クチバシウサギ
寒空の中、己の住まう場所へと帰ってきた真白は「ほう」と白い息を吐き出して地面に降り立つ。パチリと電気が迸るような音を立てて、彼女の履いた草履からほんの少しだけ焦げ臭い香りが舞い上がった。
見事に枯れ果てた大地をその目で見てきたからだろうか?
緑豊かな山の景色を眺めて、真白はどこか安心したように肩を下ろす。
それから隣に同じく舞い降りた人物を見て、今度は不機嫌そうに眉を跳ね上げた。けれど、その口から文句が飛び出すことはなかった。流石に慣れたのか、彼……破月が少々のちょっかいをかけようと、彼女は無視することを覚えたのだった。
「こっちにも、来る可能性があるということよね」
「そうだなあ。お前も空から見ていたのだから分かるであろう? イナゴどもの移動している軌道は一定だ。まるでなにかを追いかけているかのように曲線を描きながら、道中の植物を食い潰している。その行き先は、今度はこの周辺だろう」
「分かっているわよそんなこと。だから原因を探るために戻って来たんじゃないの」
憤慨したように、いや先に答えを言われてしまったからか、真白は顔を逸らしながら強い口調で言う。
それからまだまだ緑の生い茂る森の中で辺りを見回す。しかし、異変と呼べるような異変はなにも見当たらなかった。
「はあ、村で訊いてみるしかないわね」
憂鬱そうに真白が額に手の平を置く。彼女が聞き込みをしても、村の人間に無駄に怖がられることが分かりきっているからである。怖がられたり厄介者扱いされることが分かっていながら、素知らぬふりで尋ねて回るのは苦痛でしかないのだろう。
彼女は確かに村の人間に恩義を感じ、それを好きで返し続けてはいるが、邪険にされ続けてしんどくならないわけではないのだ。
「どれ、我もついて行こう。なあに、お前の風よけくらいにはなるだろうて」
「……ありがと」
だからこそ、破月のその申し出には彼女も素直に礼を言った。
彼女を気遣って、その悪意が届かぬようにしているのだと、それが普段散々言われている好意から来るものだと知っているからだ。
「礼は我との口吸いでどうだ?」
「嫌よ。私から頼んだわけでもないのに、どうしてお礼なんかしなくちゃいけないの? あんたが勝手にやってくれているだけのことでしょうに。感謝の言葉を言ってあげるだけいいじゃないっ」
少しだけ株を上げた破月は、その直後の口付けを所望する言葉で前よりももっと株を下げることとなった。そのまま余計な一言を言わなければ、ほんの少しくらいは真白も素直に礼をする気になったのだろうが、全て台無しである。
残念なこの竜は、人間の心の複雑さをまるで理解していないのであった。
いや、人間の心の機微を理解していないというよりも、ただ単に無神経なだけかもしれない。
そうして二人は、また微妙な雰囲気のまま山を歩いて降り、閑散とした村の中に足を踏み入れた。
「あ、ちょっと」
「すみません巫女様。貴方様に売れるような上等なもんはなにも……」
真白が野菜売りに声をかけようとすれば、そんな言い訳をして男性が店のものを仕舞い込もうとする。彼女はいつもこんな調子で、貢ぎ物以外を買うことも許されずに神社にいるしかないのである。
そんな光景を目の当たりにした破月は、その端正な顔立ちを僅かに歪めて一歩彼女よりも前に踏み出した。
「悪いな、用があるのは我だ」
「へ、へえ、旅行かなんかで? こんな辺境に……? お侍さんはもう刀も取り上げられちまっているでしょうし……どっかのお偉いさんですかね」
客相手でもこの態度。小さな村とはいえ、あんまりにもあんまりな対応である。廃刀令もなされたこの大正時代のご時世だ、背の高くて端正な顔立ちをした破月は刀を持っていたとしてもよく似合うが、どちらかと言えばどこかの老舗の跡取り息子と言われたほうがよく似合う。周囲の人間に、どこか格式の高さを感じさせるのが彼の容姿がなせる技であった。
「この村に来るまでに畑や森に大打撃を受けた地を回って来たものでなあ。ここはまだ大丈夫なようだが、時間の問題やもしれぬと思って忠告をしに来たのだ」
「う、噂は聞き及んでますけど、まさかここもそうなるとお思いで?」
「我は偶然寄ったに過ぎんが、ちょっとしたまじない師のようなものを趣味でやっているのだ。少々気になってしまってな。なにかこの辺で、見慣れぬ物を見たりはしなかったか?」
胡散臭いものを見る目で男性は破月を見つめるが、彼は朗らかに、しかし真剣に話を訊いている。しかし、見た目も良くどこか金持ちの息子然としたその大きな態度には村人も下手に出る他はないのである。もし本当に金持ちの息子であったのなら、痛手を受けるのは村人のほうだからだ。
「俺っちは知らねえが……何人かが変なウサギを見たってのは言ってやした」
「ほう、ウサギとな? どのような部分が変だったか、聞いてはいるか?」
「確か……口先が鳥のクチバシみてぇになっている奇妙な姿だったそうでさ。耳が垂れていて長かったもんで、後ろから見たらウサギそのものだったと。仕留めてやろうと近づいても動かねーもんで、死んでんのかと前に回ってみたら、面妖なクチバシがついていたって話でね」
破月はふむふむと頷きながら隣にいる真白の腰に手を回す。
「ちょっ」
驚いた真白が彼の足を勢いよく踏みつけにすると、村人はなんてことをするんだこいつは! という視線を彼女に向けた。彼がいいところの息子であった場合に、真白の所業によって村人達まで責任を問われるかもしれないからだ。
「愛いやつよ。そういう気の強いところがまたよきかな」
うっとりとして言った彼に、真白は睨みあげるようにして「……なんのつもりよ」と声を出す。すると、彼は真白の耳に口説き文句を落とすかのように口を近づけ、村人にも聞こえぬほどの小さな声で囁きかけた。
「すまなんだ、そのままでいてほしいのだ。我がなんとかしよう」
「あっそ」
彼女の返事に破月は近づけた唇でほんのりと、真白の耳をくわえた。
「やっ……ちょっと!?」
「はっはっはっ、寂れた地でこのような可愛い女子を見つけられるとは、我も運が良いな。お前を虐げるものは我が成敗してやる故、身を任せられよ」
「お、お断り、するわよ。この、軽薄男……」
破月の台詞にようやく彼の思惑に気がついた真白だが、それはそれとして先ほどの行いには憤慨したままである。鶴のように白い肌に薄い朱を散らして身を竦めさせる彼女の姿は、意図的に手を出した彼の劣情をちらりと誘う。
しかし、破月はそんな気持ちを朗らかな笑顔で隠しながら、見せつけるように真白を抱き寄せつつ村人に尚も尋ねる。
「おお、そうだ。そのウサギにはなぜ近づいたのだ? 獲物として仕留めるつもりであったのだろう?」
「……え、あ、えっとですね。死んでると思ったからでさ。自分達で仕留めるなら新鮮な肉が手に入るが、いつ死んだともしれない肉はちと不安が残りやすから。確認のために近づいたんでしょう」
真白を虐げたら許さない。
そんな風に言外に告げた破月へと、怯えた村人が答えを返す。
「そうか、そうか。そのウサギはあやかしの類かもしれぬ。幸いにもこの女もその類に対処する力があるようだからなあ。我もしばらくここに滞在し、この村の畑が被害に遭わぬよう気を遣ってやろう」
「へ、へえ、ありがてえことです」
村人との話を終え、破月が彼女の腰を抱いたまま立ち去ることを促すが、一向に彼女が動かない。
「真白? どうした」
「う、う、うっさい……」
彼女の瞳を彼が覗けば、真白は大きくのけぞって、それからたたらを踏んで尻餅をついた。
「どうした」
「うるさいわよ。じ、自分で立てるわ!」
しかしどうやら彼女は足に力が入らないらしく、その瞳に混乱を渦巻かせたまま焦ったようにしている。
「先ほどの行為で立てぬほどにやられてしまったか。はっはっはっ、我の男前さも罪よな」
ほんのりと悔しくそうに、そして泣きそうになっている真白の手を引き、破月が抱き起こす。それから腰に力が入らないらしい彼女の膝裏と背中を支えて軽々と抱き上げると、そのまま村人に背を向ける。
「それでは、我は行く。この娘の扱いはようく考えておくのだな」
「よ、余計なお世話よ。自分で歩けるって言っているじゃない!」
「ふうむ、この場で立てぬとなると、このまま美味しくいただくのもやぶさかではないなあ。我は竜故に、屋内でなくとも構わんぞ」
「…………神社に運んだらすぐに追い返してやるんだから」
「そうかそうか、できるものならなあ」
そんなやりとりを見て村人がどう思ったかなど、明らかであった。
ひとつ確かなのは、散々真白を追い詰めた破月が、ハタキを持った遊幸に神社を叩き出されたという、そんな事実のみである。




