金木犀になりたかった銀木犀を
お久しぶりです、昔の作品の再投稿になりますが。
退屈だった。
本当は、仕事も遊びもほどほどに忙しくこなして、充実はしていた。
一見、充実は、していた。なのに、いつも、誰かの笑顔を見るたびに、一歩下がった自分が心の中で「あぁ、あの子は幸せだ。羨ましい」とぼやいた。
私だって幸せなはずなのに。
不意に乗っていた各駅停車のローカル線が停まり、アナウンスは人身事故の発生を、告げた。運転士の声は透き通ったハスキーボイスで、それだけで女性だとわかった。女性を、卑下するつもりはないけれど、私と違って、自分でこうやって走らせる電車。レールの上で進んではいても、自分の意思がある。どれだけ楽しいのだろう。
そんなことをとめどなく、心の中で思考を巡らせていると、真っ暗な車窓からの景色の中、電柱が一本、見えた。
街灯が点灯し、スポットライトのように照らされたそこで、キャッチボールをする、誰か。ううん、キャッチボールではないかも。キャッチボールなら相手が必要だから、ただ、壁にボールを叩きつけているだけかもしれない。工場の壁らしいが、どこかのやんちゃな若者が、散々落書きしたその跡に、めがけてボールが飛んで、跳ねて。
帰り道、運がなかったと内心うんざりしていた心が、なぜかそのボールを見ているうちにふんわりと浮かび、踊り始めた。
「人身事故の影響で、ただいまより当車両は、最寄りの駅に停車いたします。運転再開の目処は立っておりません。お客様には大変なご迷惑をおかしておりますが、どうぞご了承ください。〜えー……ただいま、人身事故の影響により、一旦最寄り駅を終点とさせていただきます。運転再開の目処は立っておりません。ご迷惑をおかけいたしますが何卒ご理解くださいますよう、よろしくお願いします」
と、心が踊っていたはずなのに、そんなアナウンスであっという間に落っこちた。ストン。
あぁ、最悪。
降りたその駅は、人生の中で一度だけ、降りたことがあった駅だった。大好きだった叔母が生前住んでいた地域だったから、時々訪れていたものの、大概ここまでは、家族皆で自動車をつかっていた。
大学一年目の夏の夜、叔母の急逝の訃報を聞いた時、初めて電車に飛び乗ってここに向かったことは、記憶に残っている。
まぁ、もう昔の話だけど。
定期券圏内だから、何か咎められることもなく改札を通過した。携帯でサイトを確認すると、当分運転再開の見込みはなさそうで。
乗っていた電車より一本前の電車で、誰かが轢かれたらしい。死ぬのはいいけど、人に迷惑かけるんじゃないよ。
そんな悪態が喉の上までせせり上がったが、なんとかそれを、言葉にするのだけは避けた。同居する両親と、兄に連絡をしたが誰も迎えに来れないというから、近くの飲食店で食事を取ろうと見回した時、あの街灯が目に入る。
意外に、駅から近い箇所で止まったんだ。あの人影はまだ、壁にボールを投げ続けていた。
よく見ればボールは硬式野球用のようだが、それを投げる影の手に、あの野球用ミットは見当たらなかった。
「ん?」
気づけば私は、その人影に近寄っていた。
これが、始まりだった。
私に気づいた“彼”は、人身事故うんぬんの事情を告げれば、声を上げて笑った! 笑うのは不謹慎だと、さっきの自分の悪態すらも棚に上げて、私は眉をしかめたのだが、彼はその後、そっとそびえる木を指差した。
「銀木犀って知ってるか?」
「え?」
私はその耳慣れない「銀」に、思わず聞き返した。と同時にぽす、と男の手に、壁から跳ね返ったボールが収まった。
「なーに、金木犀みたいに秋の花だ」
薫りは上品だが、いまいちインパクトにかけるんでなぁと、続いたその言葉には、何かが隠れているような気がした。しかし私は、それがなんなのか、明確に答えを見つけ出せなかった。
「ラーメンでも食うか」
男の提案に、私は乗ることにした。鳴る腹の虫を、まずはおさめなければならない。独りでの食事も味気ないし、これも何かの縁なのだから。
「あいつは不幸なやつなんだ」
ラーメンをーー本当なら束で吸おうとしたが箸の使い方が実に悪かったーー1本啜った彼が、そう言って眉をしかめた。眉間に寄る皺には、あの、先ほどの人身事故の被害者を知るがゆえの、苦悩があるようだ。
「でも、その方はあなたと同じ……えぇっと」
「ホームレスだな」
「ホーム、レス」
「俺はいいんだ。家はなくても、金はある。貯金はあるし、日雇いの仕事をしているからな」
ただ、電車に飛び込むまで追い込まれていた男は、違った。
「姉ちゃん、あんたは幸せだな」
「幸せ?」
「そんなパリッとしたスーツをきて、毎日働きに出かけて、帰る。退屈かもしれないが、それはとても、大切なことなんだ」
「……」
「俺は、随分前に離婚してな。その後気づけば鬱になって、こうして今では「ハローワーク」にお世話になる毎日さ」
ふうふうと息を吹きかけて、今度は束ごと掴むことに成功した彼は、その麺をそのままそこに留め置いて……
「でもな、さすがに俺もあいつの選択は正しかったとは思えない。だからあの時、思わず笑ってしまったんだ」
あぁ、なんてバカな友人だ、と笑みをこぼした。その笑みに言い知れぬ不安を覚えた私は、何も言えなくなり、目の前で揺らぐ虹色に、目線を落とした。
「あの死んだ男。元は有名な野球選手なんだ」
「え?」
「そんな男が何故死んだのか。簡単な話だ」
銀木犀になりきれなかったのだ。
「あのー」
目の前に広がる闇と、街灯に照らされ、スポットライトがあたっているようなコンクリート塀の前に、私と彼はいた。
ラーメン屋を、後にした私たちは、そのまま彼の提案のままにあの、落書きだらけの塀の前に来ていた。
「銀木犀になれなかった、ってどういうことなんですか?」
肌寒い中、いちいち外に出ている人も珍しい。街灯がぽつりぽつり、光を落とす道には、私とこの男しかいなかった。
「目立ちたがり屋だったんだ」
答えなのかそうではないのか、わからないが彼は答えた。目立ちたがり屋……?
「本来なら、薫りだ、色だと目立つのが全てじゃあないはずだ。そうだろう? 仕事場で、誰かの仕事を取って、わざわざ目立とうとするか?」
会社の雰囲気を壊す、そんなことなどしない。と私は横に首を振る。
「だろう? でもな、時々、ああいうやつがいるもんなんだ」
「銀木犀になりきれなかったやつですか?」
「おう、自分が目立たなければ意味がないと、そういう気持ちで相手を見下したがるやつさ」
自分もかつて、あいつの同僚として、同じ地面の上で戦っていた。
「え? じゃああなたも……」
「俺はあいつと違って、そうそうに夢を切り上げ仕事に逃げたよ。おかげさまで早期退職して女房に逃げられるまでは、一定水準の生活を送れた」
でも今でも、時々懐かしくなって、投げに来るらしい。彼の顔は塀の落書きに向けられている。
「この落書きはな、実に餓鬼らしい。それに、的には絶好の形なんだ」
両手の親指と人差し指がそれぞれ下部と上部でダイヤ型の線をえがくようにされたそれ。中心に星が書かれているそれは、的と言えないことはない。
「近頃この仲間に加わったのは、あいつだった」
でも、死んじまった。
「……」
「銀木犀は、知ってる人は知っている。その上品な香りを、分かっている人が必ずいるんだ」
事務職といっても、形ばかり。会社の中で、平々凡々、書類とお茶だししかさせてもらえない自分は、他の総合職の女子社員のように、プロジェクトを持たせてもらえない。就活の時は、総合職が面倒そうで避けたけれど、後悔していた。
「無理に金にならなくていい、銀でいいじゃないか」
男はきっと、友人である亡者にこの言葉を紡いでいる。でもその言葉は。
「銀木犀は、それはそれで素敵なものでな」
まるで私に、言われているようだった。
半端者なのに、自分は立派だと思い、でしゃばろうとする、そんな私自身に。
中途半端な態度や、遊びも仕事もほどほどにしか楽しめない自分が恥ずかしく思えた。
「俺はあいつに生きていて欲しかったんだがな。人とは、分からないものだ」
「そう、ですね」
答えた私の服の中で、携帯が震えた。
『今駅の近くにいる、どこ?』
兄だった。
「そろそろ、迎えがくるので行きますね」
「ああ。そうか。そりゃあ良かった」
「ありがとうございました、その……話相手になっていただいて」
「いいや、俺こそ、ありがとな」
「姉ちゃん」
兄の迎えの車が数メートル先に見えた時、男は言った。
「俺は、」
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「変な話なんだけど」
『うかばれずに彷徨ってるかもしれんあいつを迎えに行って、そろそろいくとするよ』
『姉ちゃんは、生きるんだぞ』
「……ううん。何にもない」
「なんだそれ」
「いいの」
「……あ、そういえばさ、先々週もこの辺りで電車への飛び込み事故があったとか言ってたな……」
【FIN】
お読みいただきありがとうございました。
まもなく、秋ですね。私は金木犀より、案外銀木犀が好きだったりします。
今年も、どうかその銀色の花とつつましい香りで楽しませてくれますように。
(もちろん金木犀もその甘い香りが大好きです、秋を連想させてくれますから)
むあ(2017.9)