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伍物語



 五人が秘密基地作成に執心していたので、学校には度を越さない活気と束の間の余暇を楽しむかのような平穏が訪れていた。職員室では、昨今のア行の問題児情勢の話題で持ちきりであった。


「最近、あの生徒たちの噂を聞きませんな」

「それは平和でいいのですね」

「私は少しばかり怖いです。何というか、嵐の前の静けさといいますか……」

「たしかに。彼らは何をし出すか分かりませんからね」

「またトイレットペーパー立て籠もり事件でも起こすのではないですか?」

「それは……あり得るかもしれませんね」

「奴らのことです。もしかしたら、もっと恐ろしいことを企てているかもしれませんよ」

「渡辺先生に少し聞いてみますか」

「先生も相当疲れているようですな」

「仕方ありませんよ。彼ら一人でも手に余るというのに、それが五人ともなると」

「考えただけでも悪心がしますな」

「あ、渡辺先生が来ましたよ」

「彼らの様子はどうなんですか、渡辺先生?」

「いやぁ、私には何とも……」


 担任の渡辺に彼らの様子を尋ねても煮え切らない返事をするだけで、この事態に教師陣も首を傾げるばかりであった。そのような不穏な空気が密かに蔓延しているとは露にも思わない彼らは、着々と洞窟を居心地の良いものへと変えていった。

 合図の出し方ひとつでも、どれだけ巧妙に日常の所作の中に仕込み、周囲に悟られないようにするかということに心血を注いだ。

 大きく伸びをしたときにさり気なく、音楽の授業中にリコーダーを吹きながらさり気なく、給食の牛乳を飲むときにさり気なく。周りの生徒たちに気取られないように、彼らはひたすら『さり気なく』鼻の穴に指を入れた。

 この合図を知らないものが見ても、「またあいつら変な遊びしてるよ」程度の感想しか持たなかったことだろう。

 

 玲は依然としてその合図への反骨精神を顕わにし、一度も実行することはなかった。

 体育の授業中に暇を見つけ、そのことについて五人は相談した。

 玲は断固として首を縦に振らなかった。涼弥たちは強要することを諦め、玲だけは特例として鼻の頭を擦るだけで可とした。


「最初からこのようにすれば良かったじゃないか」


 体育の授業を終え、教室に戻ってきた玲はそう言って体操着の胸を張った。


「いや、玲が素直に折れれば丸く収まったはずだぞ――ってお前、どうしてまだ体操着なんだ?」


 生徒たちは更衣室で着替えを済ませて座席に付いている。まだ体操着を着ていた玲を見て涼弥は不思議そうに尋ねた。


「今日も行くのだろう。どうせ服が汚れるんだ。着替えても仕方ない、と思ってね」


 そっか、と涼弥はさして気にも止めないで前席の実へと話しかけ始めた。

 帰り支度をしていた玲の元へ、物言いたげに唇を歪めた陽平がやって来た。彼は何も言わず、けれど何か言いたげに玲の席の横に立っていた。


「何だい、陽平。用事があるのなら早く言えばいいじゃないか」

 

 その語気にはそこはかとない冷たさが含まれていて、陽平の返す言葉も自然と冷めたものになる。

 

「服、どうしたんだよ」

「別にどうもしていない。今日もあの場所に行くのだろう。わざわざ着替えるのが面倒くさく感じたから、このままでいるだけだ」

 

 言って玲は陽平を睨みつける。その瞳の奥には、これ以上の詮索を許さない、といった力強い感情が宿っていた。それに気圧された訳ではないが、陽平は何も言わないで自分の席へと引き返した。

 陽平は机に開いた粒ほどの穴を睨みつける。切歯扼腕するが如く全身に力を籠めて穴に強く視線を注ぎ、溜まった感情をそこへ発散する。


 ――自分たちが、いわゆる問題児として教師たちの間で忌み嫌われているのは知っている。俺や涼弥はいろいろとやらかしているし、浩次だっていろんな問題を起こした。実も教師にとっては迷惑なやつと思われているだろう。

 俺たちは、それ相応のことをしてきたのだから、問題児として見られるのは仕方のない結果だとは思う。けど……あいつは、玲は、俺たちと一緒にいるから色眼鏡で見られているだけだ。


 伏せていた顔を上げ、彼は鋭い視線を教室中に向けた。


 ――授業中に本を読むことのどこが悪いのだろう。もっとひどいことをしている生徒たちもいる。真新しい携帯電話でメールを打っているやつ。こっそりと持ち込んだ携帯ゲーム機で遊んでいるやつ。悪口が書かれた手紙のやり取りをしているやつら。

 そいつらは常に影に隠れて、こそこそと規則を破る。大人たちはそれに気付かない。大人たちが叱るのはいつも、目立つことをしている俺たちだけだ。堂堂と好きなことをして、結果として規則を破っている俺たちだけだ。

 どちらが正しいとか、そういう問題じゃない。どちらも規則を破っていることに変わりない。俺たちがコインの表だとすると、ずるがしこいそいつらは裏。表側には派手な装飾があるから、手に取ったものの目を引いていてしまうだけの話だ。


 教室にやってきた渡辺へと、彼は湧き出した怒りをすべてぶつける。殺気にも近い感情を浴びせられているとは思いもしない渡辺は、教室のざわめきを気にも止めないでホームルームを始めた。

 陽平は再び机の穴を睨む。その先にいる何ものかを呼び覚ますかのように、じっくりと怒りを練り上げる。


 ――先生たちは、玲のことも俺たちと一緒くたにして見ているけど、陰で規則を破る姑息なそいつらは違う。玲が、ただの大人しい生徒だということを知っている。

 だから――『標的』にする。

 汚い言葉を吐きかけようが物を隠そうが、薄い反応しか示さない玲は、そいつらの格好の餌食になるんだろう。どんなことをしても、教師陣にバレることがないから、そいつらは安心して実行する。それに……

 『あのこと』も玲が標的にされる原因なんだろう。


 陽平は口内に広がった苦い鉄の味を唾液と一遍にして飲みこむ。その液体は、後に引けない後悔のような味がした。


 ――俺がいけないことは分かってる。玲とした、あの約束をないものにしてしまえば、すべて解決する……でも。

 でも、それじゃ――


「おい、大谷。帰るぞ」


 穴から顔を上げると、浩次がランドセルを肩に引っ掛けて立っていた。

 いつの間にか帰りのホームルームも終了していたようで、入り口付近に涼弥と実、玲の姿もあった。


 「悪ぃ、ぼうっとしてたわ!」


 陽平はできるだけ普段通り、軽快に笑う。そうしなければ、たちまち顔面の骨格が崩壊して笑顔も崩れてしまうと思った。一度でも壊れてしまえば、もう同じように笑えない気がした。失ってしまったものは絶対に返ってこない気がした。それが恐ろしくて、陽平はひたすら丁寧に笑い浮かべた。



 三々五々になって帰路に着く生徒たちの中、五人は密着するようにして完成間近に迫った秘密基地のことを話しながら歩いていた。

 

「他になんか必要なもんってあるか?」

「俺はもう十分だと思うぜ」

 

 陽平に追随して実が「僕も」と頷く。

 

「俺はもう少し食料の蓄えがあった方がいいと思う」

 

 頬を弛緩させた浩次が言うと、玲が鋭く切り返す。

 

「貯蓄しておいても、キミがすべて食べてしまうじゃないか」

 

 「そんなこと――」と言い掛け、持ってきたお菓子をすべて自分が食べてしまったことを思い出して浩次は言い淀んだ。

 

「よしっ、今日中に仕上げて、明日はみんなで完成パーティーを盛大にやろうぜ!」

 

 完成した秘密基地を思い浮かべ、満足そうにうんうんと首を縦に振っている涼弥に、実が申し訳なさそうに言った。


「……ごめんね。今日行けなくて」

「気にするな! 明日は四時間目までしか授業がなくて都合がいいし。それに、用事があるのは仕方ないことだしな。――もっとも、気にも止めてないやつもいるけど、な」

「えっ? なんだよ、ジロジロ見て」

 

 浩次は怪訝そうに目を細めた。

 そんな浩次を歯牙にもかけず涼弥は、「じゃっ、陽平と玲はまた後でな」と手を振りながら路地を折れて矢のように坂を駆け下りて行った。それを契機に皆ばらばらに別れ、自身の家路に着く。


 陽平は自然公園の前で玲と別れる。


「またあとで」

「うん」


 乾いた別れのあいさつを交わし、自然公園を突っ切って行った玲の背を目で追った。

 緑葉を透過した光は、茶色い砂の跡が残る体操着に落ちて濃緑の影を作る。歩く度にその裾が風を孕んで大きく膨れ、背負っているランドセルが芽吹き始めた新緑の中でやけに映えて見えた。その姿が林道の端に消えてから、陽平は緩く湾曲した舗道を歩き始める。


 左側には転落防止用のフェンスが張られている。その向こう側には、よく見知っただだっ広い緑地が見下ろせた。ここからだと、緑地を挟んだ先にあるシオハラ邸や、坂を駆け上がっていく家々が望むことができ、丘の上に立つ城のような大きな校舎もありありと見えた。

 

 陽平は靴の底で黒光る路面を叩く。


 ――俺たちの街の下には、縦横無尽に張りめぐっている地下迷路がある。

 その空想に限りなく近いものが、この靴の下に実在している。


 彼は走り幅跳びでもするかのように加速をつけ、アスファルトを強く蹴り上げて大きく跳躍する。

 ほんの一時だけ宙に浮き、今度は両足で地面を鳴らした。

 着地の反動で膝が軋み、体勢が崩れて転倒しそうになっている彼を転ばせようという思惑があるのか、一際強い風が吹いた。

 風に当てられた髪の毛が散り、それがぱらぱらと頬を落ちた。くすぐったそうに毛を払いのけ、陽平はしっかりとした足取りで歩みをアパートへと向ける。


 住まいはすぐに現れる。築三十年の年季の入った木造アパートで、二階を支える柱には白アリが食い入った著しい跡が見られる。山の上から吹き下りる風によって、建物全体が絶えずカタカタと音を鳴らして振動しており、いつ倒壊してもおかしくない、と近隣ではもっぱら噂の物件である。

 薄い木戸に鍵をさし込むと、かちゃ、と安っぽい音がして開いた。

 陽平は煙草の臭いが染みついた雑多な居間を抜ける。物置のような自室の隅にランドセルを置き、居間へと取って返す。食べかすが付いて汚れた食卓の上にビールの空き缶を見付け、手早くそれを片付けた。台所のシンクにはフライパンや皿が組み重なって、山のようになっていた。彼は時計を確認し、溜まった食器類を洗い始める。

 流れる水がシンクに映った彼の顔を歪ませた。その顔が泣いているように見え、陽平はそっと目元に触ってみたけれど、乾燥した肌に触れるだけであった。


 ――もう、四年も経つのか……


 涙が尽きたその先からは、なにがあふれてくるのだろう? と、あの地下壕に出会うまでの自分は、純粋無垢な疑問を抱いていた。

 涙の枯れたその先は、黒くて深くて汚くて――でも、暖かいものがあふれてくるよ。

 胸臆に立ち尽くす過去の自分にそう囁いた。


 陽平は台所から懐中電灯を持ち出し、戸締りをしておんぼろのアパートを後にした。

 最初はゆっくりであった彼の歩調は、次第に速さを増していき、たちまち全力疾走となっていた。

 陽平は、自分が呼吸をしているのかも分からなかった。ただがむしゃらに地面を蹴り、空気を掴むようにして腕を振った。目の端にちかちかと星が瞬き、張り詰めた腿を痛みが覆う。その痛みから逃げるかのように彼は必死に駆けた。

 自然公園の入り口がのぞいてきた辺りで体力の限界が訪れ、陽平はつんのめりながら足を止めた。

 酷使した体を労わるようにして金網へと背中を預け、全身で息をする。この網が壊れて背後に倒れでもしたら、彼もろとも下の緑地に真っ逆さまとなるだろう。


 陽平は、絶えず肺から絞り出される熱い呼吸の中にある達成感を久しく思った。

 もっと幼かった頃は、何のしがらみも知らず常に全力で駆けていた。その先に何があるのか、早く知りたいと思っていた。今もそれを知ることはできていないけれど、走り続けた先にあるものが、決して明るいものだけではないことを彼は予感していた。それでも、歩みを止めることはできなかった。もし止まってしまえば、僅かに感じていた希望でさえも、いつしか夢のように覚めてしまうような気がしたからである。

 顎まで垂れてきた汗を拳で拭い、陽平は正面に広がる自然公園を眺めた。

 都市緑化のために保護された自然の緑。繁殖する木立の隙間から白い漆喰の建物が小さくのぞく。


 ――あそこには、親のいない子どもたちが住んでいる。

 

 その温かな緑に抱かれた『ミナシゴの家』を見据えていた彼の心音が、とくん、と跳ねた。

 それが発端になったのか、陽平は見える範囲に人影がいないことを確認し、もたれていた転落防止のフェンスから弾けるように体を引き起こした。身を反転させ金網に手を掛けてよじ登る。

 がしゃ、がしゃ、と歯車が絡まって軋むような耳障りな音を立てながらフェンスを乗り越え、その先に突き出ている僅かな空間にひらりと降り立つ。

 その小さな足場から十メートルの落差がある緑地まで、遮るものは一切存在しない。断崖絶壁に立っているかのような心境で彼は後ろ手に金網に掴まり、そこからの景色を一望した。

 

 薄く伸びる巻雲が浮いた青空は地平を越え、その下に広がる緑地を丸く包み込む。

 四年前に見た、青と緑の静かな景観とよく似ていた。



 とくん。


 ――お母さんと動物園に行ったことがあった。

 陽気な昼下がり、電車に揺られてたどり着いたこの街の名物といってもいい動物園。二頭の大きな象の門を抜けて、動物臭さが漂う園内に入った。動物たちの檻を巡りながら、母は一匹一匹丁寧に解説をしてくれた。

 

『バクは夢を食べるのよ』

『オスのクジャクの羽は、メスに好きになってもらいたいから綺麗なのよ』

『タヌキは人に化けるのよ』

『クマは寒いところと暑いところでは毛の色が違うのよ』

『横縞のシマウマはいないのよ』


 最後に立ち寄ったのは、ライオンの檻だった。檻の奥の日陰で身を横たえていたライオンは年老いていたのか眼光に威厳はなく、たてがみは萎びたタンポポのようで百獣の王の名に相応しくない有様であった。


『元気ないね』


 そう母に尋ねた。


『そうね、檻の中は息苦しいのかもね』


 母はそう答えて、闘志の欠片もないライオンを寂しそうに見つめた。それを聞いた俺は、元気のないライオンを檻の中から出して上げようとでも思ったのだろうか、おもむろに檻へと手を伸ばした。

 そのときのことは、今でも克明に記憶に残っている。伸ばされた手を見て、ライオンの目の色が変わった。強靭な四肢を跳ね伸ばし、瞬時に檻の格子にまで接近し鋭い牙をむき出しにして、吼えた。

 檻の中にいようとも、埋めることのできない猛獣との圧倒的な力の差を感じた。

 人は猛獣の恐怖から逃れるために、檻の中に封じ込めているのだろう。封じ込めて安心し忘れてしまっているのだ。彼らの凶暴さを、獰猛さを。檻の中の猛獣は虎視眈々と爪を研ぎ、牙を尖らせて檻の鍵が開かれるときを待っているのだ。

 恐怖のあまり母の胸で泣き出ながら、動物園を後にした。帰りの電車の中で、母が語ったライオンの子どもの話。

 獅子は堅強な子を選別するために、産み落とした我が子を崖から突き放す。そうやってよじ登ってきた子どもだけを育て、より強い子孫を残そうとする。


 ――檻の中にいたあのライオンも、試練に耐え抜いた猛者なのだろうか?



とくん。


 陽平は金網を背に滑るように蟹歩きで移動し、蔦が金網に巻き付いて舗道側から姿が見られなくなる死角に入った。

 呼吸を整え、指を一本一本網から離していく。薄く息を吐き、緑地に茂る数々の緑を見下ろす。そして――

 前方の虚空へ、ゆっくりと身を倒した。


 陽平は世界から解き放たれ、鈍化した時間を降下した。

 緑がコマ送りとなって接近してくる。

 自分が落下しているのか地面がこちらへと近寄ってきているのか、彼にはよく分からなくなる。

 全身で切った風がいななきを上げる。

 見えないはずの空は高くて深いと想像できた。

 虚脱感と親近感を受けた体に浮遊感が訪れ、時の間断を見つめる。


 ――動物園に行った次の日、お母さんは独りで家を去った。

 俺は父と二人だけになった。

 母のいない家。父との生活。

 これは試練だと思った。

 だから、俺は自分自身を試そうと思って、四年前、今みたいにフェンスを越えて緑地へ飛び降りた。飛び降りて、死んでしまえばそれまでで、もし生きていられれば俺はまだ希望を抱くことができる。

 母は敢えて俺を一人残すことで、より頑強に育つように仕向けた。そのために、俺を動物園へと連れて行き、ライオンの子ども話をしたのだ。そして、ライオンが子を突き落すように、俺が独りで強く生きることを願って去ったのだ。そう思わなければやりきれなかった。あの優しい母が自分を棄てたなんて、信じたくはなかった。

 飛び降りた小さな体は、うず高く積み重なった枯葉と柔らかな土壌に受け止められた。

 十メートルの高さから傷一つ負うことなく緑地へと倒れ落ち、掴みとった勝利を噛み締め、生きる希望を見出した俺は、何気なく顔を向けた先に大きく口を開いた大穴を発見した。

 幼い日の俺は、この闇の奥に僕を生かした何かがあるのかも、と思い導かれるように地下壕の暗闇へと足を踏み入れた。


 無明の闇に身を置くことは一種の修行に近いのだろう。暗闇を進んで行くにつれて心身から数々の苦痛が綺麗に拭われていった。

 その日以来、どうしても生活に耐えられなくなったときにだけ、この場所を訪れては鬱積したものを吐き出した。そうすることで自身を奮い立たせ、耐えることができた。このまま現状に耐えていれば、いつしか母が帰って来て、「よく一人で頑張ったね」と、昔より十センチも伸びた背丈に驚きながら褒めてくれると思った。



 地表に身を抱かれた陽平は、鼻孔を膨らませて土の匂いを嗅ぐ。母なる大地と言うけれど、この地面から母の匂いはしなかった。

 彼はうつ伏せだった体を返して青空を仰ぎ、口元に力のない笑みを浮かべた。その笑みは、絶対にありえないことを健気に信じていたかつての自分を笑ったものであった。


 ――俺は、現実から目を背けたかっただけだった。


 土壌の匂いを鼻腔に満たしながら、どうして自分は、四年前と同じように飛び降りたのだろうと考えてみた。

 四年前は一種の願掛けでもあった。ライオンの子のように崖から落ち、それで死んでしまうような弱い子のもとには母は決して戻ってこない。逆に、あの高さから落ちて生きていたるほど強い子なら、いつか強くなった俺を見に母が戻ってくると信じることができた。今ではそれが愚かな行為であったと分かっているけれど……


 ――じゃあ、さっきはどうしてなのだろう?

 俺は何を試そうとして、上から飛び降りたのだろう?


 自分の心中を図りかねていた陽平の脳裏に、あの幼い日の出来事、坂を転がっていくビー玉の記憶が思い起こされた。

 どうしてなのかと彼は、その理由を探ってみたけれど、風に流されていく雲のように指の隙間を抜けてしまいそれには届かなかった。

 

 陽平は上体を起こして背中に付着した土埃を払った。嫌なこともこうやって簡単に落とせればいいのに、そう思いながら膝を立てて立ち上がり、秘密基地の入り口で玲と涼弥を待った。先に入っていようかと思ったけれど、そのような抜け駆け行為に涼弥は何かとうるさいので、陽平は腕組みをしてはやる気持ちを抑えた。

 

 五分ほどして、大きなビニールシートを丸めて脇に抱えた涼弥が息を荒げながら坂を上がって来た。どうやら彼も走ってここまで来たらしい。


「あれ? 今日は早いな。いつもは俺が一番なのに」


 少し悔しそうに涼弥が言った。陽平は「まぁな」と答えてはぐらかす。


 ――あんなとこから飛び降りて来たなんて、信じてくれねぇだろ。


 それもあったが、何よりもあの行為は陽平にとって秘匿したい、神聖な儀式のように思えて口をつぐませた。

 幸いにも、涼弥はそれ以上その話を広げるようなことはしなかった。筒状のビニールシートを地面に突き立て、深呼吸を繰り返していた。

 間もなく、体操着姿の玲が腐葉土の坂を上がってくる姿が見えた。

 玲が揃うのを待ち「よし、行くか」と血気盛んに涼弥が洞窟へと入っていった。

 懐中電灯で暗闇を丸く照らして歩く。

 この秘密基地の改装を初めて一週間は経っただろうか、暗闇にはもう慣れたもので三人はすいすいと奥へと進んで行く。

 つきあたりにぶつかる。ここを左側に折れれば、拠点の地下水溜りに行きつく。右側は通路が細かに分かれていて迷路のように錯綜している。陽平たちは左に曲がって地下水の溜まり場へと向かった。

 

「おるぁっ!」


 涼弥が巻き舌の利いた掛け声をして、抱えていたビニールシートを下に広げた。その中心に大型ライトを置き、汚さないように靴を脱いでから三人はシートに上がった。

 

「来たはいいけど、やることはないんだよな」

 

 涼弥は手塩にかけた作品を眺めるように、ぐるりと周りを見渡す。

 革が破れ中身のクッション材がはみ出したぼろぼろのソファーは、陽平に倣って先日ゴミ捨て場から五人がかりで運んできたものだ。ソファーの横には陽平の本棚が置かれ、その上に玲のウサギ時計がちんまりと乗っている。実の砂絵は壁に飾った。「形が綺麗だから」と言って、浩次が汗を流し流し緑地から運んできた大石は、オブジェクトとして隅に置いてある。海賊の人形は、実が怖がっていた祠を隠すようにして設置した。

 その内装はどのような贔屓目で見ても、不良の溜まるあばら屋といったところであった。それでも、彼らにとってここは自分たちが創りだした世界であり、楽園よりも居心地の良い空間であることには間違いない。

 

「ほんとは、今日やりたかったんだけどな」

 

 涼弥が言っているのは、秘密基地完成パーティーのことだろう。

 

「仕方ねぇよ。実も浩次も用事があるんだし」

「そうだな。楽しみはできるだけ残した方が良い――ということでっ!」


 涼弥はメガネをキザったらしく中指で上げる。


「明日の催し物を決めたいと思う!」

「催しって……そんな盛大なものをキミはやるつもりなのかい?」

 

 ふっと涼弥は髪を吹いた。

 

「パーティーは盛大にやるのが鉄則だろうが!」

 

 玲は「また始まった」と呆れながら、涼弥の真似をして前髪を吹き上げた。

 

「なにか良い案あるか?」


 涼弥は陽平に向けてそう言った。

 

「んー、面白そうなのが一つあるけど」


 陽平が含みを持たせてそう答えると、涼弥の目が鋭く光った。

 ライトの上で顔を突き合わせるようにして、陽平は二人に話した。それは、この洞窟でしかできないことであった。聴き入る涼弥の口端が、悪の化身のように吊り上がっていく。どうやら彼のお眼鏡に適ったようだ。

 その後、その作戦に若干涼弥の手が加わったが、その根幹を担っているのは自分の発案である。陽平は顔にほのかな喜色を浮かべ、一言も意見を言わなかった玲の反応が気になってこっそりとうかがった。

 玲の顔には涼しげな笑みが表われていた。

 

 とくん。

 それを見て、今日、緑地に飛び降りたとき、どうしてビー玉の転がる場景を思い起こしたのか、その理由の一端に一瞬だけ触れることができたかのように思えた。



               ◆



 ホームルームが終了すると、五人は浮き足立った様子で涼弥の席に集合した。今日の完成パーティーに必要なものを話し合い、それぞれが持参するものを確認して下校する。

 浩次は当然の如くお菓子担当に任命された。若干の不服を抱きながらも、家から持って来られるだけものをコンビニの袋に入れて秘密基地に赴いた。


「やっぱ、お菓子と言えば浩次だな」


 水場に着いたとき、陽平がそうはやし立ててきた。浩次は舌を出して対抗し、皆が溜まっているとこへ歩もうとしたそのとき――何かに足を取られ、抱えていた袋を放りだしてしまう。

 慌てて涼弥がそれをキャッチし事なきを得るも、涼弥は浩次の不注意さに不機嫌になりつつあった。お菓子で膨れた袋を抱えながら、彼は不愛想に足の下を指して言った。

 

「汚すんじゃないぞ」

 

 足元を見ると、ブルーシートが広げられていた。昨日、自分がいないときに持って来たものなのだろう。「こんなの言ってくれないと分からないじゃないか!」と反論しようとして、涼弥のむすっとした顔を見て口を止める。ここでケンカでもしてしまえば、さすがに雰囲気が悪くなってしまうと浩次は珍しくも察した。

 踏んでしまったところに細かい砂粒が落ちていたが、浩次は見なかったふりをして皆に倣って靴を脱ぎシートに上がった。


 ライトを囲み、ポテトチップスやチョコレートといったお菓子を広げる。

 

「おっし、始めますかっ!」


 先ほどのことなどもう忘れてしまったかのように、涼弥が今にもはしゃぎだしそうに言い、基地の完成を祝うパーティーが開始された。

 お菓子を食べながら昨晩やっていたテレビの話、最近読んだ漫画でどのシーンがどうだとか、家の愚痴、学校の愚痴、昨今の世界情勢をふざけて話してみたりもした。

 それから二十分ばかり経って宴もたけなわとなったとき、ライトに照らし出された涼弥の顔がぐにゃり、と悪魔のように歪んだのを見て、今朝から彼がしていた意味ありげな笑みの正体を浩次は思い知った。

 

「百物語をやりたいと思う!」

 

 涼弥が言い放った言葉を聞いて、ポテトチップスを摘まんだ浩次の手が止まる。

 

「――と言っても、さすがに百話は時間がかかりすぎるから、一人一話の『伍』物語だけどな!」

 

 涼弥は上手いことを言ってやったと言いたげな顔をしているが、浩次はまったくといってその思い付きに心惹かれることはなかった。

 

「そ、そそそんなの止めようよ!」


 案の定、実は涙ながらに訴えかけたが、一度決めたことを涼弥が取りやめるはずはない。そう思いつつも浩次は微弱な抵抗を試みる。


「お、俺は別に、そんなもの怖くないから構わないけどさ、急に言われても――なぁ?」


 声を上擦らせ、陽平と玲をうかがう。二人の態度は平然としたもので、察するに昨日の内に三人で打ち合わせをして決めたのだろう。そうなってしまえば数の暴力によって、もう後には引けないのだろうと浩次は泣く泣く覚悟を決めたのであった。

 

「お前らもそれなりの人生を歩んで来たんだろ? 怖い話の一つや二つほいほい出てくるだろ」

「怖い話がほいほい出てくる人生ってどんなのだよ」


 悪態を呟き、その口に目一杯掴んだポテトチップスを放り込む。

 用意も周到なようで、陽平が五本のロウソクを取り出してライトの前に放り投げた。

 一つずつ明かりを落としていくのなら、それぞれが持っている懐中電灯でもいいように思えたが、こういう本式に忠実なところは涼弥らしかった。

 

「ま、今更どうこう言っても仕方ねぇって。覚悟を決めろよ、実」


 その陽平の手には既にロウソクが握られている。

 放られたロウソクを涼弥が飄々と拾い上げる。玲も無表情で手に取り、浩次も遅れをとらないよう奪うようにしてロウソクを掴んだ。

 火の点いていないロウソクはいやに冷たいのだな、と浩次は妙な感想を持った。

 「順番はどうするんだよ?」と浩次が尋ねる。涼弥は、そんなものとうの昔に決めてる、と言わんばかりの顔をして答える。

 

「まずは言い出しっぺの俺から行こうと思う。その次は、俺から見て時計回りでかまわないよな?」

 

 浩次は自分の順番を確認する。涼弥の後に浩次。続いて玲、実、陽平の順番であった。特に異論もなかったので浩次は頷いた。

 

「ほれっ、実ももう諦めろって」


 涼弥が愚図る実の手にロウソクを握らせる。実はおっかなびっくりロウソクを握り、浩次と同じ様にロウソクの触感に驚いたのか瞳を不自然に泳がせた。

 何か怯えているような、それでいて言い出せないような逡巡の視線は、問題を当てられたときの実の態度であるのだが、浩次はとくに意にも介さず、涼弥から回ってきたライターでロウソクに火を点けた。


 全員のロウソクに火が灯ると、中心に置かれていた大型ライトの灯りを涼弥がもったいぶった手付きで落とした。

 先ほどまでの馬鹿騒ぎが嘘であったかのように、洞窟の内部に暗雲が垂れ込める。

 掲げた五本のロウソクが、五つの顔をほの白く照らし上げた。

 浩次は息を吸うことも忘れ、芝居がかった涼弥の声を静かに聞いた。



「それでは、私から始めさせていただきます――」



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