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【三段話】もの想うヒマワリ

 私はここから眺める景色が好きだ。朝には黒く、昼には一旦白くなり、夕方になるとまた黒くなってゾロゾロと行進してゆく豆粒のようなサラリーマンを上から眺めるのは気分が良い。

 東京都新宿区。高層ビル群が天を穿って立ち並ぶコンクリートジャングルからやや離れた、中小企業の社屋と飲食店が混在する地域に、中心街の猛威に怯えて縮こまっているビルたちが身を寄せ合っている。その内の一つ、太陽光を吸収する打ち出しのコンクリートに区切られ、ポツンと緑が映える屋上の一画に私は佇んでいる。

 私は私自身がどのようなものなのかはよく分かっているつもりである。私は太陽に向かって背伸びをして、太陽に恋しながら生きる哀れな一年草で、狂おしいまでの陽光を身に浴び、そのすべてを自身の糧にしてしまおうという獰猛な生命力を持ちながら、それを表に出すことができない植物、キク科キク目のヒマワリ。植物であるはずの私が何故こんな思念を持つに至ったのか定かではないが、誰の言葉だったか「我思う故に我あり」である。どこからか湧いてきたその言葉を思い出して以後、私は考えることをやめてしまった。

 太陽が中空に達しようとする刻限、そろそろ彼が姿を現すはずだ。おそらく他の植物よりも正確である時間感覚を自画自賛しながら、錆が目立つ鉄扉に意識をやっていると、軋んだ音とともにビニール袋を下げた、少し頭が薄くなりかかった中年の男性が姿を表した。屋上から眺めるサラリーマンたちと同じく白いワイシャツを腕まくりし、少しやつれ、倦み疲れたような風貌である。

『アテがハズレてしまった』と先程までの自画自賛を悔んでいると、中年の男は私を認め、顔をほころばせて私の花弁を慈しむように撫でた。いそいそと水やりの準備をはじめる贅肉のついた背中が憎いわけでは決して無い。ただそれ以上に私の心を捉えてやまない事情があるだけだ。しかし、いったい「心」とは? などという疑問が頭をもたげてきたが「我思う故に我あり」と強固な懐疑主義を盾に私の思考は、緑色の理性によってひねり潰されてしまった。


 男は襟に黄色い汗染みを作りながらも満足気な表情で水やりを終え、共に植えられている植物たちも葉脈に染み渡る水分が嬉しいのか、心なしか笑っているようにも見える。他の植物達と対話が成立するようにも思えないが、自身がこのような立場になってみると、なんとなく感覚を共有できる気がするのだ。男は頭皮が透けて見える薄い髪をさっと撫で付け、日陰のベンチに身を下ろしてビニール袋から取り出したペットボトル飲料をあおった。彼にも水分を摂取するということに喜びはあるのだろう。人間と植物との差異は互いに意思疎通が出来るのかの一点に尽きるのではないか。植物は喋らないし、思考しない。繋がりといえば、地中に埋まっている根の絡み合いによって生じる、栄養分の争奪戦だけである。言葉が神だとしたら、植物に神はいないのであろう。もし、植物は植物で特有の言葉を持ち、神がいるのだとしたら、植物であるのに人間の言葉しか理解できない私はなんなのだろうか。

 昼食をすっかり平らげてしまった男は、タバコを取り出してくわえるが、ライターが見つからなかったのか、やるせない表情でタバコを箱に戻し、ゴミを片づけ始めた。ビニール袋はカサカサと感傷的な声をあげた。

 昼休みも半ばを過ぎ、昼食を取り終えたサラリーマンたちが思い思いに散ってゆく雑音が聞こえる。これから明日の昼に至るまでこの屋上は私と植物だけの世界となる。今日、彼は来なかった。私の全て、私の神はやって来なかった。

 深い失意の念が湧き上がり、失望が怒りに変換され、怒りが中年男性にまで向けられそうになった時、通用口の軋む音が私の霧散していた意識を収束させた。姿を表したのは黒々とした短髪で手首のあたりから若々しい生命力を感じさせる若者であった。細面に柔らかな微笑を湛え、先客の男と挨拶を交わしている。彼、彼、彼。彼こそが私の存在理由、すべての疑問の解決者、私の、神だ。

 彼の首筋に生えた産毛も、笑った時に僅かばかり膨らむ小鼻も、ワイシャツを透かせている汗一滴すら意味あるものとして私を赦し、私を認め、私を愛してくれる。口から溢れる言葉は全て福音で、彼の言葉を理解できることで私は自我を手放さずにいられるのだ。

 ちらりと彼の瞳が私を捉え、近づいてくる。筋肉なんてないはずなのに、緊張によってカラダが強ばってくる。彼はおもむろに私の隣にあったひまわりを引きちぎり、屋上の隅に打ち捨てられていた、くすんだガラス瓶に水を入れ、恭しく献花した。

「まだあの女の事、気にしてんのか。いいじゃねぇか、もう。勝手におっ死んじまった奴のことなんて気にしたって、なんの得にもなりゃしねぇ」中年男の揶揄するような声に、彼の行為が汚されたように感じ、苛立つ。

「そうにもいかないですよ……。彼女が亡くなったのは僕のせいでもあるんですから」

 彼は立ち上がると、話しながら私の居る花壇に向かって歩いてきた。意識が私の方に向いていないことに、嫉妬してしまう。しかし、彼の健康的で骨ばった手が私のグロテスクに開かれた黄色い花弁をひと撫ですると、絶頂に達したかのように全身が痺れ、種がぽつりぽつりと地面に落ちた。

 彼の肌は強烈な日光に当てられ、ワイシャツをまくった袖には汗が滲んでいた。薄い体毛が人間的な生の輝きを放ち、世界の違いをまざまざと感じさせる。もみあげに垂れる雫をうざったく拭う彼の左手の薬指には、銀色の指輪が中空から伸びる光線を反射し、私の葉の一部分をジリジリと焼いている。

「そういえば、そのヒマワリもアイツが植えたもんだったな。そう思うと気味が悪ぃな」

「その割には、しっかり世話なさってるじゃないですか」彼が軽口で返す。

「そりゃ、植物に罪はねぇからな。俺は自然を愛する男なんだよ。それよりお前、ライター持ってないか?」

「自然を愛するのもいいですけど、自分の身体にも愛を分けてあげたらどうですか」

 彼からライターを受け取った男は「お前ぇだってタバコ吸いじゃねぇか。でもまぁ、へへっ、さすが愛に溢れてる奴は言うことが違うねぇ」とニヤニヤしながらタバコに火をつける。実に美味そうに煙を肺に溜め、吐き出す。

「でも、自分だけこんなに幸せになっていいのかって思うことがあります」

 彼の憂いを帯びた目線は言葉とともにヒマワリが献花された屋上の隅に投げられているが、その返事はベンチに腰掛け、タバコを燻らせている男から帰ってきた。

「それはお前が、勝手に気に病んでいるだけじゃねぇか。お前にもこれからの生活があるんだろう? ったくあの女、きっちりお前の名前の入った遺書までご丁寧に用意しやがって。いい迷惑じゃねぇか、何が『初めての恋だった』だ。失恋が免罪符になるもんか」

 大きく煙を吐いた男の口から溢れる、独善的な臭いのする声。『恋』を語っているはずなのに、ヤニを纏い付かせたような下卑た響きに昏倒しそうになる。茶褐色に染まった歯の間から流れる、慈愛に満ちた福音をかき消す騒音を、彼に聞かせる訳にはいかない。己が生きるため、伸ばし続けた根に縛られて動けないのが口惜しい。

「大体、初恋なんてのは実らねぇって相場が決まってるしよぉ、あの年で、お前に会うまで恋を知らなかった奴なんて、どっかおかしいだろ」

 半笑いで語尾をあげ、自分に酔ったように語る男の独白に、彼が少し困ったように苦笑いを浮かべる。鈍色の刃物がカラダを切り裂いて、生臭い汁が垂れる感覚が湧き出す。彼のそんな顔を見たくないはずなのに、私はたしかに彼を見ている。でも、私は見ているんじゃない、聞いているのでもない。では、一体どのように知覚されているのであろうか? 人間と植物の違いは感覚器官の有無なのか。実際の感覚とイメージの感覚が剥離している。それは右側、下から三番目の葉が虫に喰われ穴だらけになっているのに、今の今まで気づかなかったことから分かる。だが、この搾り取られるようなキリキリとした痛みやバランスを喪失してゆく懊悩はなんなのだろうか? 感覚がなければ思考はあり得ないはずなのだ。人間と植物の確たる壁は、巨大で圧倒的なのに、その姿形は全く見えない。

「相手のことを想っている間は失恋じゃねぇ。想いが届かなくて泣いているのは、自分がまだ恋に囚われてるからなんだよ。失恋ってのは、相手の顔を思い出さなくなった時から始まるんだ。ゆっくり、知らねぇうちに恋は失われてくんだ」

 男は短くなったタバコを携帯灰皿に押しこみ、ふと呟いた。よろよろと屋上の隅に向かい、屈めるとバキバキと悲鳴を上げる膝に舌打ちしながら、目尻の皺を深く食い込ませ、手を合わせた。

「こいつは、待てなかったんだろうな……」

 脂ぎった額に陽光を反射させた男は、先程までの嘲るような調子ではなく、本当に亡き人を悼んでいるようであった。供えられたヒマワリの向こう側に何が見えるのか。根本から荒々しく引き千切られたヒマワリは、自身が死につつあるのも分からぬ様子で、私からは窺い知れない男の表情を見つめていた。私の神は黙っていた。

「そういえば、結婚式の日取りはどうなった? 早めに教えといてくれよな、こっちにも都合ってもんがあるんだからよ」

 沈黙に耐えかねた男が彼に尋ねると、彼は頬を緩ませて、何かから気を逸らすようにいかにも幸せそうな声色で返す。

「そうですね、来月の末には、休みをとって――」

 扉が閉まる音と重なるようにして、彼と男は姿を消した。暴力的な日差しを受けた、灰色の地面からは陽炎が立ち上り、静寂を取り戻すのかと思われた屋上は、ビルの下から突き上げてくるさざめきで、却って賑やかしさが強調されている。眼下の人の営み、生活のリズム、生命の躍動。

 コンクリートジャングルに一陣の風が吹いた。虫の声が聞こえはじめる時、私の意識は消え、彼の顔も思い出さなくなり、私の初恋も終わりを告げるのだろう。そして、明日もまた彼はこの屋上に訪れ、太陽に向かって性器を曝け出す、無様な私を慈愛に満ちた瞳で眺め、愛撫するのだろう。



 三段話です。


 S川先輩へ、遅くなってすみません。実は10月の終わりには書き終えていました。自分で見ても可哀想なぐらいの駄文ですが、読んでくださると嬉しいです。


 お題は『ヒマワリ、初恋、コンクリートジャングル』でした。

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