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エの問題児 『江ノ島 浩次』



 ――どうして俺が怒られなくちゃいけないんだ!


 鏡に映るふくれっ面を睨みながら、浩次は胸中で吠えた。

 

 ――どう見たってケンカを吹っかけてきたのは大谷からだったし、俺が先生に怒られる意味が分からない。たしかに、先に手を出したけど……そうだ。あれは、正当防衛だ! 俺を家畜にたとえてバカにして精神面を攻撃しようとした大谷に対する正当防衛だ! だから俺は悪くない。悪くないはずなのに……


 浩次は赤く腫れたまぶたをごしごしと擦る。

 擦れば擦るほどまぶたはひりひりと痛みだし、どうして自分がこんな思いをしなければならないのか、という不満となって瞳からあふれ出た。

 担任の渡辺に廊下へと連れて行かれた浩次と陽平はこっぴどく叱られた。

 

「挑発した大谷も悪いし、手を出した江ノ島も悪い。二人とも悪いことをしたということをしっかりと自覚するんだよ」


 浩次は必死に自分に非がないことを述べたが、渡辺は「きみも悪い」と諭すのみで、まるで聞き入れようとしなかった。

 鏡の表情がブタのように醜悪なものへ変化していく。浩次は奥歯を噛み締めて鼻から太い息を吐き出した。


 ――太っているから、みんな俺のことを馬鹿にするんだ。俺だってなりたくてこんな体型になったわけじゃないのに、くそっ。ぜんぶお母さんがいけないんだ……


 家に帰ると、必ずといっていいほど膨大な量のお菓子を用意して待っている母親の顔を思い浮かべる。折角用意してくれたのだから、その好意を無下にすることはできない。その結果が、鏡に映るこの姿であった。

 浩次は、自分の姿とよく似た母の愛情を心の底から憎らしく思った。

 浩次の母は彼がどのようなことをしても許した。そのため、自分には何を行っても叱られない特別な資格のようなものがあるのだと、幼心に勘違いをしてしまった。

 それが思い違いであると小学校に入学して気付くことになる。

 最初の給食。当時から同年代の子よりも倍近くの図体を持っていた浩次にとって、小皿のような食器に盛られた小規模なカレーは、飲むヨーグルトのカレー味に等しく、ものの数秒で平らげておかわりをした。

 同じ過ちは繰り返さない、と白飯で頑丈な基礎を作り、その上に何重にもしてカレーの装飾を施した。彼が山のように盛ったカレーを食べていると、どこからか悲鳴が上がった。


「先生! カレーのおかわりがもうありませんっ!」


 そんなはずはない、と教師が笑いながらカレーの鍋をのぞく。

 そこにまだ数十人分は残されていたはずのカレーが消失していた。生徒たちの視線は悠々と大山のカレーをむさぼる浩次のもとへと集まっていく。

 その日、浩次は生まれて初めて叱られ、おかわりをするときは後の人のことを考えなければならないということを学んだ。

 それからというもの、浩次は集団の総意から外れたことをする度に叱られた。

 初めのうちは素直に従っていたが、次第に「どうして自分の好きな通りにしてはいけないのか」という鬱憤がたまり、彼は反発するようになった。

 反発は非難という形で自分へと跳ね返ってきた。やがて学年が上がっていくと、自己中心的で我が侭な彼のことを他の生徒たちは意識的に避けるようになり、教師たちからは問題のある子として取り扱われるようになっていった。その境遇がより彼を苛立たせた。

 浩次が行動するたびに周囲から煙たがられるような存在になりつつあったとき、ある事件が起きた。

 その日は授業中に少しよそ見をしていただけで咎められた。その怒りをどこにぶつけていいのかも分からず、浩次は止める教師を振り切ってトイレへと駆け込んだ。

 歯をぎしぎしと鳴らし拳を握りしめる。


 ――授業中によそ見をすることがそんな悪いのかよ。もしかしたら、よそ見をした先に授業なんかよりも大事なことがあるかもしれないじゃないか!


 徐々に荒くなって呼吸。すべての出来事が理不尽に感じ、厚い腹の底でどす黒い塊が溜まっているような気がした。


 ――こんな学校なんてなくなってしまえばいいんだ。


 このわだかまりの解消法をはっと思いつき、浩次は奥にある大便用の個室へ足を運んだ。


『放火って日本じゃすごく重い罪なんだって』


 今朝、自慢げに話していたクラスメイトの得意げな顔がよぎる。ズボンのポケットに手を入れてまさぐり、浩次は家からこっそりと持ち出してきた道具の一つを取り出した。

 髭を生やしたオジサンの横顔が描かれた、手の平に納まるほどの小さな箱。

 それを縦にスライドさせ、中から先端の赤い棒を摘み出す。燃えるように赤い先を見つめ、口の中に溜まった唾をごくりと飲んだ。


 ――火を点けるだけなら、大丈夫だろ。ここなら水なんて腐るほどあるんだし。


 摘まんだマッチ棒を箱の側面に素早くこすり付ける。シッ、と紙を破くような音がしてマッチ棒の先端に小さな火が点いた。それだけで、腹の底に溜まっていた塊が溶け出したような心持ちになった。

 先に灯る火は、ただの赤色とは違う、もっと生命に近い『赤』をゆらゆらと燃やしていた。


「おーい、江ノ島」


 トイレの扉が勢いよく開き、浩次はびっくりしてマッチを手放す。


「あ、いた。せんせーい、江ノ島くんいましたよー」


 マッチはくるくると放物線を描き――


 教室から飛び出した浩次を探していたらしい男子生徒がトイレの中に入ってくる。

 呼びかけても何の反応も示めさないで個室の中を見据えている浩次を不思議がり、その男子生徒も個室をのぞき見た。


「おい、江ノ島。あんまり心配――」


 生徒の目に、メラメラと燃え上がるトイレットペーパーが映った。

 その生徒の行動は迅速だった。急いで手洗い場まで引き戻り、そこに置いてあったジョウロに水を入れて帰ってきた。

 「おい、どけっ」そう言って大きくなり始めた炎にありったけの水をぶちまけ、あっという間に鎮火させた。そこに残ったのは、半分以上が黒い燃え炭と化して、ぐっちょりと濡れたトイレットペーパー。


「ここにいたか。――おい江ノ島! 授業中に飛び出しちゃだめだぞ!」


 担任が太い眉をしかめてトイレの中へ入って来、浩次は焦った。


 ――ただでさえ、授業を抜け出したことで叱られるのに、黒焦げのトイレットペーパーを見られてしまったら……。どうしよう、どうしよう、どうしよう!


「――先生ッ!」


 突然、火を消した男子生徒が叫んだ。


「どうして給食は一日一回しかないんですかッ?!」


 浩次と教師の頭上に疑問符が浮いた。生徒は気にも止めずに続けた。


「先生、俺はですね。給食を食べることだけを楽しみにして毎日学校へ来ているんですよ。ほとんどの生徒もそうだと思います」


 「そ、そうか」と担任は何が起こっているのか分からない様子で流されるままに頷く。

 

「だからですねぇ。一日一回の給食が二回になれば、楽しみも倍になって学校に行くことが嫌な生徒も行くことが楽しみになると思うんです」


 担任はようやく我に返ったようで二人に歩み寄りながら、


「分かったから。大谷、お前は早く教室に――」

 

「止まれぃい!」


 大声がトイレの中で反響し氾濫する。反射的に担任は動きを止め、浩次も思わず身を強張らせた。


「先生、俺は、あなたをこの学校の代表だと思って交渉しているんですよ。一日一回の学校給食を二回にしてください、この条件が飲めないのなら――」


 生徒は瞬く間に黒焦げのペーパーを引っ掴み、さらにその隣の個室からもトイレットペーパーをかすめ取った。


「学校中のトイレットペーパーを人質に取らせてもらいます」


 両手に二本ずつペーパーを手にし、浩次のクラスメイト、大谷陽平は悪の手先のような大笑いをした。


「い、意味が分からんぞ……」

 

「なら、交渉決裂ですね――」と言うや否や、陽平はペーパーをはためかせながら韋駄天の如くトイレから飛び出していった。

 担任は頭の中で状況を整理していたようだが、陽平が突如奇行に及んだ理由について皆目見当もつかなかったようで、やがて「お前は先に教室に戻っていろ」と浩次に言い残して彼を追っていった。

 一人残された浩次は、どうして陽平があのような奇怪な行動に出たのかを必死に考えた。それが自分の失態を隠すために行われたことだと思い知り、むず痒さを覚えずにはいられなかった。



 浩次は鏡の先の自分を見返す。そこには醜悪なブタの姿はなく、何とも言えない笑みを浮かべている自分がいた。


「うぉ――い」


 窓の外から馬鹿みたいな大声が聞こえ、浩次は窓から身を乗り出して声のした方を見た。昇降口に四人の姿を見付け、つい緩んだ口元を誰も見ていないのに慌てて引き締める。



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