秘密の合図
良い国作ろうウンチャラ幕府とか、源の何々がどうだとかを、渡辺が力説をする度にその口から飛び出だした飛沫が教卓前の生徒のノートに点々とシミを作った。
毎日、唾のしぶきを浴びるその子は自分の名字を呪い、早く席替えの日がくるよう神様に祈るのである。
そんな授業の風景を、陽平は退屈そうに頬杖をついて眺めていた。
前の席の浩次は、肉の付いた腕を枕にして居眠り。玲は通例に従って下を向いて読書。その二人の先にいる涼弥は、渡辺が黒板に向いたのを見計らっては消しゴムのカスを投げつける一人遊び。真面目に授業を聞いているのは実だけである。
平々凡々とした風景に飽きたのか、陽平は教科書をばらばらと捲り、まだ落書きをしていない偉人を探した。
つるっとした手触りのページを次々に繰ると、温かい木の匂いを残した風が顔の横を吹き抜ける。その風情を味わうようにして教科書を捲る。
しかし、どの偉い方も万遍なく陽平の死化粧の餌食となっていて、新たな獲物はなかなか見つからない。
諦めて居眠りでもしようかと思い始めたとき、今まで見逃してきた索引のページで陽平の指が止まった。新たな獲物を見付けて舌を舐めずり、彼は喰い気味にそのページをのぞく。
そこには、各単語の所在を示すページ数の羅列とともに、草むらの中を前傾姿勢で歩いている『猿』のような絵が描かれていた。
これは『アウストラロピテクス』という大昔の地球にいたヒトの先祖のようなものだ、と陽平はテレビで見知っていた。
それより何より、この猿人のくたびれて歩いている姿が教壇に立って熱弁を振るっている渡辺に似ていて、陽平は可笑しくて声を殺して腹を抱える。
捲れ上がった上唇は、下品を通り越して悲惨であり、その上で瞬くつぶらな瞳が哀愁を誘う。猫背の立ち姿は生き急いでいるようにも見え、毛むくじゃらの体は皺くちゃのシャツを連想させた。
見れば見るほど、意識すればするほど、双方は瓜二つとなっていく。
――あのシャツ、いつも皺があるけど毎日ちゃんと洗ってんのか?
陽平は、授業に熱中している渡辺の服装を下から上まで眺めた。
――ネクタイだって、皺だらけでいつも同じ柄だ。それを止めているピンも始業式からずっと同じものを使ってるような気がするぞ。ズボンも変わってないし、もしかして、他の服とか持ってないのか?
みすぼらしい担任を少しだけ不憫に思ったが、そのような同情心は熱心に授業をする猿人の前では春霞のようにぼやけて消えた。
教科書を目の前に掲げ、描かれている猿人と黒板の前にいる渡辺を並べて見比べる。やはり両者は似ていて、陽平はついつい声を出して笑ってしまう。
陽平がこぼした笑い声で授業に水を差された渡辺は、「大谷、どこか可笑しいかな?」と持っていた教科書を教卓に置いた。
陽平は狼狽してとっさに、
「こ、この猿みたいな絵って、何ですか?」
猿人が描かれたページを見せるようにして言い訳を取り繕った。
渡辺は思いもよらない質問に驚いたようだった。つぶらな瞳をぱちぱちと瞬きさせ、教科書を捲って陽平が示したページを開いた。
「ああ。これは、アウストラ……アウストラロピテクスだよ」
舌をもつれさせて渡辺は答えた。
陽平は今にも吹き出しそうな笑いを鼻からすかし、「アウストラロピテクス?」と、さも初めて耳にした単語のように復唱した。
興味を示してくれたことが嬉しかったのか、渡辺は溌溂と応じた。
「こいつは、昔の人間っていうのが一番分かりやすいかな」
渡辺は教科書を生徒たちに向けて広げ、自分によく似た猿人の絵を指さす。
「ほら、こいつは二本の足で歩いているだろう。猿は基本的に四足で歩くんだけど、アウストラロピテクスは、ヒトに近いから二本足で歩くことができるんだ」
消しカスの弾丸を製造していた涼弥が動きを止め、何か思いついたのか質問を重ねた。
「センセー、人は猿から進化したって聞いたことがあるんですけどー、それは本当なんですかー?」
どうやら彼は、猿人の話題を広げて授業の進行を遅らせようと企んだようであった。
いつも不真面目な生徒たちが自分の話に食いついてくれている、と渡辺は涼弥の真意に気付くことなく鼻高々に講説を始める。
「ヒトはサルから進化した、って信じられていた時代もあったけど、本当のところは、ヒトとサルの祖先が同じだけで、ヒトはサルから進化したんじゃないんだよ――そうだね。分かりやすく言えば、ヒトとサルは遠い親戚ってところかな」
「へー、センセーって物知りですねー」
渡辺の鼻の穴がブラックホールのように大きく拡張し、二つの穴は音を立てて周囲の空気を吸引した。涼弥に褒められたことが相当嬉しかったようだ。
「そうだ! 君たちはヒトとサルが、具体的にどう違うか知っているかな?」
いよいよ火が点いた渡辺は、いつもより多めに唾を飛ばす。教卓のすぐ前の生徒のノートが、見るも無残な状態になったのは言うまでもない。
目論み通り授業の指針を逸らすことに成功した涼弥が、知識をひけらかす渡辺を眺めながらあの卑しい笑みを浮かべているに違いない、と陽平は予想した。
◆
授業後のホームルームが終わり、生徒たちが帰り始めたのを見計らって涼弥の席へと集まった。
銘々の顔を見やり、涼弥は顔の前に真っすぐ伸ばした人差し指を立てる。それを確認した陽平、浩次、実も続いて自分の顔の前へすっと指を立てた。玲だけが口を固く結び憮然としていた。
「嫌だね。ボクはそんな下品なこと絶対にしたくない」
「まったく。昨日、みんなで多数決をして決めたじゃんか」
見せ付けるように指をくねくねとさせながら涼弥が言った。
「多数決なんて悪の総意だ。そんなもの、たとえガンジーが認めたとしてもボクが認めないね」
ボクは屈しない、とそっぽを向く玲に「今日だけだぞー」と陽平が投げやりな言葉をかけた。
一本指を立てた四人は互いに視線を交わし、涼弥が仰々しく口を開いた。
「それではみなさん、私に続いてください」
そして、顔の前に立てた指を自分の鼻の穴へと突っ込んだ。
他の三人も次々に自分の指を鼻へ、ぶす、ぶす、ぶすと勢いよく突き刺した。
真顔で鼻に指を入れている滑稽な四人を横目で見ながら、玲は昨日の出来事を思い出し、深くため息を吐いた。
地下壕を秘密基地にすると決めた後、五人は帰りながらあの壕を今後どのようにするかを話し合った。
より快適なものにすることを優先とし、「各自必要なものを持ち込もう」と言ったのは涼弥であった。皆それを了承し、明日から洞窟の改装に着手しようということになった。
「それはそれでいいけど。俺、野球があるから毎日はこれないんだけど」
浩次がそう告げ、実もおずおずと続く。
「僕も、家庭教師の日があるから毎日は……」
涼弥は唸り声を上げたかと思うと、すぐさま妙案が浮かんだのか目を見開いた。
「合図を決めよう!」
皆が何のことかと首を傾げ、その疑問を陽平が代弁して尋ねた。涼弥は自分の方策に自負があるのか胸を反らす。
「合図を決めて、毎日ここへ来る前にそれで確認をとるんだよ。それで『行ける』合図をした暇な奴だけでここへ来て整備をする――どうだ?」
「別に口頭でよくないかい?」と至極単純な疑問を告げる。涼弥は呆れたように「まったく、玲は分かってないなぁ」と首を横に振った。
「秘密基地と言えば合言葉。これは男のロマンだぞ、玲」
なら合図ではなくて合言葉を決めるべきだろう、と口を挟もうと思ったが、場をかき乱すのも何であったので止めた。
――そもそも男のロマンってなんだよ。
「どうせやるなら、かっけぇやつがいいよな」
陽平の言葉を皮切りに、話の主旨はその合図をどのようなものにするか、ということへと移って行った。
「それは僕も賛成。ヒーローの変身ポーズ見たいなカッコいいやつがいいな」
「馬鹿か。そんな目立つことやってたら、先生に、またあいつらなにか企んでやがるってバレちまうぞ」
「一理あるね。今ここにいるボクたちにしか判別できないような、それでいて明瞭でなおかつ意思疎通が容易な合図でなければ意味がない」
「お前ら興奮するのは分かるけど落ち着けよ、まったく」
「なら、涼弥が何か案を出してくれよ」
「そうだな――」と涼弥は瞑目し「洞窟……穴……」とぶつぶつと呟く。
玲がオレンジ色の街並を眺めていると、
「――ハナノアナ」
立ち止まった涼弥が片言の外人のように囁いた。
「鼻の穴だよ、鼻の穴!」
そう言って自分の鼻を指さす。
「その日に用事がなくて行ける奴は、自分の鼻の穴に指を入れて他の奴に合図を送るんだよ! 同じ合図を返したらそいつも行けるってことで、鼻の穴に指を入れなかったら、そいつは今日行けないってことにしよう!」
「――いやだ!」
玲は堪え切れずに叫んだ。
「そんなもの、鼻の穴でやる必要はないじゃないか!」
「じゃあ、どの穴ですんだよ? 耳か、口か、ケツか?」
ケツ、という言葉に反応した玲は、頬を赤らめながら怒鳴る。
「そもそも! 穴でやる必要がないと言っているんだよ、ボクは! もっと、単純でいいものがあるだろう!」
「でもさ、『明瞭で意思疎通が容易な合図』って言ったの玲だぜ? 鼻の穴に指を入れることが洞窟に入る合図というのは、なかなかその条件に見合ったものだと俺は思うぞ。――これ以上にいいものがあるなら、なにか案を出せばいいじゃないか」
何も思い浮かばず、ぐうぅう、と腹の底に響くような唸り声を上げる玲を尻目に、涼弥はしたり顔で言う。
「それでは、公平を期して多数決で決めたいと思います。賛成の人は手を上に――」
夕映えの住宅街に四本の手が上がるのを見て、玲は発狂せんばかりに声を張り上げた。
「キミたちはボクが嫌がる姿を見たいだけだろう!」
「そんなことないよ、なぁ?」
陽平が他の三人に確かめるように見回す。
「そうだ、普段は冷静な内田が狼狽える姿が見たいから手を上げたわけじゃない」
「僕も、江ノ島くんたちと同じだよ」
あの内気な実までもがにこにことした笑みをしてそう言ったときは、さすがの玲も悔しさのあまり歯噛みをした。
「とにかく! ボクは絶対にそんな下品なことはしないからな!」
玲は頑としてその合図を認めない意向を表明した。
鼻の穴に指を突っ込んでいる四人の姿をこっそりと見ていた玲に気付いた浩次が、殊更に嫌味たらしさを強調して言った。
「あれぇ? 内田は何か大事な用事でもあって来られないのかぁ、残念だなぁ」
玲はむきになって言い返す。
「そんなこと言っていないだろう。ボクも行くよ」
「だったらねぇ?」「いやだ」「なら今日は来ないんだな?」「行く」「だったら」
そのような押し問答を再三繰り返していると――
「お前ら、それぐらいにしとけって」
涼弥が教室の前方を顎で指して、いよいよ白熱し始めた二人を止めた。
その顎が示す方へ顔を向けると、疲れ切って顔面蒼白な担任がプリントや出席簿をまとめてふらふらと教室を後にするところであった。
陽平は殊勝な面持ちでランドセルを背負い直し、声を潜めて言った。
「今日は初めての実施だったから仕方ねぇけどさ、明日からは念のために人目に付かないようにやり取りしよう。目立ったことして、ボロを出してあの場所のことを知られたくねぇし」
その日から、草ヶ丘特殊地下壕、あらため秘密基地の探索が開始された。
洞窟の暗闇を進むには何らかの明かりが必定で、一度自宅に戻ってから懐中電灯なりを持参する運びとなった。それを面倒くさがった浩次が、「今度から学校に持っていけば、わざわざ家に戻らなくてもいいじゃないか」と提案をした。
それを陽平がやんわりと拒んだ。懐中電灯などの必要ないものを学校に持ち込み、それが教員に露見した場合、目を付けられて行動が制限される恐れがあったからである。そのような経緯を踏み、放課後は一度解散してから各自の家から持ってくることにしたのだった。
帰宅後、洞窟の前で待ち合わせをして五人で中へと入った。
地下水の溜まるあの空洞を拠点とし、陽平の案内に従いながら少しずつ内部を巡った。
陽平が迷ったときのために目立つ石ころなどを目印に置いていたので、洞窟にまだ馴染のない四人もある程度は錯雑する洞窟内構造を把握することができた。
が、「洞窟に地図はロマン!」と涼弥が言い張り、簡易的な地図を陽平が一枚作成することとなってその日は解散した。
次の日からは、地下水溜まりの拠点を改装することにした。
涼弥が持参したキャンプ用の大型ライトを五人で囲む。
キャンプ用と銘打っただけのことはあり、その明かりはロウソクのものよりも強力であった。それでもすべての暗闇を照らすには至らず、壁面には暗闇が薄曇り、濁りのように停留していた。
「おーし。それじゃ、それぞれ持ってきたものを一斉に出すぞ」
五人は、拠点を飾り付けるために持参してきたものを一斉に取り出した。
涼弥が真っ先に目を付けたのは浩次であった。
「おいおい、さすがにそれは――まぁ、ある意味お前らしいか」
馬鹿にされた浩次はお菓子が大量に詰まった袋を胸に押し付け、反論する。
「市川だって、なんだよそれ。ただのデカい海賊の人形じゃなか!」
「バカ野郎! これはすごいんだぞ!」
涼弥は人形の頭をぽかりと叩く。
人形は片目に黒い眼帯を着け、団子鼻の下にヒゲを蓄えた『如何にも』な海賊であった。ニタニタと形容するのがもっともらしい表情を浮かべ、その何か含んだかのような顔は持ち主のそれとよく似ていた。
人形自体の大きさは、薬局やケーキ屋の前に置かれているビニール製のマスコット人形くらいある。どうやって家から運んできたのか、そもそもどうしてそのような代物が家にあるのか、と誰しもが気にはなったが、涼弥なら工場に特別注文して作らせていそうだ、と敢えて口にはしなかった。
「ほら、ここを開けると――」
涼弥は海賊が胸に抱えているプラスチックの宝箱を開けた。
「どうだ、小物入れになる!」
「しょぼいよ、涼弥くん」
これ見よ顔で人形を自慢する涼弥に、実の口から本音がこぼれた。
「そ、そういう実は、なにを持ってきたんだよ?」
思ったより反応が芳しくなかったことに落ち込みながら、涼弥が尋ねた。
「僕は――」と実は一メートル四方ほどの額縁に入れられた絵を前に掲げる。
絵の上半分は濃い青、その下には一面に緑色が描かれていた。
その絵を見て、おお、と感嘆の声が上がった。
一見すると、青と緑の二色が画布を上下に分けている絵に見える。よくよく目を凝らしてみると、その二色の中にも濃淡の違いがあり、なお見続けると次第に青色は膨大な青空に、緑色は広大な草原の風景画に観えてくるのである。
その独特な絵に面白がって触れようとした浩次を、実が慌てて止める。
「あ、これは砂絵だから、触らないで!」
それを聞いた浩次は不満げながらも手を引っ込めた。
幻想的なようで現実味のあるその絵を、食い入るように見つめていた陽平が、やけに真面目な顔で尋ねる。
「それって、どこか、外国の景色なのか?」
「あ、これは……昔、演劇で観たイメージをもとにして描いてみたんだ」
「……へぇ。上手いもんだな」
絵の中の風景を実際に眺めているかのように、はっきりとしない調子で陽平は絵を称賛した。
実ははにかみながら、
「大谷くんはなにを持ってきたの?」
「俺? 俺はこれ」
陽平は背後に置かれた物体を指さす。
後ろには、中敷きが外れ小さめの棺と化した本棚がどっしりと構えていた。
「そんなものを一体どこから持ってきたんだい?」
玲が半笑いで聞いた。
「粗大ごみの日に置いてあった奴を持ってきたんだ。んで、玲は?」
陽平の目線が玲の手元へと落ちる。
「はんっ」「ふっ」「ぶわっ」「くっ」
玲の胸に抱かれた可愛らしいウサギ型の時計を見て、玲以外の四人は盛大に息を吹き出した。玲は赤面し、弁解するように息巻く。
「ここには時計がないじゃないか! ボクは必要だと思って持ってきたんだ! 本来キミたちはボクに感謝すべきなんだよ! それがなんだ、その反応は!」
「まぁまぁ」
憤然とする玲を何とか落ち着かせたかと思えば、涼弥は再び茶化す。
「しっかし、玲。最近のお前はキャラが変わったな」
「う、うるさい!」
玲が喚くように取り乱し、洞窟内には温かな笑いが満ちる。
外面では怒りを顕わにしながらも、玲の心は、この家庭的ともいえる空間から穏やかさを感じていた。