報復制度
『報復制度が施行されてから、まだ三年も経っていない訳だが、この制度の不安定性は一向に改善されない。報復制度。その名の通り報復を目的とした制度に、制度実施者の精神はことごとく耐え切れず壊れてしまった。私が今まで担当してきた実施者たちも、そのほとんどが精神を実験に乗っ取られる、といった形に終わっている。今回の制度実施者は、田口和樹。今までの被験者のように自分本位の報復ではなく、肉親のための報復を成す、という要素がある。それがこの報復制度によき変化をもたらすことを願いたい。以上』
人生差し引きすればゼロになる、幸せも不幸せも平等数経験する、と聞いたことがある。一体誰がそんなことを言い出したのだろう。誰もがみんな、そんな人生うまく終わる訳ない。もがき苦しみ、どうしようもない最期を遂げるものだって、いる。
着慣れない黒一色のスーツは妙に夜空と馴染んでいた。鼻に付く線香の香りはいつまで経っても消えないというのに。
昨日、弟は死んだ。彼の部屋の床いっぱいに真っ赤な血液が染み渡って、俺は一目でその事実を認識した。苦しみ果てた弟の姿は、今でも目に焼き付いている。
弟は精神障害を抱えていた。同年代の男を見ると震えが止まらなくなり、立てなくなる。その場で倒れこみ嗚咽する。酷い時には意識も失っていた。その原因は全て、彼が受けていた卑劣ないじめだった。執拗に殴られ、暴言に苦しめられ、見せしめにされていた。
全て、俺の所為だ。
弟がいじめられたのは、元を辿れば全て俺がいじめられていたことが原因だった。俺のいじめの所為で、弟は標的にされたんだ。俺の、俺の所為で。
弟が、彼が死んでしまったのは、全て俺の所為だ。
だから今日、俺は弟の元へ逝くと決めた。全てを償うために。
目の前はビル群の広がる夜空一色だ。見下ろせば小指サイズの人々がうろうろとしている。それほどまでに距離は遠い。
飛び降り地面に接するまでの所要時間は三秒らしい。どっかのウェブサイトにそう記されていた。体感時間はどれほどなのだろう。その間、俺はどれほど弟のことを思い出し、彼をいじめた、いや元凶の俺をいじめたあいつのことを呪うのだろう。きっとそれは、ここから飛び降りれば、わかることだ。
靴を脱ぎ足並みを揃え、一歩、一歩と柵を跨ぐ。そして目の前の暗闇に向かって、俺はダイブを……。
「少々お待ちください」
突然後ろから声がした。少し高い男の声。ゆっくりと振り向くと、俺と同じように黒一色のスーツに身を包んだ男が一人立っていた。
「あんた一体誰なんだ。というか放っておいてくれ」
「そうはいきません。私にも仕事がありますので」
男の言葉に俺は首を傾げる。よく見てみると、男はその黒装束には馴染まない銀色のアタッシュケースを持っていた。見るからに怪しい、と言わざるを得ない。
「仕事ってなんだよ」
「そうですね、簡潔に申し上げます。私は警視庁の人間として依頼をしに来たのです」
男はかしこまったように涼しい顔でそう言い放った。奇怪すぎるその言葉に動揺した俺の体を、男は掴んだ。
「まあ、こんなところでは危ないので、こちらでお話しします」
そう言い男は俺を柵の中に戻し、コンクリートの硬い地面に座らせた。
「なんだよ、もしかして自殺を止めようってことか」
「あはは。まさかそんなこと。自殺したいのならご自由にどうぞ。といっても私の話を聞いて、私が立ち去った後でお願いしますが」
「お前、仮にも警視庁の人間と名乗ってる奴が言うセリフか」
男は俺の言葉にあははと笑い出した。何もかもが不自然すぎる。この男の言動も、それに誰かにつけられた気配などなかったはずなのに、どうしてこいつは……。
「では気を取り直して。私は警視庁特別制度実行課の斎藤と申します。立場上警察手帳は携帯不可ですので、こちらの方を」
斎藤と名乗ったその男はそのまま俺に名刺を渡して来た。
「そのなんたら課の人が一体何の用で?」
「それは、あなた、田口和樹への警視庁特別制度実行課からのご依頼の為です」
名前を告げられたことに思わず目を見開く。俺のことは調べ済ってことか。
「依頼って、俺なんかに何の依頼が」
斎藤は俺の困り果てた顔に頷きながら、さらに話を進める。
「弟さんのこと、ご愁傷様です。あんなに若いのに」
「そんなことまで知ってるのか」
「こんな早くにお亡くなりになるとは、何と言ったらいいか」
かしこまった様子で呟く斎藤に、俺は顔を伏せた。苦い記憶が溢れ出し、今にも涙が溢れそうだった。
「あいつが死んだのは、全て俺の所為だ」
「いや、弟さんが死んだのは、元を辿れば、田口和樹をいじめていた山井武の所為、ではないですか」
憎むべき男の名前が彼の口からこぼれる。唖然とした。この男は、山井武の存在さえも知っていたのだ。かつて俺のことをあれほどまでにいじめ抜いたあいつのことも。
「どうしてそんなことまで、といった顔ですね」
「お前は……」
「あなたは八年前に山井武によって肉体的精神的暴行を加えられていた。俗に言ういじめですね。そしてその事実が下級生までに伝わりその結果、一学年下のあなたの弟も同じようにいじめられた。悪意を持った同級生によって。あなたは何とかいじめを切り抜けたが一学年下の弟はその後も継続的にいじめられ、精神を病んだ。そしてそれを自分の責任だと、あなたは感じている」
「当り前だ。全ての元凶は俺だ。俺の所為であいつは……」
「いえ、違いますよ。山井武。彼が元凶だと、あなたも感じているのではないですか」
斎藤は不敵な笑みを浮かべる。こいつは俺の心の底の叫びをくみ取るように、はたまた嘲笑うようにして、心を見透かしている。
「その、山井武に復讐せずに、あなたは自殺できますか」
「警視庁の人間の言葉とは、思えないな」
心を隠すので精一杯になりながら、俺は斎藤の言葉に答えた。斎藤は笑いながらアタッシュケースを開いて、ファイリングされた書類を出した。
「特別制度実行課と、言ったはずです。田口さんにもし復讐の野心があるのなら、この特別制度の実施者となっていただきたい」
「特別制度だと……」
「ええ、こちらの、報復制度に」
ファイルの台紙には「報復制度実施書類」と記されていた。
「報復制度。警視庁により秘匿的特別制度の一つとして実施されているものです。法外で被害を受け重篤状態にある被害者に、過去の被害と同様の報復を加害者に与えることで被害者の精神的苦痛を解消させる、それが目的の制度です」
「どうやって報復をするんだ」
「それは、実施者のみ知ることができる秘匿事項です」
手に持った書類の中には、概要と同意書がある。俺はこの制度に委ねるべきなのであろうか、それとも……。
「田口和樹さん、どうなさいますか」
そう言って斎藤が差し出した銀色のボールペンは、冷え切っていた。
『田口和樹に接触をした。次期報復制度実施候補者である。結果的に彼は熟考の末制度実施に同意した。今回の制度実施においても不安は大きいが、報復の動機が全面的に自身の精神的苦痛ではないということもあり、成功を期待したい。翌日山井武捕獲の末、翌々日より制度実行とする。以上』
朝早くに電話があった。連絡主は二日前の警視庁の斎藤だ。寝ぼけ眼で携帯をとると、斎藤は淡々とした口調で制度実施の手筈が整ったことを知らせた。一体どういった方法で報復をなすのだろう。俺はそれを聞こうとするもその隙なく制度の実施場所が告げられた。実施場所は家からそう遠くない、使われていない廃工場だった。
正直、今でも彼のこと、そしてこの制度のことに信用は持てていない。何もかもが怪しすぎて、とてもおいそれと信じることなど出来てはいなかった。
それでも道すがら、俺の足が浮足立っていることに気づく。何も気力が湧かず、自責の念に駆られ自殺を決意したあの日の自分とは、似ても似つかない。希望、とは違うかもしれない。けれども、俺はこの制度にすがっているのは確かだ。あの学生時代から欠落してしまった何かを、俺は取り戻すことが出来るかもしれない。そう期待していた。
廃工場に入ると、スーツを着た男二人が立っていた。ぴしっとしたその着こなしに、屈強な体つきが目に映る。放つオーラが彼らを警察の人間だと知らしめていた。
「田口和樹さんですか」
「え、ええ……」
「失礼ですが、身分証の提示をお願いいたします」
俺は男に言われるがまま、免許証を差し出した。それを確認すると、男は一礼し俺を通した。
奥の錆びれた扉を開けると、中に一人の男が立っていた。振り向きざまに乾いた笑みを見せる。斎藤だった。
「ご足労感謝いたします。田口和樹さん」
「こんなところで制度とやらを実施するとはな。一体何をするんだ。山井を気が晴れるまで殴らせてくれるのか」
「加害者への接触行為は、残念ながら違反事項です。ですが、きっとご満足いただけると思いますよ」
不敵な笑み、まさにそんな表情を斎藤は浮かべていた。一体これから何が起こるというのだろうか。ここまで全くと言っていいほど情報がない。あの時に渡されたファイリング資料にも一応は目を通してみたのだが、制度設立の経緯やなぜ自分が選ばれたのかという理由、まあいろいろあったが今日からの制度実施の内容に関してはからっきしだった。
俺は斎藤がくぐった頑丈な扉の先に息を飲みながら入った。
部屋は薄暗いコンクリート打ちっぱなしの風景が広がっていて、殺風景と言っていい。だが奥の方をよく見ると、数個の簡易ベッドが並べられていた。その中の一つには一人の男が横たわっていた。ベッド上の緻密な機械がすっぽり頭を覆っているが、顔はくっきりと確認できた。
「山井……」
山井武。俺が報復する加害者であり、憎むべき相手。それが今目の前で、無防備同然の状態で眠っている。
「どういうことだ」
「こちらで捕らえました。報復ですから、相手がいないとできないでしょう」
「接触禁止って、さっき言ったばかりだろう」
「ええ、そうです。あなたには接触をせずに報復を達成していただきます」
「一体どういうことだ……」
なにがなんだかさっぱりだった。目の前に横たわる山井、触れられさえしない現実、そしてその中での報復。目的と抑制の矛盾。とにかくこの報復制度がただごとではないことだけは、理解ができた。
「では、これからの手順を説明いたしましょう」
「ああ」
斎藤はゆっくりと山井の隣のベッドに近づき、スイッチのようなものを押した。機械の起動音が小さく鳴り出し、ベッド上部の機械部分が稼働しだす。
「これから行うことは、世間では公表されていない現実レベルでの記憶の追体験です」
「記憶の……追体験?」
「ええ。と言っても、ちょっと細工は加えますがね」
斎藤はそのままベッドの機械に手を伸ばす。ガチャガチャと音を鳴らすそれは、ヘルメット型で所々にあるライトがうっすらと点滅している。
「今からあなたの脳内記憶をスキャンします。その中からあなたの被害時代の記憶を隣に眠っている山井武の記憶と照らし合わせて、その時そっくりのバーチャル体験をしていただきます」
「バーチャル……VRってやつか」
「ええ、まあ似たようなものです。まあ追体験とは言いましたが、過去とは全く別の体験です。真逆、といってもいい」
斎藤は乾いた表情を見せて、そっと呟く。
「あなたには、山井武の記憶の追体験をしていただきます。田口和樹として」
「どういうことだ」
「過去の被害と同様の報復を加害者に与えることで被害者の精神的苦痛を解消させる、それがこの報復制度の意義です。そのための最も合理的な手段として私たちが至ったのが、加害者の記憶の追体験、という訳です」
斎藤はそのまま説明を続ける。彼曰く、この機械によって俺が山井の記憶の追体験、山井が俺の記憶の追体験を行うことで、俺が報復、山井が恐怖を体感するということだ。もちろん、俺は俺、山井は山井本人として。
「これがこの制度の実態です。ご理解いただけたでしょうか」
「なるほど、な……」
斎藤の手元にあるメットに目を向け、言葉をこぼす。手も触れず、俺は奴への報復が成し得る。それが彼らの言うこの制度の合理性というわけだ。
山井の記憶の追体験……俺はそれをすることで報復を完了できる。きっとそういう考えなのだろう。だがそれは、俺にとってはどうだろう。俺はそれで、奴を許せるのだろうか。弟への罪悪感を拭いきれるのだろうか。
いや、そんなことを考えていても答えは出ない。どのみち俺には、選択は一つしかない。
「……やろう」
「ええ、わかりました」
斎藤は冷静に返事をする。そして決まり文句のように淡々とまた話し始めた。
「制度に当たって、禁止事項が三つあります。一つは当時以上の報復を犯してはいけないということ。もう一つが、加害者に制度の趣旨を伝えてはいけない。そして最後の一つが、現実の場での加害者への接触行為は一切禁止です。それだけは肝に銘じておいてください」
わかったよ、と声を出し、俺は息を吐く。
これだけが俺の全てなのだ。
最期まで苦しみ続け、自分の人生を諦めた弟を、俺は救えなかった。彼のこれからあるはずだった楽しみ、喜び、悲しみや辛ささえも、俺は与えてやれなかった。もう弟の無念を晴らせるのなら、俺はそれだけでいい。この人生を続ける動機は、万に一つ、山井への復讐しかないのだから。
「それでは、これから報復制度を開始します。脳内記憶をスキャンしてからすぐさま制度を開始します」
「ああ」
俺はベッドに移り、機械をかぶる。隣には俺と弟の人生を狂わせた山井。内から溢れる衝動を必死に抑えて、目を閉じた。
俺の報復が始まる。
『報復制度の実施が開始した。制度実施者は変わらず田口和樹。制度実施前の通例ともいえるように、彼はこの制度の実態に心底驚いていた。しかし、彼はこの制度の実施を容認し、実行するに至った。田口和樹と山井武の脳内スキャンは無事終了した。これよりシステム実行のための修正を施してから、制度実施となる。以上』
目の前は真っ暗になった。先も手前も不鮮明で、歪なだだっ広い空間が広がる。ここはどこだろう、ロード中ということだろうか。
『田口和樹さん』
どこからともなく響き渡る声が聞こえる。この声は斎藤のものだと、俺はすぐに理解できた。
『これから間もなく制度開始します。制度はあなたの記憶の中で最も精神的苦痛を強く感じた五日間に設定します。ではよろしく』
斎藤の声は途切れた。だだっ広い空間が静まり返る。
たった五日間。俺に与えられた復讐の時間。俺の受けた屈辱の全てが、弟を失ったあの日々が、たったの数日に収められたことが、腹立たしい。
だがそんなことを言っても仕方がない。もう俺にはこれしかないのだから。
これから、俺の報復が始まる。胸の鼓動が徐々に高まり、今まで蓄積してきた怒り、憎しみがが沸々と高まっていく。それと共に、俺の視界が光に包まれた。
「おはよう」
馴染みのない声が聞こえた。振り向くと、男が笑顔で立っていた。何となく見たことのある服装……高校の時の制服だ。そして彼の顔をよく見てみると、かつてクラスメイトだった男だ。
「あ、おはよう」
「早く行かなきゃ。遅刻しちまうぞ」
男の生徒はにこやかに走っていく。爽やかなその絵面が、いかにも学生としての生活を謳歌しているのだと主張しているように見えた。
間違いない。俺がいるこの場所は、あの当時の、高校だ。あのままの、変わらない風景が目の前に広がっているのだ。そして今の出来事は同時に、俺の俺ならざる姿を示していた。当時の自分を振り返ってみろ。こんな校門で気軽に話されるような人間ではなかった。俺はいつだって、物陰に隠れて、怯えながら学園生活を過ごしていた。こんなこと、当時からしてありえないのだ。
俺は今、田口和樹として、違う田口和樹の人生を体感しているのだ。
一歩一歩噛みしめて歩く。不思議なもので、違和感や非現実的な印象が全くもってなかった。足から伝わる振動が、吹き付ける風が、リアルに感じられた。恐ろしいほどに、この空間は現実味を帯びているのだ。
下駄箱に着くと、一人の男が伏せこんでいた。縮こまる背中が妙に説得力に欠けたが、それでも見ずにいられない衝動に駆られ、彼の顔を覗き込んだ。
「ああ、お前」
威勢の良い声が、耳に響く。かつてあれほどまでに俺を、そして弟を苦しめた山井武が、俺の目の前にいた。彼の握る上履きには、べっとりと泥がついていた。
「何だこれ、ふざけやがって。僕がなんでこんな目にあわなきゃいけないんだよ」
荒ぶる声のまま、山井は俺めがけて拳を振りかざす。その瞬時的な動きに俺は目を塞いだ。今までの恐怖が蘇る。腹がえぐれ、プライドをずたずたにされたあの記憶が、脳裏にこべりついた恐怖心を再燃させた。
しかし、いつまでたっても体に痛みはこない。すっと目を開けてみると、泥付きの上履きを持って廊下を歩く山井の姿が見えた。何故か額を抑え、痛みに耐えるようにのろのろと歩いている。何かあったのか……。
俺が見つめた山井の後ろ姿は、なんだか負け犬のように見えて思わず笑いが漏れる。
「ふっ、ふふっ」
この出来事はまさに俺が体験したことだった。屈辱的で、惨めで、自分がなんで生きているのかわからなくなる。それほどまでに生きる意味が体中から抜け落ちていき、痛みだけが残る。あいつは俺の立場に立って、体感しているのだ。
「俺たちを苦しめた分、お前も苦しめばいい」
俺は見えなくなった背中に、そう告げた。
『制度実施者、田口和樹の追体験が開始した。五日間の制度実施の開始だ。田口和樹の精神状態は穏やかではあるが、本人、そして弟の仕打ちへの憎しみは十分にあるようだ。今後の経過を見守っていきたい。以上』
俺、田口和樹と山井武はもともと中学も一緒だった。何となく顔も知っていたし、彼もそうだっただろう。高校進学で同じクラスになって、初めて話すようになった。
山井はとても秀才だった。地道に努力を積み重ね、高校でも学年トップ十には入るほど成績が良かった。俺は彼のその姿勢を、尊敬していた。
だが、学年一斉模擬試験の日に、俺と山井の関係は変わった。模擬試験当日、山井の試験の受験票が紛失したのだ。山井は家に置いて来てもいないし、鞄にも入れていない、絶対に学校の机に入れたはずだと言った。しかしどこからも見つからなく、結局仮受験票という形で山井は受験した。そして試験終了後、ホームルーム前に教室の机に座ると、何故か俺の机の中から山井の受験票が見つかった。山井の席の隣である俺の席から。もちろん、俺が受験票をわざと隠したのではないし、そうする意味もなかった。だがその時の山井の表情は、今まで見たこともないような人間の憎しみのこもったものであった。
その日から、山井の俺へのいじめが始まった。あいつはいつも言っていた。「俺には勉強が全てなんだ。俺の努力を踏みにじろうとするような人間を、俺は許さない」そういつも。
いじめが始まって二週間経って、俺は受験票の真相を知った。放課後に教室を通ると、クラスメイト数人が笑いながら話していたことを偶然耳にした。話によると、勉強ばかりしている山井を良く思ってなかった彼らが、いたずらでやったことだったのだ。俺は教室に乗り込みなんてことをしてくれたと怒鳴りつけた。だが、結局受験できたのに山井のことでなにムキになってるんだ、という反応が返ってきた。彼らは知らないのだ、俺が山井にいじめられていることを。俺はそんな彼らに対して、「俺はその所為でいじめられているんだ」なんて虚しいことは言えなかった。
俺はその事実を山井に告げ、弁明しようとした。だが山井は一切聞く耳を持たなかった。山井の中で俺は絶対的な犯人となっていたのだろう。
山井の自分への存在証明の全てが、勉強だったのだろう。それを台無しにしようとしていた、いやそのように見えた俺のことは、是非問わずに憎しみの対象になっていたのだろう。納得はしていない、がいつしか諦めはついてきた。俺が諦めて苦しみ耐えれば済む話だったのだから。だが、弟は、弟は……。
「じゃあ、今日の授業はここまで。そのままホームルーム始めちまうぞ」
今日最後の授業が終わり、ホームルームの準備が始まる。大人にもなって高校の授業を受けることになるとは、と思ったが、意外にもついていけているのは、やはりこれが仮にも追体験だからということなのだろう。体が少し軽く、昔の体に戻っている感覚が伝わる。
授業中、俺はずっと山井のことを観察していた。怯える様子も、激昂する様子もなく、ただただ状況が呑み込めていないという印象を受けた。やはりあの禁止事項があったように、山井は報復制度の実態を知らないまま今の状況に陥っているということなのだろう。だからこそ、夢か何かのように錯覚しているのかもしれない。
「じゃあなー、さようならー」
いつの間にかホームルームも終わり、先生はそそくさと帰っていった。
その流れで他の生徒たちも続々と帰っていく。その流れに山井もついて行こうとした。しかし、俺はその足を邪魔するかのように手を掴んだ。
「待てよ」
「あ、離せよ」
山井の抵抗する腕を、俺はがっしりと掴んで離さなかった。俺はそのまま校舎の奥の隅の、誰も通らないような倉庫裏に連れていった。
かつて、八年前、俺は同じように連れていかれた。苦しみとやるせなさを俺は抱え、彼にされるがままに俺はサンドバッグに徹していた。彼の気が済むまで、終わらない痛みを感じ続けた。体格も良かった山井の拳は、想像以上に重く、鈍い痛みを与え続けた。
俺は今から同じ痛みを山井に与えるのだ。
「なんだよ、今更復讐か? 夢にまで出てきやがって」
思わず笑みがこぼれだす。やはり、夢だと勘違いしているようだった。この報復の舞台に何も知らずにたたずむ姿が、どうにも滑稽で仕方がない。だが、そんなことは俺にはどうでもよかった。憎しみを、弟の恨みを晴らすチャンス、それだけが脳裏にべっとりとこべりついている。
「お前は、絶対に許さない」
脳裏によみがえるあの日の光景。おびただしく血に溢れたあの部屋が、一気にフラッシュバックする。山井を殴るその刹那、この光景を思い出すということはやはり、この報復は弟の弔いと俺自身が感じているということだ。悲しみに溢れた目で、俺は山井を睨みつける
俺はそのまま拳を握りしめ、思いのままに山井の腹めがけて打ち込んだ。拳が腹の奥にまで食い込み、山井の臓器を揺さぶっているのを俺は腕から感じ取る。
「うっ」
山井の嗚咽がかすかに漏れる。嘔吐にも似たうめき声が耳元で淡く響くと共に、俺は胸のつかえるような思いを感じた。人を殴ることなんて初めてだった。
憎しみの相手のはずなのに、苦しむ様子に目を背けたくなる。再度拳を振りかざすと、拳が痛みに触れ、相手の肉の感触をじわりと感じ取り、苦しみもがく相手の悲鳴が耳元でじれったく響く。こんなものが人の気分を晴らすためになるのかと、疑問だけが浮かんだ。人を殴ることは、自分を痛めつけることとも繋がる。そんな言葉の実感が出来たのは初めてだった。自分の感じ得なかった悲痛さに、思わず足が怯む。
「なんだ、その程度かよ」
嘲笑うように山井は吐き捨てた。
「なんだと」
こいつはいつだってそうだ。自分が一番の被害者と感じているのだろうが、実際はそんなこと微塵も無い。あいつがのうのうと努力とやらに励んでいる中で、俺たちは理不尽な痛みに耐えて、当て場のない苦しみを噛みしめていたんだ。
そう思った時には既に、俺の拳はまた動き始めていた。抑えきれない衝動が拳の動きを速め、一発一発を、憎しみとして山井の腹に打ち込んでいく。あの日々の痛み、あの日々の辛さ、涙が溢れ視界は闇色一色だったそんな過去を、俺は思い出す。目の前の山井はあの時の俺自身だ。そう思えば思うほど、悲しみが込み上げ、それとは矛盾するように腕の動きは加速していく。
「は、はあ……ぐっ」
山井のうめき声が大きくなる。偉そうなセリフを吐いていた口が、弱さと辛さに満ちた声へと変化していく。そうだ、変わっていくんだ人間は。過酷な状況に適応し、辛さを吸収していく。あの時の俺は、今目の前のこいつよりも、何十倍もその感情に満ちていた。
変わり果てた山井の様子に、胸がざわつく。感情が高ぶり、体中が熱くなる。もっと、もっともっと苦しみを与えたいと心が歪んでいくようなその変化に気づき、俺はその拳の動きを止めた。山井は悲痛な表情を浮かべながら、ここぞとばかりに逃げ去っていった。
自分が自分でなくなる、そんな感覚を覚えた。感情が高ぶり、体が、心が、本能が山井を痛めつけろと訴えた。憎しみと復讐心のみで俺は力任せに山井を殴り続けていた。だがその行動は、どう考えても山井自身の行動と一致している。一緒だ。どうしようもなく一緒だったんだ。俺は報復するようになっても、決してあいつみたいにはなりたくないのに。
「まだ殴らなくてよかったんですか」
背後から声が響く。誰かに見られていたのかと驚き振り向くと、斎藤が立っていた。
「何でお前が」
「報復制度の監視員として、私もこの現場に立ち会う義務がありますので」
斎藤もこの追体験に参加するのか……。俺は溜息を吐いて彼を見つめる。そういえばあの場所には俺たちが使っているもの以外にもベッドはあった。それを使って、ということなのだろう。
「私は生徒の一員として、この高校に在籍している、ということになっています。なにかありましたらいつでも」
「そうかよ」
「どうでしょう、初めての報復は」
斎藤の言葉に肩をびくつかせる。斎藤は伺うような表情でこちらを見つめていた。俺はさっきまで山井を殴っていた右手を見つめる。
「手が……こんなに痛むなんて」
「暴力には痛みが伴います。与えられる側だけでなく、与える側にも。たとえどれだけ小さな痛みでも確実に、ね」
「初めて知ったよ」
与える側の痛み、それを初めて感じた。俺が味わうことはなかった、その痛みを。だがそれがなんだというんだ。例えそれがあるにしても、与えられる側と比べてしまえば、些細で、吹き飛びそうなほど軽いものだ。
俺は、この小さな痛みを抱えながら、あいつに痛みを与え続ける。俺たちが与えられたものを。それが俺と、そして弟の、奴への報復なのだから。
『報復制度進行報告。制度実施者田口和樹の最初の報復実施が終了した。彼の与えられた痛みの六割程しか与えられなかったが、その中で与える痛み、それを感じたようである。理性に従った報復を実施する、この報復制度の理念に沿った行動を成し得るであろう。経過を見守っていきたい。以上』
昨日与えた痛み。あれはどれほど俺の与えられた痛みに近かったのだろうか。当時の俺は、胸が張り裂けそうなほど、悲痛な吐き気を覚えるほど、辛かった。その痛みを一体山井はどれほど感じただろう。俺はあいつにそれほどまでの痛みを与えなければならない、俺の、弟の感じた痛みを、あいつに与えたい。
山井の立場として生活してきて二日目となり、あいつがどんな生活を送っていたのか少しわかってきた。
報復制度では、加害者と被害者の立場が入れ替わる以外、ほとんど変化は起きない。俺が山井に成り代わろうと、その周辺の人間関係に変化は起こらないのだ。つまり、俺は山井家の人間として生活していくこととなる。山井の部屋には参考書ばかりが置いてあり、親からの圧力、プレッシャーが大きかった。さらに家では、親からの勉強の強制がされていた。気になり斎藤に聞いたら、報復以外の行動は特に同様のことをしなくても、自動的にその日の状態を再現する。つまり俺が参考書をやらなくても、次の日になれば終わっている、ということだ。朝机にあったノートを見てみると、昨日数ページしか埋まっていなかったものがもう使い切られていた。それほどまでに山井は勉強に支配されていたのだ。
「あいつも、追いつめられていたのか」
ふとそんな風に思った。勉強に追い詰められていたから、あの受験票の出来事でさえあれほどまでの恨みにつながったのだ。あいつにも抱えているもの、苦しみがあったということを、目の当たりにしたように思えた。
しかし、それがなんだというのだろうか。俺はなにもしていない。なにもしていなかったのだ。俺はあいつの受験票を奪ったりしていないし、それを主張もした。それなのに、その言葉の是非も問わずにあいつは俺を標的にした。俺は八つ当たりの標的にされていたんだ。
学校に着くと俺は教室に真っ先に向かった。自然と体が動き出していく。
この追体験では、次になにをすべきかが直感的にわかる仕組みになっている。山井の脳内スキャンした記憶が、俺の脳に信号として発信されているのだろうか。仕組みははっきりしないが、とにかく俺は山井の行動そのもの通りに動くようになっている。
「こんな朝早くに起きてこんなことをしていたとはな……」
俺の目の前は、山井の、いや正確に言えば俺の席だった場所だった。俺は机の中を探り、中から教科書やノートを取り出す。その中から、ノートを取り出し、破りだした。
確かこの時期、ノートが何冊も無くなっていたことを覚えている。察しはついていたが、やはり山井の仕業だったということか。きっと山井の努力の塊ともいえるノートが、俺にとっても同等の価値があるものとしてこの行為が行われていたのだろう。
びりびりと破るその感覚に、俺はなにも感じ得なかった。ただ虚しいだけの感情が、冷たく流れ落ちていく。
俺は破り終えたノートを持って教室を抜け出し、そのまま向かった校舎裏にそれらを捨てた。そこには他にもノートがあり、それらも俺のものだった。
「こんなところに捨ててたのか」
こんな風に、山井は俺のノートを破り捨てていたとは。無くなったノートが一体どこに捨てられたのか結局高校時代に知ることは結局なかったが、まさか校舎裏に捨てられていたとは、当時の俺は考えもしなかった。
こんな風に、俺の知らない間に成されていたことが、他にもあるのだろうか……。
俺は教室に戻ると、そのまま机に戻り、教科書を戻し始める。その時に、机の中から何かがこぼれ落ちた。
「これは」
落ちたのは当時俺が使っていた手帳だった。俺はそれを拾い上げ、そして中身を探り始める。そしてその中から、一枚の写真を取り出した。
「この写真……」
俺と……弟。二人が写っている写真だ。ということは奴は、山井はこの時俺の写真を見ていたということなのか。俺の手が僅かに震え出す。俺の記憶では、山井が弟の存在を知ったのは、弟がいじめられていた、その現場に立ち会った時のはずだった。なのに……。
「あいつは、弟のことを知っていたのか」
「どうしたんですか。何か不具合でも」
突然呼び止めた俺に、斎藤は不思議そうに問いかけた。
「この報復制度について聞きたいことがある」
「というと」
「この制度で、山井がやったこと全てを、俺は体験することが出来る。そうだよな」
「ええ、もちろん報復が目的のことなので、それ以外のことは任意となりますが、基本的に全てのことは体験できます」
斎藤の言葉に、俺は続けてなげかける。
「俺の知っている限りのいじめ以外で、本能的に体が動くことがある。それも山井がやっていたいじめの一部ということか」
「報復となりえるかなりえないか。それは加害者の精神パラメーターから判断されています。つまり、山井がいじめという認識の下での行動したこと、その中であなたの報復に必要と思われる内容は全て、あなたが体験できるようにプログラムされています」
「そうか」
俺の知らない中で、知りえない中での行動で本能的に体が動いた時、それは俺が知らぬうちになされていた奴のいじめだと言えるわけだ。
「どうかなさいましたか」
「いや、なんでも。ありがとう」
山井は、一体どこまでのことをしていたのだろうか。どこまでが、奴の仕業だったのだろうか。
『報復制度進行報告。制度実施者が質問をしてきた。きっと彼は少しずつ事の真相に迫ってくるのだろう。その中で理性を保ち、行動できることを、信じたいと思う。以上』
「なんだよ、お前。あの時の復讐か」
「なんのことだ」
俺は山井の脇腹めがけて一発与える。声を出して悲痛の表情を浮かべる山井に対して、俺はさらに拳を打ち込み続ける。当時の苦しみが喉元から溢れ出しそうになるのを、俺は懸命に飲み込み、過去の痛みを憎しみに変えていった。
「お前のことは、許さない」
溢れ出す思いが口からこぼれる。そうだ。これは俺だけのことではない。弟の死。そのためにも俺は義務としてこの拳を与え続ける。これは本能的な暴力ではない。理性的な制裁だ。
「ぐっ。僕がこんなこと付き合わされるなんて。僕がこんなに殴られて、弟に同情される? ふざけやがって」
山井が独り言みたいにぼやく。弟に同情される……山井も俺同様に、入れ替わった側の家族に会っているということか。あいつは、俺の弟と話したということか……。
思い返せばあいつは、俺がいじめを受けていることを察してくれていた。そしていつも労わってくれた。悲しそうな目で。俺はあいつを困らせてしまっていたんだ。直接的にいじめられる前から、弟は負担を追っていたのかもしれない。優しすぎるんだ。あいつは。
そしてそんな優しかったあいつを、俺は守ってやることが出来なかった。
「うるさいっ」
俺は勢いよく山井を殴りつける。弟のことを思いあふれ出る涙を、まるでごまかすように。
弟のことを思い殴ると、俺はあいつへの罪滅ぼしをできているようで、一層その動きを速めた。報復が、この報復が俺にチャンスを与えてくれている。どうしようもない弟への罪悪感を、無念を、少しでも消してくれるチャンスを。
「お前は、お前だけは」
俺は殴り続ける。蓋を押しのけ溢れ出した湯のように、一度火のついた感情をためらいなく拳に込める。悲しみも、やるせなさも、今は全て怒りと憎しみに変わっていた。
「ふっ。もっと殴れよ。ほら」
馬鹿にするような目で、山井は俺を見つめている。その表情、言葉、全てが許せない。やつはなに一つ反省していない。きっと、弟の死なんて、知らないし、どうとも思わないのだろう。お前みたいなやつに優しく接してくれた、弟であるというのに。ふざけやがって。
「口を閉じろ」
俺は山井の口元めがけて思い切り拳を打ち込もうとした。だが……。
「ぐっ、うっ」
突然、脳内に激痛が走る。電気が巡るようにして、頭の中で何かが暴れ出す。その痛みの強さに、俺は膝を崩した。その様子を見て、山井はチャンスとばかりに逃げ出した。
「まっ、まて……」
追いかけようとしても、痛みが邪魔して動き出せず、そのまま山井は俺の視界から姿を消した。
「くそっ」
「やりすぎ、ですよ」
横から咎めるような声が響く。斎藤が近づいてきて、俺をゆっくりと立ち上がらせた。
「加害者は腹部しか暴行を与えていません。顔への暴行は、過剰行為ですよ」
言葉は返さず睨みつけた。そんなことで止められてしまうのか、と俺は舌打ちをする。山井が顔を殴らなかったことは確かではあるが。
「当時以上の報復は禁止、か。もしかして、あの痛みもそのためか」
「ええ。過剰行為の確認時には、行動抑制のための措置が施される仕組みになっています。同様に加害者が報復に抵抗しようとした際にも同様の措置が施されるようになっています。報復制度の平等化のための措置です」
「俺も、山井も、ってわけか」
俺がやりすぎたことをした時と同様に、山井が報復に抗おうとした時もあの電流が流れるということか。そう思えば、最初に山井が俺を殴ろうとした時、あいつは頭を押さえていた。あれはこの電流の所為だったわけか。
思わず口元が緩んだ。笑わせてくれる。この制度の中では、こいつは俺の側でも、山井の側でもないらしい。警察らしい、中立の立場というわけか。
「俺も、管理されているわけか」
「監視、ですよ。制度の完璧な実現のための」
「そういうことに、しておくよ」
俺は皮肉を込めて言った。斎藤はそっと頷いて、その場を去った。
俺も、何かを試されているように感じられたような、気がした。
『報復制度進行報告。今日の報復の中で、初めて制度中の過剰行為が認められたため、抑制措置を施した。行動を見る限り、弟のことが引き金になったのだろう。暴力行為も脳内記憶での当時の暴行量ギリギリの行為だった。制度実施者の行動が、これ以上悪化すると、通例のようになりかねない。注意して経過を見守る。以上』
弟は、心配性だった。俺の方が年上、兄なのに、いつも俺のことを心配していた。俺がテストで良くない結果だったとき、友人と喧嘩したとき、先生に怒られたとき。どんな時でも、あいつは優しかった。
俺がいじめられていた時でも、弟は心配してくれた。いつものように、心配性な顔を浮かべながら、どっちが兄かわからなくなるほど、敏感に察知した。大丈夫、と聞いてきて、大丈夫、と答えた。最初の頃はそれで済んだけれど、段々エスカレートするにつれて、弟は徐々にそのいじめの事実に気づき始めた。
俺が耐え切れなくなって思いを吐露したとき、弟は、優しく抱きしめてくれた。そっと、包み込むようにして。あいつはそのまま、大丈夫だよ、と言ってくれた。その言葉に、俺はどれほど癒されただろう。その数か月後に、俺と同じ目に遭うなんて。そんな目に遭うような人間ではなかった。俺は、そのことが、自分の与えられた行為以上に、辛かった。苦しかった。
「なんだよ。またかよ……もういいだろ」
疲れ切った表情で、山井は言った。体育館近くのトイレは、人通りが少ないせいで誰もいなく、お昼のこの時間帯には訪れる者はいなかった。
山井の行為は、いつも人の目をかいくぐって行われていた。クラスメイトにも、教師にも、誰にも気づかれぬように。だから机に酷い落書きがされたり、血や跡が残る様なことは、あまり行われなかった。だから俺が誰かに訴えようにも、誰も信用しなかったし、何も知らない奴らは、田口は最近疲れているな、くらいにしか思っていなかっただろう。だが、この日は、その範疇ではなかった。
「ほら、その中入れよ」
俺は勢いよく頭を掴み、個室トイレに投げ入れた。そしてそこの便器の中に、頭を投げ入れる。
山井はもがくような声をあげながら、涙目になっていた。今まで殴ったりノートを破ったり、そんなことばかりだった。それがこの日から、徐々にエスカレートしていった。
「こんなことで、俺が八つ当たりされていたなんてな」
その理由は、昨日の夜理解した。昨日斎藤と話した後に、家に帰ると、親、正確には山井の親に話があると呼び出された。これも別に体験する必要もなかったが、どうして呼び出されたのかが気になってそのまま親の元に行った。
結果的に、親は成績のことで叱ってきた。あの日、受験票の事件以来、徐々にだが成績が悪くなっているということだった。見てみたが、ほんの少し、ほぼ横ばいと言ってもいいくらいだったが、この家ではそれすら許されないのだろう。
山井の親は、山井の姉を引き合いに出してとにかく勉強しろと言っていた。山井の姉は県外の国立大学に進学したらしく、だいぶ離れた県だが国立の中ではかなりの有名大学らしい。彼に姉がいることは知らなかったが、県外で一人暮らししているなら仕方がない。
きっとこの日からいじめがエスカレートしていったのは、きっと成績が下がった原因を俺に押し付けられたこと、姉と比べられたプレッシャーからだろう。こんなことに時間を割いているからだ、と思って仕方がなかった。
「お前のストレス発散に付き合わされるなんて、ふざけやがって」
「は、何言ってんだよ。俺はなんもしてない。お前のやっていることの方が、ストレス発散じゃないか」
お前と同じことをやってるんだ、そう言いたい思いを堪え、腹に一撃を食らわせる。さすがに、そんなことを言ってしまったら、違反行為になりかねない。
俺はそのまま、山井を壁にたたきつけた。小さく呻く山井に、またな、と言って俺は立ち去った。
「加害者が制度実施に気づくような言葉は、控えてくださいね」
トイレを出ると、斎藤が声をかけてきた。
「わかってる。気を付けるよ」
「制度実施に不具合が生じるような加害者の反応を確認したら、強制終了しなくてはなりませんから」
「そんなこと聞いてないぞ」
俺の追及に、斎藤は、すみません、と形式的に謝った。
「そういえば、あいつには、なんて説明をつけているんだ」
ふと、疑問に感じた。この制度に関して山井は知らされていないようだが、一体どういう口実をつけて山井を連れてきて、この制度を受けさせているのだろう、と。
「それは、機密事項です」
「またそれか」
斎藤は小さく頭を下げる。
「少なくとも、この制度の内容は、加害者本人は認知していない上で、この追体験をしていただいております。その方が制度実施が有効的ですから。まあどうやって連行してきて受けさせているのかは……ご想像にお任せします」
斎藤はそのまま立ち去った。
一体山井がどうやってこの場に立たされているのか、強制的に連行されたのか、別の理由をつけて受けさせているのか、それは彼の言う通り想像するしかなかった。
ホームルームが終わると、俺はそのまま教室を出て、真っ直ぐ廊下を歩いた。ノートを破り捨てたとき、あの時のように、俺の知りえない行動が始まっていた。確かにこの日、俺は放課後山井に呼び出されて、なにかをされることはなかった。それはこの行動があったからだろう。
一体、何をするのだろう。
その疑問を抱いたまま足を進めていくと、下級生の教室に着いた。二年三組。
「なんで……ここに……」
俺は知っている。この教室、ここは弟のクラスの教室だ。まさかと驚きながら扉を開けると、俺は自然と弟を呼び出した。
「あの……なにか御用でしょうか……」
久しぶりに聞く彼の、優しく透き通ったその声。つい数日前に失ってしまった命が、例えまやかしだとしても目の前にいる。手を掴める。話が出来る。それだけで、自然と涙が出た。
「えっと、どうしたんですか」
優しく心配する声、やはり彼は優しい。
「ちょっと来てくれ」
俺の知らなかったことが、今起こっている。山井武の記憶を追体験している俺と、現実での俺の弟が、今校舎裏で向かい合っている。来てくれと、俺は言った。八年前、山井も同じように弟を呼び出したということだ。
一体今から、何が起こるのだろう。
「俺は、お前の兄をいじめている」
俺はその言葉を口にしながら、内心驚きを隠せなかった。もちろんこんな言葉自分から発してはいなかった。山井のいじめという認識での行動として、俺の報復のパーツとしての言動なのだ。これも、奴の俺へのいじめの一つなのか。
「なんで……なんでそんなことを……なんで兄ちゃんをいじめるんですか」
恨むような顔を向けながら、彼は俺に問いかけた。俺のことを本当に思ってくれていたのだと嬉しかった。そしてそのことをこんな形で改めて実感することが、ことさらに悲しかった。
「あいつはな、俺の努力を台無しにしようとしたんだよ。だから、俺はあいつを苦しませてやる。もっと、もっともっと」
怒りに任せながら、言葉が漏れる。山井の発した言葉である一方、俺が今感じている言葉でもあるのだ。
「だから、俺は君にも苦しんでもらいたいんだ。弟思いのあいつが一番苦しむのは、弟である君が苦しむことだろうからね」
「えっ」
彼の驚く顔をめがけて、俺は容赦のない一発を食らわせた。唇が切れ、頬を抑えて崩れ落ちた弟は、何が起こったかわからないというような表情を浮かべていた。そしてその目の前で、俺も驚きの表情でその光景を眺めていた。
考えもしなかった。弟のいじめも、山井が手をまわしたものだったのか。あいつが弟の存在を知っていることさえ、知らなかったし、あの時の俺は身も心もボロボロだった。そんな風に結びつける余裕など、あの時にはなかった。
「やめ……て……お願いします……」
弟が辛そうに頬を抑えながら訴える。俺はそんな彼の制服を強引に引っ張って、無理やり立たせた。
「嫌だね」
俺はそのまま彼をもう一度殴りつけようとした。
「やめろ」
びくっと、弟が驚く。俺は手の動きを止めて、自分の動きを強引に止めた。
こんなこと、俺の復讐には関係ないだろ。俺の復讐は、俺と、弟を苦しめた山井への報復だ。こんなことは、俺が望むことじゃない。俺はこれ以上、弟のことを苦しめたくなんて、ないんだ。
「早く……逃げろ……」
俺は必死に耐えながら、弟に言った。彼は何が起こっているかわからない表情を浮かべながら、走っていった。
「はあ、はあ、はあ」
俺は一度でも、弟を殴ったことはあっただろうか。いや、そんなこと一度もなかった。誰よりも優しくて、穏やかで、自慢の弟だった。そんな彼を殴る必要も、そう思うこともなかった。なのに、俺は……。
「困りますよ。勝手に行動を抑制するのは」
陰から見ていたのだろう斎藤が、そっと後ろから声をかける。悲しみと入れ替わるように怒りに満ち、俺は彼の襟元を掴みかかり睨みつけた。
「弟は、俺の報復に関係ないはずだ」
「いや、山井武のあなたへの恨みとして行われた行動、その範疇に含まれています。これも報復の重要な要素の一つです」
「そんな言葉で、納得すると思っているのか」
俺の言葉を、表情を読み取って、斎藤は溜息をつく。
「……わかりました。今後あなたの弟が絡む出来事数件に関しては、代替映像を上書きするように取り合ってみましょう。こんなこと前代未聞ですがね」
「おい待て、弟が絡む出来事数件って……一つだけじゃないのか」
俺が記憶にあるのは、山井が弟の存在を初めて知った、そう思っていた日。山井が弟のことを目にして驚いている俺に気づいて、弟のいじめに加担した時だけだ。
「あなたの目の前では一度だけかもしれませんが、山井武は今回のことを含めて数回、あなたの弟に暴行をしています」
驚く俺を余所目に、では失礼、と言って斎藤は去っていった。
俺の知らないうちに、山井は弟にも手を出していたということか。弟は、関係ないのに。巻き込まれる理由なんて、全くないのに……。
「絶対に、許さない」
俺は怒りに任せて壁を殴りつける。先程まで感じていた弟への罪悪感はとうに消え、怒り一色に感情は染まっていた。そしてそれと共に、殴りつけたその瞬間、すっと何かが満たされたような気がした。
『報復制度進行報告。制度実施者は自分の知りえない状況下で弟が暴行を加えられていたという事実に、驚愕と怒りの感情を抑えきれなかった様子であった。そんなことからも、彼の報復が彼自身の為だけでなく弟のためでもあるということがうかがえた。そのため、弟の映像データを制度実施者の報復時のみ別映像に上書きしてほしいということも付け加えておく。彼の報復の内容が弟も含まれるからには、この状況はいささか手厳しいものだ。なにはともあれ、今後の経過も見守っていきたい。以上』
俺は家に帰ると、真っ先に携帯を掴み取った。この報復制度の中で携帯なんて必要ないと思っていたが、弟のことを知った今、なんとしてもなにか情報が欲しかった。
携帯を開き、真っ先にメールフォルダを開いた。最新のメールは今から五分前に発信されているものだった。
「お前に頼みがある。このメールに添付した写真の男を、お前たちにいじめてほしい。報酬もやろう」
添付されている写真データは、弟の写真だった。さらにメールには弟の名前やクラスなども記されていた。いつの間に調べていたんだ……。
その時、そのメールに対しての返信が来た。メールを開くと、二つ返事で了承していた。
このやり取りで、俺は確信した。弟のいじめも、山井が手をまわしたものだったのだ。俺だけでなく弟にまで、山井は手をまわしていた。弟が死んだ原因のあのいじめも、山井の行ったことだったということだ。
山井が、弟を殺した。
その事実を知った途端、猛烈な殺意が湧いた。こんなにも人を殺してやりたいと思ったことは、なかった。やり場のない怒りが沸き上がり、壁を殴りつける。ふざけるなふざけるなふざけるな。壁のひんやりした感覚から、じりじりと温かみを帯びて、手が摩擦で擦り剥け真っ赤な血がこぼれ落ちる。そこでやっと我に返り、俺は冷静になって携帯をまた調べ出す。他にも写真を撮っているのではないか。中身を調べ上げると、最近のデータはほとんどが弟のものだった。
「ふざけやがって。山井の奴……」
あいつは、執念深く弟にも固執していた。そのことが許せなかった。あいつにも姉がいるというのにこんなことをしていたということにも、収まりようのない怒りを覚えていた。もっと前の写真にも、弟のものはあるのか、気になって俺は過去の写真を探した。だが弟の写真は、全くなかった。恐らく手帳の写真を見たあの日から、調べ上げていたのだろう。
「この人は、彼女か」
弟の写真がない代わりに、中には同じ女性と写っている山井の写真がいくつもあった。仲睦まじく写っていて、二人とも楽しそうな表情をしている。他にもその女性だけの写真も何枚もあり、山井の大切な人であることは十分わかった。
「やっぱり彼女か、それとも……」
もっと前の写真を見ようと操作を続けようとした時、携帯が鳴りだした。番号は非通知だった。
「もしもし」
電話に出ると、同じように繰り返す声が響いた。聞きなれたその声は、斎藤のものだった。
「上からの認可が下りました。今後あなたの弟に関する出来事に関しては、違う人物の映像を上書きします。それでは」
必要事項だけを斎藤は告げて、すぐ電話を切った。お役所仕事らしい、淡々としたやり取りだった。
俺はそのまま携帯を放り投げた。
『報復制度進行報告。まず、前回の申し出に対して肯定的な返事をいただけたことを、感謝する。ただいま、そのことを制度実施者にも通達した。反応はそっけなく、空返事が返ってきた。弟のことで衝撃が大きかったのだろうか。とにかく、今後も経過を観察することにする。以上』
いつものように校舎裏に腹を打ち付ける鈍い音が僅かに響く。
昼休みになり、俺は山井を校舎裏に呼び出した。昨日のメール、弟の何枚もの写真。結局山井は最初から弟を苦しめる気でいたのだ。今まで抱いていた弟への罪悪感、責任感で弱っていた心は、もう怒りで振り切れていた。
山井は殴るたびにうめき声をあげて、苦しそうにもがいた。その姿に、俺はすっとしてまたさらに殴りだす。もはや暴力への罪の意識や重みなどはとうに感じてはいなかった。
今日は今でも覚えている、あの日の出来事だ。俺が一番恨みを抱いた、山井が弟を殴ったあの日だ。今朝メールを確認してみると、いじめを依頼した相手とのやり取りがあり、ここに奴らも弟を呼び出すということだった。
今まで偶然と思っていたこの出来事も、山井によって仕組まれていたことだった。その事実がさらに俺の怒りを逆なでして、怖いほどに怒りが溜まっていた。だからなおさらに歯止めは聞かなくなっていた。
「お前だけは、許さない、お前だけは、絶対に」
山井を殴りつけるたびに、弟への償いができている気がした。何もできず救うことが出来なかった彼に対し、黒幕だった山井を殴りつけることで罪滅ぼしのようなことが出来ているような気がしたのだ。そしてそれと同等かそれ以上に、自分の怒りが発散できているようで、手の動きが止まらなかった。
「やめて……」
その中で、遠くから声が聞こえた。辛そうで、弱弱しい叫び声で、校舎外の車の走行音でかき消されてしまうほどの小さな声だった。だがその声は、聞いたことのない女性の声だった。きっと上書きの影響だろう。しかしなんで女性なのか……。
「なんで、待てよ、どうしてだよ」
今までうなだれていた山井が、必死の形相で俺の手を引きはがして、声の方向へと走っていった。訳が分からないまま、俺はその後を追う。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
山井が走った先には、昔の記憶通り弟をいじめていた下級生たちと、掴みかかられ何度も殴られる女性がいた。
俺はその女性に見覚えがあった。長い髪に少し大人っぽい印象の。彼女は、山井の携帯に何枚も保存されていた、あの女性そのものだった。あの写真は、奴の姉のものだったのだ。山井に対する報復。そのためにこの制度にかかわる人間は、弟の映像に上書き画像を、山井の姉としたのということか。
「やめろ、姉ちゃんだけは。やめろ……」
今まで聞いたことのない、山井の弱った声。奴は姉のことがそれほどまでに大切で、傷つけられたくない人間なのだ。俺にとっての、弟のように。
奴も感じるんだ、自分の大切で、かけがえない存在が、壊されていく辛さを、悲しさを、やるせなさを、そして絶望を。俺が弟を失った時のように、あいつも……あいつも……。
目頭から熱いものが込み上げる、視界がぼやけていく。悲しみに似た思いと混ざるように、奴への報復をやっと成せることに笑いが込み上げる。その声がひときわ大きく響いた。隣で跪く山井が、その光景に恐怖する。
「お前がしてきたみたい……お前の大事なものを、ぼろぼろにしてやるよ」
その言葉に、山井は必死になって俺にしがみついたが、頭を蹴りつけ、強引に引き剥がした。そして目の前の山井の姉に近づいて、無理やり立ち上がらせた。
「助けて……ください」
掠れて消えそうな彼女の声が切なく響く。
「やめろ。お前の標的は俺だけだろ。姉ちゃんは関係ないだろ。姉ちゃんは……姉ちゃんだけはやめてくれ」
必死で俺を止めようと、山井は叫び出した。その言葉、俺も何度となく叫んだ。あの日この場所で、弟だけはやめてくれ、と。しかしその言葉に、山井は聞き入りもせず、その手を止めはしなかった。俺の嘆く言葉に耳も傾けず、奴は弟をぼろぼろにしたんだ。
俺も、同じように、山井の心を、ぼろぼろにしてやる。
「ふざけるな」
俺は一言吐き捨て、目の前の女を殴った。苦しそうにするその女は、山井にとって大切な、あいつの姉なのだ。その事実、そして泣き叫ぶ山井の声に、俺は興奮を抑えきれず、力が入ってくる。
そうだ、俺が感じたみたいに、俺が苦しんだみたいに。大切な人が目の前で傷つけられる思いを、味わうんだ。
何度も、何度も殴りつけ、みるみると衰弱していく女の姿が、目に焼き付く。そして山井の叫び声が俺の脳を刺激し、殴れ、殴れと命令する。拳の力が一層強まり、怒りがすっと消えてはまた再熱し、消えては現れを繰り返すにつれて、その怒りの質量を一層大きくしていく。
俺は今、最高の復讐を成し得ている。
それが、嬉しくてならなかった。今までで最大の、最高の幸福だった。
お前のための復讐を、俺は今やっとできたよ。心に溢れる彼への言葉が、笑いながら復讐を成す俺の目に、涙を流させた。
「殺してやる。弟が自殺したみたいに。俺もこの女を、殺してやる」
怒りが最大量に達して溢れた途端、その怒りはむき出しの殺意に変貌して、俺を怪物へと変えた。
「やめろ――――――」
山井の叫び声が大きく響き渡る。その瞬間目の前の女の意識が薄れていき、耳元に機械音が響き、脳が痺れだす。
『違反行為確認のため、システムを強制終了します』
それと同時に、俺の意識はそっと薄れていった。
意識が戻り目を覚ますと、目の前はコンクリートの灰色の風景が広がっていた。システムの強制終了、それと共に俺は現実に引き戻されたのだろう。
「うっ……どこだよここ……」
すぐ近くから、弱った声が聞こえる。見てみると、そこには起き上がって頭を抱えている山井の姿があった。
「田口……お前なんで……」
山井が俺に気づくと、胸を抑えて荒い息を響かせた。弱弱しいその姿。この報復制度を経験して、俺への恐怖心が身に刻まれたのだろう。
「俺への、復讐か……」
「……そうだよ」
報復制度のことは告げず、それだけ言った。
「なんでこんなことされなきゃならない」
「ふざけるな、やってもないことを人の所為にして俺を傷つけて、弟を殺しておいて、よくそんなことが言えるな」
俺の言葉に、山井は、死んだだと、と呟いた。
「ああ、死んだよ。お前がさせた弟へのいじめの所為で、弟は死んだんだ」
俺は怒りを堪えてそう言った。今にも殺してやりたいその衝動を、必死に抑えて。
俺の言葉に表情を曇らせて、山井はベッドから立ち上がり、扉へと向かった。
「どうせなら、お前も死んでくれればよかったのに……」
衰弱しきった山井の一言が、響き渡るように聞こえた。
山井は弟の死を聞いて、反省も、後悔も、感じていないのだ。奴は自分のしたことに対し、最後までなんとも思っていないのだ。
報復制度の結果が、このざまだ。
「ふざけるな……」
その事実が、溜まり切った俺の怒りを爆発させ、抑えきっていた体を促した。怒りが、憎しみが、俺に山井を殺せと訴えているように思えた。俺はなまり切った体を必死に走らせて、山井に掴みかかり、顔面めがけ拳を強く振りかざした。
その瞬間、山井はもろくも崩れ去り、地面にうなだれた。俺はそんな山井に強引にのしかかり、何度も、何度も殴りつけた。
「やめて……やめて……くれ……」
微かな声で訴える山井の言葉など気にも留めず、何度も、何度も、力を込めて、殴り続けた。何度も、何度も何度も。
「殺してやるよ。お前のこと、殺してやるよ」
報復制度は俺にとってなんだったんだ。山井に恐怖も植え付けられず、罪悪感も与えられず……結局なにも変わらなかったのだ。回り道にすらならない、ただの無駄な時間。俺はこいつを殺すべきだったんだ。弟が血を流したあの日、その決意をすべきだったんだ。
なにが報復制度だ、失った命は戻らない、与えられた痛みは癒えない、結局こんな制度になにも見いだせやしない。
だから、俺はこいつを殺すよ、お前が死んでしまった報復に。
「何やっているんだ」
騒ぎに気づいた、恐らく斎藤が、俺を止めに来た。俺の腕を止めるべく、強く体を抑え込んだ。だがそれすらも引きはがし、気にも留めずに殴り続けた。この本能的衝動は、誰にも止められない。
俺のために、弟のために、俺たちのために、俺はこいつを……。
その時、背後から強い電流が走り、体が硬直する。後ろを振り向くと、スタンガンを手にした斎藤の姿が目に映った。
意識が虚ろになり、そのまま前のめりに倒れ込む。体が重くなり、どんどん視界がぼやけてくるその刹那、山井の真っ白な顔が見えた。
「くそっ、またか……」
目の前に倒れ込んでいる二人を目にして、私は溜息を吐く。この報復制度を担当し今回で六回目の制度実施だったが、この状況を見る限り、間違いなく失敗であろう。
「加害者山井武は……死亡か」
制度実施者の田口和樹の暴行を受け、また追体験による体の不調もあっただろう、山井武は顔面蒼白の姿で倒れていた。
「これで……死亡案件は四回目か……」
この報復制度は、未だかつて一回も成功に終わったことがない。今回も含めて四回は加害者の死亡事件が起こり、二回は未遂にまで至った。この制度実施においてこれほどまでに被害者の衝動を高ぶらせる結果が起こっているのに、上の面々は頑なにこの制度の重要性を示唆し、続行を命じてくるのだ。
「こんな何回も続けて失敗に終わるとはな……」
俺は山井武の死体のそばで転がっている田口和樹の手首を拘束し、目隠しを付けた。この制度実施者の対処にも慣れてしまっているのが、どうにもやりきれなかった。
俺はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、番号を打ち付ける。
「もしもし、斎藤です……はい。今回の報復制度は制度実施者の過剰行為による強制終了、並びに加害者殺害で終了しました……ええ。つきましては制度実施者搬送の準備を願います……ええ、今回も殺処分でしょう」
電話を切り、私はまた深く溜息を吐いた。またしても今回の報復制度は失敗。これほどまでに悩ましいことはない。
次はどうするか……そう頭を抱えていると、内ポケットから着信音が鳴りだした。
「はい、斎藤です……課長ですか。ええ、今回も失敗に終わりましたが……ええ、殺処分が妥当でしょう、これまで通りに……課長それは本気ですか……加害者側の新たな試みとして……まさか上からの命令ですか……わかりました。その方向で進めます。では」
電話を切り、私は足元に転がる田口和樹を眺めた。
「田口和樹……もう一度報復制度の対象者になるとは……」
上からの命令はこうだった。
『山井武の姉を制度実施者、田口和樹を加害者として再度報復制度を実施せよ』