず、自分の耳で聴き取った音をたよりに演奏した。いわゆる耳コピーだ。
それは、今までにない新鮮な体験だった。練習を重ねるごとに、楽譜の呪縛からも、そして先輩の言葉からも徐々に開放されて行くように感じられた。
あらためて、音楽の楽しさを噛みしめはじめていた。
そんなある日、一人の男が橋の上を通りかかり、サックスの音色に導かれるように、橋下の練習場に姿を現した。
「お嬢ちゃん、なかなかいい音を出すじゃねえか」
そう言いながら現れた男は、濃い色のサングラスをかけ、背中にギターを背負い、白い杖をついていた。その姿は、ギタリストというよりは、時代もののアニメに出て来る琵琶法師のような風情だった。
「おいらは旅のギター弾きだけどよ、久々におぼこい音を聴かせてもらったぜ」
男の言っている「おぼこい」の意味は解らなかったけれど、どうやら褒められているらしことは理解出来た。
「ちょっこし、ここで聴かせてもらうぜ」
全国を旅して歩いているらしい盲目のギター弾きは、どこの方言とも知れない不思議な言葉遣いで喋った。
最初はちょっと怪しいと思い、身を固くして警戒していた少女だったが、男の親しみやすい口調と、全身から発せられる音楽家としてのオーラが、緊張を解いてくれた。
彼女は、尊敬する女性サックス奏者のアルバムから、いちばんのお気に入りの曲を演奏した。一人で演奏するより、誰か聴き手がいてくれる方が、演奏にも張り合いがあることを、あらためて感じた。そのためか、いつもより伸び伸びと演奏出来たような気がする。
「うんうん、悪くねえ。さっきよりちょっこし音の伸びが良くなったな」と盲目のギター弾きは手を叩きながら言った。
「また聴かせに寄らしてもらうぜ」
そう言ってギター弾きは橋の上に去って行った。
翌日から毎日、そのギター弾きは橋の下にやって来るようになった。気持ち良さそうに少女の演奏を聴きながら、時に的確なアドバイスをしてくれた。興が乗ると、男は背負ったギターを弾いて、演奏に参加するようになった。ジプシー音楽のようにもの悲しく、また時には陽気に奏でられるその音色を聴いて、少女は彼が、間違いなく一流のミュージシャンであることを悟った。
二人の合奏は、やがて原曲のメロディをはみ出して、自由な旋律を奏でるようになった。これが即興演奏、ジャム・セッションというものなのだと、少女は実感した。
こうしてジャム・セッションを重ねるにつれて、何とか自分の音というものを奏でられるようになったように感じられた。と同時に、楽器と自分が一体化するような不思議な感覚を味わうようになった。
そんなある日、運命の瞬間がやって来た。
その日も少女とギター弾きは、いつもの橋の下で演奏をしていた。
秋の夕暮れ時だった。
沈みかけた太陽が、世界を黄金色に染めていた。
演奏も、それに呼応するように盛り上がって行った。
今まででいちばん素晴らしい演奏だった。
ああ、ずっとこのまま演奏を続けていたいと、少女は思った。
自分とサックスが、一本の筒として繋がり、そこを呼吸とともに息吹が吹き抜けて行く。その息吹とは風であり、その中に息づく音霊であった。
「いいぞ、その調子だ」
ギター弾きの演奏も加熱する。
やがて演奏がクライマックスに達すると、少女は快感に全身を貫かれるように感じた。音が身体の隅々まで充ちて、もはや楽器を演奏しているというよりは、自分自身が楽器そのものになったような感覚だ。
ああ、音があたしを駈け抜けて行く!
行く!
あたしが鳴る!
鳴っている!
頭の中が真っ白になった。
次の刹那、少女は一本のサクソフォンになっていた。
黄金に輝き、優美な曲線を持つ、美しいアルト・サックスだった。
不思議なことに、少女がサックスになったと同時に、彼女の家族や友人たちから、彼女の記憶が消えてしまった。まるで、最初から彼女がサックスとして生まれて来たかのように……。
サックスとなった少女は、盲目のギター弾きによって、ある著名なサックス奏者に届けられた。
少女はそのサックス奏者に奏でられ、数多くの名演を残した。
しかし、男の演奏が荒れ始め、生彩を欠くようになると、彼女の姿は忽然と消えていたのである。
そうして彼女はミュージシャンの間を転々とし、それぞれに代表作と呼ばれる名演を残しては、また次のプレイヤーに奏でられるのだった。
「ってなわけで、今、彼女はオレの相棒となっている。オレが今回発表したアルバムで吹いてるサックスは、もとは少女だったてわけさ。あ、いや、彼女は永遠に少女のままだ。オレの演奏、まるで少女のように初々しく、愛らしかっただろ?」
そう言って老ジャズマンは、愛用のサクソフォンを撫ぜながら、会心の笑みを浮かべた。
「え、彼女の名前を教えてくれってか? じゃあ、おまえさんだけに教えてあげるぜ。オレは親愛の情をこめてイクって呼んでるんだ」
了
名器と呼ばれる楽器には、不思議なオーラがあるものです。
もしかしたらそれらの楽器は、もとは人間だったのかも知れません。
それではまたお逢いしましょう。