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この度、名前が変わります

作者: 雨宮 瑞樹


  コンコンコン。

 

 俺の部屋の壁が鳴った。突然の呼び出し音。それはいつものことだ。ベッドに転がって漫画を読んでいた俺は、仕方なく身を起こし、自室を出た。


 

 壁三回の呼び出し音は、『渡したいものがある』という意味だ。

 こんな時は、大抵冷蔵庫からの掘り出し物を持ちだしてきて賞味期限が過ぎたから食べろと、押し付けてくる。

 俺はいつからディスポーザーになったんだ。そんな機能備わっていないぞ。

 このマンションに住みはじめて二十年。

そんな軽口もいえないくらい、呼び出し相手に惚れているなんて、言えるはずもなく……。

 この時間はいつも小腹がすいてるしな。いわれた通りその役目を全うするかと、言い訳を正論にすり替えるのが日常となってしまっている。それは、今日も例外ではない。

 時刻は午後九時過を回ったところだ。


 玄関のドアを開けて、三歩ほど前進。いつも通り、四階の古びた狭い廊下の手すりにもたれ掛かる。夏の夜の気だるさが全身にを包み、蝉の鳴き声が纏わりついてきていた。何もしていないのに汗が吹き出してくるが、仕方ない。

 あいつに会うためだ。


 十秒ほどすると待ち人家のドアが開いた。

 童顔肩越しで跳ねた髪の毛にすっぴんの丸顔に大きな瞳。

 呼び出しの主。青木ゆず。

 二十年という月日で劣化して、前にも後ろにも伸び縮みしなくなってしまった糸で繋がっている幼馴染みだ。

 本当は高校の卒業式の日に告白しようと思っていたのだが、叩けば響く薄い壁が分厚い壁に変わってしまうことを恐れて、結局なにも言い出せず終わってしまった。そして、月日は流れ、お互い浮いた話もないまま、これまでと変わらない腐れ縁の幼馴染みという関係で、今に続いている。


 ゆずは、いつものパジャマにいつものサンダルを履いて、手にはビニール袋を下げていた。

 相変わらず煩い蝉の鳴き声が響いている。やっぱり、何もかもいつも通りの光景だ。刺激のない当たり前な時間が水のように流れ、いつも通り俺の心はゆずという清らかな水に満たされて終わる。今日も今日とて。そう思っていた。



「お、今日はなんだ?」

 俺の横に立ったゆずが持っているビニール袋を早速取り上げた。いつもならスーパーで買ってきた安いスイーツが入っている。だが、今回は安っぽい無地のビニール袋にはあまりにも不釣り合いな、金色の包みに包まれた超有名高級チョコレートだ。視界いっぱいにキラキラの金色が飛び込んでくる。

「これ『ゴラロス』の高級チョコレートじゃん! しかも、賞味期限内だし!」

 あまりの目映さに目が眩んでいると。ゆずは、いつも通りの低いテンションのままなくせに、やけに鋭い矢を俺の心臓に放っていた。

 

「長い間、青木ゆずをありがとうございました」


 急にそんなことを言い出すゆず。いっている意味も全く理解できないが、目も錯覚を起こしたのだろうか。俺の目の前で、明らかに自分が悪いと分かっていても絶対に下げることのなかった頑固者が、仰々しく頭を下げていた。

 

「ずっといえなかったんだけど……私名前が変わり『板橋ゆず』になります」

 

 はぁ? 板橋?

 完全に思考停止。視界も狭まり、蝉の鳴き声もやけに遠くなっていく。

 これは、悪い夢だ。この暑さで、頭のネジが溶け出して悪夢を見ているだけだ。早く覚めなければ。目覚めの儀式のように何度も目を瞬かせてみる。だが、一向に景色は変わらない。代わりに、頭の思考回路がパチンパチンと音を立てて、弾け飛んでいく。

 

「ちょっと、聞いてる?」

 微動だにしなくなった俺に丸い童顔が覗き込んできた。

 急に間近になったゆずの瞳。はっと我に返り、なんとか思考回路を繋ぎ直す。無理矢理つなぎ合わせた線が正しいのかもわからなかったが、何とか電流が流れは再開。だが、その流れに乗って出てきたのは情けないほどひ弱な声だった。



「へ、へぇ……。それって、いつの話?」

 苦し紛れに疑問を投げる。もしも、まだ猶予があるというのなら。俺にどうかチャンスを。僅かな望みをかけながら見返すが、ゆずは容赦なくは叩き割っていた。

「来月には書類提出するから、そのあとすぐ引っ越しかな」

 僅かな光も潰えた上に、引っ越すという衝撃。冷静に考えれば、当然だ。結婚すれば、実家を出て相手と一緒に住むことになるのはごく当たり前の流れ……そこまで考えたところで、思考は後悔という流木に塞き止められていた。

 どうして、俺はあの時告白しなかった?

 どうして、その後も行動しようとしなかった? どうして、いままで放っておいた? 自分自身を呪い殺してやりたい。


 無理矢理つなぎ合わせた回路が悲鳴を上げて火花が散り始める。その火花が派手に飛び火して、ずっと灯ることのなかった感情の導火線に着火していた。

 

「俺は認めない!」

 灯ってしまった火は勢いよく燃え上がり、駆け上がる。冷静さなんて、完全に燃え尽きて、思考回路も完全燃焼。残っているのは、燃え盛る激しい炎だけだった。

「え?」

「お前と俺は何年一緒にいた?」

「えっと……かれこれ二十年ほど……」

「確かに俺たち、付き合っているわけじゃなかった。ただの幼馴染みだ。けどな、俺には知る権利はあったはずだ! あと一ヶ月で名前が変わるなんていくらなんでも唐突すぎるだろ。なんで隠してたんだよ!」

「……あんたが気にすると思ったから。……巻き込みたくなかったのよ」

 少し俯いて切なく顔を歪めるゆずを見れば、俺の炎に油が注がれる。

「そんなの理由になるか! もう一度いう。俺は絶対に板橋なんて、認めないからな!」

 ゆずの眉間に深い溝が出来上がるとそこから、怒りが顔全体に広がっていた。

「そんなこと言ったって、仕方ないでしょ?  もう決まったことなの!」

「いや、俺は絶対に板橋とかいうやつとの結婚なんて許さない! ゆずの結婚相手は、ずっと昔から俺だって決まってるんだ!」

 

 俺は心のままに叫びは、十階建てのマンションを包み込むように木霊していた。

 狭い廊下でやりあっていたせいで、行きたい方向に進めず困っていたご近所さんが「あらまぁ」と好奇心でキラキラと目を輝かせ、見守っていることなんて全く目に入らない。それが一人や二人じゃないことも。例えそれに気付いていたとしても、そんなのどうだっていい。

 夜の暗さでも分かるほど真っ赤にさせたゆずの顔しか目に入らない。


 蝉の鳴き声も俺の雄叫びに気圧されて、シンと静まり返る。静寂の闇に紛れて、固唾をのみ見守り続けるご近所さんたち。

 すべての中心に置かれたゆずが、重たい口を開いた。

 


「……あの……私……結婚するとは一言も言ってないんだけど……」

 頭から冷や水を浴びせられる。あんなに激しく燃え盛っていた炎が「……へ?」という音を立て呆気なく消えていた。


「……結婚じゃなくて、離婚。両親が離婚して、名前が変わるって話だったんだけど……」

 相変わらず耳まで真っ赤にさせているゆずは、更に俯いていた。自分が逃げ込める穴を探すように。

「お、お前そういうことは、早く言えよ!」

  ゆずしか見えていなかった視界が一気に広がる。そこにはマンション内の住人が群がっていて、散々ゆずと向き合うことを恐れ逃げ回っていた道を塞いでいた。早く決着を着けなさい。そんな視線を一直線に注いでくる。

 そうだ。俺はもう逃げちゃいけないんだ。

「俺は、ゆずのことが好きだ。さっきいったことは、全部本心だ。だから、聞かせてくれよ。お前の答え」

 ゆずが探していた穴を塞いで、俺は真っ直ぐにゆずを捉えた。ゆずも観念したように、顔をあげて視線が交わった。

 

「私だって……結婚する相手は、あんたしか考えられない……です」

 静かだった蝉がまた祝福するように鳴き始める。それが合図だったかのように、

 おー! おめでとう!

 何もない夏の夜のいつもの古びた狭い廊下が、バージンロードに早変わりする。


 その観衆の中に俺の両親とゆずの両親が紛れていて、ゆずは板橋という名前に変わる間もなく、俺の名前に変わっていた。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 娘の幼馴染が同姓同名でわrsってしまった
[良い点] 勘違いから始まる突然の公開告白&プロポーズ! ご近所さんからも祝福されてめでたしめでたしでよかったです。
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