てふてふ2
己を蝶だというこの男。
命を助けられた礼に、恩返しに来たのだと言う。
そんな馬鹿な。……って感じの話なんだけど、その男の背にある羽は本物で。
「クロアゲ、羽は外で広げてくんない?」
「外の人間に見られたらどうすんだ」
部屋の中でしまっていた羽を出し、大きく伸びをする。
確かに、元々出っぱなしの羽を無理に(かどうかはしらないが、)しまっているのだから、たまには出して伸びくらいしたいだろう。
だけど蝶の羽ってのは、鱗紛がついているもんで。
「鱗紛がつくと、掃除が大変なんだよ」
「俺がするから、文句ねえだろ」
そりゃ、散らかした人が片付けるってのは、私としても尤もだと思うから文句は無い。
しかし、しかしだ。
「いいよ。クロアゲ、掃除下手だもん」
私の言葉にムッとするクロアゲだが、実際その通りなのだ。
掃除だけじゃない。元は蝶のクロアゲは、人間がする家事なんてやった事は無い。
「ご飯を作る」と言えば、どこから集めてきたのか花の蜜が並べられ、「洗濯をする」と言えば、ビッチョビチョに水に浸された洗濯物と周りの物。
「買い物に行く」と言えば、やはり蜂蜜しか買ってこず、「掃除をする」と言えば、部屋の中の物全部捨てようとして、部屋中を水で丸洗いしようとしたのだ。
そして、蝶と言えば聞こえはいいが、虫に分類するクロアゲは、力が弱い。見た目通りの力を持っている訳ではなく、私ですら持てる物を持つ事にも苦労するし、すぐにスタミナが切れる。
恩返しはいいのだが、本当にこの人は何しに来たんだ。と、言いたくなる。
◇◇◇◇
花の蜜は、微量なら舐めてもおいしいが、飲むほどの量となると、喉がカーッとなる。それに、酷ければ胸やけも起こる。
だから、クロアゲの用意した花の蜜を口にしたのは最初の一回だけで、後は何度も断っている。
「こんなに美味えのに……」
花の蜜を飲むクロアゲを見ているだけで、もう胸やけが起こった気がする。
「じゃ、私仕事だから」
お願いだから、何もしないで。
ムスッとしているクロアゲは、それでも小さく頷いてくれた。
◇◇◇◇
男の人に絡まれるなんて、生まれて初めての経験……なんて、言ってる場合じゃない。
夜の繁華街を歩いていれば、1人2人はいる酔っ払い。酔いで視界が定まらないのか、それとも思考能力、判断能力が低下しているのか、酔っ払いたちは私に絡んできた。
「よぉー、姉ちゃん、一緒に飲まねえかー?」……って。
面倒くさい人種に絡まれたもんだ。何度断っても、「いいじゃん。」と、しつこい。
「おい、お前ら何やってんだ。」
聞き覚えのある声に振り返れば、そこにはクロアゲが。怒っているのか、顔は怖い。
酔っ払いたちは自分たちの愉しい気分を邪魔するクロアゲにむかっ腹を立てたのか、殴りかかった。
相手は酔っ払いで、千鳥足に狙いの定まらないパンチ。ヒョイ。と、避けるだろうと思っていた私と周囲の人間。だけど、酔っ払いの拳は外れることなく、また避けられる事もなくクロアゲの頬にヒットした。
「ぐッ」
その一発で、伸びてしまったクロアゲ。
「見かけ倒しかよ。」なんて、状況を見ていただけの周囲の人間は笑い、酔っ払いたちは私の事もクロアゲの事も頭から抜けてしまったのか、フラフラとどこかに行ってしまった。
「く、クロアゲ?」
そりゃ、蝶なんだから喧嘩なんてしたことないよな。
クロアゲの傍に駆け寄り、膝をつく。赤くなってしまった頬が痛々しい。意識を失った大きな男を担ぐってのは、そりゃあ大変な事で。歩いてすぐの公園までだって、かなりの距離に感じられた。
◇◇◇
「ぅ……」
「クロアゲ、大丈夫か?」
ベンチに寝かせ、近くの水飲み場でハンカチを濡らして頬に当ててやる。
「……ここは?」
「公園」
「……そうか」
寝転んだままのクロアゲは、眉を寄せて宙を睨んでいる。
「また、役に立てなかったか」
「……ところで、クロアゲは何であそこにいたの?」
無理やりだが、話題を少し変えてみた。少しの間黙っていたクロアゲだったが、やがてゆっくりと口を開いて話し出す。
「……何か、役立てる事はねえか。なんて考えてたら、自然にお前の所に行ってた。」
クロアゲ曰く、自分の鱗紛がついている私の場所を特定するのは、容易な事らしい。何だか、犬のマーキングみたい。なんて思ったのは、自分の心の中だけに留めておいた。
「恩返しに来たのに、お前には迷惑を掛けてばっかりだ」
「別に、いいけど」
それでも、する方とされる方の感じ方の違いなのか、自分を責めるクロアゲに、何て言ったらいいのか分からない。
「……あのさ、別に助けたからって、何かして欲しい訳じゃないし。ていうか、見返り目的で助けた訳じゃないし」
あれは、自分の気まぐれだ。それなのに、ここまで気を病まれると逆にこっちが悩んでしまう。
「俺が恩を返してえと感じたから、お前の所に来た。押しつけがましいのは、理解している。だが、何かしてえんだ」
命の短い虫の自分だからこそ、その救ってもらった命で、何かしたい。その一心で、人間の姿を手に入れたのだ。
「火はちっと怖えが、飯も作れるようになる。洗濯も、掃除も上手くなる……」
別に、クロアゲに家事をやらせたくて助けた訳じゃない。
「お前を守れるぐらい、強くなる」
「~~……だから、」
◇◇◇◇
「クロアゲ。これ、あっちに運んどいて」
「わかった」
クロアゲが来てからの自分を振り返った。
恩返しに来る人ってのは、誰もが万能じゃない。だけど、自分が勝手に「できる」なんて思い込んでいただけだ。
勝手に思い込んで、期待して、ガッカリする。
うわ。私って、嫌な人間。
「役に立たない」と、ガッカリしていた自分がクロアゲを見ていた時の目は、どんなに冷たいものだったのだろう。
だからクロアゲも、「役に立たなければいけない」なんて躍起になっていたのかもしれない。何事も一生懸命なクロアゲは、言われた通りテーブルを綺麗に拭き、渡された皿を置いていく。
元は蝶のクロアゲとは、違う食事。蜜で十分というクロアゲの前には、コップ一杯の蜜。
「……この蜜、少しちょうだい」
そのまま飲むわけではない。分けてもらった蜜を砂糖代わりに料理に使ったりコーヒーに混ぜてみたり。
「美味しい」
使い方を変えるだけで、蜜が美味しく感じられる。
「そうか」
その言葉だけで、クロアゲも嬉しそうに笑う。
コップ一杯分の蜜だって、どこからどんな風に集めていたのかは知らない。だけど、お店で買ってくる訳ではないのだから、大変な労力と苦労があったのかもしれない。それを毎日なのだ。
「俺は、役に立ててるか?」
クロアゲの口癖。
「知らない」
そう返す。
一緒に暮らして生活しているだけなのだから、いちいち役に立つかどうかなど、考えない。
「でも、クロアゲが来てくれて良かったって思う事はある」
一人暮らしは味気なくて、ただ単調な毎日が過ぎていくばかり。クロアゲの存在は、今ではなくてはならないもので。
「そうか」
目を細めて笑うクロアゲに若干照れくささを感じ、目の前の蜜へと視線を向けた。
(たまに、手を取り合って空が飛べたら。なんて、考える)
クロアゲが悪いんじゃない。鶴や猫達がチート並に凄いんだと思う。