Innocent Summer
「先輩のことが、好きなんです」
放課後。部活も終わって誰もいなくなった体育館で、一人シュートフォームの見直しをしていた時、俺は唐突にそう告白された。
生まれてこの方女子との恋愛経験が一切無かった俺は、突然のことにビックリしてリバウンドを取り損ねた。
「は?」
ボールが体育館の床の上を力なく跳ねる音が、俺の疑問符と同時に響く。
相手は俺の所属するバスケ部一年のマネージャー。名は朝倉シオンという。優しく温厚で部員全員に分け隔てなく接するような、誰からも愛されるヤツだった。
しかし一つ問題なのが、ここが男子校ということである。
そりゃまあ、性別を超えた愛は美しいとは思う。実際俺のクラスにもそういうのがいるから。けれど何となくそういうものに対して腑に落ちない部分もあって、男と付き合うなんてことなど考えたことなかった。だから俺はそれが冗談だと思って、ボールを拾いながら「ごめん俺そういうの考えたことないわ」と言ってしまった。息を呑む音が聞こえて、ふと見上げた彼の顔はひどく思い詰めたような表情で、何となく俺を不安にさせた。大きな瞳と艶のある唇が、微かに揺れている。大丈夫かと声を掛けようとした所で、彼は不意に口を開いた。
「そうですか。無理ですよね、男となんて」
そうして、何かを誤魔化すようににっこりと笑う。しかしそれは妙に不自然で、引き攣っているように見えた。不器用なほどにぎこちない笑顔にどきりとして目を凝らすが、途端に彼は顔を背けてしまった。
「ごめんなさい。さっき先輩方と賭けてきたんです。椎名先輩がもし男に告白されたら、OKするかどうか」
「へ?」
「結局負けちゃいました。それだけです、すみません。ありがとうございました」
「え? あ」
そして俺が何か言う前に、朝倉は体育館から走り去って行ってしまった。
なに、俺は賭けられてたってこと?
まあこれほど女に相手にされない俺なら、トチ狂って男と付き合うようなヤツになりそうだと思われてしまうかもしれない。賭けに負けた部員達の顔を想像して、俺は可笑しくなってつい吹き出した。
やれやれと思いながらダンクシュートを決めた所で、これで最後にしようとゴールをたたむ。それからボールを仕舞いに暗い倉庫に足を踏み入れた途端、中にいた人物にいきなり声を掛けられた。
「おい、言っておくが朝倉の告白はマジだぞ」
「うおぉ?」
俺は驚いてボールを取り落とす。跳び箱の上で偉そうに足を組んで座っていたのは、俺と同じ二年生にしてレギュラーの座にいる憎きライバル、相沢だった。
「ってちょっと待て。朝倉がなんだって?」
ボールを拾ってカゴに放り投げながら、俺はバスケ部の変わり者、相沢に訊ねる。何かとんでもない言葉を聞き逃してしまったようで、その引っ掛かりは何故こいつがここにいるのかという疑問よりも大きかった。相沢は馬鹿にするように溜め息を吐いた後、俺を跳び箱の上から見下ろしながら言う。
「だから、朝倉はお前のことが本気で好きだってこと」
「何で知ってんの。つーか、は? 意味分からねえんだけど」
俺は考える。あいつは男で俺も男なはずなんだが?
「昨日朝倉が俺の所に相談に来てな。お前に告白したいと言ったんだ」
混乱する頭で相沢を見上げれば、彼はさほど興味のなさそうな顔でしれっとそんなことを言う。
「あいつ、本当は女なんだ」
その瞬間、俺の頭の中だけが見事に固まった。行き詰った思考と混乱が玉突き事故を起こし、パニックになる。
朝倉が、女?
「そんな口ぱくぱくさせんな、金魚かよ」
相沢の声が、硝子を隔てたかの様に遠く聞こえる。俺はよく分からないまま、数秒後には肩を揺さぶられていた。
「おい、椎名。聞こえるか? おい」
「朝倉が女、だと?」
擦れかけた声で、俺は揺さぶられながら相沢に訊ねる。
「あぁ、うん。昨日聞いた。お前には教えておいてやる。朝倉からは口止めされてたんだがな、もうコクった後だしいいか」
そして揺すっていた肩から手を離すと、ヤツは再び跳び箱の上で足を組みながら口を切った。
「朝倉は性同一性障害のゲイなんだよ」
「おう。……おう?」
「つまり体は女だけど中身は男で、んでもって恋愛対象は男」
相沢は酷く淡々と、それだけを言う。俺は混乱と動揺と戸惑いが一気に雪崩れ込んできたが、先ほどの経験もあり、辛うじて冷静なまま話を聞くことが出来た。
しかし妙に納得できる部分と出来ない部分がある。たしかに朝倉は他の部員と比べてちっちゃいし、声も高めだし華奢だし、時々可愛いなって思ったこともあるけど。でも、そんな男子も俺のクラスに普通にいるから、まさか本当に女だとは思わなくて。というかそもそも、どうして朝倉はこんな無個性でバスケしか能が無い平凡な俺のことを好きになるんだ? 付き合うならもっとこう、かっこよくて何でもできるヤツがいいだろう。腹立つけど、例えばこの相沢とか。
っていやいやちょっと待て。体が女だとしたら、この学校にはどうやって入学したんだ? 俺はその疑問を相沢に投げ掛けると、思いも寄らない答えが返ってきた。
「お前馬鹿か、よく考えろよ。朝倉なんて苗字、ここには二人しかいねーだろ」
「え?」
俺はしばらく考え、そして気付いた。
「まさか理事長かっ!」
「うるさい声がでかい。そうだよ朝倉シオンはアノ自由気ままな理事長の孫だよ。つーか、朝倉がウチに入部した時、それなりに揶揄されてたじゃん。理事長のお孫さまがバスケ部のマネやるなんて、っていう」
「覚えてない」
俺が首をひねると、相沢は何故か遠い目をした。
「それでさ、だとしたらさっきのあれはお前の指図なのか?」
「ん? 違うね。俺はアドバイスしただけだよ。善は急げ、って」
「ふぅん」
そうなのか、と俺は頷いて納得する。
「というかそんなことはどうでもいいよ。今は恋愛に男だの女だの言える状況じゃないからな。俺が一番言いたかったのはアレだよ、朝倉はお前に会うためにこの学校に入ったそうな」
俺は顔を上げ、相沢の顔を見る。端正な顔立ちには何かを企むような、不審な笑みが張り付いている。
「なんか昔にお前の出てた試合を見て惚れたんだとよ。本人曰く一目惚れとか。にしても椎名、お前って最低だな。盗み聞きして悪いとは思うんだが、あんな断り方は流石にないだろ」
相沢の言葉に、さっきの朝倉の潤んだ瞳が脳の中で蘇る。それがなんだか切なげで、俺は不覚にも冗談だと思った、なんて言えなくなった。
「アイツだって人間だろ? 人としてお前のこと好きになっちゃダメなのか」
相沢のその問いに、何も答えられなくなる。確かに酷いことを言った。冗談だとしても、あの断り方は謝らなければいけない。
「朝倉のヤツ、今頃部室で泣いてるぜ。いいのか、行かなくて」
俺は口を噤んだまま、動けないでいた。今更になって、朝倉を傷付けてしまったという後悔が胸を抉る。しかし行った所で俺にできることは一体なんだろう。慰めるにしろ、どうやって声を掛ければいい?
どうすればいいのか分からず、相沢に目配せすると、彼はやれやれというように跳び箱から飛び降り、それから俺にこう言った。
「とりあえずお前の気持ちを伝えればいいんじゃないの? まっ、お前が朝倉を振るとしたら俺が付き合っちゃうけど」
彼は試合前によく見る、にやりという言葉がぴったり合うような不適な面構えで笑った。
俺の気持ち、か。
正直部活という名目でしか朝倉との接触はない。それでも、俺はかなり朝倉の世話になった。テーピングや試合でのサポートなどは勿論、選手達のメンタルケアまでしてくれた。チームの作戦がバラバラになって気まずい雰囲気になった時も、いろいろと説得して場を治めたこともある。彼は数少ないマネージャーの中でもよく働いていたと思う。そんなヤツが、今まで俺のことを恋愛対象として見ていたのを想像すると、どうにも恥ずかしい。けれど不快感は不思議とない。男にしろ女にしろ、朝倉は部員皆に気を配れる、いいヤツだった。
俺は朝倉のこと好きなのか?
答えはよく分からない。でも俺は、この気持ちを伝えなきゃいけないのか。言わなきゃ伝わらないのは、先ほどの朝倉の告白だって同じだ。
覚悟を決めて、相沢の目を見据える。すると彼は微笑んで、「自分のやりたいようにやれ、ただし朝倉のことも考えろよ」と言った。俺は頷き、心強さをくれた相沢に感謝して、倉庫から部室棟へ向けて走り出した。
一分も掛からずに着いた部室の電気は消えていた。俺は焦ったが、制服に着替えた朝倉が鞄を持って部室から出て来たのを見て思わず叫んでいた。
「ちょっと待ったぁ!」
朝倉はその声で俺に気付くと、恥ずかしそうに泣き腫らした顔を逸らした。そして俺の方を見もせずに、ぼそっと呟く。
「早く着替えないと、部室の鍵閉めちゃいますよ」
今まで聞いたことのない、あっさりとした、それでも不機嫌な重みを纏わりつかせた声だった。そのあまりの変化にたじろぎ、戸惑いながらも何とか言葉を返す。
「あ、え、えっとその。えっと、とりあえず俺を見ろ朝倉」
朝倉はしばらく顔を逸らしていたが、俺が何か言おうとしているのを察したのか、すぐに俺の方へと向き直った。その目は赤く充血していて、目蓋の縁や長い睫はまだ濡れていた。
「なんですか」
泣いていたことを誤魔化すかのように強気にそう言う朝倉に、すごく申し訳なくなったのと同時に愛おしさを覚えた俺は、つい抱き付いてしまった。見た目通りのほっそりとした体に、人の温もりと隠しきれない胸の膨らみが感じられる。俺は朝倉が逃げ出そうと暴れる前に言うべきことを言った。
「さっきはあんな言い方してごめん」
「え……」
ふと力が抜けた彼の体を抱き締めたまま、俺は続ける。夏の終わり、セミの残響が静かに空気を震わせる中、朝倉の鼓動がやけに大きく聞こえた。
「お前、女だったんだな」
その言葉に、朝倉は肩を一瞬わななかせた。
「誰から聞いたんですか? ひょっとして相沢先輩?」
「うん。ごめん」
朝倉は呆れたように息を吐く。彼の心臓は規則正しく、しかし激しいリズムを刻んでいた。
「で、一体何がしたいんですか? からかいに来たのなら僕は怒りますよ」
「話があるんだ。さっきのことなんだが、その、俺、今まで誰かのこと好きになったことないから、好きっていう気持ちがどういうのか分からない。けど、男でも女でも朝倉のことは好きなんだ。あ、でも、これからは恋人として朝倉のこと少しずつ好きになって、理解して、幸せにしたいと、俺は思った。うん。だけど、俺、恋愛経験なくて、お前にいろいろと迷惑掛けるかも知れないから、そこは容赦して、ほしい。さっきは本当にごめん」
ぎこちないけれど、自分の気持ちを正直に伝える。ちゃんと言葉に出来たかよく分からないが、朝倉はふっと笑うと、震える声で「ありがとう」と告げ、俺の腰に細い腕を回した。
「そういう不器用なトコとか、優しいトコが好きなんです」
俺を見上げたその顔は涙で濡れていたが、朝倉は嬉しかったのか、綺麗な微笑みを浮かべていた。
「シオン、って呼んでもいいか?俺のことは、大輔って呼んでよ」
「っ、はい、喜んで! これからお付き合いよろしくお願いしますね」
夏の風が吹きぬけ、月がシオンを優しく照らす。二人で歩む道しるべを暗示しているかのように輝くそれに、俺はただただ純粋な気持ちを持て余していた。
やけに柔らかい唇が、俺のと重なる。
驚きに目を見開いて、しかし視線が合った綺麗な瞳はもう泣いてはいなかった。