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人間が画面の中に入るとはだれが想像していただろうか?
二次元とは、一つの比喩であった。
二次元とは、元々は紙やテレビというアナログを指すモノであった。ドラえもんでもあるだろう、漫画の中やテレビの中に入るというものは。でも、あの話は「少し不思議な話」なんだ。不思議だからこそあれは成り立ち、そこに科学的根拠なんて必要ないわけだ。
しかし、何の因果か大衆はデジタルを一つの道具として使い始めるようになったのだ。明確な目的などなく、ただ知らない事を探したり、動画を見たり、画像や小説を上げたり、一部の専門家の身にしか使い様がないと思われてきたものが、1990年代からコペルニクス的転回が起こり、使いこなせることが一つのステータスから、社会になくてはならないものに変化し続けた。
だからこそ、新たなインターフェイスとして映画「マトリックス」の様に神経と直接つなぐ研究がおこなわれたり、「攻殻機動隊」の様に電動義肢が開発されているのだ。
僕は一つの方法として逃避を決めた。
逃げると同時に僕は自分の居場所を作ろうとした。そのノウハウは姉から教えて貰い、お金は両親から貰い、それが当たり前とは思ってはいないが、それ以外の方法で学ぶ事も無ければ、金を稼ぐことも出来ないという現実もある。
ならば、この世は幾つか万人受けし、金のかからない逃避方法を選べばいいのではないかと思うだろう。しかし言うなればそれは積極的ではなく受動的行動である。代替可能で、行為自体に一つの意味を持ち、後に残る物はぺんぺん草も生えないものなのだ。
僕にとっては、これ以外の逃避法では得られない、この「開発」という特殊な逃避を選んだのだ。
金はかかり、時間もかかる。そう云うものを「選ばざるを得なかった」のだ。
これが逃避するという行動で、一つの私と云うものを作り上げ、またそれ自身が強制ではない積極的に創作の緒に就かせたのだ。
言い忘れていたことだが、私はネット世代などと揶揄される時代に生まれた。
周りに電化製品があふれた時代に生まれ、この世代論などと云うものに巻き込まれる原因のネット――もしくはパーソナルコンピュータと云うものから始まる弊害をこの地に下ろされた一身で引き受けなければいけない世代なのだ。
結局人と云うものは差別化が好きなのだ。そう、僕は思うのだけど。
それで僕達について何か分かるのなら、それも一つの大切な区分となるだろう。でも、そんなことが必要な人が私たちが地下鉄に乗り合わせたひとに何人いるのだろう? 多分一人いるかいないぐらいでしかないはずだ。みんな誰かが呟いた学術的要素が欠けた、ステレオタイプをあたかも通説の様に使うのだ。哲学における誤読の真理の様に。