表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

OtherSeries

咲く事のなかった恋の蕾は形を保ったままに木から落ち、やがて土へと還っていった

作者: まさかす

「失礼ですが……ユカリさんですか?」

「えっと……あなたはどちらさ…………あら?」


 その瞬間、私の頭の中で、あの頃の記憶がフラッシュバックした。


   ◇


 真新しいセーラー服を着た私。同じく真新しい詰襟の制服を着た男の子。その子と初めて出会ったのは、地元中学の一年生の教室だった。

 その教室に於いて、男の子は私の前の席に座っていた。学区の関係で同じ中学にはなったが、小学校は別だった事からも全く知らない子であり、中学校が始まって1,2週間程度は何も話さないままに過ごしていた。そもそも私は口数の少ない子だったが、男の子の方も口数が多いとは言えない子だった。ただ前後にいればそれなりに接する機会もある訳で、最初は「はい」「ありがとう」という素っ気ないレベルの会話から、「おはよう」「またね」といったレベルへと進化し、少しづつではあるが、会話らしい会話も増えていった。


 不定期に行われる席替えに於いて、何故か私は男の子の傍になる事が多かった。多かったというより、いつも私の前か後ろ、若しくは隣の席と、男の子はいつも私の傍にいた。そういう状況もあって、私はその男の子と喋る機会も増え、いつの間にか互いに名前で呼び合うようになり、時には「お前」なんて言い方を互いにする程に打ち解けていた。


 お世辞にもイケメンとは言えない男の子。スポーツマンでも何でも無い男の子。どちらかと言えば勉強が出来ない男の子。何か特別秀でている物を持つ訳でも無い至極普通の男の子。どんな話をしていたのかまでは思い出せないが、その子とは休み時間中、ずっとおしゃべりをしていた。


 その中学校には同じ小学校から来ていた子も多く、同級生と言える子は多かった。だがその中に友達と言える子はいなかった。別にいじめを受けていたという訳では無く、どうにも波長が合う子がいない為に必要以上には近付かない、必要な事以外は話さないと、そういった関係だろうか。

 それが理由という訳では無いが、私は学校が好きでは無かった。かといって嫌いでも無く、ただただ義務として通っていたと言える。そんな中にあって、何故かその男の子とは波長が合い、気付けば義務として通っていた学校に行くのが楽しみとなり、学校が休みの日には次の登校日が待ち遠しかった。その事にふと気付いたと同時に、その子の事を好きになっていた自分に気が付いた。


 男の子とはその後もずっと近くにいたけれど、学校以外で会う事も無く、何らの進展も無いままに中学3年を迎え、いよいよ高校受験のムードが高まり始めた。


 自慢では無いが、私は県内トップの進学校を余裕で狙える程に優秀な子だった。男の子の方はと言えば、お世辞にも優秀とは言えない。別に悪い子ではないし、授業中も起きてノートもキチンと取ってはいたのに、何故か成果が出ない。いくらその子を好きだとは言え、私とその子との学力差を考えれば、同じ高校に行く事は非常に難しいといえた。

 そして志望高を決める際、私は県内トップの進学校を第1志望にした。第2志望はその子が第1志望とした高校を選択した。親や教員からは「何故第2志望がそんな高校なんだ!? 滑り止めにしたってもっと上を狙えるだろ?」とさんざん言われたが、「第1志望以外には行く気が無いの。だから第2志望は何処でもいいの」と、ちょっと高飛車な態度で以って言った。当初は第一志望校に対して推薦を出されそうだったが、「私は実力だけで以って行きたいの」と、これまた高飛車な態度で以って言い放ち断った。その態度が効いたのか、親も教員もそれ以上は何も言わなかった。私は何処の高校でも入れる自信があった。むしろ心配なのは男の子の方である。


「ちょっとタケシ、あんた受験大丈夫? なんならこの私が、直々に、教えてあげてもいいのよ?」

「うるせぇなぁ、俺はどこでも良いから入れればいいんだよ。そういうユカリは大丈夫なのかよ」

「アンタ誰に向かって言ってるのよ」


 本当はこちらからお願いしてでも勉強を教えてあげたい位だったが、私の気持ちを全く知らないタケシは一切聞く耳を持たない。

 そして年が明け、受験シーズンが始まった。先に私の第2志望であるタケシと同じ高校の試験日を迎え、私とタケシは同じ教室で以って試験に臨んでいた。私の1つ右斜め前に座るタケシ。私が20分程度で終了したその試験問題を、タケシは頭を抱えながらに時間一杯悩み続けていた。


『ほんとにタケシはアホなんだから……何を悩む事があるってのよ!』


 私は斜め後ろからジッとタケシを睨みつけながら、心で罵倒し続けた。好きになった男の子がこんなにも勉強が出来ないのは、何だか複雑な気分だった。何で私はこんな男の子を好きになったんだろうか。


「タケシ、試験はどうだった?」

「ん? う~ん……」


 午前中の試験が終わった所で様子を聞くと、そんな曖昧な返事を返してきた。「誰の為にこんな学校の試験を受けたと思っているのだ!」と叫びたかったが、当然タケシはそんな事を知る由もなく、私は言葉の代わりに鼻から憤怒の息を吸っては吐きを繰り返し、やり場のない怒りを表した。

 午後の試験も終わった帰り道、タケシと私は歩きながらに2人で答え合わせをした。正確には分からないが、どうやら合格出来ているだろうといった出来だった。私が想定する程にタケシがおバカさんで無かった事に一安心した。そして翌日は私の第1志望校の試験日である。


「じゃあお母さん、行って来るねぇ」

「ユカリ、頑張ってね。落ち着いてやれば大丈夫だからね」

「は~い、行ってきま~す」

「気を付けて行ってらっしゃい」


 昨晩はグッスリと眠った。今の私には焦りや緊張含め、何らの不安も無い。そんな私は意気揚揚と家を後に、自宅最寄りの駅へと徒歩で向かった。

 試験会場へと向かう電車に乗り込むと、車内には参考書に目を落とす学生服姿の子を多く見かけた。扉付近に陣取った私は、それら参考書を見つめる子達を尻目に、一人車窓に目をやった。

 遅延無く進み続ける電車は30分程をかけ、試験会場である高校の最寄駅へと到着した。そしてそこからは約10分程の徒歩。その道程には沢山の制服姿の子達が、歩きながらに参考書を読みふけっていた。私はその子達の邪魔にならないよう適度な距離を保ちつつ、静々と付いていくようにして歩を進める。

 試験会場の高校へと到着し、案内図に従い教室の中へ入ろうとすると、溢れんばかりの緊張感に気圧され、一瞬立ち止まってしまった。教室内で席に座っている子達はそんな私に一切目もくれず、一心不乱に参考書を読みふけっていた。私は音をたてないようソッと教室の中へ忍び入ると、そのまま静かに自席へと向かい、スローモーションの如く着席した。昨日の試験場所にいた生徒達もそれなりに緊張していたように見えたが、今日の子達は明らかにそれとは異なるレベルの緊張感を醸し出していた。それはそうだろう。ここは県内トップの進学校。県内県外から頭のいい子達が集まっているはずであり、ある意味選抜された者達の戦いの場とも言える。全く緊張していない私ですらも、その雰囲気にのまれ緊張してきた。

 そして始まった試験。流石に県下一という事もあって、昨日の試験とは明らかにレベルの異なる設問ばかりが並んでいた。が、設問その物に間違えがないという前提で、一語一語を正しく理解しながらに読み解けば、自ずと答えが導ける問題が並んでいた。そしてそれら全てを解ける自身が、私にはあった。

 そして私はその第1志望校の試験に於いて、後で先生や親に対し正当な言い訳が出来るよう緻密で繊細とも言える程の間違え方を、意図的に行なった。


「高校はここだけじゃないから、精一杯やったんならそれで充分よ。ね?」


 試験から3週間程が経過した後の合格発表の日、一緒にそれを見にきた母はガックリと肩を落とし、薄らと涙を浮かべながら私に言った。意図的に落ちた私は当然辛くも悔しくも無かったが、そんな母を見て流石に少し悪い事をしたかなと、胸が締め付けられるようで、それだけが辛かった。

 

「じゃあ、帰ろうか」


 落ち込む母に私が笑顔でそう言って、私は母の手を握り引っ張る様にしてその場を離れた。そして校門を出た所でチラリと後ろを振り返り、「私のお陰で入れる事になった人、せいぜい私に感謝するのね」と心で捨て台詞を吐き、その場を後にした。私は第2志望高の合格発表を見に行くため、途中の駅で母と別れた。当然それは私の合格を見る為では無く、タケシが合格しているかどうかを見る為である。


「おお、あった……」


 タケシは合格していた。当然ながら私も合格である。本当、タケシが合格するかどうか、そればかりが不安だった。そして私は思わず笑ってしまいそうな嬉しさを歯を食いしばって抑え込み、その場を後に帰路へと就いた。


「おい、ユカリ……」

「あ、タケシ。何?」

「いや、お前さ……その……」

「何よ?」

「いや……第一志望さ……残念……だったな……」


 合格発表から数日が過ぎ、ほぼ全員の進路が確定し、既に学校に来なくてもいい時期ではあったが、私は学校に来ていた。そして何故かタケシも来ていた。タケシは私が第1志望に落ちた事を本当に心配してくれていたようで、俯き加減にそう言った。


「ああ、その事。まあ、こんなのは時の運じゃないの? 落ちたのは仕方ないでしょ、ははは。つうかタケシ、合格おめでとう」

「……」

「つうかこの私がタケシと同じ高校に行く事になるなんてね。ほんと夢にも思って無かったわ。あはははは」

「……」


 私の影の努力を知らない目の前の男の子は元気なく俯いていた。本当にタケシが合格して良かった。でなければ、私の努力は無駄という言葉だけでは言い表せない程の愚かな行為となっていた訳だ。


 別に2人の間に何か進展が欲しいとかそういう事では無い。ただもう少し、一緒の時を過ごしたかった。ずっとずっと2人でいたいなんて言わない。学校の教室で良いから一緒に過ごせる時間が欲しかった。その気持ちが強い時期と高校に行く時期がたまたま重なっただけの事だ。恐らくは50年、60年とこれから続いてゆく人生に於いて、ほんの数年無駄にしたとて悪ではないだろう。ストレートに進学就職する事は勿論、学校名といった経歴が時に重要になる場面もあるのかもしれないが、長い人生の中、そんな気持ちを優先させる時期があったって良いだろう、そんな理由で選択する物があったって良いだろう。その程度の余裕も持てないのが「人生」「社会」という物だとするならば、どれだけ人とは機械の様にして生きなければならないのかと、むしろ疑問に思って然るべきであろう。私達は機械では無いのだ。

 

「じゃあタケシ、今度は高校でね、ばいばい」


 中学校卒業式の日、2週間程経てば再び会えるタケシに、私はひとまずそんな別れを告げた。


 そして迎えた高校の入学式。真新しいセーラー服に身を包んだ私は、高校の玄関横に貼りだされていたクラス表をいの一番(・・・・)に見に行った。


「えぇぇぇと……あ、私は2組か。えっとタケシは……」


 中学校では年が変わる度にクラスが入れ替わっていたが、それでもタケシとはずっと一緒のクラスで、ひょっとして先生が気を回してくれたのかと思う程に席も近かった。高校ではクラス替えは無く3年間同じクラスらしい。そしてこの高校生活初日且つ入学式である今日、私とタケシが隣の席になる事は勿論、同じクラスにすらもならない事が、その場で確定した。


 私もタケシも自転車通学。ひょっとして登校時か下校時にあえるかなと思っていたが、なかなか上手くはいかない。

 私とタケシは高校を起点に見れば同じ方向に住んでいると言えたが、通学路で言えば決して交わる事のない位置に家があり、結局登校時に遭う事は無かった。それよりも何よりも、あのバカは何に意義を見出したのか知らないが、ほぼ毎日のように信号1つ引っ掛かれば遅刻するという時間ギリギリに家を出て、本当にギリギリの時間を狙って登校してくる。どう考えてもそれをわざとやっている。そして当然遅刻もしている。私のクラスでは「アイツが遅刻するかどうか昼飯賭けようぜ」なんて賭けの対象として有名にもなっている。流石にアホすぎる。ひょっとして遅刻しまくって退学を推奨して欲しいのだろうか。本当に何で私はこんなアホな子を好きになったのだろうか……まあ、タケシもアホだが、そんな男を好きなる私もアホなのかもしれない。恋は盲目と言うのはこう言う事なのかなと。勉強が出来る出来ないは、関係無いのだなと改めて思う。


 学校では一緒にいられない。ならば登校時だけでもと、タケシの家の方へと遠回りしてみるかと考えた事もあるが、流石に遅刻して迄は付き合えない。帰りは帰りでタケシは男友達と帰る事が多く、結局私が見ていられるのは高校という建物の中だけ。何と無駄な事をしているのだろうなと自分でも思う。それでも私は未練がましくタケシを追い続けた。といっても目で追うだけ。教室の窓から見える校庭にタケシはいないだろうかと、帰宅する姿は見えないだろうかと。まあ、ギリギリの時間に登校する事で、朝のそのアホな姿はよく目にはしていた訳だが……。

 しかしクラスが違うだけでこれ程迄に疎遠になるのかと言う程に、タケシとは話す機会はおろか、顔を合わせる機会は殆ど無かった。


 その後もタケシとは進展どころか話す機会も無いままに、1年が過ぎ2年が過ぎ、そして高校3年生となり、いよいよ大学の受験シーズン、若しくは学生から社会人への衣替えシーズンを迎えた。

 その高校では半数以上が就職を選択するという。そしてタケシもその半数以上の1人であった。そして私は「もう少しタケシと一緒にいたい」という気持ちを捨てられずにいた。


「勿論大学に行くわよね?」

「お前は十分に大学行ける能力もあるし、その環境もあるだろ? 勉強は出来る時に出来る限りしておいた方が良いぞ?」


 親と先生はずっとそんな事を私に言い続けた。因みに私は常に成績上位3人の中に名を連ねていた。といっても、殆ど一位だった。先生は「何でお前がこの高校に来たのか分からん」と何度も言っていた。それに対しては「運が悪かったって事ですよ。ははは」と毎回誤魔化し続けた。タケシと違って私は勉強が嫌いではなかったし、理論的に考える事も好きだった。そう、タケシの事だけについて非論理的に感情的に行動しただけの事。別に後悔は無い。その時の気持ちを優先したまでの事。でも……


『タケシの事はこれで終わりにしよう』


 私は進学する道を選んだ。志望校は東京の国立大学。余裕とまでは言わないが、本気で取り組めばいける自信はあった。そしてその自信通りに、一般入試で以って1次2次を見事ストレートでの合格を果たした。そして同じ時期、タケシも実家から通える鉄鋼所への就職が決まったらしい。


 そして迎えた高校の卒業式、私は校内を一人歩き回っていた。タケシの姿を探して、歩き回っていた。

 ふと「この場所をこうして歩くのも今日が最期」と、そんな言葉が頭の中を過ぎった。と同時に、ただただ1人の男の子を見つめる……いや、目で追うだけの場所だったその高校という建物が、愛おしく思えた。時にはその生活がずっと続くと錯覚する事もあったが、それは呆気ない程に終わりを告げた。

 2度と戻る事のないその生活。高校に於いては何も無かったと言えるけれども、それでも学校に行けばタケシに会えると、その可能性があるだけでも楽しみといえた。だが今日を境にそれら全てが終わりとなる。そう思うと、無機質な高校と言う建物がとても愛おしく思え、2度と味わう事のないそんな日々が愛おしい。


 私はタケシを探すのと併せ、全ての気持ちに整理をつけるようにして、校舎を眺めながらにゆっくりと歩き回った。

 そして歩き回る事約20分、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下を、友達数人と笑いながらに歩くタケシの姿を見つけた。私はタケシが向かうその方向へ、先回りをしようと走り出した。


「おっ、ユカリじゃん。久しぶり」


 息を整えながらにゆっくりと、私は偶然を装いタケシの前を横切った。


「……ん? ああ、誰かと思ったらタケシか。一瞬誰か分かんなかったよ」


 決して笑顔を見せない様に、私はタケシを冷めた目で見つめながらに言った。タケシは友達らに「先に行ってて」と、1人その場に残った。


「んだよ、同じ中学の同じクラスだった男を忘れるか?」

「そんなに会ってないんだから忘れもするよ」

「ははは、そうだな。同じ高校だってのに、会おうとしないと以外に顔も会わないもんなんだな」

「そうだね」


 こうして直接2人だけで話すのは、一体どれ位ぶりの事だろうか。というかこの違和感は何だろう……ああそうか、私はタケシを少し見上げながら話しているんだ。いつの間にタケシはこんなにも背が伸びたのだろう。以前ならこんなに見上げる事は無かったのに、男の子はこんなにも成長するものなのか……ならばそれに比例して頭の中も成長してくれていたら、若しかしたら一緒の大学に……いや、もういいか……


「ユカリは進学だっけ? 確か東京の大学だったか?」

「そう。タケシは就職だっけ? 地元の鉄鋼所だっけ?」

「まあな、俺に勉強は合わないわ、ははは」

「そっか……でもあんなに遅刻ばっかりしててさ、よく就職出来たね?」

「あれ? 俺が遅刻してたの知ってたのかよ?」

「はあ? 学校中の皆が知ってるわ! ははは」


 きっと今日が私達2人の岐路……いや、本当ならもっと前に終わっていたのを、私が先延ばしにしていただけ。そしてこれで本当に終わり……


「じゃあ、ユカリと会うのは、若しかしたらこれが最後かも知れないな」

「そう……かもね……」

「そっか……じゃあユカリ、元気でな。勉強頑張れよ」

「タケシも元気でね。お仕事頑張ってね、ばいばい」


 卒業式を終えると、私はまっすぐに帰宅した。そしてその日から3日程をかけて荷物を纏めると、私は1人東京へと上京し、全てを親の仕送りに頼った一人暮らしと共に、勉強漬けといった大学生活をスタートさせた。

 トップレベルの子達が集まるその大学に於いて上位を狙う事は難しかったが、色気ゼロのストイックな毎日により留年の心配もなく、気付けばあっという間に1年が過ぎ2年が過ぎ、そして4年が過ぎた。


「あんな高校に行ったから、本当はお母さん凄い心配したんだけど、やっぱりユカリはやれば出来る子なのね」


 大学の卒業式の場に於いて、母は涙ながらに私に言った。しかし「あんな高校」とは随分と失礼な言い方であるが、まあ、それなりに心配もかけたし、誰も聞いていないようだからヨシとするか。


 大学を卒業した私はそのまま東京に残り、外資系コンサルタント会社へと就職していた。外資系且つコンサルという組み合わせはSPECも高いが意識も高い人達の集まりであった。最初はその意識の高さに圧倒されたが、根性論を唱える者はおらず強要される事も無く、結果と成果でのみ語るという全てがロジカルに動く事もあって、学生から社会人という気持ちの切り替えさえ済めば案外慣れる物であった。


 求められる物は成果のみ。時に自ら仕事を取って来る必要もあり、誰かが何かをしてくれるのを待っているだけの人の評価はゼロに等しく、野心的に前へ前へと出ていかなければ置いて行かれる。

 成果を出せば上長との面談に於いても有利に働く。それは自身の報酬にもつながる。成果は無くとも結果さえあれば、それを上手く饒舌に語れば次に繋げられる。何もなければ不要な存在とされる。

 成果と結果。それのみが優先される仕事は激務でもある。嫌なら辞めればいい。休みたかったら休めばいい。それはそのまま自分の結果に繋がるだけ。期限だけが決まっている仕事の成果を出す為に、言われなくとも早朝深夜であっても仕事をするし家でも仕事をする。遊びたければ遊べばいい。それに文句を言う者も心配する者も誰もいない。全ては自らで管理しろと、それが出来ない人はここには不要であると、全ては自分で決めろと。


 気付くとウトウトしている自分がいる。そんなウトウトしながらに見る夢は何処ぞの富豪に突然プロポーズされるという夢。いやはや夢の中で完璧な現実逃避をする程に、私は疲れていた。とはいえ未だ20代。そんな生活も3年続けば自然と体も慣れてくる。


 20代前半。私の元には同級生だった子が結婚したと、そんな話が親経由で以ってチラホラと耳に入ってきていたが、仕事に忙殺されていた私には単なるノイズでしかなかった。


 20代後半。バタバタと音がする程に結婚したと、やはり親経由で以ってそんな話が入ってきた。それは私が鬼のようにして野心的に仕事に打ち込んでいた時期でもある。


「ねぇ? ひょっとしてユカリ?」


 とある平日の夕刻時、クライアント先からの帰り道、信号待ちをしていた私に1人の女性が声をかけてきた。化粧も服装も派手目の見知らぬ女性。いや、私の名前を知っている以上は見知らぬとはいえない女性。


「あの……」

「ユカリでしょ? 私だよ私」

「えっと……失礼ですが……?」

「ほんと失礼だな。つうかマジで覚えてない? ユイだよユイ、堀ノ島ユイ」

「……あ、あぁぁぁ! ユイか!」


 それは中学時代に同じクラスだった女の子。仲が悪くも無かったが特にいい訳でも無かった女の子。教室でたまに短い会話をするだけといった関係。当時もそれなりに目立つ子ではあったが、今はそれに輪をかけて、随分と目立つ派手な化粧と明るい服装という装いであった。

 

「ユカリはあんまり変わってないねぇ。化粧も殆どしてないみたいだし、紺1色の地味なスーツで色気ゼロだし。違いと言えばツインテールだった髪を今は後ろで1本に束ねてる事位かな?」


 私は化粧が不得手なので最低限の事しかしない。髪は美容室に行くのが面倒という理由で伸ばしっぱなし。色気が無いのに枝毛はあるのも自覚している。それらの事は仕事には何ら影響しないので一切気にもならない。


「ユイは随分と派手になったというか……」

「まあね、今若い子向けのアパレル関係で仕事しててね、自然とこんな感じになっちゃうのよ。ははは」

「へぇ」

「ユカリちょっと時間ある? ちょっとその辺のカフェでも行かない?」


 とりあえず今日の仕事は終えていた事もあり、話したい訳でもないが邪険にする相手でも無い。特別仲が良かった記憶も無いが、まあ十年と少し振りに偶然東京で会ったのだ。積もる話がある訳でも無いが、座って話す事位なら良いだろう。


「ねえユカリ、知ってた?」

「何の話?」

「タケシよ、タ・ケ・シ」


 その名を聞いた瞬間、心臓を握られた気がしたと同時に、中学と高校の日々がフラッシュバックする。


「タ、タケシ? 誰の事? ユイの彼氏?」


 声が上ずった気もしたし目が泳いだのが自分でも分かる。惚けるのが下手だなと自分でも思ったが、ユイは気付いていないようだった。


「忘れちゃったの? 結構ユカリと話してた男いるじゃん。短髪で眼鏡かけたモサっとした感じの男がいたじゃん」

「う~ん、いたようないないような……」


 忘れていない。むしろ今はその顔しか頭に浮かんでいない。それも鮮明に浮かんでいる。


「確かユカリはタケシと3年間一緒のクラスだったはずだよ? 席も隣同士が多かったと思ったけどなぁ。つうか高校も同じでしょ?」

「ああ、そういえば居た気がする……顔はよく覚えてないけど、いたいた」


 あからさまに嘘を付く。こんなにも自分は未練がましいのかと思う程に覚えている。


「で、その子(・・・)がどうしたの? 若しかしてその子(・・・)とユイが結婚するの?」


 平静を装いながらもそんな質問を敢えてした。言った瞬間に「そうなの」なんて返されたらどんな顔をすれば良いのだろうかと悩みはじめる。


「はあ? なんで私がタケシなんかと。つうかユカリ、気付いてなかったの?」

「何が?」

「タケシのやつさ、ユカリの事が好きだったんだって」

「……は?」


 何の話か付いていけない。頭が追いつかない。フラッシュバックした映像を再構築するも、ユイの言葉を担保する映像は全く見当たらない。


「気付いてなかった?」

「いや、気付くも何も……」


 そんな話は一切無かったはずだ。中学は勿論、高校に於いてもそんな記憶は微塵も無い。それとも私とは別の「ユカリ」なる女の話だろうか……


「それって別の女の話じゃないの? 私じゃないユカリちゃんじゃないの?」

「私の周囲でユカリって名前はアンタだけだよ。といってもね、実は私も先月聞いたばっかでね、中学の時には全然気付いてなかったけどねぇ、ははは」

「……先月?」

「たまたま地元で会ったのよ」

「誰と?」

「タケシ」

「……へぇ」


 目の前の女はタケシに会っているという。それも先月の話。私は十年以上あっていないのに、目の前の派手な女が何故か会っているという。私は瞬間的に目の前に座る女に殺意が沸いた。


「先月実家に帰省してた時にね、ちょっと地元をブラブラしてたらさ、なんか見た事がある気がする男がいるなと思ったのよ。とはいえ思い出せないから通り過ぎようとしたんだけどさ、すれ違う瞬間に互いに目が合ってさ、『あれ?』ってなってさ、向こうも『おお!』なんてね」

「……」

「つうか私も中学以来あってないからさ、顔は何となく面影的に覚えてただけで名前も最初出てこなくてね。まあ向こうも同様だったみたいだけどさ」

「へぇ……」

「でまあ、そこで立ち話をしてさ」

「それで……タケシは元気なの?」

「元気元気」

「そうなんだ」


 私は「早く本題に入れ」と目で強く訴える。


「あ、そうそう、でね」


 その訴えに気付いたのか、ユイはようやく本題に入る。


「タケシの奴さ、『ユカリは元気か?』なんて唐突に聞いてきたのよ」

「……」

「正直私とユカリはそんなに仲が言い訳じゃなかったじゃん? まあ悪くも無かったけど、グループが別だったと言うかさ」

「そうだね……」


 どちらかといえば私は浮いていた。いじめを受けていたとかではなかったが、若干浮いている存在であり、あまり女子とも上手くはいかず、結局はタケシが学校で一番の話し相手だった。


「でさ、冗談で聞いてみたのよ」

「何を?」

「『ひょっとしてアンタ、ユカリの事が好きだったの?』ってね」

「……」

「そしたらタケシのやつ、下向きながら『実は好きだったんだよね』って、言いやがったんだよぉ!」

「――――!」

「でさ、こっちは冗談のつもりだったから『え? まじで?』ってなるじゃん」

「……」

「本当なら別の高校になるはずだったのに、何故かユカリが同じ高校受験するって知った時には凄い驚いたって言ってたなぁ。でもってまさか第1志望に落ちて同じ高校にいくとは夢にも思わなかったって。でも高校じゃクラスが別になったとかでね。つうかアイツさ、ストーカーみたくユカリの事を目で追ってたんだってさ。でもって究極なのがさ、わざと遅刻ギリギリに学校に登校してさ、ユカリがその姿を教室から見てくれないかななんて、そんな小技を使ってたとか。思わず『お前キモ過ぎだわっ!』って叫んじゃったよ、あはははは」


 全然気付かなかった。お互いに目で追っていたのなら目が合う事が沢山あってもいいだろうに、そんな事は一度も無かった。私は横目でタケシが遅刻ギリギリに登校してくる姿を毎日にように目にしていた。けれど目があった記憶など無い。でもその時、タケシも私の方を、というか私のいるクラスの方を見ていた、いや意識しながらそんな行動をとっていたというのか……。


「でさ、今そんな事を言うのって何なのって聞いたのよ。ひょっとしてユカリの連絡先を知りたいのってね。まあ、知らないんだけどね」

「だね……で、タケシは何て?」

「そしたらアイツ、左手を見せてきてさ」

「左手?」

「そ、薬指」

「薬指?」

「そ、薬指」

「指がどうしたの? 怪我でもしてたの?」

「ユカリ、アンタ馬鹿なの? 指輪よ、指輪」

「……あ」

「独身の私に自慢げに見せてきやがってさ。ったくムカツクのなんのって」

「じゃあタケシは……」

「そ。あいつ先月に結婚したんだってさ。相手は仕事場で知り合った1コか2コ位上の人らしいよ」

「……」

「そんな奴にユカリの連絡先なんて教えられないよねぇ。まあ、知らないけどさ」

「……で、その後はどうしたの?」

「ん? その後?」

「いや、結婚したって聞いた後」

「ああ、『なら今更ユカリの事なんて気にしてんじゃねぇよ』って言ってさ」

「そしたらなんて返してきたの?」

「ん? ああ、確か『今更どうこうする気は無い』とか言ってたかな? ただ昔好きだった人が今どうしているのか気になってたみたいな事を言ってた気がするなぁ」

「……」

「あいつさ、『ひょっとしたら自分といたくてユカリが同じ高校に来てくれたのかな』なんて思ってたらしいよ? いやいや仮に好きだったとしてもバカなお前に合わせて偏差値の低い学校にわざわざ行くほどユカリが馬鹿な訳ねぇだろって返したけどね、ギャハハハ」


 どうせ私はおバカさんですよ。ユイよりも圧倒的に偏差値が高いおバカさんですけどね! というか、タケシは気付いていたのか……いや、気付いていたとは言い難いか……


「もしもそうだとしたら一緒の大学に行きたいなんて夢を一瞬見たらしいよ? いやいやお前の頭で入れる大学なんてねぇよってね。はははは」

「……」

「まあ、それで高校3年の時に気持ちを完全に断ち切ったとか何とか言ってたなぁ」


 同じ時期に気持ちを断ち切ったというのか。相性が良いのか悪いのか……

 

「それで? その後は?」

「ん? まあ『そりゃそうだよな』みたいな感じで、まあ私もタケシとそんなに仲良かった訳じゃないしね、そんなに積もる話がある訳でも無いからさ、じゃあ元気でねぇみたいにして別れた」

「そう……」


 その後もユイは1人ペラペラとしゃべり続けてはいたが、それらの話は私の耳には一切届かなかった。


 気付くと、私の目には見慣れた天井が映っていた。どうやら私は無意識のうちにユイと別れ、その後無意識のままに自宅へと戻って来ていたらしい。そしてそのままベットの上に、服を着たまま仰向けになっていたようだ。


「な~んか……疲れたなぁ……」


 結局タケシとは高校の卒業式を最期に会っていない。連絡先すらも知らず、もう10年以上会っていない。

 記憶だけは鮮明に残っている男の子。好きだった男の子。その子と一緒にいたいが為に、高校の3年間を少しだけ犠牲にした。それは後悔していないし、それはそれで私の大事な思い出。美しいとは言えないかもしれない私の大事な思い出。片思いという思い出だったはずなのに、今更になってそれが両想いだったと発覚した。お互い片思いのままに時を過ごし、そしてほぼ同時期にその想いに区切りを付けた。相思相愛且つ相性最悪と、そんな所だろうか。

 そしてその相手はほんの1か月前に、私とは全く無関係の女と結婚。いっそ知りたくなかった。タケシの様子も何もかもを知りたくはなかった。自分の中でただただ美しい思い出として、自らのすっぱい思い出として残しておきたかった。結婚したとか私を好きだったなんて話はいっそ聞きたくなかった。


「普通男が告白するもんだろ……タケシが告白すればいいだろ……」


 好きだった男の子は私の事を好きだった。その2人は何らの進展もなく別々の道に進み、片方は別の女と結婚し、恐らくは「幸せ」とやらの中にいるのだろう。そしてもう片方である私はといえば、夜が明ければ浮ついた話の1つも無いままに、仕事一筋に励む生活へと戻るだけ。


 結婚こそが私の目指す「ゴール」、又は「幸せ」であるとは露ほども思ってはいないが、では逆にゴール、若しくは幸せとは何なのだろうか。というか人生にゴールという言い方は正しくないな。であれば、目指すべき幸せとは何だろうか。


 自転車や自動車、何らかのコレクションに囲まれる等の趣味に没頭する、美味しい食べ物を探しては食べまくる、国内や海外等の旅行に行くと、まあ世間でいう幸せとはそんな所だろうか。まあ幸せというかオフ時の話だろうか。どうも幸せとオフ時の違いが難しい。オフが幸せとしてしまうと、仕事が幸せと思っている人はどうなるのだとなる……

 結婚して子供を授かる事が幸せと思う人もいるのだろうが、世の中には結婚しない人もいれば離婚する人もいる。子供を産まない人もいれば産めない人だっている。であれば、それを画一的に幸せとは呼べないだろう。というか、それら全ては「幸せ」というよりは「糧」と言った方が正解だろうか。


 では私にとって「糧」とは何なのだろうか。無趣味であり食べ物にもさほど興味も無く、旅行などは疲れるだけだと行く気も無い。休日はスキルアップの為の勉強に費やすか、次の仕事に備えて体を休ませる為だけに使う。現状でのオフはそんな備える時間である。そんな私にとって「糧」とは何だろうか。へとへとになるまで働くというその仕事こそが「糧」なのだろうか。そして過酷ではあっても自分で選んだ道を歩けるその事こそが「幸せ」だとでもいうのだろうか。


 今の私が「幸せ」という言葉を聞いて真っ先に思い付くのは、やはり中学校時代だろうか。きっとあの時が一番の幸せといえる時間だった。あの頃以上に「幸せ」と思える事がこれからあるのだろうか。働く以外の何かがこれからあるというのだろうか。

 きっとあんな幸せな時はもう来ない。あの時の記憶こそが、私にとっての生きる糧。その糧を頼りに、ただただ生きていくだけ、働いてゆくだけ。今の私にあるのは記憶だけ……だがその大切な記憶がユイの話で以って穢された気がした。


 同僚らは資産形成やスキルアップに時間とお金を投資してゆく。それは単に良い未来を迎える為に、良い老後を迎える為に、やがては灰になるその身を削る。私もその熱に当てられ資産を築く為に身を削る。今の私に出来るのはそんな事だけ。きっとそれが私にとっての「糧」であり、きっと「幸せ」と呼ぶべき物なのだろう。


 30代前半。私は穢されたその記憶に蓋をして、一層仕事に打ち込んだ。思えばその辺りが一番波に乗っていた時期だったと言えよう。そしてここぞとばかりに、中々の値段のマンションを購入した。


 30代後半。同級生の結婚話はほぼ耳に入らなくなった。そして私の肌にはタルみが見え始め、その所為か化粧の乗りも悪い。筋肉痛も2,3日経ってから来るようになり、どうやら私は気付かぬうちに若さを失っていた。と同時に、「中年」への仲間入りを果たしていた。


 40代前半。それなりのポジションにも就き、かなりの報酬を貰っていた。仕事に関して言えば順風満帆と言えたが、いくら寝ても疲れが取れない日も多くあり、若さを失ったのに引き続き、体力を失い始めている事を自覚した。そして「これからも色々な物を失ってゆくのだろうか」と、ふとそんな考えが頭を過った。


 40代後半。明らかに肌が衰え始め、髪も細くなってきた。そして同級生を含む自身に近い世代の人が病気等で以ってこの世を去ったと、そんな話をよく耳にするようになった。そこでようやく、私は人生の折り返し地点を過ぎている事に気が付き、自分の残りの人生の長さが限られている事を再認識した。そして私は会社を辞めた。


 50代前半。相変わらず、私の親は同級生の動静を事ある毎に伝えて来る。特段目を引く話も無かったが、チラホラと、その同級生の子の子供が結婚したなんて話が入り始めた。稀に離婚したなんて話も届く。私は浮いた話も無いままに、個人で以って小さい会社向けの起業コンサルをしていたが、組織に入っていた時とは異なり、ゆったりとしたペースで以って仕事をしていた。


 50代後半。親からの同級生動静報告の中に「孫が生まれた」なんて話が入リ始め、自分が「お婆ちゃん」と呼ばれる年齢なのだなと改めて認識した。それと同時に、遥か遠くに思っていた「還暦」という言葉が直ぐそこまで迫って来ているその現実に、多少なりともショックを受けた。

 にしても、それが気の所為だと分かってはいるが、何故か時間の経つのが早く感じる。これも年の所為なのだろうか……


 60代前半。両親を老衰で以って立て続けに亡くした。一人っ子である私は既に子供を産む事も出来ないが故に、父と母の血は私で途絶えさせる事となった。親は私に結婚をしろと強く迫る事も無かったが、ほんの少しだけ罪悪感を感じた。

 両親の墓は新たに建てたが、私が亡くなれば墓守もいない。となれば、いずれ自動的に墓じまいされる事になるのだろう。それについては申し訳無く思うが、それはこの国のしきたりの様な物であるからして許して貰おう。どうせ私も共同墓に入る事になるのだろうから、そこで謝ろう。以降、私は同級生の動静を知る事は無かった。


 60代後半。私は仕事を完全に辞めていた。豪遊する程の金は無いが、まあ一人で暮らしていく分には十分な資産は出来ていた。とりあえずはゆっくりのんびりと、どう余生を過ごすか考えればいいだけで、社会に対してはもう何もする必要はない。


 70台前半。月に1度は1人旅に出かけた。以前は全く興味の無かった景勝地を回り、それ以外はただただ散歩するという生活。そしてまさか自分が貰うとは思ってもいなかった年金というお金も貰い始め、かなり余裕のある生活が出来ていた。


 70台後半。疲労骨折なんて物を経験した。ちょっとした事で骨が折れた。あちこちにガタがき始めていた。歩くのも気を遣うなんて時がよもや自分に来るとは……


 80代前半。私は自らの意志で以って老人ホームに入居していた。頑張れば1人で生活する事も可能ではあったが、体の自由が利かなくなってきている中で1人でいる事が不安だったのと、もう頑張る気力そのものがなかった。

 その老人ホームは中々に高級な部類であり、一般のサラリーマンでは入居が難しいと言えるレベルにあった。私はマンションや株等の資産を元手にして、その施設へと入居した。設備もケアも御飯もかなり高水準の物を提供するその施設に入居出来た事は、まあ、良い老後と言えるのかな?


 柱の無い200平米を超すリビング。その場所には数々のテーブルセットが並ぶ。正面と言える1方の壁は全面ガラス。そのガラスの先には芝生広がる庭が見え、管理されたその芝生の奥には高い木々が生い茂る。その木々の奥へと目をやるも、生い茂る木々により見通せない。あたかもそこは何処か山の中かと見紛うも、その場所は東京へも電車1本で行ける都市近郊と呼ばれる場所であり、その施設を1歩外へ出ると閑静な住宅街。私はそんな場所に建つ最新鋭の老人ホームに於いて、ただただ健康的に寛ぐという、そんな日常を送っていた。とはいえ寛ぐだけで何もしない訳でも無く、体が硬くならないようリハビリ的運動や、体力を維持するよう適度に動くといった事もしている。が、私の体力は日に日に落ちていくのが自分でも分かる。大袈裟に言えば息をするので精一杯である。正直一日中ベッドの上で横になっていたいと思う日々である。恐らく、私はもう……


 夕食を終えた午後6時、私は全面ガラス付近のテーブルセットに1人で座り、何の気なしに夕闇迫る庭を眺めていた。


「あの…」


 不意に横から話しかけられた。声のした方へゆっくり顔を向けると、そこには同世代と思しき1人の男性が立っていた。


「失礼ですが……ユカリさんですか?」


 地肌も見える頭髪。残り少ない髪は真っ白く、顔のアチコチには染みと共に深い皺が刻まれた高齢男性。


「えっと……あなたはどちらさ…………あら?」


 かろうじて当時の面影が残っているといった所だろうか。そう、私の事を下の名前で呼ぶその男性は、タケシだった。


「やはりユカリさんでしたか。最後にお会いしたのが高校の卒業式でしたから……60年ぶり位ですかね? いやあ、まさかこんな場所で遭うなんて」


 タケシは私を『さん』付けで呼んだ。あの頃のような話し方もせず、どちらかと言えば他人行儀だ……まあ、一度も親密になった事はなく完全に他人ではあるので、そのよそよそしさは仕方がないと言える。もうあれから60年という歳月が流れ、互いに「大人」という物すらも過ぎている。私もタケシ同様に深い皺と染みを蓄え、頭は完全に真っ白である。そんな私にむしろよく気付いたものだ。


「ほんと、ビックリね。まさかタケシさん(・・)もここに居るなんて」

「ええ、まさか私もこういう所に来るなんて想像もしてませんでした。子供達が家を出ていった後は1人で暮らしていたんですがね、ちょっと体を悪くしましてね、当初は子供達から2世帯ならぬ3世帯住宅を進められたんですけどね、そういうのって結局は子供や孫の負担になるからって断り続けていたんですよ。それで1人で住んでいたんですけど、子供からすればそれも心配だって言われましてね、お金は出すからって言われてここを勧められまして。ここって結構高いのに無理してくれまして。一昨日来たばっかりなんですよ」

「そうなんですか? お父さん想いの良く出来たお子さんですねぇ」

「はは、トンビが鷹を産んだという所ですかね。身分不相応に良く出来た子供を授かって、本当にありがたいですよ、ははは」

「まあ、フフフ」


 そんな話はどうでも良かった。


「あの、1人で暮らしていたというのは? 奥様がご一緒では?」

「ああ、いや、妻は既に亡くなっております」

「あ……あの、その、気が利かなくて申し訳ありませんでした。お悔やみを……」

「いえいえ、もう30年も前の話ですし、ははは」

「そうだったんですか……それじゃあ随分と若くしてお亡くなりに……それはお気の毒に……」

「病気でしてね。本人も辛かったでしょうが、見ている私も辛かったですねぇ。何か最後の日々は夢だったようにすら思えますねぇ」


 タケシは優しい笑顔で以って、ガラス越しの庭を見つめながらに言った。


「あ、私ったら気付かずに、あのどうぞお座り下さい」

「あ、じゃあ、失礼します」


 タケシは私のはす向かいの椅子へと腰掛けた。これが中学生高校生の時であればドキドキしたのかもしれないが、今は落ち着いている。いや、多少動悸はしているが、ドキドキと迄ではない。いくら何でもそこまで私も若くは無い。それにこの年でのドキドキは命に拘わるという物だ。そこでふと、私は昔のとある話を思い出した。


「あの、タケシさん。1つお伺いしても、宜しいでしょうか?」

「はい、勿論いいですよ」

「あの時……」

「はい?」

「あの時、仰っていたそうじゃないですか」

「あの時? 何の話でしょうか?」

「タケシさんが私の事を好きだったと」

「……は? ……え?」


 タケシは年齢不相応な動揺を見せた。


「覚えてらっしゃいませんか?」

「あの……いや、その……」

「以前にユイに話しましたよね?」

「……ユイ?」

「ええ、堀ノ島ユイです。覚えていらっしゃいません?」


 私は自分に感心した。その話は50年近くも昔の話である。それを今ここで思いだすとは、いやはやどんだけ私はタケシが好きだったのだろうか。思わず笑ってしまいそうだ。

 対してタケシは目を強く瞑りながらに天を仰ぎ、小さい声で「う~ん」と唸りながらに必死になって思い出そうとしていた。


「……ああ……ああ、そうか……そういえば昔、堀ノ島さんに偶然会って、そんな話をしたかもしれませんね……ああ、そうですかぁ……堀ノ島さんから聞いたんですかぁ……」

「ええ、そうです」

「そうだったんですかぁ……何か昔の事とはいえ、ちょっと恥ずかしいですねぇ、ははは、いやぁ、そうですかぁ、知られてしまったんですかぁ……そうですかぁ……」


 又もタケシは年齢不相応に照れていた。


「それでですね、もしも、もしもですよ? タケシさんが中学、いえ高校の時にでも、もしも私に告白していたとしたら、今頃私達はどうなっていたと思います?」

「…………え?」

「どうなったと思いますか?」


 もしもなんて言いつつも、真剣に質問する私に気圧されたのか、タケシは少し怯んだように見えた。


「……えっと……いや、あの……私が学生時代に告白していたら、ですか?」

「はい、あくまでも『もしも』の話です」

「それって私がユカリさんに告白し、ユカリさんが良い返事を私にくれていたとしたら、という事ですか?」

「はい、そうです」

「はぁ……そうですか……なるほど……ふむ……う~ん、そうですねぇ。一体、どうなっていたんでしょうねぇ……」


 タケシはテーブルを見つめ、随分と真剣に考えてくれているようだった。別にその答えによってどうこうするつもりはない。ただの話のネタに過ぎない。10代20代ならいざしらず、互いにお迎えがいつ来てもおかしくない年齢だ。今更何の気持ちがある訳でも無い。とりあえずはどちらが先かは分からないが、何をするでもないこの晩年を過ごす為の、数少ない下らない話の1つのネタとして、聞いておきたいだけだ。


「そうですねぇ……案外付き合って直ぐに別れて、私はやっぱり今の妻と出会って結婚し、そしてここで今と同様、ユカリさんと再会していただけじゃないですかね? ははは」


 別に私と結婚していた未来があったと言って欲しかった訳では無い。選択しなかった道について話しているだけで、それは漫画や小説に出てくるパラレルワールドを語るような物であり、真面目に語る話では無く、単なる戯言である。タケシが掟破りの「あの時好きだった」なんて事をユイに話したのだ。だから私はその話に合わせて質問しただけだ。そもそも自分達が選択した道、それ以外に道は無いのだ。本気でパラレルワールドの話などをする気はない。ちょっと聞いてみたかっただけだ。

 そしてタケシのその答えは、私が望んだ答えと言える。私が好きになる資格がある男だと言える。私の「男を見る目」が確かだった事が、80年以上を経て証明されたという事だ。もしも自分に連れ添ってくれた奥さんを蔑にするよう事を言うような男だとしたら、それこそ100年の恋も一瞬で冷めるというものだろう。もしも奥さんの事が好きでは無かったなんて事を口にしたのなら、私は軽蔑すると共に、例え相手が高齢であったとしても、クズと呼びつつ頬を叩いた事であろう。


 だから私は心の底から思う。タケシと同じ時代に生まれて嬉しいと、タケシの事を好きになった事が嬉しいと、タケシを好きだった自分が誇らしいと、タケシをずっと好きでいられて嬉しいと……タケシに会えて嬉しいと、そう心から思う。


 とはいっても、この気持は本人には絶対に内緒だ。他の女と結婚した男に対し、生涯未婚の私がそれを言うのは何だか負けた気がする。この気持ちは文字通り、墓場まで持っていく私の秘密だ。

 

「そうかもしれませんね。案外、そんな物なんでしょうね。多少ルートが違っても結果は変わらないと、案外そんな物なのかもしれませんね。ふふふ」

「でしょうね、ははは」

「ですわね、ふふふ」


 光陰矢の如く、80年という時は過ぎ去ってしまえば余りにも短く、そして全てが懐かしく、特別良いとも悪いとも言えないが、総じて良かったと言っていいだろう。いや、良いとか悪いとかで無く、今のこの瞬間に全ての辻褄が合ったと、全ては今日の今のこの瞬間の為にあったのだと、そう言った方が正解だろうか。


 その後タケシは饒舌に話を続けた。中学時代の話、高校時代の話、そして結婚するに至ったいきさつ等を1人で話し続け、私はただただ聞いていた。タケシは一昨日ここに来たばかりという事で、周囲に話相手が全く居ない所に私を見つけ、本当に喜んでいるようであった。


「はぁ、今日は少しおしゃべりをし過ぎたようで、何だか酷く疲れてしまいましたわ。少し早いけど、私、そろそろ休ませて頂きますね」

「あ、そうですか。いや、こんな爺さんのおしゃべりに付き合って貰って申し訳ありませんでしたね」

「あらやだ、私もお婆ちゃんですよ? フフフ」

「ははは、まあ同い年ですもんね。互いに随分と長く生きましたね」

「ですわね、フフフ。それじゃあ、お休みなさい」

「はい、お休みなさい。ではまた明日」

「はい、また明日」


 互いに軽く頭を下げながらそう言って、どちらからともなく小さく手を振った。流石に「ばいばい」と迄は口にしなかったが、その手を振るという互いの仕草に、瞬間、中学校時代に戻った気がした。あの懐かしくも愛おしい「幸せ」だったと言える日々に、還った気がした。


 部屋に戻った私はパジャマに着替える事無く、倒れるようにしてベッドへと潜り込み、そっと目を瞑った。気分はとても良かったが、もう何も出来そうにない程に、酷く疲れていた。


『明日もタケシに会える。いや、明後日も明々後日も会える。その次の日もその次の日も、タケシに会える』


 昔であれば嬉しくて眠れなかった可能性があるが、疲れと年の所為もあってか、そんな嬉しさは関係無いとばかりに睡魔が襲い、閉じた瞼はもう開かず、何処かへと深く深く落ちてゆく。


 次に目を覚ませば、きっとそこにはタケシがいる。あの頃と同じようにおしゃべりが出来る。いっそあの頃に戻りたいと思わなくも無いが、戻った所で今に帰すだけだろう。仮に今の記憶を保ったまま過去に戻ったとしたならば、影響範囲は兎も角として、きっと過去を変えてしまう。そしてその変えた過去を基にして新たな人生を歩んでゆく事になるのだろうが、それは変える前の過去を引きずったままに生きてゆく事であり、常に欺瞞を抱えながらに生きてゆく事でもある。

 納得出来ようが出来まいが、今の自分は全ての過去を基盤にして出来ている。もしも過去を変えたとするならば、それは今の私が消えてしまうのと同義だ。過去の全てが美しい思い出と迄は言わないが、それら1つ1つの記憶と経験が、今の私を成している。「あの時ああしていれば」とか、「あれさえ無ければ」といった話は未来への教訓にはなっても過去には適用されない。選ばなかった道の話等、ただの戯言だ。


 互いに残された時間は短いかもしれない。だとしても、ほんの少しの時間だとしても、今は再びタケシと過ごせる日々が訪れた事、それが嬉しい。今はもう開く事が出来ないその瞼を再び開いたならば、きっとそこにはタケシがいる。そして中学校時代同様に隣の席に座り、ずっとおしゃべりをする。そんな日々が始まる。それは永遠に続くものでは無いが、今はそんな日々が始まる事、それがただただ嬉しい。

 

 ああ、この気持ちを何と表現すればいいのだろうか。ああ、そうか。きっと人はこの気持ちを総じて「幸せ」と、そう呼ぶのだろう。


2020年08月30日 初版

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 同じ境遇になったら、どう思うのかなと考えてしまいました。主人公の高校時代のことは、私と一部重なります。
2020/09/19 07:59 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ