遠くの空は青い
「降ってるね」
「ね」
学校帰り。私も彼も、傘を忘れてきていたから、とりあえずファミレスに入った。
頼んだチョコレート・パフェをつつきながら単語帳を捲っていたけれど、その内飽きて、雑談しながら窓の外を眺めるようになる所までがお約束。
「……多少なら綺麗だなー、で済むんだけど」
ぱらぱら、位なら別に良い。けれど、こうどしゃどしゃ降られると、ねえ。
「俺も子供の頃は好きだったんだけどな。空が降ってくるの」
彼の言葉を遮るように、また甲高い、空が割れる音が響いた。
今日も空が降る。
何故降るか、っていわれても、とりあえず空が新しく作り替わる時に古い空が砕けて落ちてくるんだ、っていう位……つまり、中学校の理科と社会で習ったレベルでしか知らない。
専門家とかは「サマーシャワー現象が」とか、「デイドリーム指数が」とか、そう言う小難しいこと言ってるけれど、私はそっちに興味がある訳でも無いからそんなこと知らない。
「最近よく空、降ってくるよな。俺達が中学生の頃ってもう少し降ってなかったような気がする」
彼はどっちかっていうと理系だから、そういう理屈っぽい所にも興味があるんだと思う。
私にしてみれば、積もった空を踏むのは楽しい、とか、降ってる時に綺麗だな、とか、空が降ってきて積もるとうっとおしいな、とか、そういうものでしかないんだけれども。
ファミレスの窓から見える外では、ひっきりなしに空が落ちてきては、通行人の傘や地面に当たって粉々に砕けている。
時々、傘を忘れた人が走っているのが見える。
空に当たった位で死にはしないけれど、服に積もった空が溶けたりすると洗うのが面倒だから。進んで空に打たれたい人なんていない。
「空浴びてると禿げやすくなるんだっけ」
「えっ、何それ」
聞いたことも無いし、彼が言いでもしない限り今後も聞く予定の無かった無駄知識を知ってしまった。
「女は危機感なくていいよなあ……」
彼はそうぼやきながら自分の前髪を触っている。別に薄くない。
「今から危機感持たなくても」
「男はなあ、禿げるときは一瞬らしいんだよ……」
またいらん情報を知ってしまった。
「大変だね」
「世間は禿に厳しいからな……」
なんとも世知辛い話になってきてしまった。
それもこれも、空が降るせいだ。
パフェを完食してからも人気のないファミレスに居座り続けて、時々単語帳の頁を捲りながら、彼と雑談を続けた。
しかし、一向に空は降りやまない。
「止まないね」
「1週間前位にも降ってなかったか?」
そう言われてみれば、先週の水曜、学校を出るときに空が降ってたから図書室に篭ることになったのを思い出した。
「なんなんだろうな」
空はそうそう簡単に作り変わらないはず、らしい。
私よりそっちの方に詳しい彼が前言っていたから多分間違っては無いと思う。
「なんなんだろうね」
勿論、だからっていって、私達に何かができる訳でも無い。
空は途方も無く遠くて、途方も無く大きいのだ。
空が降りやんだのを見計らってファミレスを出た。
また降ってくるといけないから……私は別に、多少空に降られても構わないと思うんだけど、彼は彼の毛根を非常に大切にしているようなので……急いで駅に向かった。
空を見上げると、微妙に色が……本当に微妙に、紫がかって見える気がする。
「ねえ、空ってさ、どのぐらいの厚さあるんだっけ」
「大体厚さ20km位じゃないか、って言われてるけどな」
うん。そっか。全然実感がわかない数字だった。
……降ってくる空は厚さ1mmにも満たないんだから、20kmもあるようなものが目視できるレベルで変わる訳がないんだけれど。
それでも、小さい頃に見た空はもっと、色が鮮やかだったような気がする。
「経年変化でだんだん薄くなったりする?」
「また髪の話してる……」
「いや、君の髪の話じゃなくて、空の話」
こだわるなあ、こいつ。
「空って、薄くなっていったりするもの?」
「降ってきた直後は薄くなっていて然るべきだと思うけど、それも大した厚さじゃないだろうし、作り変わっていってるはずだから、そんなに変わる訳はないと思う。少なくとも、俺達が生きている間位の時間経過じゃ、気づかない程度にしか変わらないだろうな」
……だよねえ。
その理屈は分かる。
だからこそ、でも、納得がいかないんだよね。
それとも、昔の記憶が美化されてるだけなんだろうか。
昔見た空は鮮やかに記憶に残るものなんだろうか。
空がまた降ってくる前に駅について、丁度今行ってしまったらしい汽車をホームで待つ。
「18分待ちだわ」
「まじか」
割と運が悪かったらしい。汽車は暫く来ない。
「……あ、また降ってきた」
しかも、また空が降ってくる。
甲高い音が立て続けに起こり、ばらばらと破片が落ちて来るのだ。
駅のホームには屋根があるのがありがたい。
「これ、線路にも結構積もってるけど、大丈夫か?」
言われて見てみると、確かに線路にも空が積もっている。
「溶かす設備、故障してるのかな」
「いや、先週はやってたから……もしかして、設備の処理能力が、空の積もるスピードに追い付いてないんじゃないのか、これ」
それは困ったな。18分待ちどころじゃなくなるかもしれない。
2人揃ってため息を吐く。
……その時、べきり、という、湿った低い音が響いた。
思わず辺りを見回すけれど、音の発生源は見当たらない。
……2人できょろきょろしていたら、ホームで汽車待ちをしていたらしい誰かが、空を見上げて悲鳴を上げた。
そして、急に地面に衝撃が走る。
立っていられなくなって、地面に丸まって、とりあえず頭を抱えるようにしてやり過ごす。
私の隣に彼も丸くなってくれる。
……暫くして、ようやく揺れが収まった。
「……大丈夫か?」
「うん。別に平気。君は?」
「怪我1つない。……しかし、何だったんだ、今の……」
ふと、斜め上の方を見て……見るまでも無く、視界の端に入っただけで。明らかな異変が分かった。
「……なんだ、あれ」
私たちはホームの屋根の隙間から、大きく空に開いた穴を、見た。
「……空が」
空に開いた穴から、空の向こう側が見える。
「……空の向こう側って、青いんだ」
空の向こう側は、赤い空とは対照的に、ひたすら青かった。
……空は、2000年位前に作られたらしい。
空を調べた学者が割と最近、そんな発表をした。
私達の習う歴史は、丁度そのあたりから始まる。それ以前の歴史はすっぽりと消え失せている。
僅かに現在にまで伝わっている『キゲンゼン』があり、そこからすっぽりと、『空白の数千年間』があり、それから私たちの『2000年』がある。
だから、その時……2000年前、空を人類が作った時に……何か、があったんだろう、っていう。そういう結論になった。
逆に言えば、それ以上の結論を出せるだけの手がかりなんてどこにもなかった。
だから、2000年より前の出来事を知る手がかりは、もう空の向こうにしか残っていないんじゃないか、とも言われている。
そして、私たちの目の前……っていっても、ずっと遠く。十万km位離れた位置に、ぽっかりと空は穴をあけ、その空の向こう側、とやらが見えていた。
浪漫だけれど。何かが変わりそうな予感もあるのだけれど。
それでも、空の向こう側は私達には遠すぎる。
「綺麗だな。空の向こう側って」
こういう事に反応しない彼が珍しく反応してる。
同じような事を考えているのかもしれない。
隣の芝生は青く見える。空の向こう側も同じ理論なのかもしれない、なんて。
「見てたら禿げるかもしれないよ」
「それは嫌だな」
そう言いながらも、彼は空に開いた穴から目を逸らさない。
何が起こるでも無く、2人で暫く、それを眺めていた。
ちなみに、汽車は30分以上遅延した。