Part 1-5 天性
Stonewall County Airport Aspermont West TX., USA 10:15 14th Sep 1998
1998年9月14日10:15 アメリカ合衆国テキサス州西部アスペルモント ストーンウォール・カウンティー空港
ヴィクトリアを養女に引き取って初めてウエンズディ夫妻は少女の落ち着かない様子を眼にした。
それは朝の食事に始まりスプーンを二度テーブルから落とし、水の入ったタンブラーをひっくり返した。
「ヴィク、落ち着きなさい。父さんとのお空の散歩は逃げたりしませんから」
妻のクラリッサにたしなめられる娘が落ち着くどころか輪をかけた様に失敗を連続させるのをザカライア・ウエンズディは微笑ましく感じた。
どうしてこの娘はこんなに空に恋い焦がれるのだろうか。
亡くなった本当の両親がレシプロの自家用機すら持たない慎ましやかな生活をしていたのは調べさせ知っていた。
スープにブレッドを落っことし服を汚してしまったヴィクをそれでも妻が嬉しそうに着替えさせるのを彼は知っていた。何だかんだと言いながらも、クラリッサは娘が手をかけさせるのを喜んでいる。
食事と着替えが終わり、ヴィクから「まぁだぁ?」と5回も問われ、ザカライアは腰を上げると妻に出掛ける準備はいいかと尋ねた。
帰りが午後になると聞き彼女は住み込みのコックやメイドに任せずに自分でサンドイッチをこしらえた。
こりゃあ上でピクニックになりそうだと彼は思いヴィクを抱き上げ玄関に向かった。
執事から予定を聞いていた運転手がすでにロールスを玄関口に回していた。
屋敷から地元の小型機ばかりのローカル空港──アスペルモントのストーンウォール・カウンティー空港 まで車で40分ほどだった。
途中、車内でもそわそわする娘にザカライアは尋ねた。
「ヴィク、前にもよく飛行機に乗ってたのか?」
夫妻に挟まれ真ん中に座るヴィクトリアが左に座るザカライアへ振り向き答えた。
「ううん。はじめて」
「初めてなのにとても嬉しそうじゃないか」
娘は大きく頷いて即答した。
「うん、とっても楽しいの」
妻のクラリッサが不思議そうに尋ねた。
「何がそんなに楽しいの?」
「お空が呼んでるの」
そのスカイブルーの瞳が見つめるのはどこまでも続く青い空と接する微かに湾曲する地平線。
テキサスの市道は渋滞もなく運転手は夫妻とお嬢さんのために気をきかせ30分で空港へ到着した。
ストーンウォール・カウンティー空港は全米各地に多く点在するローカルでも超がつく地元空港で管制塔どころか当初格納庫すらなく開けた場所に1本だけの短い滑走路と農薬散布小型機が入る倉庫が1つあるだけのただの滑走路設備だった。当初ゲートの管理施錠していたのは郡の裁判官だった。
野ざらしで小型機を置いておくには人目もなく物騒なのでザカライアは郡に多額の寄付をし、見返りにその敷地に小型機十機あまりを保管しておける滑走路に不似合いな大型の格納庫と燃料供給設備を建設させてもらう約束をとりつけた。
それから格納庫の利用者が増え、運用費から常駐の格納庫管理者兼任の整備士を雇い入れ郡の裁判官から運営管理を任される様になり8年になろうとしている。
ザカライアは仕事で所有各社への便がいいようにセスナ機を1機所有している。テキサスだけでなく近隣の州へもその182Sスカイレーンを使い足として自分で操縦する。広く売れ渡った高翼シングルレシプロ172シリーズの強化ヴァージョンの182は一見すると172にも見えるが細部に違いがあり上級モデルとなっている。
S型へ1年半前にグレードアップし買い換えて通算5機目のユーザーだった。
メーカーからは双発レシプロ機やビジネスジェットへのアップグレードを毎年のように勧められたが、それほど遠方に飛ぶこともなく、地表の景色を楽しむのに高翼レシプロ機は捨てがたかった。
本来なら空港に着き飛行計画書を提出し、気象を含め各種情報を受け有視界飛行の許可を得る。
彼自身は双発レシプロのライセンスも持ち計器飛行のライセンスも持っているので気象条件が思わしくなくとも上がれるが、近隣の低空を有視界飛行で飛ぶ分にはどこにも申請の必要はなかった。ただ近くの──東に28マイル(:約44km)にある少し大きなハスケル市営空港に無線連絡を入れるだけだった。
今日は妻と娘も乗せるので無理をするつもりはまったくなかった。
彼は車から下りると従業員1人の管理事務所へ行き声をかけた。
「デイヴ」
顧客の1人のボザンナのエンジンを手入れしていた鼻から顎にかけて髭を生やした男が顔を上げた。デイヴ・アルドリッチはアメリカ空軍で整備士をしていた元軍人だった。定年で退役しのんびりとした仕事ができるというのでザカライアに雇われていた。
「ザカライアさん、いらっしゃい。フライトですか?」
「ああ、構わないから整備を続けてくれ。2時間ほど近くを飛んでくる。燃料は満タンかい?」
「ええいつでもご利用頂ける様に一杯にしてあります。燃料噴射がアイドルからぐずるのも調整しておきました」
言いながらデイヴはロールスからザカライアの妻と子どもが下りて来たのを眼にして驚いた。
「ザカライアさん、お嬢さんがいらしたんですか?」
「紹介するよ。ヴィクトリアだ」
そう言って彼が娘を手招きするとヴィクは短いポニーテールを踊らせザカライアのそばに駆けてきた。
「はじめましてお嬢さん。あなたのお父さんに雇われているデイヴ・アルドリッチです」
「はじめましてアルドリッチさん。ヴィクトリアです。ヴィクと呼んでください」
「可愛いね、おじさんはデイヴでいいよ」
娘から顔を上げたデイヴがザカライアに尋ねた。
「お孫さん──ですよね。でもザカライアさんにお子さんは──」
「違うよ。私達の娘だ」
ザカライアと整備士が話しをしているとヴィクは格納庫に入れてある飛行機へと小走りに行きぐるぐると周りながら次々に小型機を見始めた。
それらの機体の中で1機の前に立ち止まりじっと見つめているとクラリッサがそばに来て尋ねた。
「どうしたの、ヴィク?」
「これが好き──大好き!」
少女が見つめているのはマリンブルーに白のストライプの入った小型機だった。
「あら、偶然ね。これが私達の乗る飛行機よ」
そう言われた瞬間、笑顔を浮かべた少女はドアへ走り寄りノブに手を伸ばしてぴょんぴょん跳び始めた。
「とどかない──とどかないの」
その小さな手がいきなりノブに届いてドアを引き開けた。ヴィッキーをザカライアが抱き上げていた。
「ヴィク、こっちは機長席だよ。奥の席にゆきなさい」
少女は機内に上がり込み左の前座席に座り込むと片手で右横の席をぽんぽんと叩き養父へ告げた。
「はやく乗って!」
クラリッサが先に乗り込み後席に座り、ザカライアが機体周りのチェックを行い、デイヴがタイヤ止めを外しザカライアと2人で左右の主翼の支柱をつかみ格納庫からゆっくりと押し出した。
ほぼ南北に伸びる4000フィート(:約1219m)の滑走路は短いが小型機にとっては十分に余裕のあるものだった。
エンジン回転数2500、フラップを10度下ろし機首上げをする機速毎時60マイル(:約97km/h)に達する頃にはまだ3分の1も走り切っていない。
風を受ける昇降舵を持ち上げる操縦桿は愕くほど重い。ヨークを辛抱強くゆっくりと引き前輪が浮くとすぐに追いかけるように主脚もアスファルトを離れた。
メーターバイザーから先に機体で見えるのは回転するプロペラの残像だけでエンジンカウルの一部すら見ることはできない。それも大人の視線の高さでだった。
ヴィクは座席に立ち上がり操縦桿にしがみつき前を見ようと爪先立ちになりザカライアを苦笑いさせた。
高度3000(フィート:約914m)まで上がり十分な安全高度が取れるとザカライアは娘に聞いてみた。
「ヴィク、こいつを操縦してみるか?」
「するぅ! どうやるのぉ? どうやるのぉ!?」
「お前が握っているヨークを引くと前が上がる。押すと前が下がるんだ。左に回すと左向きに、右に回すと右向きになるけれど、飛行機は曲がりたい方へペダルも踏まないと曲がってくれない。ヴィクはまだ足がとどかないから私が代わりに踏んであげるよ」
「あなた大丈夫なの?」
妻が座席の間から身を乗りだす様に尋ねた。
「大丈夫さ。こっちの席にもヨークやペダルはあるから」
ザカライアはそっとヨークから手を放した。機体が徐々にピッチ運動を始めるものとヨークの握り手のすぐ傍に手を浮かしていつでも操縦の主導権を取れる様にしていた。
航空機の飛ばし方は乗馬やサーフィンに似ている。
空中には空気中の密度違いの塊や、風のうねりがある。その波に合わせ持ち上げられる時はヨークを軽く押さえて、下がってゆこうとする時はヨークを軽く引く事で高さの一定した揺れの少ない飛行になる。
だが初心者がそれをやると空気の波への補正動作が遅れるため逆に揺れが大きくなる。
ザカライアは機がまったく揺れない事に大気の状態がかなり安定しているのかと思いそれを否定した。
機長席でヴィクが懸命にヨークを引っ張ったり胸で押し込んだりしていた。それを眼にしてザカライアは娘に思わずありのまま問いかけた。
「お前、ヴィク──空気のうねりがわかるのか!?」
「うねり? わかんない。うねりってなぁあに?」
昇降舵だけでなく方向舵にすら対応している。横に流されようとする機体をヴィクトリアは上手に補正していた。
「あなた、ヴィクは上手くやれてるの?」
妻に尋ねられザカライアは後席へ振り向いて苦笑いを浮かべた。
「上手いなんてもんじゃない。ベテラン並だよ」
その時だった。
いきなりレシプロエンジンが停止し数回転した2枚の回転翼がぎこちなく停止した。