ロッシに会いたくて
「噓でしょ。ちょっと、やだ」
和美は動揺した。自分の愛車が横倒しになっている。ここは環状線と国道の交差点。その真ん中で、カウルは砕けてフロントフォークもひしゃげてしまっている。
「まだローンが残ってるのに ・・・・・・ 」
和美は直進していた。青信号で交差点に進入した途端、銀色の大きな壁が現れたのは覚えている。
エンジンが掛けられたまま停まっているトラック。その運転席側のドアは開け放たれている。愛車を壊した運転手を一発ぶん殴ってやりたい。和美は運転手を捜した。
ここには右折信号がある。私もちょっと黄色に変わりかける頃だったかもしれないけれど、過失は向こうの方が大きいはず。和美は肩をいからせた。
環状線も国道も、すでにたくさんの車が詰まってしまっている。野次馬も集まってきた。恥ずかしいし、大迷惑だ。とにかく警察を呼ぼう。ジーンズのポケットを探ったがケータイがない。
「あ、そうだ!」
バイクで出掛けようと思い立った時、充電が残り少ないことに気付き、支度をする僅かな時間だけでも、と充電器に差したまま忘れてしまったのだ。行先はお気に入りのカフェで、ガラス張りの店内から自分のバイクを眺めてコーヒーを飲むという、優雅なひと時を過ごすのが目的だった。
とりあえず、バイクの横でオロオロしている作業服姿のおっさんに近づく。すると、傷だらけになった自分のヘルメットが目に入った。顎ひもはちゃんと締めたはずだった。なぜ脱げてしまったのか。拾おうとするが、なぜか掴めない。そこにあるのに、手がすり抜けてしまう感じだ。頭でも打って、距離感がおかしくなったのだろうか。和美は目をこすった。
クリアになったはずの視界に飛び込んできたのは、血だらけになって横たわる自分の姿だった。
◇◇◇◇
「やばっ、目が合っちゃった」
つかさは慌てて視線を逸らした。
国道の交差点。歩行者信号が青になるのを待っている間、通りの反対側に立っているショートカットの女性。目が大きく、鼻筋が通っていてなかなかの美人だ。九月下旬のこの時期、朝晩は涼しくなっても昼間はまだ暑く、台風が通り過ぎたばかりのこの日も、最高気温は三十度を超えていた。その中で革のジャケットを着込んだ彼女は、やはり奇異に映る。しかも本人は平気な顔をしている。
当たり前だ。人じゃない。
つかさは産まれつき、人の姿をした人じゃないものが見えた。母親もそうだから、おそらく遺伝。父親と弟にはまったくそういうものはない。
信号が青に変わり、革ジャケットの彼女は真っすぐつかさに向かってくる。つかさは踵を返し、今来た道を戻ろうとする。
「あのぉ、すみません。私のこと見えてますよね?」
やばい、話し掛けてきた。つかさは無視することに決めた。
「さっき、目が合いましたよね?」
横にぴったりとくっつきながら、無視するつかさに話し続ける。
聞こえない振りをするしかない。絶対に関わってはいけない。小さい頃から何度も母に言われたことだ。早く諦めてほしい。つかさは俯き加減で早歩きを続ける。
「あの、スカートのファスナー開いてますよ」
「!」
つかさは慌ててお尻にあるファスナーに手をあてた。
「ほぉら、聞こえてるじゃん」
だまされた。ファスナーはしっかり閉じられている。つかさは革ジャケットの女性を睨んだ。反応してくれたことが嬉しいのか、女性はニコニコして目を輝かせている。
「あなたはもう死んでますよ。気付いてます?」
つかさが女性に尋ねたちょうどその時、三人の男子高校生とすれ違った。女性はもちろん、ぶつかりもせずに彼らをすり抜けていく。振り返ると、男子高校生たちは、つかさに怪訝そうな視線を投げながら、互いに手首の脈を測り合っている。
「いやいや、君たちのことじゃないから」
呟きながら歩き続けるが、女性はなおもついてくる。
「初めてなんですよぉ、気付いてくれたひと。死んでからこのかた、生きている人と話すことができなかったからぁ。無視される辛さって分かります?」
分かりますとも。小さな頃、見えるはずのないものが見えると騒ぎ、そのうち、お友達や幼稚園の先生からも相手にしてもらえなくなったことがある。気味悪がられ、ついには嘘つき呼ばわりされた。そういうことは秘密にしておかなければいけないと、小学校に上がる頃には理解した。
早足で歩きながら喋っていると、周りの人から怪しまれる。なにせ、この革ジャケットの女性は、普通の人たちには見えないからだ。
「と、とりあえず、こっち!」
諦めたつかさは、近くの公園へと女性を導いた。
「私、和美っていいます」
公園のベンチに並んで座った女性は、頼まれてもいないのに自己紹介をした。
真っ昼間の公園には小さい子を連れたお母さんグループや、犬の散歩をしている人たちが行き交う。つかさはバッグからスマートフォンを出し、耳にあてた。こうすれば、一人で喋っていても変な目で見られることもない。
「あの、若くしてとても気の毒だとは思いますけど、早く成仏なさった方が ── 」
「それが無理なの! どうしてもやらなきゃいけないことがあるのよ!」
和美という女性の幽霊はつかさの手を握った。つもりだったが、もちろん手はすり抜ける。ひんやりとした空気を残して。
つかさを嫌な予感が襲った。それを手伝ってほしいと言われるような ──
「あなたの身体を貸してほしいの。来週レースがあるのよ!」
「はあ?」
スマートフォンが手から落ちそうになった。あまりにも予想外のお願いで。
「レースって、車の?」
「ううん、バイク」
「あ、あたしにバイクのレースに出ろってこと?」
「違うわよ! 見に行くの! チケットはあるから」
「ど、どこまで?」
「栃木」
レースに出るわけでもなく、ただ観戦するだけなら他人の身体を借りなくてもできるだろう。それに、ほとんどの人間からは見えないのだから、チケットも必要ないはずだ。
「行けばいいじゃないですか。ひとりで」
つかさの言葉に和美は悲しそうな顔をした。
「それが、ひとりじゃ行けないのよ」
和美が言うには、なぜだか分からないが、あまり遠くへは行けないらしい。
「せいぜい半径五キロくらい。ある地点まで来ると、押し返されちゃうの。なんか透明の風船っていうか、エアバッグみたいなやつに。ボォンと」
「そうなんですか。知らなかった」
幽霊は何回も見てるけど、会話をしたのは初めてなのだ。
「だけど、生きている人にとり憑けば、遠くまで行けるって。教えてもらったの、先輩幽霊に」
あっけらかんと言う。とり憑かれた方はたまったものではない。
「でも誰も私に気付かないの。ちゃんと意思疎通ができる相手じゃないと意味がないでしょ? サーキットに連れて行ってもらわなきゃいけないんだから」
「それがわたし?」
つかさはあからさまに嫌な顔をして見せた。
「お願い! どうしても見に行きたいの。死ぬまでに一度でいいから!」
いやいや、もうあなたは死んじゃってますから。それは口にしないでおいた。
「あの、わたしは学校があるので、忙しいんですよ」
「大丈夫、レースは日曜日だから」
「 ・・・・・・うちには『幽霊とは関わるな』って家訓が ── 」
「一生のお願い!」
いやいや、あなたの一生はもう終わってますから。それも言わずに心に秘めておいた。
和美の表情は真剣で、目には強い意志を湛えている。つかさはすっかり気圧されてしまった。
「困ったなぁ ・・・・・」
◇◇◇◇◇◇
次の日、ふたりは同じ公園のベンチで待ち合わせた。つかさは気の進まないこの話に気を揉み、昨夜はよく眠れないまま大学の講義を受け疲労困憊だったが、和美の方は嬉しそうにニコニコしていた。
今日の予定は、和美の家に行き、スマートフォンを持ってくることだ。レースのチケットがその中にある。それがなければ、サーキットの観覧席に入ることができない。
「バイクになんか乗るから ・・・・・・」
和美の事故死の状況を聞き、つかさは反射的に呟いた。
つかさにとって、バイクなどまったく未知の乗り物だった。二十年間生きてきて興味を持ったこともないし、家族や友達にもバイク乗りはいなかった。車の免許は持っている。教習所に通っている時、二輪用のコースをグルグル回るバイクを見て、大金を出してわざわざバイクの免許を取る人の気が知れないと思った。雨が降れば濡れるし、暑さ寒さもしのげない。運転しながら音楽を聴くことも、ジュースを飲むこともできない。バイク乗りと聞いて思い浮かぶのは、騒音を立てる暴走族。そしてヤンキー。
「あ! 和美さんて、もしかして暴走族?」
「なんでそうなるのよ! 暴走なんてしたことないから。だいたいねぇ、ああいう輩がバイクの地位を押し下げてるのよ! 私はただの、バイクを愛するライダー」
ふたりは和美の家に向かって歩きながら話をしていた。もちろん通りすがりの人からは、つかさが一人で歩いているとしかみえないのだが。例によってつかさはスマートフォンを耳にあてている。
「何年も前のことよ、付き合ってた人がバイクに乗っててね。私は後ろに乗って、いろんな所に行ったなぁ」
「それがバイクにハマったきっかけ?」
つかさが訊くと和美は頭を振った。
「ううん、自分で乗ろうと思ったのは彼氏の影響じゃないの。見ず知らずの女の人。ある時、彼氏と二人乗りで道の駅に寄ってね、そこで見掛けたの。長い髪のきれいな女の人。大型バイクだったな。華奢な身体でさ、大きな金属の塊に跨って。エンジンかけてスタンド外して、走り出す一連の動作が『慣れてる』って感じでさぁ、かっこよかったなぁ。なんか、人生の主導権をちゃんと自分で握ってるって感じがしたの」
その時のことが目に浮かんでいるのだろう、和美の声は弾んでいた。
「ふうん」
人生の主導権。そんなものはみんな自分で握っているのではなかろうか。つかさはそう思う。つかさ自身も、今まで自分のことは自分で決めてきた。と、思っている。これまでの大きな決断といえば、どこの学校に行くか、ということぐらいだが。もちろん自分の学力の範囲内で、だが。
「あれ、それって決断っていうのかな?」
与えられた選択肢の中から選んだだけではないか。
どうしてもこの学校に行きたいといって頑張って勉強したわけではない。
「君の成績だと、ここら辺がいいんじゃないかな」
進路指導の教師から提示された学校の中から選んだのだ。高望みして全部不合格。そんな事態を自分も周りも避けたかったからじゃないのか。でも、ほとんどの人がそんなもんじゃない?
「うーん」
つかさが唸り声を出すと、和美が顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。で、それからは彼氏と二台でデート?」
「それがさぁ、バイクの免許を取るって言ったら、嫌な顔してさ。『お前は俺の後ろに乗ってりゃいいんだよ』なんて言い出したわけ。女のくせに、みたいな感じで。すごくつまらない男に思えて、別れちゃった」
「同じ趣味を持つのはダメだったの?」
「さあね、私と対等になるのが嫌だったんじゃない?」
そんなことを話してるあいだに、和美の家に着いた。事故現場から歩いて十五分くらい。三階建ての集合住宅。エレベーターはなく、先を行く和美の後を追って階段を上がった。
和美が指を差すドアの横の表札は『青木』とある。さらに和美は急かすようにインターホンのボタンを指差した。つかさはためらいながら、それでも仕方なくボタンを押した。これから大嘘を吐かなければいけない。一人娘を亡くした母親に。気が進まないのも無理はない。隣で平然としている和美が恨めしい。
「はーい」
すぐに中から声がしてドアが開いた。白髪交じりの小柄な女性だ。
「どちら様?」
「あ、あの、以前、和美さんにバイト先でお世話になった長谷川といいます。この度は──」
「あらあら、わざわざ来てくださったんですか? どうぞどうぞ」
母親はつかさを家に招き入れた。
玄関を入るとすぐにダイニングとキッチンがあり、その奥の開け放たれた襖の向こうにテレビとちゃぶ台、そして急ごしらえの仏壇が見えた。どこもきれいに片付いている。つかさはおずおずと奥まで進み、仏壇に線香を供えた。明るい笑顔の和美の写真。手前にはバイクのミラーと思われる円形の金属がある。
「この写真いいでしょ? お気に入りなんだ」
自分の遺影を自慢する和美は、つかさの隣で胡坐をかいている。
葬式に行くと、たまにこういう光景に出くわす。立派な祭壇を誇らしげに眺めていたり、悲しんでいる家族の前でおろおろしていたり。父方の祖父は、参列者をひとりひとり覗き込んでいた。その時は母の言いつけ通り、目を伏せてやり過ごしたのだ。
「さあさ、お茶をどうぞ」
母親がちゃぶ台にふたつ、緑茶の入った湯飲みを置いた。
「ありがとうございます」
つかさは正座の向きを変え、湯気の立つお茶をひとくち含んだ。喉がカラカラだった。無理もない。噓を吐いている真っ最中なのだ。
「まだ実感がなくてねぇ」
母親は両手で湯飲みを持ったまま話し出した。
「そのうちあの子がひょっこり帰ってくる気がしちゃうし、朝ごはん作ってる時も、欠伸しながら部屋から出てくるような気がしてならないの」
つかさは頷いた。ええ、いますよ。目の前に。
母親は溜息を吐き、襖が半分開けられた隣の部屋に目をやった。つかさの方からは、壁に貼られたポスターが見える。鮮やかな青いバイクの前でポーズを取る外国人の男性。カールした髪にいたずらっぽい笑顔が印象的だ。
「あれね、私の推しライダー」
隣で和美が囁く。少し頬が赤らんでいる。
つかさとしては、そんなことはどうでもよく、早いとこ目的を果たしたかった。眉間に皺を寄せて呑気な和美を睨む。
「スマホは私の部屋のドレッサーの上。充電ケーブルも一緒に持ってきてね」
いきなり母親の目の前で立ち上がり、勝手に部屋に入って物を持ってくるなんてことはできない。母親に、ここから出て行ってもらうにはどうしたらいいか。
「お茶をもう一杯いかが?」
「あ、お願いします。とても美味しいお茶ですね」
「そうなのよ。親戚が静岡にいてね、毎年送ってくれるのよ。ちょっと待っててね」
母親は湯飲みを持ってキッチンへ行った。
つかさは腰を浮かせたが、ポットのお湯を急須に注ぐ母親から距離が近すぎる。つかさが歩き出せば気が付いてしまうだろう。
「どうしたらいい?」
小声で和美に尋ねた時、ドアのチャイムが鳴った。
「はーい」
母親が玄関へ消えた。
「行って行って」
和美に急かされ、つかさは奥の部屋へ入った。
ドレッサーは入ってすぐ横にあった。充電ケーブルに繋がれている。コンセントを抜き、ケーブルをスマートフォンに巻きつけながらちゃぶ台まで戻った。心臓が爆発しそうだ。
「はいどうも、お世話様」
母親の声が玄関から聞こえ、ドアが閉められる音がした。
届けられた封筒をキッチンのテーブルに置き、ちゃぶ台まで戻ってきた母親は和美の部屋に目を向けた。あの部屋に入ったことがばれてしまったのかと思った。しかし、母親は再び溜息を吐いた。
「バイクなんかね、反対すればよかったと思うのよ」
お茶をひとくち飲んでまた口を開いた。
「でも、うちは母子家庭で経済的に厳しくてね、小さい頃から色々なこと我慢させてきたから。バイクを買った時のあの子の嬉しそうな顔を見たら、そんなことも言えなくて。一度きりの人生だから、好きなことをやってほしいとも思うし。まぁあの子は、大人になってからちゃんとやりたいことやってたし。でも ・・・・・・」
ひときわ大きな溜息を吐いた。
「やっぱり、早過ぎると思うのよね」
◇◇◇◇◇◇
和美の家を出て歩いている途中、ふたりは無言だった。
つかさは和美の母親がかわいそうでならなかった。子供に先立たれるなんて。しかも、先立ってしまった張本人は、娘の死を受け入れられない母親の前で胡坐をかいていた。
「少しはお母さんの気持ちを考えたら?」
そう行ってやりたかったが、やめた。不慮の事故で突然に人生を奪われた人の気持ちなど、自分には分かりようがない。
「夜はどうしてるの?」
代わりにそう訊いた。
「家に帰ってるよ。自分のベッドで寝てる。全然眠くはないんだけどね」
そう行って和美はカラカラと笑った。
「なんだ ・・・・・・」
つかさの胸に溜まっていた憤りは、小さな息と共に霧散していった。
ちゃんと、お母さんと一緒にいるんだ。
ふたりは待ち合わせをした公園で別れた。あとはレース当日、栃木県のサーキットまで彼女を連れて行けばいい。そうすれば、和美は成仏できるのだろう。
公園を縁どる木々の、そのまた向こうにある大きなマンションの向こうに沈もうとしている太陽は、紫色のぼんやりとした光を帯びている。昼間はまだ暑い日が多いものの、この時間になると風は冷気を孕んでいる。うだるような熱気が去ったことは歓迎するが、どこか寂しさを感じる季節だ。
公園の出口に来たところで、数人の男子高校生とすれ違った。
「あ! ケンシロウだ」
「え? なにそれ?」
「この前さぁ、言われたんだよ。すれ違いざまに『お前はもう死んでいる』みたいなこと」
「えー! やばっ!」
アイツらは、相手に聞こえないように声を潜めるってことを知らないのだろうか。つかさは舌打ちをしたが、聞こえていない振りで決して振り返らず家路を急いだ。
「もうやだ。変なあだ名つけられちゃった」
◇◇◇◇◇◇
レース当日の日曜日、早朝の待ち合わせになった。
「いい天気になりそうだねぇ」
公園で先に待っていた和美は飛び跳ねながら歌うように言う。一方、つかさは月曜日提出のレポートを昨夜のうちに仕上げたため、就寝したのは真夜中になっていた。だからといって、ちゃんと髪型もセットしたし、メイクだってやらないわけにはいけない。東の空がやっと白み始める頃、目覚ましが鳴ったのだ。
「ちょっと大丈夫? どっちが幽霊だか分からないじゃん」
そう言ってカラカラと笑った和美が恨めしい。つかさは本当に自分が幽霊になったような気がした。
駅に向かう途中、和美はひとこと断ってから、つかさの身体に入り込んだ。その途端、つかさの全身にひんやりとした感触が走る。体温がいくらか低くなったような感じがする。
長時間の電車移動の後、さらに長時間のバス移動。着いたら起こして、と伝えて眠ろうとしたが、和美の興奮が影響しているのか、身体がムズムズして落ち着かなかった。
山の中にあるサーキットはたくさんの人と熱気に包まれていた。黄色ずくめの人や赤ずくめの人、大きな旗を持った人たち。つかさにとっては今までまったく足を踏み入れたことのない世界で、どうすればいいのか分からなくてひとりキョロキョロしてしまう。
「ほらほら、ケータイ、ケータイ」
和美に促され、慌ててスマートフォンを出した。教えられたパスワードでロックを解除し、レースのチケット画面を出す。辺りにはバイクの排気音が響いている。
ひな壇状の客席は、サーキットを見下ろす格好になっている。コース全体を見渡すことはできないが、モニター画面が設置されており、コース上のバイクやピットの様子、客席などが代わる代わる映し出されている。自分が写っていることに気付いた観客は、嬉しそうに手を振る。大盛り上がりだ。
「世界中に中継されてるからね」
和美はそう言うが、つかさは見たことがない。観客席を見渡せば、日本人の名前が書かれた横断幕もそこらじゅうにある。世界を舞台に活躍しているというのに、初めて見る名前ばかりだった。
「耳栓、持ってきた?」
和美が訊いてくる。言われた通り、昨日ドラッグストアで買ったものを装着した。バイクは今、スタート位置に並んで停まっている。モニターにはヘルメットを取ったライダーの顔が映し出され、それぞれに大きな声援が送られている。
和美の推しライダーは、このレースには登場しないらしい。これから始まるのは、小排気量のレースだ。
「これはこれで見どころがあるのよ」
和美の高揚が伝わってくる。
緊張のなか始まったレースは、息の詰まる展開の連続だった。つかさが見下ろすホームストレートでは順位が目まぐるしく変わり、コーナーでは激しい転倒もある。バイクの損傷がひどく諦めるライダーもいれば、再びコースに戻るライダーもいて、ついつい応援の声を挙げてしまう。
「ああ、すごい ・・・・・・」
ふたつのレースが終わった後には、つかさはもう疲れていた。
「ちょっと、これからだよ」
和美が言う。これからバイクレースの最高峰、プレミアクラスのレースが始まるのだ。
バイクがピットレーンからコースに入るたび、大きな声援が沸き起こる。突然、黄色い煙が立ち込めた。
「え、なになに? ちょっと大丈夫なの?」
慌ててキョロキョロするつかさを和美が笑った。
「大丈夫。発煙筒だよ。いつもこう」
海外サッカーの試合ではこういうことがあったような気がする。熱狂的なファンが多いのだろうか。和美もつかさの身体の中で、時折歓喜の大声を上げる。もちろん、つかさ以外の人間には聞こえない。自分がその渦の中にいることが、つかさには不思議に思えた。
熱狂は上り調子のままレースがスタートした。ひとつめのコーナーで一台がクラッシュ。ライダーは横倒しになったバイクに駆け寄るが、絶望のジェスチャーをしてレースを諦めた。まだ一周もしていないのに、なんて無情な。
「よいしょ」
呆然とモニターを見ていると、目の前に和美が現れた。つかさの身体から出てきたのだ。前の席に座る男性の背中と重なり、自分の身体を見下ろしている。
「き、消えたりしないよね?」
つかさは声に出していた。幸いなことに、隣の客には聞こえていない。
「うん。大丈夫みたい」
笑顔の和美を見て、ホッとしている自分自身をつかさは不思議に思った。最初はすごく迷惑だと思っていたのに。
「あ! そうだ!」
和美はポンと手を叩いた。
「もっと近くで見てくるね」
そう言うなり姿を消した。
◇◇◇◇◇◇
和美はヘアピンコーナーの内側の、ゼブラゾーンの上に体育座りをしていた。この低速コーナーなら、ライダーとバイクを近くでじっくり眺められると思ったのだ。
「来る、来る」
動いているはずのない心臓が早鐘を打つ。
先頭争いのグループが見えた。コーナーの入り口、上体を起こしたフルブレーキングのバイクが思い切り右側に倒しこんでくる。ライダーのヘルメットが触れそうなほど近い。エンジンの振動を身体に感じる。すごい迫力だ。和美は子供のように手足をバタバタさせて喜んだ。間髪入れずに後続のバイクがやってくる。和美の心臓は今までにないほど踊り狂っている。
教習所に通っている時、たまたま手に取ったバイク雑誌で特集が組まれていた。その笑顔とバイクに跨る姿に一瞬で惚れた。
『生きる伝説』
その彼が近づいてくる。
「キャー!」
思わず叫びながら、スモークのシールドに目を凝らす。夢の中では何度も見つめ返してくれたあの瞳が、確かに透けて見えた。すぐ間近で。
「やばいっ! やばいっ! 死にそう! 」
走り去る後姿を目で追いながら散々盛り上がり、コーナーの入り口に顔を戻した。その途端、コーナーリングを始めたライダーと目が合った。シールド越しではあったが、確かに視線がぶつかり合ったと感じた。
「あっ!」
それは一瞬だった。
ライダーが頭を仰け反らせた。まるで和美を避けるかのように。フルバンクしていたバイクのフロントタイヤはあっという間にグリップを失い、ライダーもろとも右側面をアスファルトに叩きつけ、コーナーの外側へ滑り出ていった。
クラッシュしたライダーは、コース外の砂利の上で両膝と両手をついた四つん這いの状態で、ヘルメット越しの顔を真っすぐ和美の方へ向けている。
「やっちゃった ・・・・・・」
和美の姿が見えるのは、この世界でつかさひとりではない。つかさは「母親もそうだ」と言っていた。ごく少数ではあるが、確かに見えてしまう人は他にもいるはずだ。
レースの結果に重大な影響を及ぼしてしまった。和美は転倒したライダーに向かって、両手を合わせて頭を下げた。これが世界共通の謝罪のジェスチャーであることを願いながら。そして早々に姿を消した。
◇◇◇◇◇◇
大型モニターでは、ひとりライダーが転倒したと告げていた。観客席のあちこちから嘆きの声が漏れる。
「どうしよう、私 ・・・・・・」
浮かない顔で和美が戻ってきた。
「私のせいでひとりコケちゃった」
「ああ、あの人?」
モニターに転倒シーンのリプレイが流れている。そこに和美の姿は映っていないが、背景が少し歪んでいる。多分、世界中でそれに気付くのは私だけだろう、とつかさは頷いた。そして、ピットに戻ったライダーが両手をしきりに動かし、クルーに何かを説明している姿が映った。が、やがて諦めたように両手を腰にあて、力なく首を振っている。
見えるはずのないものが見えると訴えたところで、却って周りの信頼を失うだけだ。つかさにはよく分かっている。
「もう、大人しくここで観てる」
「そうしたほうがいいね」
和美はしょんぼりしていたが、レースが進むにつれ、再び歓声を上げるようになった。
◇◇◇◇◇◇
「それにしても楽しかったなぁ」
レースが終わり、サーキットの出口に向かいながら和美が言う。願いが叶ったはずなのに、まだ彼女は成仏していない。「来年も見たい」なんて言い出すのではないかと、つかさは訝った。
「あんなに近くで走ってるライダーを見られるなんて、幽霊の特権だよね」
けたけたと笑い出した。
「ふぅ」
笑い疲れたのか、和美は息を吐いた。はたして幽霊が疲れを感じるのか、つかさには疑問だったが。
和美はその場でゆっくりと一回転した。晴れ渡った空に木々の緑がよく映える。初秋の穏やかな日だ。この世界の美しさを記憶に刻み付けているのだろうか。
「でもやっぱり、もっと長生きしたかったなぁ」
流れていく人波の中で、ひとり立ち止まってしまった和美は困ったように笑っていた。
つかさと和美は一緒にバスに乗り、つかさひとりでバスを降りた。
「あーあ、まだまだ長いなぁ」
これから電車を乗り継いで帰ることになる。行きとは違って、今度はひとりきりだ。
彼女が成仏したのは喜ばしいことだ。でも、どうしても寂しさを感じてしまう。ここ数日の関わりの中で、すっかり和美という人物を受け容れていた。あの人懐っこさと開けっ広げな性格。生きている時に会っていれば、きっといい友達になっていただろう。
「ありがとう。本当にありがとう」
すべきことをした後、車窓から差し込む夕日に溶けるように、彼女は静かに姿を消した。和美の頬には涙が流れていた。彼女の気配が消えてしばらく経ってから、つかさも自分が泣いていることに気が付いた。
◇◇◇◇◇◇
和美の母、順子はパートの帰りに買い物をし、自宅のある集合住宅の入り口で息を吐いた。しばらく休んでいた仕事に今日復帰したのだ。久し振りの立ち仕事は身体に堪えるが、忙しくしていた方が気が紛れるし、今夜はよく眠れるかもしれない。
郵便ポストを開ける。珍しくチラシの類は入っていなかった。そのかわり、異質なものが投函されていた。エアキャップに包まれた長方形の物体。順子は恐る恐るエアキャップのテープを剥がした。
それは和美のスマートフォンだった。充電ケーブルも一緒にある。確かドレッサーの上にあったはずだが、どういうことだろうかと考えた。が、まったく分からない。
階段を上がりながらエアキャップをすべて取り去ると、スマートフォン本体に付箋が貼ってあり、そこに六桁の数字が書かれていた。誰の仕業だろうと疑問に思いながらも、今までパスワードが分からずロック解除できなかった娘のスマートフォンにその数字を入力する。スマートフォンのロックが外れた。
順子は顔が熱くなるのを感じた。若い頃、初めてラブレターをもらった時に、こんな感覚を覚えたことを思い出す。スマートフォンを握りしめ、階段を上がる足が無意識に速くなった。
このパスワードは決して忘れない。これは順子の生年月日だから。
「もう、あの子ったら」
◇◇◇◇◇◇
あれから一ヶ月が経った。
和美の母親は、ちゃんとスマートフォンの中身を見ただろうか。時折そのことを思い出しては気を揉む。きっと見たに違いない。いつも最後にはそういうことにして、和美のことを懐かしんでいる。
帰りのバスの中、和美の指示でスマートフォンの中身を整理したのだ。
「やっぱりさぁ、親には見せたくないものってあるよね」
親に嘘をついて行った、彼氏とのお泊り旅行の写真とか。そういったものを削除したりした。
そして、彼女が母親にどうしても見てもらいたかった動画があった。それは、去年の母親の誕生日。自慢じゃないけど不器用だという和美が、仕事から帰ってくる母親のためにひとりでケーキを作ったのだという。
『誕生日おめでとう。お母さん、いつもありがとう』
微妙に歪んでいるケーキを前に、自撮りした和美が笑っている。母親が帰ってくる前に撮ったものだ。しかし、後になって照れくさくなり、結局母親には送信しなかった。
それもまた、和美の心残りだったのだ。
つかさは電車を降り、改札を出て駅ビルの書店に入った。お気に入りブランドのトートバッグが付録になったファッション雑誌をゲットするためだ。
無事に目当ての物を手に入れレジに向かうが、その途中でバイク雑誌コーナーの表示が目に入った。自然と足が向く。
「あ、ロッシ」
平積みされている雑誌の表紙を見て思わず呟いた。和美の推しライダーの顔と名前を憶えてしまっている。その雑誌を手に取った。この間の日本GPの特集が組まれていたからだ。
『レース中に怪奇現象』
そんな記事があったら困る。つかさは特集記事のページを捜した。
表彰台に上がったライダーたちの、互いにシャンパンを掛け合う写真。スタート直前の緊張に満ちた写真。特集記事には多くのページが割かれていた。
その中に、あの転倒したライダーのインタビューがあった。
『集中力を欠いた』
転倒の理由について訊かれ、彼はたったひと言そう答えた。キャップを被り、苦笑いを浮かべた顔の写真が載っている。その薄茶色の瞳には、きっと和美の姿が焼き付いているはずだった。
「この人、ちょっとタイプかも」
親近感のせいだろうか。その苦笑いにキュンとしてしまった。
つかさは雑誌を閉じ、もとあった場所へ戻そうとして躊躇った。
「どうしよう、買っちゃおうかな ・・・・・・ 」
了