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暗黒壕



「特殊地下壕のことは知ってるよな?」

 

 各々が頷くのを待ってから、陽平は語り出した。

 

 草ヶ丘特殊地下壕。

 この地域に住むものなら、誰しもがその名称を聞き知っている。けれどその実体は闇の中で、子どもの間ではその名称だけが流通し、都市伝説のように扱われていた。

 真偽のほどを大人に尋ねてみると、その地下壕は実際に存在しているものだという。

 第二次大戦中に軍用目的で建設されたもので、完成間近のところで終戦となり実際に利用されたことはないらしい。その地下壕が、この草ヶ丘の地下に蜘蛛の巣のように張り巡っているというのである。


「おい、おいおい! まさかっ!」


 涼弥が跳び上がって叫ぶのを見て、陽平がにやっと笑う。


「そのまさか」


 激情のあまり涼弥が絶叫する。サッカーをしていた生徒たちが仰天して試合を中断し、何事かとこちらを眺め返していた。


「お、大谷くん。それは本当なの?」


 実も驚きを隠せないようで、少し喰い気味に言い寄ってくる。


「本当だって。それで、どうするよ?」

「そんなもん、今すぐ行くに決まってるだろ!」


 涼弥が今にも駆け出しそうな勢いで立ち上がる。血気盛んな涼弥を尻目に、浩次は腹を擦りながら不服そうに口を開いた。


「今から行くのかよ。俺、腹減ってるから明日にしようよ」


 それを聞いて、涼弥はメガネの底からきつく浩次を睨みつけた。


「おい、お前さ。何で陽平がこの状況でこの話をしたのか分かってるのか? 陽平はな、俺たちがつまらなさそうにしてたから、自分だけのとっておきの場所を教えてくれようとしてるんだぞ? それを明日にするだと? だからお前は――」


 ――チッ、と露骨な舌打ちが玲の口からもれた。


「ケンカとか面倒くさいから止めてくれないかな。行きたくないのなら行かなければいい」


 口数が少ない玲の言葉だからこそ、一語一語に重みがあったのだろう。場は急速に鎮静化していった。涼弥はやり場のなくした罵詈を口の中でもごもごと咀嚼し、浩次はそっぽを向いて膨れた。その二人を見比べるように、おたおたと視線を行き来させていた実の口から、「あっ」と声が出た。

 実の視線の先、昇降口を挟んだ中側に担任の渡辺が立っていた。どうやら五人を注意しに職員室からわざわざ足を運んできたらしい。

 

「おい、お前たち。そんなところで溜まっていたら出入りできないだろ。集まるなら違うところにしなさい」

 

 職員室が近いことを忘れて騒ぎすぎた、と陽平は少しだけ反省をする。

 反抗して説教を受けるのも面倒だったので、五人はそそくさとその場から移動した。

 校門を目指して校庭を縦断する。涼弥が先頭を行き、その後ろに実がひょこひょこと続く。少し離れたところを浩次が歩き、殿を陽平と玲が並んで歩いた。


「で、どうするよ? 俺は別に明日でもいいけど」


 陽平はさり気なく浩次をうかがいながら、四人へと投げかけた。


「俺は行くね。そんな楽しそうなところ今すぐに行かないと、俺の気が済まない」

「な、なら、僕も行こうかな」

「玲は?」

「行く」


 浩次がわざとらしく鼻を啜る。


「……浩次は、どうするよ?」

「――行くよ。行けばいいんでしょ」


 先を歩く涼弥が「別に来なくてもいいぞー」と蒸し返す。浩次は何か言い返そうとしていたが、玲の大きな咳払いを聞いて、びくりと背を揺らして押し留まった。

 

「どうした玲? 風邪か」

「さぁ、どうだろうね」


 玲は細い眉を歪ませて涼しげに言った。

 煙に巻かれたようで腑に落ちない陽平は、むっとした顔を玲に近づける。陽平の行動に意表を突かれた玲は、「近いっ!」と狼狽えて陽平を押し退ける。

 中々やって来ない陽平を急かすように、校門に寄りかかった涼弥が声を張り上げた。

 

「おーい、陽平! お前が案内しなきゃ分からないぞ!」

「分かったから、そんな急ぐなって」

 

 涼弥のはしゃぎように苦笑いをしながら、陽平は先導して校門をくぐる。

 

 校門を抜けると、視界いっぱいに都下の景色が広がった。

 住宅が多いことはもちろんだが、自然公園や緑地といった天然の緑も随所に見られ、ここが都会と田舎の境目であるかのように思えてくる。実際にそうなのかもしれないけれど、ここがどんな場所であろうと、陽平たちにとって大切な故郷であることに変わりなかった。

 彼らは校門の先にある長くて急な階段を下りていく。六年生ともなれば、この急な階段を楽々と上り下りするが、入学したての一年生にとっては見ただけで卒倒してしまう代物だろう。

 焦げ茶色や藍色、深緑といった暗色系の屋根瓦が、段々となって眼下に伸びる。

 帰宅する際、必ず眺めるこの風景。その度に陽平は、色とりどりビー玉を家中からかき集め、坂の上から転がした幼少期の思い出をビデオテープでも流すかのように繰り返し甦らせるのであった。


 ――赤、青、緑。

 カンカン、と音を立てて跳ね転がっていくビー玉たち。水滴のように滑らかなガラスの球面に目映い太陽の光が乱反射して、辺りの生垣に不規則な光を返す。

 それはキラキラしていて、とても綺麗で。

 わくわくして、胸を高鳴らせた。

 これから自分に訪れる未来も、きっと、こんな胸が踊ることばかりが待っているんだと思った。

 それは街中の騒ぎになった。

 目撃者が何人もいたから、すぐ家に連絡がいってお母さんが走って駆けつけてきた。温厚な母に叱られたことですら今ではいい思い出だった。だって、あのような綺麗な景色が見られたのだから。


「おい、大谷。そこまでどのくらいかかるんだよ?」


 いつの間にか隣へ移動していた浩次が聞いてきた。

 

「俺の家の近くだから、ここから十五分くらいじゃねぇかな」

 

 「十五分かぁ……」とため息交じりに浩次はもらす。

 その体型じゃ辛いだろうな、と言い掛けて止めた。ここでまたケンカをする気など毛頭ないと、陽平は友好的な声で浩次に語りかける。

 

「それだけの価値はあると思うぜ。結構すごいから、そこ」

「本物なのか?」

「まぁ、見てからの楽しみにしとけって」

 

 豪奢な洋風邸宅『シオハラ邸』の前を通りすぎ、角を左に折れて細い路地に入る。その先は進入禁止の緑地地帯となっていて、二メートルほどの高さがあるフェンスが張られていた。陽平はそれを慣れた動作で軽々と乗り越えて緑地へと踏み入った。

 

「お、おい。勝手に入って平気なのかよここ?」

 

 フェンス越しの浩次が不安そうに『侵入禁止』と書かれた立て看板を指さした。

 

「シオハラさんの家が陰になって見えないから、さっさと入って木陰に隠れれば大丈夫だって」

 

 陽平に催促されるまま、浩次は緩慢な動きで金網をよじ登る。動作があまりにも遅いのでその間に追いついてきた涼弥が一息に越え、玲と実も続いて金網を乗り越えて浩次を待った。

 浩次がどっしりと緑地へ着地すると、五人は素早く木陰に身を潜める。

 

「おいおいおい! 冒険っぽくなってきたな、まったく!」

 

 声を潜めているが瞳を爛々と輝かせて、高揚を隠せない様子の涼弥。実は相変わらず挙動不審にきょろきょろと視線を泳がせている。

 

「ム、ムカデとか出るんじゃないかな」

「ムカデくらいでビビってんじゃないよ。俺なんて昔、土管みたいにデカい蛇に襲われたことがあるんだぞ」

 

 浩次は嘘っぽい自慢話をし出す始末。

 

「キミたち、少しは落ち着きなよ」

 

 玲は普段通りの冷静さで浮き足立っている三人をいさめる。

 

「よし、そろそろ先へ進むぞ」

 

 腰ほどまで生育した草を掻き分けながら緑地の奥へと進行していく。

 林立する喬木の樹冠が空を覆って太陽からの光を遮っているため、緑地の中はどんよりとした灰色の膜が張っているかのように薄暗い。加えて、肌に吸い付くような湿気である。その陰気な景観に触発されるようにして、五人の口数はぽつぽつと減っていった。

 先鋭な草の先端が、ちくちくと露出した彼らの肌を刺した。地味な攻撃であるが、少しずつ不快感が蓄積していく。足元には統一感のない大小の石や、崩れた朽ち木が転がっていて、慎重に足を運ばなければ派手に転倒しそうであった。

 十分ほど進行すると、浩次が遅れ始め、実も苦しそうな呼吸を始めた。

 

「ここで、少し、休憩するか」

 

 涼弥も息が上がっているようで区切りながらそう言った。五人は足を止めてその場に座り込む。浩次が一番辛そうで、ひんやりとした地面を気にもせず仰向けに倒れて息を喘がせていた。

 

「あと、どれくらいなんだ?」

 

 苔の生した石に腰掛けて涼弥が陽平に尋ねた。陽平はけろっとした表情で、


「もう少しだよ。この先にある上り坂を上ればすぐ」


 「上り坂ぁ」と倒れている浩次の腹の向こうからもれた。

 それぞれが黙り込んで呼吸を整えることに専念していると――近くの林藪から大きな動物が動くような葉鳴りがした。


「ヘビだぁあ!」


 実の叫び声がしめやかな木立に跳ね返り木霊する。

 先刻、浩次が吹いた法螺話を信じ切っていたようで、実は涙目になって周囲の草藪を見回した。


 しばらく待っても何事も起こらず、実は安心して胸を撫で下ろした。

 実も叫べるほど元気が回復したようなので、「そろそろ行こうか」と陽平は腰を上げた。浩次は不平をもらしながらも、他の三人が陽平の後を追うとのろのろと動き出した。

 濡れそぼり堆積した落ち葉の絨毯が、靴の裏へと付着して五人の進行を妨げる。垂直と錯覚しそうな腐葉土の傾斜を四つん這いになりながら上がっていき、やっとの思いで上り終えると、今度は本当に垂直の石壁が視野の外にまで広がった。


「おい、陽平。行き止まりじゃないか」


 少し遅れて実が到着して涼弥と同じような反応を示す。


「あれ? 行き止まり?」


 石壁は十メートル以上の高さを持っていて、見上げた壁の縁に沿ってフェンスが張ってあった。涼弥が頭の横に手をやって耳を澄ませると、車の走行音がその上から僅かに聞こえた。


「上はどうなってるんだ?」

「この上は、自然公園の前の舗道だよ」


 陽平は断定的な口調で言った。

 ああ、と涼弥は得心がいったようであった。頭の中にある地図に現在地を吹き付けるかのように、ふぅと前髪を揺らした。

 玲と浩次が上がってくるのを待ってから、陽平は石壁に沿って進んでいく。足場が傾いているため他の四人は苦戦しているようであった。


 そして――


 ついに、五人の前に大口を開いた洞穴の入り口が現れた。

 高い石壁と地面が接触するところに穿たれた洞窟の入り口は、地獄の底に続いているかのように陰惨とした漆黒を解き放っていた。

 「こ、この中に入るの?」と瞳を潤ませた実が陽平をうかがった。


「これが地下壕の入り口だから、そうなるわな」


 涼弥も大きく唾を飲み下して目を見張っている。浩次は平静と変わらないように見えるが、視線を落とすと二つの膝ががくがくと振動していた。


「陽平、明かりもなしにこの中に入るのかい?」


 玲に問われて陽平は初めて思い出したようであった。


「まずいな、忘れてた。いつもは家から懐中電灯持ってくるんだけどなぁ」


 陽平は頭をぼりぼりと掻き、

 

「――誰か、灯りになりそうなもの持ってないか?」

「俺、マッチなら持ってるよ」


 言ってから浩次は、しまった、というような顔をした。

 

「お、気が利くじゃねぇか浩次。って、お前まだそんなもの持ち歩いてるのかよ」

 

 陽平は苦々しく笑いながら手を差し出す。浩次は渋々といった体でズボンのポケットをまさぐる。

 

「いや、でもさ。今日はいいんじゃないか? やっぱさ、また明日にしないか?」

「ここまで来て帰るのか? 俺は別に構わないけど――」


 陽平は、穴の底に上体を乗り出している涼弥を見やる。涼弥は神妙な顔をこちらに返して言った。


「行きたくないなら無理に行く必要はない……けど、マッチは置いてけよ。さすがに俺も真っ暗闇を手探りで進む勇気はないからな」


 涼弥は中へ入る気のようだ。陽平は玲にもどうするか尋ねた。

 

「陽平も行くのだろう? ならボクも行く」


 玲の意思は変わらないようだ。

 陽平は浩次が取り出したマッチ箱を受け取り「お前は?」と目配せをし、今一度確認をする。


「俺は――なぁ、別に入ってもいいけど……あ、そうだ。実が一人だとかわいそうだろ? 俺が付き添っててやるよ、なぁ?」


 勝手に残ることにされた実は、珍しく怒りを顕わにした面持ちになった。


「勝手に決めないでよ。ぼ、僕は行くよ」

「え? ああ、そうか」


 浩次の語尾が弱弱しく消えていく。


「よし、なら全員で行くぞ! 陽平、引き続き案内を頼む!」


 「へーい」と間延びした声で陽平は答える。マッチに火を灯し、瘴気の垂れこめる魔窟への進軍を開始した。



               ◆                             



『――暗黒に身を浸したとき、形容しがたい情動が全身に訪れた』



 しっとりとした闇が、爪と肉の間から這い上がり背筋をなぞった。やがて全身を覆いこみ、瞳を侵食し視界は溶暗する。火が消えてしまわないように、空いている手で風除けを作る。背後から見れば、俺の陰だけがくっきりと見えているのかもしれない。

 


『それは言葉による説明が利かない――知覚のみで味わうことができる不可思議な感覚』



 先頭で薄弱と揺れる橙色の火が心強く感じる。暗闇に包まれた瞬間、とっさに近くにいる誰かの服を掴んだ。それが誰なのか薄闇の所為で分からないけれど、この薄い布の感触と先を行く小さな炎が、自分はたしかに存在していると報知してくれている。

 言葉を知らない獣のように誰も口を開かない。

 砂を蹴る音。

 細かい呼吸音。

 ほのかな灯り。

 指先の感触。

 それらが、不安定なボクを世界に繋いだ。

 途切れてしまいそうな糸。途絶えてしまいそうなボク。

 ボクはどうしてここにいるのだろう。ボクはどうして弱いのだろう。



『脳髄を麻痺させ陶酔させる――恍惚』



 ただ、夢中になって灯りを追っていた。明かりが左に逸れて行けば、それに従って軌道を左に修正する。冷や汗が背中を伝い、シャツが引っ張られているかのように重い。心なしか肩も重く感じた。

 味わったこともない動悸が胸に奔る。恐怖から湧き上がったものではなく、未開の地を自らの力と知恵で切り開いていくような高揚感と好奇心からだ。

 今、俺たちは冒険をしている。

 


『それが外面に現れないように意識し――て表情を固くした』

 


 不安で不安で、僕は目を閉じた。開けていても真っ暗なのだから、そんなことをしても意味がないと分かっていても、怖くてそうせずにはいられなかった。誰の肩か分からないけれど、一心不乱になってその肩を掴んで足を進めた。

 目を閉じ、完璧に視覚を失うと不思議と居心地がよかった。

 誰からも注目されず、誰からも中傷されない。

 ここは僕にとって理想的な世界なのだ。

 そう思うと恐怖心が消え失せていき、僕は瞳を開けた。

 暗闇。

 目を開けようとも、そこに視線はなく、この世界でなら僕も彼のようにふるまえるんじゃないかと思った。



『いや――表情に現れていたとしてもこの暗闇の中だ、誰も気付くことはないだろう』



 この暗闇でなら素直な言葉を吐けそうだった。

 俺は胸から競り上がる吐き気を懸命に堪えていた。できることなら引き返したかったけど、吐き気とともに上がってきた見栄がそれを邪魔した。俺は惨めに声を殺しながら、手首を感覚がなくなってしまうほど強く握りしめていた。



『そう、自分ですらその――狂気の起床に気付かない』



               ◆



 灯りは何度も消えそうになった。その度に陽平は新しいマッチを取り出し、火を移し替えていたようであった。萎んでは膨らむという単調な動作をする灯火を眺め続けていたためか、軽い頭痛が実を苦しめていた。


「――みんな、止まれっ!」


 遥か昔に忘れてしまった人の言葉。それを理解するのにしばらくの時間を必要とした。

 火の上に陽平の顔が浮かび上がり、隈取りされたその顔はまるで別人のようであった。

 それがとてつもなく奇妙で、ここは浮世ではないどこか地の底にあるお伽の国なんじゃないか、と実は思った。

 陽平は壁際まで移動し、そこに置いてあった木箱を漁った。

 「お、あった」そう言って箱の中から『白い骨』を取り出した。


 ――どうして、そんなものが……


 実は息を凝らせて、白骨にマッチの火を移動させる陽平の姿を見つめた。

 骨に移った炎が力強く燃え盛り、血液に似た粘質な汁をどくどくと垂れ流したので、あれはロウソクか、と実はほっとして息を吐いた。

 陽平はロウソクを斜めにして地面に蝋を垂らし、その上にロウソクを固着させた。そうすることで、倒れてしまわないよう細工を施したのだろう。

 誘蛾灯に群がる蛾のように、四人は陽平が設置したロウソクのもとへ集まる。

 このロウソクの光力では周囲二メートルを照らすだけで、洞窟の全貌を把握することは叶わなかった。一寸先も見えない状況は、黒幕に包囲されているかのような威迫を彼らに与えた。

 足元は意外にも凹凸のない滑らかもののようであった。涼弥がそれを確かめながら、暗幕をくぐるようにして慎重に奥へと進んでいった。


「なんだこれ、水か?」


 薄闇に紛れた涼弥が足を止め、中腰になって深奥の闇をのぞき込んだ。実たちも涼弥の傍まで移動し、深海のような不気味さを孕んだ黒い水面をのぞく。

 そこには、たしかに水が張られていた。

 視界が悪いため、その水がどのくらいの範囲に及ぶものなのかを見定めることはできない。水溜まり程度なのかもしれないし、大海のように厖大なものなのかもしれない。

 浩次が水面を手の平で叩いた。水が跳ね、黒い波が静かに打って足元まで押し寄せる。波は足場の縁に衝突し、細かな泡を立てた。

 

「詳しくは分からねぇんだけどさ。たぶん地下水がここで一時的に溜まってるんじゃねぇかな」

 

 全員が抱いていた疑問に陽平が答えた。

 

「この底はどうなっているんだい?」

「それも詳しくは分かんねぇ。一度、釣り竿を中に入れて深さを測ってみたんだけどさ、底まで着かなかったから二メートル以上はあるはずだぜ」

 

 奥の見えない暗闇と淡々と波打つ黒い水は、星のない夜の大海原に臨んでいるような、漠然とした畏怖を彼らに感じさせた。

 

「しっかし、すげぇな、まったく! よく教えてくれた、陽平!」

 

 ロウソクのもとへと戻りながら、涼弥は陽平の背をばしばしと叩いて功績を称えた。陽平は「いてぇよ」と笑いながらその手を振り払う。

 そのときの陽平の表情が驚くほど冷たく見えた。

 ただの見違いだと実は思ったが、ここがどこなのかを思い出し、底知れぬ不安を覚えてそれぞれの様子を盗み見るように観察した。

 あちこち興味深く振りまわっている涼弥の姿は、平常の好奇心旺盛な彼と何ら変哲のないように見えた。しかし、実の目に映った涼弥は、獲物を前にした野獣のようで、メガネの奥で爛々とする瞳は何か良からぬことを企てているように思えた。

 浩次は、それほど寒くもないのに肉付きのよい肩を抱え込むようにして震えている。

 うつむく玲の表情はうかがえないが、影のさし方によっては口がつり上がっているようにも見えた。

 そして、薄笑いを浮かべている陽平。


 ――なんだろう、この違和感……


「ここを俺たちだけの秘密基地にしないか?」


 涼弥が出し抜けにそう提案した。


「それでも構わないよな、陽平?」

「いいぜ。そのために、ここを教えたんだから」


 五人でロウソクを囲み、誰かが動いたときに起きた風で炎が揺れた。火が揺げば地面に投射された五人の影も揺れ、周囲を覆う闇も生き物の体内のように蠕動した。

 その暗闇の奥底で、どろりとした墨がゆっくりと蠢いているのを実は瞳で捉え、目を凝らしてそれを注視する。

 薄暗くよく見えない壁際を、ナメクジのように粘液を垂れ流しながらその闇はじくじくと移動している。やがて闇は自分の帰る場所を見つけたかのように、一段と濃密な暗黒となっているところへと沈み込んで行った。

 来たときからずっと感じていた頭痛が加速したかのように激しさを増した。

 こめかみを指で強く押し、皆から感じる違和感や今の不可解な現象を忘れ去ろうと努めていた実は、また新たな異質を発見した。


 ――あれは……お札?


 あの『闇』が消えて行った先に、小さな祠のようなものが設えてあった。

 木組みで作られたその祠の正面には、風化し色あせた紙切れが張られ、その奥へと招くようにひらひらと揺れていた。

 実の抱いていた不安が爆発的に膨らんでいった。


 ――もしかして、ここは踏み入ってはいけない場所なんじゃ?


 膨らみ始めた想像は、宇宙の如く膨張する。実はこの深憂の行き場を求めて、陽平に視線を投げた。その視線を陽平は微笑で受け止める。


「実、どうした? 汗がすごいぞ?」

「あ、あれは?」


 実はその祠を指で示した。

 

「ああ、あれか。俺が初めてここに来たときからずっとあるぞ。安全祈願とか、そんなんじゃないのか。何てったって、ここは防空壕だからな」

 

 実は吹き出した汗をハンカチで拭う。いくら拭いても汗はだくだくと流れ出て、抱えている心労の大きさを暗示しているようでもあった。


「実もいいよな? ここが俺たちの秘密基地ってことで?」


 いつもと変わらない陽平の声に、実の気は少しだけ休まる。涼弥もいつもみたいに気取った笑みに戻り、玲は相変わらず冷静で、浩次は「腹が減った」としきりに口にしていた。

 先ほどの光景は暗闇がもたらした幻影か何かだったのだろう、と実は絶えずあふれ出てくる感情を強引に押し込めた。


「うん、僕もそれでいいと思うよ」

「玲も浩次もいいよな?」

 

 二人が首肯すると、ぱん、と涼弥が音を立てて手の平を合わせ、注目を集める。


「おっし決定! 今日からここは俺たちの秘密基地だ!」



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